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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−33(立岩伝説−5)

12.2. 立岩伝説の始まり


江の川は古来より中国奥地と山陰の海岸を結ぶ唯一の交通路、運搬路であり、毎日沢山の荷物や人を運ぶ舟が上り下りし、多くの材木、竹材が筏に組まれて川を下っていた。

しかし、この江の川の水運は簡単なものではなかった。

少しでも気を抜くと、急流に巻き込まれ沿岸の岩に衝突したり、浅瀬に乗り上げ動けなくなったりする。
その当時はそのような水難事故も度々起こっていた。
特に雨が続くと江の川はすぐに増水するため、舟の制御は格段と難しくなり、その被害も甚大なものになった。

また、増水による氾濫も頻繁に起こり、沿岸沿いに点在する田畑は、収穫間近の農作物を一瞬で流され甚大な被害を受けることも度々あった。

貞宝はそのことを、山崎治郎右衛門から聞き知った。

貞宝はこの江の川による被害をなんとか救いたいと思った。
川の安全、旅の安全を見守る像を建てようと考えた。

そこで貞宝は、山岳修行で蔵王権現を感得し自然界の不思議な力により、霊能力を身に着けたと言われる、修験道の開祖である、役小角の像を建てることにした。

甘南備寺山南面の中央、江の川に突き出ている大岩壁がある。
地元の人間はこの大岩壁を立岩と呼んで、神聖視していた。
貞宝はここに像を安置しようと考えた。

この立岩から江の川を行き来する舟などを俯瞰するにはそれなりの高い位置に安置する必要がある。

また、役の行者の像も、江の川から眺めることが出来なければならない。そうするとそれなりの大きさの像が必要である。高さは少なくとも5尺は必要だ。
また、高い場所は厳しい風雨に晒される。これに耐えるには石像でなければならない、などと、目算する。

さて、と貞宝は考える。

石像は、15貫(約56Kg)くらいの重さになるだろう。この石像をどうやってあの岩壁の中腹まで持ち上げるか?

儂が考えてもしょうがない、こういったことは、あの山崎治郎右衛門に相談しよう。あの男はいかにも腕利きのようである。


貞宝は江の川の交通の安全を祈願するために、立岩に役の行者の石像を安置したい。
しかし、この石像をあの大岩壁の上まで運ぶ算段を思いつかない。
どうか、知恵と力を貸して欲しい。
と自分の考えを山崎治郎右衛門に話した。

治郎右衛門は驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔になって、任せておけと言った。
貞宝は、治郎右衛門が簡単に引き受けてくれたことに安堵しながら、どうやって運ぶのだろうかと思ったが、頭を振って、自分の考えることではない、と心のなかで呟いた。

早速、役の行者の石像の手配をした。像は二ヶ月後に出来て届けられた。
智賢は石像ができあがったことを治郎右衛門に知らせた。


12.3. 石像の設置


治郎右衛門は早速、行動を開始した。
治郎右衛門は若者を集めて、上流の今の鹿賀の地で、できるだけ太くて長い竹を50本集め、長さ4丈の梯子を8組作らせた。
また、藁紐を編んで1間四方の網を4張り造らせた。

数日後、治郎右衛門は、貞宝に明日役の行者像を立岩に設置する、と連絡した。

当日は霧の深い朝だった。霧が深い朝は快晴になる。
朝早く数人の若者は鹿賀までいき、竹材で筏を作り、造っておいた梯子を乗せて、江の川に繰出し下流に向かって行った。作業は小助という若者が仕切っていた。
立岩まで流れてくると、筏を引き上げ、治郎右衛門の始めの指示を待つ。

治郎右衛門と智賢、他に二人の僧侶が断崖に沿った小径で待っていた。
治郎右衛門は作業の責任者の小助に作業に掛かるよう命じた。

立岩は江の川から立ち上がっているように見える高さ80mの壮大な岩である。

この立岩は、遠くから見るとひび割れているかのような溝があり隙間がある。
この隙間は間口2,3尺で、奥行きは3,4尺の大きさである。
治郎右衛門は、この隙間を登ろうとした。
この隙間に竹で作った梯子を立て、繋ぎ合わせて、およそ高さ45mの場所、像の設置場所まで岩壁を上ろうと計画した。
梯子は隙間の両側に構えお互いに支え合わせた。梯子はくの字のように折り返し繋ぎ合わせた。
そして梯子の継ぎ目継ぎ目に藁紐で編んだ網を張り、万が一の落下に備えた。

石像は網に包んで、二つの梯子に足を掛けた数人の若者に順番に少しずつ吊り上げられていった。
設置場所は安定して設置出来るよう、2坪(6.6㎡)の広さに拡張し、高さ四尺の役の行者の石像を設置した。


貞宝はこの作業を驚き、心配しながら見ていた。

貞宝がふと、治郎右衛門をみると、治郎右衛門は平然と腕を組んで作業を眺めていた。

 

12.4. 開眼法要

<石像の後ろの岩が赤く染まっているのは、大正12年9月に倒れた石像を元に戻した時に、遠くから良くみえるようにと染めたもの。>

 

像の設置が終わると、岩壁下で開眼法要を行なった。

「その茲眼をもって川面を照らし、目の届く限り水難者をださないよう守りたまえ」と祈祷した。

 

以後、時に小供養、50年毎に大供養を行うことになった。

大供養は川を横切り船橋をかけ、その上に高さ三十丈の櫓を組み、錦衣の僧は岩上に並び、一般の人たちは対岸の河原に堵列して拝観した、と伝わっている。

この石像を安置したのは聖宝の弟子の貞宝であると伝わっていたが、いつしか聖宝が設置しと、伝わるようになった。

また江戸時代の宝永4年(1707年)に聖宝が理源大師の​​諡号を受け、一躍理源大師が有名になってからは、理源大師が安置されたと伝わるようになっていった。

 

甘南備寺の法要

50年毎に供養の大法要を行う習わしも甘南備寺の行事として絶えることなく伝えられている。

山崎は、貞宝から役行者や聖宝のことを聞くと、是非とも蔵王権現を祀りたいと思い、貞宝の指導を得て、大貫の三角山に御嶽神社を建立した。

 

12.5. その後の貞宝

貞宝は再び大田村に戻り、寛平六年(894年)に大田の上野山に円応寺を創建、如意輪堂を建立した。
さらに寛平九年(897年)には五十猛の大浦に海藏寺(現在は正定寺)、准胝堂を建設している。

 

<続く>

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