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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−160(戦乱の時代へ 永享の乱・享徳の乱)

51.戦乱の時代へ(続き)

51.2.永享の乱

話は、足利義教暗殺前に戻る。

室町将軍と鎌倉公方の対立

鎌倉公方は、室町幕府初代将軍の足利尊氏の子足利基氏の家系が代々世襲してきた役職である。

鎌倉公方になった当時の足利基氏は、まだ幼かったため補佐役として関東管領が置かれた。

その関東管領は、足利尊氏の母方の親戚である上杉家が代々世襲していた。

室町将軍と鎌倉公方の対立は室町第3代将軍足利義満と第2代鎌倉公方足利氏満の頃から対立が深まっていった。

足利氏満は、足利義満がいるにもかかわらず自らが将軍になろうとしていたといわれている。

このときは関東管領上杉憲春が諌死して足利氏満の謀反を阻止した。

しかし、次の関東管領上杉憲方は将軍寄りの立場を取ったため、今度は鎌倉公方と関東管領が対立することとなった。

室町第4代将軍に足利義持が就いたが、当時は父であった足利義満がまだ隠然たる力を持っていた。

このときの鎌倉公方は3代目の足利満兼であった。

 

足利義満の政策に反発する大名達もいた。

特に大きな反抗心を見せたのが自ら将軍になろうとする足利満兼であった。

しかし、このときも関東管領である上杉憲定がその暴走を阻止し、後に、足利満兼は伊豆国(静岡県)にある「三嶋大社」(静岡県三島市)に願文を捧げて幕府への恭順の意を示している。

足利満兼が亡くなると、そのあとを継いで第4代鎌倉公方になったのは、当時まだ12歳であった嫡子の足利持氏である。

足利持氏が鎌倉公方を継いだものの、足利持氏の叔父足利満隆も鎌倉公方の地位を狙っていた。

このときは、上杉憲定の仲介によりひとまず和睦が成立したが、叔父と甥の関係は微妙なままだった。

 

永享の乱の勃発

永享の乱は、鎌倉公方の足利持氏と室町幕府第6代将軍足利義教の不仲が原因となって勃発した。

室町幕府第6代将軍に足利義教が就いたことを不満に思っていた足利持氏は兵を挙げて上洛しようとした。

流石にこれは幕府への叛逆になると、関東管領であった上杉憲実が押し留めた。

上杉憲実が仲裁して、幕府と鎌倉府は和解した。

上杉憲実

上杉 憲実は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国守護。山内上杉家8代当主。

足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。

 

しかし、足利義教は、足利持氏を逆撫でする行動をする。

永享4年(1432年)9月、将軍の権威を見せつけるために、富士遊覧を行った。

持氏はこれを事前に知って富士遊覧の中止を要請したが、義教はこれを無視し強行した。

幕府と鎌倉府の関係は悪化する。

室町将軍で富士遊覧をしたのは、第3代足利義満とこの足利義教の二人だけである。 

足利義教はこの時

みずばいかで思ひしるべき言の葉も
及ばぬ富士と兼て聞しを

と、歌を詠んでいる。

この、富士遊覧に足利持氏が現れたなら、殺そうと決めていたと、いわれているが、持氏は現れなかった。

持氏はこの挑発に激昂する。

持氏は、幕府と徹底的に対抗する姿勢をみせた。

持氏は鶴岡八幡宮に、血を混ぜて書いた願文を奉納した。

足利持氏血書願文

永享六年三月一八日、足利持氏は大勝金剛尊像と血書願文を奉納し、武運長久と子孫繁栄などを願い、ことさら将軍義教の打倒を祈願して関東の重任を億年に担わせてほしいと祈っている。

上杉憲実は、幕府との仲裁をしていたが、持氏との関係も悪化していった。

 

永享10年(1438年)、ついにその時が来た。

足利持氏の長男「賢王丸」の元服の儀を執り行ったときのことである。

この当時、鎌倉公方の長男の元服時には、室町幕府への臣従の証として、将軍の名から一字を拝領して元服後の名を付けることになっていた。

つまり、慣例では賢王丸は足利義教の「教」の字をもらって元服名とするはずだった。

しかし、足利持氏はしきたりを破り、足利氏嫡流の「義」という字をつけて賢王丸を足利義久と名乗らせたのである。

この行為は将軍に対して反旗を翻したと同然であった。

上杉憲実は、以前から命名に対する忠告をしていたが、持氏は聞き入れなかったのである。

上杉憲実は抗議の意味を持って儀式への出席を拒否した。

その後、持氏が憲実を討伐しようとしている、との噂を聞いた憲実は、領国の上野に去っていった。

持氏は、憲実の行動を叛逆行為として、憲実討伐のために軍を編成する。

この状況を知った室町幕府は、上杉憲実側に立つ。

周辺の武士達に上杉憲実に味方するように命じ、軍勢をも派遣した

さらに足利義教は持氏追討の綸旨をも獲得し、大義名分を得て、持氏を攻めた。

永享10年(1438年)に戦へ突入した。

永享の乱の乱である。

この戦はあっという間に、上杉憲実、幕府方の勝利に終わった。

捕まった、持氏は頭を丸めて出家し、永安寺に軟禁された。

上杉憲実は足利持氏の命乞いをしたが、将軍足利義教はこれを許さず、殺害を命じた。

攻められた持氏は永安寺で自害して果てた。

<次の絵中、上部の切腹している男が持氏である>

 

51.3.享徳の乱

享徳の乱は関東で起こった、関東公方と関東管領の戦いで、約28年間続いた大乱である。


結城合戦が起こる

永享12年(1440年)、「上野国」(群馬県)の国人であった岩松持国が、足利持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて挙兵した。

そこに下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の国人結城氏朝も味方し、結城城(茨城県結城市)に立てこもった。

結城城は1年以上、籠城に持ちこたえたがついには落城する。

春王丸と安王丸は捕まり、京都に護送される途上で殺害されてしまう。

この直後の嘉吉元年(1441年)に、第6代室町将軍足利義教が播磨国(兵庫県)の守護大名赤松満佑に暗殺されるという嘉吉の変が起きた。

この混乱のため結城合戦の後始末はうやむやとなり、春王丸と安王丸以外の足利持氏の遺児達は生き残ることができたのである。


鎌倉公方と関東管領が復活

足利持氏の死後、鎌倉公方は不在となる。

上杉憲実も主君を殺さねばならなかったことを後悔し出家、その息子達もあとに続くように出家した。

なかなか後任が決まらない鎌倉公方と関東管領であったが、最終的には上杉憲実の長男上杉憲忠が関東管領に、足利持氏の遺児万寿王丸が足利成氏として鎌倉公方になった。

当時、上杉家で力を持っていたのは「山内上杉家」と「扇谷上杉家」だった。

この両家の「家宰」(一家を取り仕切る重臣)はそれぞれ長尾氏と太田氏であった。

 

足利成氏が上杉憲忠を殺害

享徳の乱は、享徳4年/康正元年(1455年)に足利成氏が山内上杉憲忠を殺害したことからはじまる。

足利成氏にとって上杉憲忠は、父の仇(上杉憲実)の子だった。

そのため、足利成氏は上杉氏に対して反感を抱いており、上杉憲忠をはじめとする上杉氏を遠ざけていた。

また足利成氏は、持氏時代の家臣や上杉氏に従わない北関東の豪族たちを側近にしていた。

宝徳2年(1450年)4月に、山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰(かさい:家長に代わって家政を取り仕切る職)の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。

成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。

難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免(大目に見ること)したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。

幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。

また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。

結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した。

しかし、4年後の享徳3年(1454年)、足利成氏は上杉憲忠を呼び出し、上杉憲忠と随行者の22人を殺害してしまうのである。

これにより、公方派と上杉派は完全に決裂し戦いが始まるのである。


緒戦は足利成氏の勝利

この当時の室町幕府将軍は第8代将軍足利義政であった。

義政は長尾景仲から報告を聞き、すぐに駿河国(静岡県中部、北東部)の守護大名今川範忠を派遣し、上杉側に加勢しようとした。

ところが間に合わず、今川軍の到着を待たずして上杉軍が立てこもる「小栗城」(現在の茨城県筑西市)は落城してしまう。

勝利した足利成氏は、さらに転戦して下総国の「古河城」(茨城県古河市)に入った。

ところが戦をしている間、鎌倉を放っておいたことから、上杉軍に鎌倉を奪われてしまう。そのため足利成氏は鎌倉に入ることができず、古河城を拠点とすることになった。

このことから、のちに「鎌倉公方」を「古河公方」(こがくぼう)と呼ぶようになったのである。

 

堀越公方の誕生

将軍足利義政は長禄元年(1457年)に、足利成氏を正式に鎌倉公方の地位から降ろした。

そして、室町幕府は足利成氏に代わる、新しい関東の支配者として、僧侶となっていた足利義政の兄「足利政知」を還俗させて鎌倉公方に任命した。

ところが、足利成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、伊豆堀越に逗留することになった。

義政は奥羽・甲斐・信濃など関東周辺の大名・国人衆に出陣を命令、政知を中心とした大規模な成氏討伐計画を進めていた。

しかし、関東出兵を命じられていた越前・尾張・遠江守護斯波義敏が義政の命令に従わず、内紛(長禄合戦)鎮圧のため越前に向かうなどして、幕府の命令に従わなかった。

結局、斯波義敏は、義政の怒りを買い更迭されたため斯波軍の出陣は中止となった。

こうしたことで、成氏討伐計画が失敗し、また諸大名の信用も失い、政知は自前の軍事力がない中途半端な状態のまま伊豆に留め置かれることになった。

後の話であるが、この38年後に政知の息子の義澄(初名:義遐(よしとお))第11代将軍となる。

そしてこの後、最後の15代将軍義昭まで義澄の子孫が室町将軍職を継いでいくのである。

 

関東地方は混乱を極める

鎌倉公方と関東管領との間の戦いが続いたことにより、関東を支配するまとめ役が不在となったことで他の大名家にも動揺が走りはじめた。

領地を広げようと動く大名や分家が本家を乗っ取る大名などが出てくるようになり、それぞれの野望のままに活動するようになったため関東地方は混迷を極めることになるのである。

 

<続く>

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