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小林光一九段について

2014-07-29 04:45:01 | 囲碁
小林光一九段について、ネット情報より。

小林 光一(こばやし こういち、1952年9月10日 - )
囲碁のプロ棋士。北海道旭川市出身。木谷實九段門下。日本棋院東京本院所属。
名誉棋聖、名誉名人、名誉碁聖。
前妻の小林禮子(1996年逝去)との間に一男一女。
後妻との間にも子あり。
長女は小林泉美。娘婿は張栩。
門下に河野臨、大矢浩一、酒井真樹、大木啓司、金澤秀男、桑原陽子、穂坂繭ら。

棋聖8連覇、名人7連覇、碁聖6連覇など、数々のタイトル連覇記録を樹立。
日本の現役囲碁棋士の中で、最も多く名誉称号を持つ。
棋道賞「最優秀棋士賞」7回、秀哉賞7回。
2006年から2007年5月まで、日本棋院副理事長。

棋風
足早に地を稼ぎ、ヨセで勝負を付ける。
全盛時代に多用した小林流布石は好成績を挙げ、世界で流行布石となった。
味や含みを残さず、早々と部分部分の形を決めて打つ「決め打ち」は有名。

趙治勲との角逐
趙治勲とは1980年代から90年代にかけて幾度となくタイトル戦で激突し、囲碁界において「小林・趙時代」を作った。
対局は127局(2010年現在)に及び、同一カードとしては史上最多。
対戦成績はほぼ五分(2011年現在で小林の63勝66敗)で、現代碁界きってのライバル関係にある。
なお、若手時代は石田・加藤・武宮の「黄金トリオ」に対して、趙・小林は「シルバーコンビ」と呼ばれた。

本因坊戦には過去4回登場しているが、すべて趙に敗れ、いまだ獲得に至っていない。
特に1990年から三年連続の挑戦は、本因坊位獲得で大三冠達成となる寸前までいきながら、ことごとく趙の大逆転勝利に終わった。
「大一番に好局なし」という言葉を覆したこのドラマチックな七番勝負は、現代日本囲碁界のハイライトともいわれている。

エピソード
地に辛く、含みを残さずに決め打ちするスタイルのため、同門の武宮正樹に「地下鉄みたいな碁」と揶揄されたことがあった。
が、小林は「地下鉄とはうまいことをいう。
碁に勝つためには真理だけを見ればよく、他は目に入れる必要がない」と受け流し、直後のタイトル戦で武宮にみごと完勝した。
いっぽう武宮は1995年の名人戦登場にあたり、小林に揶揄したことを詫びた上で対戦し、小林から名人位を奪取した。
感想戦では思ったことを率直に口にするところがあり、かつては武宮正樹や趙治勲ともめたこともある。
囲碁ライター・小堀啓爾は、「純粋で正直な人なのだけど、その純粋さがときに人を傷つける」と、小林の性格を描写している。
前妻禮子は小林より13歳年上だった上、師匠木谷実の令嬢にして、早くから女流の実力者であった。
部屋住みの若手棋士との結婚はつり合いがとれないという周囲の反発を乗り越え、二人は三年越しで結婚にこぎつけた。
同門の趙治勲は、「マドンナだった禮子さんと駆け落ちした光一さんに復讐しようと、門下生でたくらんでいた」と冗談をこめて語っている。
1996年、禮子が乳がんにより他界するまで、小林は妻の病気のことを周囲に一切もらさなかった。
その間に棋聖・名人など長期連覇してきたタイトルを次々と失冠していくことになる。
かねてから知り合いだった15歳年下の女性と再婚した際、『週刊朝日』は「『姉さん』失った小林九段の再婚相手は『妹』」という見出しの記事を載せた。
実際再婚相手は、実弟の妻の妹即ち義妹の妹であり、また実弟と義妹が結婚する縁を作ったのは禮子夫人であった。
2004年7月29日、娘の小林泉美と十段戦本戦敗者復活戦1回戦で史上初の父娘対決を行い、白番中押し勝ちで勝利した。
全盛期には眼鏡をかけていたが、視力矯正手術を受けて眼鏡を外した。
顔や声が萩本欽一に非常に良く似ており、インターネット上で一時話題になった。
愛読書は大藪春彦のハードボイルド。ストーリーと結末の明快さが、自分の気質に合っているから、という。


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