阪急池田駅と石橋駅(最近駅名が阪大前石橋と変更になりました)の中間時点に「鉢塚」という地名が、私の小学校時代からありました。この辺は戦前・戦中は植木畑と農業の稲作地帯が広がっていました。終戦後、にわかに様相が変わり、住宅地帯に変貌してゆきました。小学校6年生のころ遊び友達等と鉢塚古墳を見に行きましたが外観のみ見て古墳内部は入れませんでした。
池田に住居を定めてから「尊鉢厄神」の寺院を戦友と訪れた折りに、古墳に足を運びましたが、その後3度ばかり参詣致しました。鉢塚古墳の石室は、当初の役割と変わって、玄室内に石造十三重塔が安置されて五社神社の奥殿の役割を果たしています。
五社神社について
鎮座地:大阪府池田市鉢塚2丁目106番地
由緒 :五社神社の社伝によりますと奈良朝時代聖武天皇の神亀元年(724年)に僧行基がこの地に「多羅山 若王寺」を創建しました。その鎮守社として五社神社を奉祀しました。以来1,200余年の間、当地の氏神として地区住民の尊信を受けています。
祭神: 主神を国常立尊とし、相殿に速素戔嗚命、五十猛命、住吉大神、穴織大神と合わせて五柱の神々を奉斎しています。
祭日: 歳旦祭 1月1日 夏季大祭 7月13日
招魂祭 8月15日 秋季大祭 10月第2日曜日
宝物: 石造十三重塔 一基
鎌倉時代中期の造立とされています。
金剛界曼荼羅の五仏を表す密教関係の供養塔で、五社神社の本地仏と伝えられています。
昭和9年(1934年)重要美術品に認定されました。
更に、昭和34年(1959年)国の重要文化財に指定されました。
尚、塔の左右にある不動明王の種子板碑と地蔵菩薩の半陽刻石像も鎌倉中期の制作品と認められました。
経塚発掘物
昭和39年(1964年)五社神社境内より平安時代末期乃至鎌倉時代初期埋納と認められる経塚を発掘し、経筒の他、白銅方鏡、香盒、刀子、瓔珞、宗銭等が出土しました。
史蹟 鉢塚古墳について
五社神社の境内にある鉢塚古墳は周濠を有する上円下方墳で古墳期後期(西暦6~7世紀)今から1400~1500年前の築造と認められ、その両袖形横穴式石室は、奥行全長15m(内玄室長さ7m、羨道8m)玄室高さ5m、幅4m、羨道高さ2m、幅2mです。
総べて花崗岩の巨石を用い、その構造規模は、壮大雄偉で、大阪府下三大石室の随一と称され、又全国的にも最大級のものと言われ、築造当時そのままによく旧態を存していると言われています。この塚の被葬者は誰であったかは不明ですが、おそらく当時この地方を統括して
いた或る豪族の墳墓であろうと推定されます。
又、この古墳の石室は、五社神社の奥殿として、前述の十三重の石造塔が其の玄室内に安置されています。当古墳は、現在大阪府指定の史跡となっています。
(註)以前は十三重の石塔のある玄室最深部迄拝観させていただけたのですが、最近の高槻地震で玄室部に微細なひび割れを生じたので安全面から入室禁止になりました。
池田に住居を定めてから「尊鉢厄神」の寺院を戦友と訪れた折りに、古墳に足を運びましたが、その後3度ばかり参詣致しました。鉢塚古墳の石室は、当初の役割と変わって、玄室内に石造十三重塔が安置されて五社神社の奥殿の役割を果たしています。
五社神社の境内にある御神木「楠木」の巨木について
五社神社の境内にある御神木「楠木」の巨木についての樹齢、樹高、幹回り太さ等の諸元は不明です。