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旅日記

望洋−26(太平洋地域の戦況概要)

15.太平洋地域の戦況概要

 

大東亜戦争

大東亜戦争の宣戦詔書は、昭和16年(1941年)12月6日の大本営政府連絡会議で決定の後、上奏、裁可を経て、12月8日午前11時40分渙発され、「マレー作戦」と「真珠湾作戦」が切って落とされた。

渙発(かんぱつ)」は、詔勅(天皇が公に意思を表示する文書)を広く国の内外に発布すること。「渙」は水が勢いよく広がるさま、「発」は水などが四方に散る意。

開戦直後は日本軍の快進撃が続いた。

各地で連合国軍に勝利をおさめ、開戦から半年弱で東南アジア全域と北半球の太平洋のほぼ西半分を勢力下に収めた。

しかし日本軍の快進撃は、アメリカ軍の早急な軍備増強によりおよそ半年でストップする。

日本が予想していたよりも、遥かにアメリカの反撃の立ち上がりが早かったのである。

昭和18年以降、日本軍の敗色が濃くなっていった。

太平洋の島々は相次いでアメリカ軍の攻勢にあい、玉砕していった。

また東南アジア戦線でも日本軍は大打撃を受ける。

そして、連合国軍の沖縄・本土侵攻も予測される状況となっていった。

 

以下戦況の推移を簡単に見ていく。

 

15.1.連合国軍の反攻

昭和16年(1941年)12月開戦以来南方作戦は順調に進んだが、昭和17年中期に入ると早くも南東方面において連合国軍の反攻が開始された。

昭和17年8月からガダルカナル島をめぐる死闘が続き、戦況は逐次不利となり遂に昭和18年2月第17軍は同島から撤退した。

第17軍 昭和17年(1942年)5月18日に大本営直属軍として新設、その後同年11月16日に編成された第8方面軍戦闘序列に編入、ソロモン諸島方面の作戦を担当した。

南西ビルマ方面においては、昭和18年2月中旬、英印軍のーコ旅団がインパール方面からビルマ北部に侵入して来た。

昭和18年5月連合国軍は東部ニューギニアのサラモア(サラマウァ)地区前面に進出、続いて9月にはラエ方面にも上陸し、第18軍は主力をもってこれに対応する状況となった。

第18軍 昭和17年(1942年)11月に編成され、第8方面軍隷下ニューギニア方面の作戦を担当した。

昭和18年秋以降南東方面の連合国軍の反攻はいよいよ本格的となり、昭和18年末にはブーゲンビル島(11月)、ニューブリテン島(12月)に上陸するほか、のタラワ、マキン両島守備部隊の玉砕(11月)など米軍の反攻はますます激しくなり、日本軍の防衛は苦しい状況となった。

また北東方面においては、アッツ島守備部隊が玉枠(昭和18年5月)し、キスカ島の保持も困難となり昭和18年7月同島守備部隊を撤退させるなど、戦局は重大な段階となった。

 

15.2.絶対国防圏の設定 

大本営は、昭和17年3月に決定された「既得の戦果を拡充して長期不敗の政戦略態勢を整えつつ機を見て積極的方策を講ず」との戦争指導の大綱に基づき作戦を指導してきた。

その後、世界情勢の悪化(昭和16年9月6日イタリアの無条件など)や戦局の不利(連合国軍の反抗規模及び速度の増大など)から、大本営は昭和18年9月15日新作戦指導方針(いわゆる絶対国防圏の設定)を策定し、9月末の「今後採るべき戦争指導大綱」の決定とともに発動することとなった。

戦争遂行上太平洋及び印度洋方面において絶対確保すべき要域を、「千島、小笠原、内南洋(中、西部)及び西部ニューギニア、スンダ(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)を含む圏域とする」こととされた。

絶対国防圏のはるか後方の南西諸島(​​九州南方と台湾の間約1,200kmに点在する​​島嶼群)方面の防衛は昭和18年末にはまだ重要視されていなかった。

しかし、マリアナ方面(グアム島、サイパン島など)が一挙に突破される場合も考慮し、南西諸島の防衛について研究を始めた。

このころ米軍潜水艦による日本の輸送船の被害が多く(12月29万屯、1月43万屯)、対潜警戒の必要上から南西諸島方面の重要性が浮かび上るようになった。

 

15.3.米機動部隊のトラック島攻撃

昭和19年2月17日〜18日中部太平洋のトラック島(現チューク諸島)が、突如米機動部隊の攻撃(空襲と艦砲射撃)を受けて艦船、航空機、施設は甚大な被害を受けた。

米機動部隊の来襲の時期は予想よりはるかに早く、その損害と共に大本営に非常な衝撃を与えた。

2月19日大本営陸海軍統師部は、今後の作戦指導について合同研究を行なった。

その結果、マリアナ、カロリン(主島はパラオ諸島)の強化と共に本土、南西諸島、台湾、フィリピンの第二線、第三線の防衛作戦(面の作戦)準備が必要ということになった。

また、緊急戦局に対処し国務と統帥の協調を図るため2月21日参謀総長(杉山元大将)、軍令部総長(永野修身大将)が辞任し、東條英機大将(総理、陸軍、軍霊大臣)が参謀総長を、鴻田繁太郎大将(海第大臣)が軍令部総長を兼任するという非常人事が行なわれた。

<トラック島攻撃>

 

15.4.第32軍の創設(南西諸島方面の防衛強化) 

昭和19年2月に第31軍が創設され、司令部をサイパン島に置き、中部太平洋方面の防衛強化が進められると共に、フィリピン、台湾、南西諸島方面の防衛強化策が逐次採られた。

そして、南西諸島方面防衛強化のため、昭和19年3月22日に第32軍が創設された。

第32軍の作戦準備は、航空基地の設定に重点を置かれ、地上兵力には奇襲上陸に対処して航空基地及び主要港湾を防衛する程度の期待がかけられ、当初予定された防衛兵力は混成旅団二、混成連隊一とするものであった。

サイパン島陥落

6月15日中部太平洋の要地サイパン島に米軍が上陸を開始した。

これに対する連合艦隊主力を挙げての決戦(あ号作機)も失敗に終わり、同島の地上戦況も刻々と悪化し、遂に7月上旬同島守備部隊は潰滅するに至った。

あ号作戦

中部太平洋方面からフィリピン、豪北方面にわたる海域において敵艦隊主力を捕提撃滅する作戦

サイパンを占領したアメリカ軍は、直ちに最新鋭爆撃機B29の基地を建設した。

これにより、日本の主要都市のほとんどがB29の行動範囲内となり、これ以降アメリカ軍はB29を使用しての日本本土への爆撃作戦を強化した。

そして、主要都市や軍事工場などは大きな被害を受け、日本の戦争継続能力は著しく低下した。

<バンザイ・クリフ絶壁から飛び降りるモンペ姿の日本女性>

激しい戦闘の末、追い詰められた日本兵や民間人はアメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、80m下の海に身を投じて自決した。

 

15.5.決戦準備と海上挺進戦隊の誕生

大本営は、サイパン奪回を企図したが、その成算が得られず、6月下旬奪回作戦を断念しフイリピン、台湾、南西諸島、本土、北方の各地域にわたる決戦準備(捷号作戦と呼称)を7月下旬下令した。(「捷」の字は「戦いに勝つ」という意味を持つ)

海上挺進戦隊誕生

大本営は、爾後の作戦の勝目を何に求めるかの研究に着手した。

「日本の特殊的な点を活かすもの」として、新撰組的部隊、片道戦法、肉弾攻撃なども研究し始めた。

ここで、特攻挺一隻をもって敵艦船一隻を屠ることについて研究することを6月27日決定し、軍令による部隊編成を見るのである。

水上特攻海上挺進戦隊(㋹隊)が誕生するのである。

 

<日本軍の特別攻撃隊(特攻)>

日本海軍は、トラック島空襲で大損害を被ると、昭和19年(1944年)2月特攻兵器の試作を決定し、特攻艇「震洋」、人間魚雷「回天」、航空特攻「桜花」などが生み出されていった。

日本陸軍も水上特攻㋹隊の他に航空特攻隊を編成しフィリピン戦などに出撃している。

 

東条内閣総辞職

7月18日東條内閣が総辞職し、7月22日小磯國昭陸軍大将を首相とする内閣が誕生して陸軍大臣に杉山元、海軍大臣に米内光政が親任された。

参謀総長には7月18日梅津美治郎大将、軍令部総長には6月2日及川古志郎大将がそれぞれ親補された。

 

<続く>

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