私が、40歳ぐらいの時に、本社の技術教育センターに居ました。
突然の移動で、ソニー稲沢の人事部長だった桑子正春が、本社の人事部長に、抜擢された。
現役当時、講師として稲沢に行った事もある。
彼は、私の接待役として、下にも置かない取り扱いだった。
所が、本社に於いて、彼は、私の顔も見ないで、子会社のCDIに、出行を命じた。
40台で、子会社へ!何という事だ。
私は、ある日、吉田さんのアポを貰い、現状を訴えた。
以前に徹夜二人で、ユニバック(技術計算専門の)の生き残りのレポートを書いた事があった。
コンピュタ課長でどうですかね!と言われ、そんな破天荒な人事が叶うなら、本望ですと答えた。
一時、IBMに社内のコンピュータを統一すると、決定された。
これは、技術的な観点より、政治的な観点が重きをなした。
後に、私のレポートで、トップは、理解をし、技術計算専門の大型コンピュータ(ユニバック1106)が導入される。
このコンピュータのエピソードも多々ある。
それは、扨て置いて、とにかく、社内中が驚く人事が行われた。
まだ、桑子部長が、健在中に、この人事が行われた。
場末の子会社から、当時、泣く子も黙るトップ研究所に移動が、出来た。
私が、移動してから、間もなく、トップの耳に入ったらしく、桑子は、左遷された。
これが、私の人生を変える程の恩を受けた経緯で、それ以降、吉田さんの恩は、忘れていない。
突然の移動で、ソニー稲沢の人事部長だった桑子正春が、本社の人事部長に、抜擢された。
現役当時、講師として稲沢に行った事もある。
彼は、私の接待役として、下にも置かない取り扱いだった。
所が、本社に於いて、彼は、私の顔も見ないで、子会社のCDIに、出行を命じた。
40台で、子会社へ!何という事だ。
私は、ある日、吉田さんのアポを貰い、現状を訴えた。
以前に徹夜二人で、ユニバック(技術計算専門の)の生き残りのレポートを書いた事があった。
コンピュタ課長でどうですかね!と言われ、そんな破天荒な人事が叶うなら、本望ですと答えた。
一時、IBMに社内のコンピュータを統一すると、決定された。
これは、技術的な観点より、政治的な観点が重きをなした。
後に、私のレポートで、トップは、理解をし、技術計算専門の大型コンピュータ(ユニバック1106)が導入される。
このコンピュータのエピソードも多々ある。
それは、扨て置いて、とにかく、社内中が驚く人事が行われた。
まだ、桑子部長が、健在中に、この人事が行われた。
場末の子会社から、当時、泣く子も黙るトップ研究所に移動が、出来た。
私が、移動してから、間もなく、トップの耳に入ったらしく、桑子は、左遷された。
これが、私の人生を変える程の恩を受けた経緯で、それ以降、吉田さんの恩は、忘れていない。