吉原健二 マルチエンジンを持つ。文系、理系を問わず、全分野の情報を、人生論や生活信条まで含めて、披露します。

広範なる知識、感動モノ、名写真、オリジナルなる物、新意見、新発見、囲碁関連情報、コレクション、旅行、地図、人生論、など。

今日の半日

2014-08-05 21:54:43 | 思い出
外出した。
伊勢丹に行き、6階の宮川に入った。
記念日なので、一寸張込んで、一番高そうなのを頼んだ。

来たのを見ると、3段重で、うなぎ、和の煮物、さしみの3種で、さすがに食い出があった。
部屋には、美術館の如く、名画が値をつけて飾ってあった。

一挙両徳を狙った物だ。
ここを出て、A館のペットショップを見た。
そこで、犬がなぜ他人の業者におとなしく、はさみを入れさせる秘密を見た。

すなわち、「高いところに乗せる!」これが答えである。
犬は、不安なので、おとなしくなる。
飼い主も誰も助けてくれない!

コンピュータ管理 アーカイブ 入社後の様子

2014-07-25 04:25:22 | 思い出
コンピュータ管理
昭和35年入社後、2年程半導体部製造第1課で開発をやり、コンピュータに出会い、以後それが一生の仕事になった。
小型の IBM-1130 という技術計算用のコンピュータが導入され、当時最新鋭だった。
私は一人で、その管理運用をまかされた。

5年後、事務部門の計画部計算課に移動になった。
まだ事務計算の全盛期で大型機の IBM-360 が導入され、技術計算も一部を使わせてもらう形になった。
私以外は、皆事務屋さんであった。
4年後、私は技術計算の独立の重要性を説いたレポートを書き、当時の蜂谷三郎課長経由で、上層部に送付するようにした。
蜂谷課長は、まだ時期尚早だと、そのレポートは出さない事と指示してきた。
私は、悩んだ末独断で蜂谷課長を飛ばし、上層部の成田専務(経理部門担当)経由盛田副社長あてに直送した。
反動はすぐに来た。
蜂谷課長に呼ばれて凄い勢いで怒られた。
その後、私の昇進は、完全にストップをした。

1年後、技術計算の独立が認められた。
UNIVAC-1106 (選定には、私の推薦)が導入され、
私は、当時の最先端部門の中央研究所(保土ヶ谷)に移った。

そこの上司が情報処理研究所(略して、情処研)の吉田博文氏だった。

私の思い出(5)

2014-03-31 05:58:58 | 思い出
3重の地名!

私は、奈良県奈良市奈良町で生まれた!
日本中でも、これだけ重なる確率は、5千万分の1(5x10の7乗)で、奇跡的に近い。
日本でも、2~3人だ!

実は、私の生まれた76年前は、西新屋町と言った。
ここの、古い貧乏な貸長屋で、私は生まれた。
後に、古さで奈良町になった。

父は、警察官だった。
しかも、学校が中学出で、三重県の田舎の大矢知町(現四日市市)の出身である。

だが、巡査、巡査部長、警部補の下から3段目の階級に、私が11才の時になった。

間もなく、①榛原町(現宇陀市)、に引っ越しになった。
警察署長になったのである!
これからが、引っ越し人生の始まりだった。

生駒小学校を卒業後、帝塚山中学(私立)に入った。

ここを卒業する春に、橿原市に引っ越しになった。
ここで、畝傍(うねび)高校に入った。

実に、2年ごとに、②生駒町(現生駒市),③八木町(現橿原市)、④大和郡山市、⑤大和高田市、⑥奈良市と変わった!

全て、署長官舎で、楽しみは新しい家の間取り探検だった。
「今度は、どんな家だろう!」と引っ越しの度に、変わった間取りの部屋を探検する。

大体、大きな家で部屋数は、5つ位ある。
すべて、警察署の裏か近くだ。


私の思い出(4)

2014-03-30 04:57:44 | 思い出
机がプカプカ浮き出した!

昭和34年夏、私はソニーに実習に行った。
半導体部製造課という所にいった。

色々実験をして、写真をたくさん撮り、付属の暗室で現像をしていた。

その時、「地下の部屋から水が漏る!」と言ってきた。
課員の一人が暗室を開けると、水が洪水が如くどっとあふれ出た。

近くの机が数センチも、プカプカ浮き出した!

みんな総出で、仕事を止め、排水に努力をした。

なんと、原因は「私が写真の水洗いで、水道を出し放っしにした!」ためだった。
印画紙が、排水口を塞ぎ、大量の水が部屋に溜まっていたのだ。

これで、一辺に私の名前が全課員に覚えられた。

翌年、こんな私を採用したソニーは、私を実習した課に配属した。


ここの課の塚本哲男課長の秘書兼庶務をしていた、水村恵子が後に私の妻になる。

私の思い出(3)

2014-03-30 02:58:57 | 思い出
光通信回線の導入記を記します。

現役の1975年頃、ソニーの技術用大型コンピュータの管理をしていた。

この端末は、会社の建物(8階建て、当時1~4号館)に分散していた。
300bpsの電話回線では、反応が遅かった。

ワークステションなどの開発で、回線の高速化が必要だった。

私が上層部に提案をして、総額数億円の光回線の導入が採用された!
業者の選定や設備の場所など、主要ユーザーと相談をして、私が決めた。

当時、他のどこの社も、社内に高速通信を持っていなかった。
ソニーはいち早く導入し、数年後ソニーのワークステーションNEWSの発売につながった。

当時、発売されていたワークステーションは、アメリカのサン・マイクロシステムとソニーだけだった!

このワークステーションを管理する人を、スーパーユーザーという。
私は勿論、助手の23才の女性もスーパーユーザーだった。


実は、大型コンピュータを二人で、管理していたのである。

(注)ワークステーション。。。現在のパソコンのような端末が、インターネットを通じて、つながっている。その取り持ちをする親玉だ。

欧州旅行 私の思い出(2)

2014-03-27 03:53:56 | 思い出
'10.10に、欧州旅行をした思い出写真をお見せします。

ギリシャのメテオラ(岩の上の修道院)にて 楠 輝子七段と本田幸子七段
岩の上の修道院   オリンピックのスタート点にて


イタリアのベニスにて
クロアチアのドブロブニクにて(世界遺産)

私の思い出(1)

2014-03-25 04:54:20 | 思い出
高校時代の思い出を書きます。

高校は、奈良県橿原市の畝傍(うねび)高校で全校生1,300人を超すマンモス校だった。

3年生になって、私はほとんど学校に行かず、家で独習をした。
1組から9組まであり、(各45人)全欠者は全校で私だけだった様です。

高校には大学受験に関係のない必修科目が多数あり、これをやっていると現役で一流大学に入れない。

翌年現役で、京大3名、阪大2名(その中で私が1名、理学部物理学科)が通った。


或る日、担任の体育の先生が家に来て、
「頼むから学校に来て、まだ授業の残っている2年生の運動場での体育を見るだけでいい!」
「さもないと私が校長から叱られる」と。

「体育は出席点なので、卒業させられない!」と言われた。

「ああ、これが勝てば官軍!」と言う事だと思った。

期末試験だけ行き、学校の非受験科目の試験は何も勉強しないで受けた。
鉛筆を転がしアテモノで、それでも皆60点以上を取り、合格した。

「なんとかなるものですね!」

私の入社年に移籍した凄い人

2014-03-05 15:57:31 | 思い出
私がソニーに入社した年に、移籍をした凄い人がいた。

その人の名は、江崎玲於奈さん、そう!ノーベル賞学者である。

ソニーの前身、東通工(東京通信工業)の時代の昭和31年、実習生の鈴木隆氏(後に古川電工)の発見により、トンネルダイオードが研究された。

指導員の江崎さんが、詳しく研究し、理論づけをして学会発表をした。

私が入社した昭和35年に、江崎さんはIBMのワトソン研究所に移籍をした。

1,973年その功績により、ノーベル賞を受けた。


3日の神奈川新聞に、江崎さんの近況を発見した。

横浜薬科大学の学長である。

'12は間違えで、'14 が正しい。

速水智子さん(前頁の続き)

2014-02-19 05:47:49 | 思い出
速水智子さんについて
彼女は、凄い!

プラネットシステムという会社を作り、筑波地区で活躍した。

間もなく、茨城大学の教授になった。
5~6年筑波で活躍して、夫の転勤で岐阜に移った。

たちまち、岐阜大学の教授になったのである。

20数年、年賀状交換の続いている彼女は、唯一私を先生と呼んでくれる教授である。

(本当は、学校内で、同僚の先生をお互いに、先生と呼ぶ習慣だけなのである。)


インターネットで彼女を検索して、驚いた。

立派な有名人で、速水智子だけで、続々出てくる。

今年頂いた年賀状よりの写真を、お見せします。


筑波の思い出

2014-02-19 05:17:49 | 思い出
筑波の思い出
私は、55才の第一定年の時に、土浦の専門学校に派遣になった。

茨城県土浦市のはずれに、筑波研究学園専門学校というソニー系列の学校がある。

私は、そこに1年半、講師の講師として派遣になった。
(もちろん、授業も担当する訳だが)
すなわち、主に先生にパソコン技術を教える訳である。

ソニーから4名が派遣されていた。校長の若山さん、理事の川手さん、講師で同僚の藤本さん(TV専門)と私である。

月~木は、ホテル住まい、金土日は、常磐線の特急利用で神奈川県の綾瀬市に帰る。
それでも片道、3時間半である。

楽しみは、夜にあった。
毎晩、学校が16時に終わると、藤本さんと二人で土浦の飲み屋を歩いた。

市内にあるほとんどの飲み屋、約20軒を網羅した。
私は、そんなに呑み助ではない。
まあ、ビールをコップ一二杯で直ぐに真っ赤になる。

それでも、ノミニケーションが好きで行く。

何故、こんなことが出来たか?
もう時効だから打ち明けると、なんと、短距離出張扱いで、旅費、宿泊費、日当まで給料と別に付いたのである。

今でいう、おいしい話だった。

ここで、知り合った人がいる。
飛び切りの美人で、頭のいい人だ!

その人の名は、速水智子(さとこ)さん!
専門学校の先生で、且つ私の生徒だった! (次に、続く)

45年ぶりの大雪 私の思い出

2014-02-10 02:19:21 | 思い出
45年ぶりの大雪 

2月8日(土)、関東地方は45年ぶりの大雪に見舞われた。


45年前の私の思い出
当時、私はスキーに凝っていた。
関東のスキー場は、大体ほとんど回った。
苗場、湯沢、石打、蔵王、川場など。
一番は、志賀高原のジャイアントスキー場だ。

ゴンドラで一挙に、山頂に登ると最初は上級用の急斜面だ。
最初は知らずに行って、なんとか下りてきた。

そのうちに、スキーのだいご味は、「転ばないこと」にあると悟った。

上から下まで、約10キロのコースを一回も転ばないで下りてくる!
これが一つの目標になった。
スタイルはどうでもよい。
格好よく、ウエーデルンをしても転んでは何にもならない。
場所によっては、ボーゲンで下りても確実に転ばないのが良い。
(ウエーデルンを出来ない負け惜しみだが)

ここ数年、夏に志賀高原を訪れて驚いた!
ゴンドラが廃止されていた。
これだと、リフトを5~6回乗り継いで山頂にいくしかない。
スキー人口が減って、以前より不便になった。

夏に撮った勢ぞろいした除雪車の写真をご披露します。
この車の番号が変わっている!
車種番号、900とか000なのである。