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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−54(治承・寿永の乱に関する逸話ー落人伝説1)

23.2. 平家落人伝説

平家の落人伝説は、全国で凡そ百六十カ所にあるという。

平家落人の伝説は、九州、四国、近畿地方に多い。
石見においての、平家落人の伝説は鹿足郡日原、邇摩郡(現大田市)馬路、邑智郡谷村(現:飯石郡飯南町井戸谷)の程原、川本町田原等に伝えられている。

 

23.3.1. 平家の遺跡

安徳天皇は壇の浦で二位の尼(清盛の妻時子)に抱かれて海へ沈んだといわれている。
しかし安徳帝は、壇の浦では死なず、平家一族の人々に守られて、逃れたという伝説も多い。
この伝説は九州、 四国、山陰などにある。

鹿足郡日原町に安徳天皇に関する伝承がある。

平家の遺跡(島根県口碑伝説集より)

日原村の左鐙(さぶみ)といふ名稱は、壽永四年平家が長門壇の浦に破れた後、安徳天皇此地に落ちさせ給ひ、字外ケ原といふ所を騎馬にて御通過あらせられたに、路傍に夕顔垣のあったが如何なる機會であつたか、左の鐙が其蔓に纏ひついて解かんとし給へど解けず、追手は既に近づきたれば危急の場合、少しの猶豫も出来ぬ故其儘馬に鞭を當て給ひたれば、馬は驚いて疾走し、鎧は坊に殘った。 

よりて左鐙の名稱を傳ふるに至つたと。

それから吉賀川(高津川の上流を古来吉賀川と呼んでいた)の邊り字疊には、疊石といふ平坦な岩石がある。 
其傍には恰も人工になれる如き小高い岩壁があつて、城壁の形を爲し上るに適當な階段がある。

その上には雅致ある数本の松が茂つてゐて天然の勝景をしてゐた。(今は道路開通の爲め岩は半ば砕かれ、松も伐り去られ、昔の俤を留めざるに至つた) 里人は稱して一夜城と云ふ。
これは安徳天皇が一夜をこゝに明し給ふた遺跡であると傳へて居る。

そして昔から、此岩上即ち一夜城に、万物を搆へて登るものは必ず怪我があると云ひ傳へてゐる。 

時或津和野侯が、吉賀川に遊獵されて、此地方に来り「そんなことがあるものか」と侍臣等が諌むるも聞かず帯刀のまゝ一夜城に登った。

不思議にも小刀がスルリと抜け出でゝ其股に突立ち、怪我をされたといふことである。

此處を下つて晩越といふ峠がある、遙に此の峠を望み得られる所で、天皇おはせし時、二羽の白鷺が峠の頂上を越えて來らんとしたのを、天皇は源氏の白旗と見そなはし、「敵は既に前路を扼したるか、腹背既に敵を受けて逃ぐるに道無し」と悲嘆せられたと云ふ。
晩越は越ゆること後れたといふ意味、それが地名となったのである。

そして二羽の鷺は、御稜威に畏れて越えずして引返し川に添ふて一里余り迂回したと。
尚それより後こゝに來る鷺は峠を越ゆること無く、必ず川に添うて迂回した。
それで此廻を鷺廻と云ふやうになった。 

本道から谷に添うて奥に入る「ミンガ谷」と云ふ所がある。
天皇は此處まで落延びたまひ、一人の農夫に「武者に遇はざりしや」と尋ね給ひしに、「みんが」と答へた。 (見ずの意) 
それより此地を「ミンガ」と名つけたと云ふ。
現今一軒の農家があつて、其屋號となつて居る。

それより少し上方に「シフギ」と云ふ所がある。 「シフギ」とは如何なる轉化か不明であるが、此處は敵既に麓まで追ひ迫ったと聞きて愁嘆し給ひし處と云ふのである。
こゝに現今一軒の農家があつて「シフギ」と 呼んで居る。

こゝから山を越えて、一軒の百姓家が現存して居る。
屋號を「ブンバァ」と云ふて居る。これはグンパ(軍場か)の轉訛で、グンバは當時追手と、平家と交戦の軍物であつたと傳つて居る。

 

23.3.2. 琴姫伝説

平家が壇ノ浦の戦いで敗れた春のころ、美しい姫とその従者らしき若者を載せた小舟が浜にたどり着いた。
二人は気を失っており、その姫は琴を抱いていた。

村人たちの手厚い介抱に元気を取りもどした姫は、毎日琴を奏でては、村人たちの心を慰めていたが、ある日突然この世を去ってしまった。

姫の死に村人たちは嘆き悲しみ、浜の見える丘に姫をねんごろに葬った。

すると次の日からあたかも琴を奏でるような、美しい音色で浜が鳴り始めた。

馬路の人びとのやさしさを象徴する言い伝えとなりこの浜を琴ヶ浜と呼ぶようになった。

現在琴姫の墓は浜の中央、松林の中に作られた。そして記念碑も建てられている。

   

琴が濱と女神(島根県口碑伝説集より)

邇摩郡馬路村琴が濱は日本海に臨み白砂青松の間数千歩、歩めはキューキューと妙へなるの音を出すのである。

蓋し砂粒悉く珪石で粒細かに大きさ同じきによるであらう。

この濱の由来に就て一つの傳説がある昔琴姫とてうら若き一女藹があつた。

やんことなき身をすて、唯一人の天探女を伴ひ、此磯邊に着したその後姫は波打つほとりに板屋を作り、春の朝、秋の夕携へたる愛琴を奏で妙なる調に世のうさをはらして居た。 

間も無く姫は病気となりて死んだ。

臨終の時「妾が成佛したらば此濱より琴を發するであらう」と遺言した。

姫の歿後果して真砂鳴りを生するやうになつたと傳へられる。

姫の住んで居た板屋は今は跡方も無けれども板屋の名を殘し、姫が船を初めてつけたと云ふ船津、姫の墓と語り傅ふる姫塚のゆかりを今に留めて居る。


大田市観光サイトより

壇の浦の源平の戦に敗れてこの地に流れ着いた平家の姫は、村人に助けられたお礼に毎日琴を奏でていました。
しかし、姫は亡くなり、村人たちは大いに悲しみました。 そして姫が亡くなった後、砂浜が琴の音のように鳴くようになりました。

村人たちは姫の魂がこの浜にとどまって、私達を慰め励ましてくれているのではと思いました。 それ以来、この浜を琴ヶ浜、そして姫を琴姫と呼ぶようになりました。

姫を助けた馬路の人々の優しさをを象徴する言い伝えが、今も残っています。 一度この砂の町を訪れてみてください。 

 

琴姫伝説の後日談

大正元年(1912年)、 琴姫伝説に興味を抱いた当時の村長藤田房竹さんが、村の青年団に呼びかけて琴姫を埋葬 したと伝わる鶴の松の根元の辺りの発掘をした。
その時、 備前焼らしい壷に納められた人骨と、梵字を彫った三十 四方の墓標が出て来た。

壷が室町時代ごろのもので、 源平時代より新しいので、「琴姫の骨なのか、どうか」 当時は村で色々議論があったという。
最後は途中で改葬して、新しい壺に入れ替えたのではないかということに落着いたという。

この遺骨は 馬路の満行寺で 保管されているという。

  

  

 

ある妄想

前述した「平家の遺跡」は、島根県の西部の山間部の伝説である。
そして、伝説を残した安徳天皇一行がそれからどこに向かったのかは伝えられていない。

そこで、ある妄想が湧いてくる。

当時出雲には平家方の領主が多かった。
特に横田の庄は出雲における平家方勢力の一重要拠点をなしていた。
もし、この伝説が本当なら、安徳天皇一行はその横田の庄に向かったのではないだろうか。

鹿足郡日原から浜田に出て、ここから海路で出雲を目指した。
途中、追手に攻められながらも、かろうじて逃げ延び、馬路の海岸に漂着した。
つまり、馬路の浜に漂着した琴姫は安徳天皇もしくはその身内であったことも考えられるのである。

もし琴姫が安徳天皇なら、女に変装していたと思われる。

馬路の人々は当然気がつき、丁重にもてなした。

村人は源氏の目をごまかすために口裏を合わせ匿ったことであろう。

  

全くのファンタジーであるが、二つの伝説が繋がっているのではないかということが、ふと頭の中を横切った。

 

<続く>

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