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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−37(萬寿の大津波と江の川の洪水−2)

14.2. 萬寿大地震の記録(続き)

 

14.2.2. 石見名所方角図解

「石見名所方角図解」は安永3年(1774年) 香川景隆と江村景憲によって著されたものである。

この本では石見各所の名所を図入りで説明し、この名所を詠んだ先人たちの和歌を紹介している。

そして本の最後にこれらの名所を詠んだ香川景と江村景憲の歌を載せている。

この本の表紙には「石見名所集」と記されているが、前文の見出しには「石見名所方角図解」と記されている。この理由については、後の「石見海底能伊久里」で述べる。

邑智郡誌には「香川景隆は日貫の人で歌人、元安芸仁保島城主の後裔で天明3年(1783年)12月22日没、日貫の宝光寺境内地蔵堂に納められている」と記載されている。

江村景憲については、ある人の調査によると「その墓は宝光寺裏の墓地の最上段付近にあり、その墓の正面に「南無阿弥陀仏」、右側面に「天明三年??五日」、左側面に「俗名江村七助大江景憲」、台座に辞世の言葉がある」という。

 

万寿地震・津波に関係する記述

石見名所方角図解 前文

・・(略)・・思ひ出 て鴨山の昔をたづぬるに、八十じ余りと思ぼしき老人一間なる所より出て、こは珍敷事(珍しきこと)、たづし給ふ。 若き輩の知る事に非ず。抑(そもそも)高津の浦と申すは、沖に、かも山、鍋嶋、底干浦、地に槙、 真若、高角浦等云ありて北国の廻船爰(ここ)によせぬもなく、無双の湊なりしとかや。然るに、何れの頃にか大波起嶋々浦々こと ごとく崩れ、嶋は千尋の底となり、浦は砂泥に埋みて、今はやうやう中洲の一村となり、此浦の辺より、飯の浦辺なる砂を吹上と申 す。

実は其時の打上たる砂山とぞ、 聞伝ては侍る也。実にさもと覚る事もさふらふ也。先年此さとの地中より、梵字彫たる切石堀出し たる事あり。是を福王寺(益田市)の住僧見給ひ、是は十三重の石の塔也との給ふに付て、かやうの石は髪の、みぞ井の辺、彼所の石ばしにも有といへるを、彼僧拾ひ集て、ほどなく九重にくみ立て、 福王寺の庭にあり。

近き年にも川底に石像の大仏見へし事も有。 又此辺に井をほりけるに、そこに大木ありて井、調はざりし事もさふらふ也とぞ申。・・(略)・・

<原文>

 

<益田市 福王寺>
 

 

 

鴨山〔新清云(新清とは浜田藩の国学の祖、松平新清元麿(~1739)のこと)

一説に浜田城山を云と有共、風土記によれば、益田の城山也と云々鴨山は高角浦の沖に有。

今は鴨島と云。此嶋昔は大き成る嶋にて、人丸の社、木像等有けるが、人皇六十八代後一条院の万寿三丙寅年大波起て、都て此辺の浦山おびたゞ敷崩れける。

鴨山、鍋嶋等も、悉く崩れ、木像も失せさせ給ひたるが、其後木像は、浮木に乗て高角浦に上り給ふにより、再び社を宮つくり、今の所に鎮座ましませぽ、高角山、即鴨山なり。

高角山の西に、なべ山八まんと崇祭れるは、昔のなべ嶋をうつせる也。なべ嶋の跡は今鳴かみ瀬と云鴨嶋の東に有。

かもしまをはなるゝ事、十五歩斗。横三歩斗。立九歩斗。浅き所は或は四尋、深き所は十弐三尋斗立とぞ。海上壱歩は七十尋にて、間にして、五十四間程也。形は波に沈み、底の岩瀬のみなりといへども、其名は千歳の今にくちずして、諸人のよく知る所也。

新清は神道の達人一流を立程の人成るに、いかなれば、此集を撰ぶに至りては、高田山、石川、かもやま等の慥なる所を誤りけんぞや。是成に所ひゝきとやらんの俗言をはなれ得ず。たとえば、伊勢物語に狩りの使を第一とせし類ならんかと云。

万葉

人丸 鴨山の岩根しまける我をかもしらでや妹が待つゝあらん

<原文>

<鴨島(鴨山)の想像図>

 

14.2.3. 角鄣経石見八重葎

 「角鄣経石見八重葎」は、文化14年(1817年)石田春律(宝暦8年(1757年)〜文政9年(1826年))によって書かれた、全13巻の叢書である。

石田春律は現在の江津市松川町に生まれた名主であり農学者。太田村庄屋、通称初右衛門、江川堂澗水と号した。

この本は、石見国の和歌に歌われた名所の説明をしており、「萬寿3年の津波で受けた被害」も列挙している。

しかし、前述の加藤芳郎氏によると、書かれた内容は、被害状況を知り得た根拠にはまったく触れておらず、「伝承」に基づいているものである、と評している。

万寿地震・津波に関係する記述

江川渡り山近辺

江川渡り山(下記に注釈)近辺の絵図委しく認め相添置。是ハ往古の図也。当時と言、地所ハ引合がたき処も在之。後一条院万寿三年丙寅五月二十三日の大津浪に玉江の里川向ひ渡津、長田(江津市の村)海辺の風景も大に変ず。其時高津の沖、水嶋鴨山益田の岡の今寺垣と申村どもハ五宝寺と俗に申ほうの字付たる五ケ所の大寺迄潰れ弐間半四方のみかげの石十三の塔迄崩れし程の大変なれバ此玉江の渡りの左右江津、渡津などの事も思ひ廻したまへ。また川より土砂を突出し、海辺多分陸地と成り。地理の姿もかわり、返すゞ(がえす)も古跡のむなしくならん事を思ひ絵図面にしるしぬ。

(注釈:以前書いたように、石田春律は「渡の山」は江津市の「嶋の星山」であると、評しており、この「渡り山」も「嶋の星山」を指している)

<原文>

 

 

和歌の鴨山の説明:先人の新清広貞、津和野藩、小篠大記たち(恐らく、同じような書物を著している人たちと思われる)の評を述べた後、著者である石田春律本人の考えを述べている

鴨山

鴨山 景物〔岩根小松・掛り船・塩焼煙・鮑貝・千鳥・磯打浪・かもめ・日晩山読合・打歌山読合〕

新清広貞評 浜田にてハ城山とも、風土記之説によれバ、美濃郡益田の町の頭七尾の城山といふ。

津和野御評 高津の沖に有。人皇六拾一代後一条院万寿三年丙寅大津浪によって崩れ、今ハなし。

小篠大記評 浜田にてハ城山といふ。高津ニ而ハ鴨山といふ。

石田春律愚評右鴨山御評品々有といへども、愚老ハ柴山卿菅公津和野御評に同意せん。其中に菅原朝臣為璞卿御評并ニ柴山大納言卿御評賢者学士の歌聖の仰宣成かな。恐れても可恐御評なり。誠に中津村之辺より磯方ひきぐして西の沖へ今の鴨嶋の辺へ続く嶋なり。大略高サ嶋山と思ハれたり。
地方より、つゞかずしてハ鴨嶋と可云哉。嶋と山との儀ハ国号考其外神代書に?前たり。申スも中々愚かなり。此山地方へ縁続故に数々の書にも皆鴨山としるせる也。
されども又、大方ハ縁をはなれ、少し地方へ続く所有故に山嶋と歌聖の宣ふや、御賢慮ふかき御事、愚老不及ながら、伏して奉感公所なり。去共此嶋并ニ水嶋ともに、人皇六十八代後一条院御宇万寿三丙寅年五月二十三日の大高浪に崩れ、御社を始人丸寺民家ともに、皆退転いたし漸々御神体斗り、此嶋の二タ俣の松にのらせ給ひて、今松崎といふ所へよらせたまひ、故に此処を松崎といふ。人丸公卒去神亀元甲子より、万寿三丙寅の年まで、三百三年におよぶ。夫より延宝八庚申迄、又六百五十四年ニ成ル。右松崎に天和元年辛酉ノ年より鍋嶋山近辺、今の高角山へ宇多天皇の末葉、当国津和野三本松の御城主亀井因幡守源滋満公、又の高浪を恐れ給ひて、只今の高角の山へ奉迁給ひてより、天和元より文化十年迄、百三十五歳におよぶ。神亀元子より文化十二乙亥迄、千九拾一年ニ成ル。

   <原文>

 

<鴨山(鴨島)の想像図>

 

14.2.4. 石見海底能伊久里

 

著者は金子杜駿で、号を独酔園独醒頼甫と称し、享和二年六月九日矢上村金子来助の長男として生れた。 

国学、漢学の造詣が深く、殊に俳人頼甫として世間に名高い。 若くして長州明倫館に学び非凡の文才一般に高く、藩主毛利公の珠遇を受け同地椿八幡宮司たる事久しく、後故郷に帰って悠々自適風雅三昧の生活に入る。

明治十年七十六歳の 長寿を保ち聖者の如き大往生を遂げた。 

辞世、「遂にかく我ものぼれば天にますたらちねいかにうれしからまし」とある。

 

「石見名所方角図解」について

「石見海底能伊久里」によると

昔浜田候、松平周防守殿の御内に都築唯重という人が「石見名所方角集」という書を編集した。その後松平新清[谷口源兵衛と称す]という人が出てこれを補い、自らの詩を加えて画図にしたが、まだ十分でないと考えた、日貫の香川景隆が、色々手を加え「石州名所記」という書を作った。・・・

と凡例で述べている。

「石見名所方角集」の著者香川景隆たちは都築唯重達の「石見名所方角集」に図を挿し込み、また自分たちの歌を追加して「石見名所方角図解」を編集したものと思われる。

(都築唯重:浜田藩の重臣で寛保2年(1742年没))

 

凡例

     <原文>

 

万寿地震・津波に関係する記述

鴨山 那賀郡浜田

方角集云、一説に那賀郡はまだの城山也といへど風土記によれば美濃郡益田の城山也と。

名所記にもしるし、事跡考弁云、鴨山は高角の沖にありて今鴨島といふ。昔は大成島にて柿本神社木像等ありけるが人王六十八代後一条天皇の御宇万寿三年丙寅五月大津浪起りて、此辺のうら山夥く崩れ、鴨島、鍋島等も悉く崩れて、木像も失させたまひけるが、其後浮木にのりて高角浦に上り給ひしより、再急造りして鎮座ましませぽ高津山即鴨山也。

今高津山に高角山西鍋島八幡宮と崇め斎るは昔の鍋島の跡をうつせる也。鍋島の跡は今鳴神瀬といふ。鴨島の東のかたにあたりて鴨島の地を離るゝ事十五歩許、横三十歩、竪二十歩。〔海上ノ一歩ハ七十尋也。間ニシテ二十五間ニ中ル〕むかしの鍋島、鴨島は波瀾にしづみて底の岩瀬と成ぬれど、其名は千歳の今に朽ずして諸人の知処也と。

この文章は「石見海底能伊久里」の前文に非常によく似ている。

金子杜駿は郷里の先人である香川景隆、江村景憲たちの著書である「石見名所方角図解」の前文を参考に、すこし省略・訂正などをして書き写したものではないか思う。

 

<続く

<前の話>   <次の話>

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