Crónica de los mudos

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それらしいもの

2024-07-25 | 天満放浪記
 朝の6時はほとんど人がいないこの場所も今日は人でごった返す。参加の場所によって行列の時間が異なるため、私たちはこれから仲間内と1時に集合して滝川公園に3時、その後、この境内に入るのが4時半ごろ、奥の神輿と出発するのは実質5時であるから一日中炎天下にいるわけではない。要所で町の人たちから水はもらえるから行列のあいだは水筒すら持たないが、尋常ではない汗が出るため、気付けばトイレに行くことがほとんどない。すべて汗腺から水分が飛んでいるということなのだろう。
 高島幸次『大阪天満宮と天神祭』(創元社)によると、この祭は太古の様式がほぼそのまま継承されている本来伝統というより、変革を繰り返しつつも古来の伝統「のようにみえる」疑似伝統をその特色とするという。だから途切れない。そのまま続けようとすると担い手不足や時代の変化に抗しきれずにいつかは祭そのものをたたむことになりかねないが、そうならずにいるのは、時代に合わせてマイナーチェンジを繰り返しつつもなにか「それらしく」やってきたから。船渡行も当初は西区方面へ向かっていたという。そういえば昔の絵などを見ると天神橋から淀屋橋方面にかけての水上が賑わっていたようだ。ところが大阪の地下街を分かりにくくしたあいつ、つまり地盤沈下のせいでいくつかの橋がくぐれなくなった。いまでも天満橋や銀橋や源八橋は下から手が届きそうなほどである。というわけで北ルートに変更になり、このおかげで現在の桜ノ宮やこちら側でいうと帝国ホテル近辺がもっとも祭気分を味わえるスポットになり、花火もこの周囲から上がるようになった。
 私のように親兄弟の血縁があるわけでもないのに、ある種の地縁だけで新規参加しても、数年経てばなぜか講の一員みたいな顔をできたりするのは、この祭のもっているそういう一種のゆとりというか、周辺部分の健全な意味でのいかがわしさにあるのだろう。
 よく分からないが、それらしいもの。
 生身の人間が縁と打算で動かしているのでしぶとい。
 誰かが頭と欲望で考えた計画を実行に移そうとしてなかなかうまくいっていないように見えるあの島のイベントとはまるで好対照と言えましょうか。
 今年は地下足袋がわりとペラペラ。
 ゴム底が薄く、このままだと破れる(その前にアスファルトで溶ける?)可能性があるのでソールを仕込んで、ユニクロで買ってもらった指付き靴下に和装用の靴下を重ねて、これで破れたら途中テープで補修する。
 南森町の和服屋さんによれば、パンデミック下の日本中で祭祀が停止したことと、あとディープな昔ながらのゴム製品工場が環境の観点から様々な制約を受けるようになったこと、素材の価格上昇なとが原因で地下足袋製造が縮小しているのだという。
 しぶとく続くものがあるいっぽうでいろいろなものが縮小し、廃業し、雲散してゆくのは当然のことだろう。私は職場の大学そのものが一度廃業し、いまは長期的に外国語教育そのものが縮小してゆくであろう、少なくとも現場にいま以上の人間が求められることはなくなるであろう、その過渡期に居合わせていると思う。生きているうちに大学から語学そのものが無くなるのを見ることはないと思うが、まあ、もうなにを見ても、驚いたり嘆いたりはしない。
 人間が言葉の習得作業を AI に託すようになっても、きっとこの祭は何もなかったかのように続いていると思うので。

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