goo blog サービス終了のお知らせ 

Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

ガルシア・マルケス『百年の孤独』15

2025-01-06 | 北中米・カリブ
 やることが山積しているときに限ってフリーズするこのコンピュータ、どうにかならんのでしょうか。だいたい動かなくなるときは勝手になにかを調べたり勝手になにかを更新しようとしていて、いまはこっちが大変であんたの仕事はやめたんでよろしく、というその厚かましいサボりぶりに「おまえはウィンドウズっていって、複数の作業を同時にするのが仕事やろが、つぶすぞ、ぼけ」と機械に向かって毒づき、ああ、切れるジイサンってこういうことなのね、と自己嫌悪に。ほんと、私はワード(エクセルも要らない)とネットさえ動けばほかはなにも要らないので、余計なものを一切はぶいた初期型とか売ってくれたらすぐ買いますけど。
 さて15章。
 バナナ会社の虐殺事件が起きる章である。
 予告編はメメの子どもから。あれ? 子どもなんかできてたの?と訝しむも、そう、例の予告編なので(映像的には本当に予告編ですよね)そのうち明かされる。娘の私生児という醜聞を恐れたフェルナンダが「河に浮かんでいるのを拾った」とうそをついたことから、その出自が知られないままなんとなくこの赤ん坊、つまりのちのアウレリアーノ・バビロニアはブエンディーア家に引き取られる。この子の出自はウルスラにも知らされない。<ウルスラは彼の出自を知らぬまま死ぬことになる(15ー1)>。またもやあの構文 había de morir が繰り返されているが、この構文はこの章の虐殺の場面でも再三現れる。ここから先にこういうことがある、という上で述べた予告的機能を果たす、この小説のエンジンのような文体だ。
 そうかー、ウルスラもさすがに死ぬよな~と読者も思うわけだが、そりゃ死にますわ、旦那の初代ホセ・アルカディオもとっくに死に、息子の大佐も明らかに老衰で死んでいる、どうしてウルスラだけが生きてるんだと思うわけですが、まあ、そいう不可思議なことがただ事実として差し出されるマジックリアリスティックな小説なので深くは考えない。
 それにしてもメメの末路はひどすぎる。
 フェミニストでなくてもげんなりだ。母が昔通った修道院に幽閉され、マウリシオ・バビロニアのそばにいた蝶たちに見守られつつ、一言も口を利かず、廃人同様になってしまう。<彼女はまだマウリシオ・バビロニアと、彼の油の匂い、蝶に囲まれた姿を思い続けていて、その後の生涯も毎日のように、それからはるか先の秋の夜明けに、違う名前となって、相変わらず一言も口を利かぬまま、クラクフの陰気な病院で亡くなるまで、彼のことを思い続けることになる。(15-7)>なんて、その後の一生がまとまれれて。
 メメってこの小説の女たちのなかでもいちばん悲惨な人生を送ったことになるわけだ。十代で初恋だったとはいえ、相手から無理やり引き離されたうえに、子どもまで産んじゃったとしても、その男のことを一生思い続けて死ぬ女なんて果たして世の中に存在するだろうか? 思い続けてもせいぜい半年程度じゃなかろうか。と普通なら思うわけですが、そこはマジックリアリスティックな小説なので小説内事実として受け止めるしかない。それにしてもなぜ晩年はポーランドなんかに? 名前が変わったってどういうこと? という謎はあと5章のあいだに明かされるかも。
 そして後半はバナナ農園虐殺の話になっていく。
 ここに思いもかけぬ形でかかわるのが「死にとりつかれた無能な男」ホセ・アルカディオ・セグンド。バナナ労働者の労働組合にかかわるようになった彼は<公共の秩序に対する国際的謀略の手先(15-8)>とみなされるようになる。国際的の internacional はスペイン語では、というよりロシア革命後の20世紀においては英語でも日本語でも共産主義を指す。ラテンアメリカは20世紀東西冷戦の具体的戦場となった地域であることは言うまでもない。反体制側についてヤヤコシイことをし出した曾孫を見てウルスラがまたもや<世界が一周したみたいだ(15-9)>と嘆くのももやむなしか。
 ただ、この小説に描かれているバナナ農園をめぐるエピソードは、言うまでもなくユナイテッド・フルーツ・カンパニーによる中米カリブ諸国の経済支配と密接に関係している。ホセ・アルカディオ・セグンドは会社が給与の代わりに食糧クーポンを労働者に渡すことにしたのは、アメリカからくる船が空になることを嫌った会社がそこに食糧を載せたかったからという真相を暴いて当局に拘束されるのだが、私の知る限りユナイテッド・フルーツ・カンパニーはもっと洗練された事業を展開していて、行きの船を客船に改造してカリブ・クルーズという観光資源を開発していた。この小説に登場するジャック・ブラウンという人物には、現実世界のマイナー・キース、グアテマラの作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの小説『緑の法王』のモデルや、会社中興の祖で、ロシア出身のユダヤ人、バナナ・キングと呼ばれたサミュエル・ザムライのような怪人が投影されているとみてまず間違いない。
 そして戒厳令がマコンドに敷かれ、事態は緊迫し、そして事件が起きる。
 この事件も1928年に起きたバナナ・マサクルが元ネタであることは言うまでもないが、ホセ・アルカディオ・セグンドがこの事件の現場に居合わせ生還したにもかかわらず、誰も彼の言うことを信じてくれなかった、というエピソードもまた現実にコロンビアで起きたことをトレースしている。
 そしてここでもあの構文が。
 スト労働者が集まった停車場で、セグンドがひとりの少年を肩に担いでやる。<何年も後になって、その少年は誰にも信じてもらえぬまま語り続けることになる。(15-18)>そして発砲が始まって大変なことになるが<何年も後になって、近所の連中から頭のおかしい老人と思われ続けるのもおかまいなしに、その少年はまだ語り続けることになる。(15ー26)>もはやこの小説の韻といってもいいくらい反復されるこの構文、読んでいてだんだん気持ちよくすらなってきますね。
 虐殺現場に居合わせたことを誰からも信じてもらえず、つくづく闘いに嫌気がさしたセグンドは、やがてあの工作部屋に残されたメルキアデスの羊皮紙にはまっていく。
コメント    この記事についてブログを書く
« ガルシア・マルケス『百年の... | トップ | アリア・トラブッコ・セラン... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。