ピラール・テルネラの息子は生後二週間で祖父母の家に連れてこられた。ウルスラは、自分の血を引く子どもがふらふら漂流するという考えに耐えきれなかった夫の頑固さにまたもや屈してしぶしぶ認めたが、その子には本当の出自を伏せておくという条件をつけた。子どもはホセ・アルカディオという名を授かったが、混乱を避けるため単にアルカディオと呼ばれるようになった。その当時、村はあまりにも賑わい、家はあまりにも忙しく、子どもたちの世話は二の次になった。それは、何年も前に部族を悩ませていた伝染性の不眠病を逃れて弟とマコンドに来ていたビシタシオンというワユー人の女に託されることになった。ふたりともとても従順で気が利いたので、ウルスラは彼らを引き取って家事を手伝わせていたのだ。こうしてアルカディオとアマランタはカスティーリャ語よりも先にワユー語を話すようになり、ウルスラの気付かぬうちにトカゲのスープを飲んだりクモの卵を食べることを覚えてしまった。ウルスラが小さな動物の形をした飴を売るという実入りのいい商売で忙しすぎたこともある。マコンドは一変していた。ウルスラとやってきた人たちが沼地と比べたときの村の好条件や恵まれた立地のことを広めた結果、かつての狭い村は店や手工芸品工場のある活気ある町に急変し、恒常的な交易のための街道が一本できて、そこからスリッパ履きのイヤリングをつけた最初のアラブ人たちがやってきてガラスのネックレスとコンゴウインコを取引した。(3-1)
3章もいろいろなことが起きているが、家を去った長男ホセ・アルカディオと娼婦的存在のピラール・テルネラのあいだにできた子がブエンディーア家に引き取られ、アマランタ(は長女なのでアルカディオにとっては叔母)といっしょに育てられることになる。年齢のずれもいつかチェックせねばならないだろう。アルカディオとアマランタは甥と叔母ということになるが、ほぼ同世代の子どもである。こういうことがしょっちゅうあれば、そもそものホセ・アルカディオ・ブエンディーアとウルスラの近親婚だって珍しいこととは言えないかもしれない。文豪バルガス・ジョサだって叔母と結婚しているし。さて、そんな二人の子は、忙しくしていたウルスラに放っておかれて、ビシタシオンという先住民の女に任されることになる。
このビシタシオンはスペイン語では guajira なので、コロンビアの現在のラ・グラヒラ県に住んでいるインディオ、いまの言葉ではワユー人が適当かもしれない。この章でマコンドでも猛威をふるう不眠病は、もともとこのワユーの姉弟のいた村で流行っていたという設定になっている。2章にあるようにウルスラの先祖も元いたリオアチャを捨てて内陸の先住民の暮らす家に住み着いた。ラテンアメリカにおけるいわゆる都市共同体の外部にはこうした先住民が必ずいる。500年前のコンタクトとジェノサイドの時代からいまにいたるまで、彼らはずっとこうして白人たちのコミュニティと微妙な距離感を取りながら生きている。そしてときには彼らの言語を白人の子どもたちにも教えるのだ。ホセ・マリア・アルゲーダスが幼少期に家政婦からケチュア語を習ったように。
ウルスラが連れ帰った遠い町の人たちの口伝で存在が知られたマコンドにはロマ以外の人たちも来るようになり、街は急に交易でにぎわうようになる。最初に来た「アラブ人」というのは、おそらくレバノン系の人たちを指すのだろう。ラテンアメリカではアラブ人と呼ばれたりトルコ人と呼ばれたりする彼らの大半はレバノン・シリア系の離散民で、各地で様々なビジネスを展開している。カルロス・ゴーンの先祖もまたマコンドを訪れたということになる。
ビジネスで忙しくなって(有害な)空想癖を忘れたホセ・アルカディオは時計を作って、これがアーモンドの木と並んでマコンドのランドマークになる。いっぽう父の趣味に熱中する悪い癖を受け継いだのが次男アウレリアーノ。アウレリアーノはこの作品のかなりの部分を占める重要人物で、彼にはかなりの言葉が費やされているように見える。とりあえずこの「ひとつ熱中することができるとそこに居つく」癖がこの男の最も際立った特徴と言えるだろう。
その彼が来ることを予言した女。
レベーカ。
この小説について書かれた論文でターゲットにされた人物のうち、女性では、たぶんトップにくるのが彼女。
まだ十歳そこそこで、おそらくアマランタとアルカディオと同年齢という設定である。彼女はマナウレからやってきた。マナウレもやはりグアヒラ県にあることを見ると、どうやらガルシア・マルケスのなかではこのカリブ沿岸の地方が先住民インディオのエリアということになっているようだ。
両親の遺骨を納めたトランクをもち、あんたらの親戚だという書状を携えてブエンディーア夫妻のもとを訪れたレベーカは、ホセ・アルカディオの友人だという亡きニカノール・ウジョアとレベーカ・モンティエールの子だというが、当のブエンディーア夫妻にはまるで身に覚えのない話である。
つまりレベーカはメキシコのテレノベラでおなじみの「名家に突然あらわれた出身が謎の美少女」というキャラクターで、メキシコ人やコロンビア人がこのくだりを読めばついうっかり「この子はやがてブエンディーア家に災難をもたらすのだな」と想像するに違いない。
だがレベーカにおけるそうした血の謎は血縁や因縁のそれではなく、もっと面白いもので、彼女には野生の刻印が押されていたのだ。<(松本注:ブエンディーア夫妻は)何日間も彼女に食事をとらせることができなかった。どうして餓死しないか誰にも分からなかったが、ようやくある日、忍び足で家じゅうを絶えず歩き回ってなんにでも気付くワユーの姉弟が、レベーカが中庭の湿った土と壁から爪ではがした漆喰だけを食べるのを好むことを発見した。(3-7)>
土を食べるのですぐに思い出すのはバルガス・ジョサ『緑の家』のあのラ・セルバティカの幼いころである。こちらは先住民共同体からむりやりシスターたちの学校に連れてこられて、そういう「症状」が出たが、レベーカはブエンディーア家に好き好んできているのにそういうことをしている。これを矯正されて、ようやく彼女はブエンディーア家の一員になった。
これで人物は
ホセ・アルカディオ:祖父
ウルスラ:祖母
ホセ・アルカディオ:長男、ロマと家出
アウレリアーノ:次男
アマランタ:長女
アルカディオ:孫
レベーカ:もらい子
ビシタシオン姉弟:使用人
ということになって、もう3世代いることに気付く。さらにレベーカという外部者やビシタシオンのような先住民まで加わり、この段階ですでにラテンアメリカのテレノベラですよね、人物構成が。
さてそのレベーカが持ち込んだのが例の不眠病。
このエピソードについても多くの論文が書かれているみたいだが、これ、50代のオッサンにしてみたら普通の日常ですかね。
眠れなくなる、というより眠らなくなる。
かくいう私も、最近では、12時に寝て、早いときには4時半に目を覚まして何かしている。さすがにこれだと足りないので昼食後に少し寝るが、それも椅子で2~30分で大丈夫だ。人にもよるが、加齢とともに睡眠欲は減退する。いっぽう記憶力も減退する。減退するというよりは、日々の繰り返しの見分けがつかなくなってきて、いまこうして6月の初夏の夕暮れに窓の外を見ているのが去年と同じで、その前の年も同じで、ひょっとすると俺はずっと同じ夢を目覚めながら見ているのだろうか?などと真剣に考えたりする。仕事の予定を手帳に書くと、その書いたことを忘れたり、手帳そのものをどこかに忘れるため、予定ができるたびにそれをポストイットに書きつけて(6月1日12時ズーム会議、とか)壁にべたべた貼っていくが、そのうちにそのポストイットに書かれた情報の意味自体が分からなくなる。眠るということがなくなって人々から記憶が消えていき、白昼夢の連続に放り込まれる……要するに、マコンドは、急速な加齢を体験しているのである。
違うか、知らんけど。
それはさておき3-12ではまた grande esfuerzo という表現が。これについて調べたい人はとりあえずガルシア・マルケスがサンプルの宝庫のようです。
で、結局この不眠病のドツボからマコンドを救うのが、あの死んだはずのメルキアデス。彼が死の世界から戻ってきた理由が面白い。<彼は実際に死の世界にいたが、孤独に耐えられずに戻ってきたのだった(3-17)>。孤独とは縁がなさそうなロマのメルキアデスもまたあの世で孤独を患い、バディのホセ・アルカディオのもとへ戻ってきたというのは、まあ、その出来事の性質から言えばいかにも「マジックリアリズム印」といえるかもしれないが、孤独の対義がバディかよ、と私は読みながら思わず笑っていたのであります。
バディってマチスモの典型的症例なので。
メルキアデスの銀板写真カメラのエピソードがあって、次の3-18には「人間フランシスコ」なる年老いた trotamundos が現れる。trotamundos はまさに世界(mundo)をうろうろする(trotar)する人のこと。たまたまだがここでもムンドは複数形、ガルシア・マルケスのなかの「世界」は目に見える範囲までなので、複数あって当然なのである。ちなみにこの放浪しながらニュースを触れ回る男は、カリブにいまなお存在するトロバドールのイメージだろう。そのトロバドールのフランシスコがもっともらしく、ウォルター・ローリーにもらったとかいうアコーデオンを演奏するのだが、時代的にあり得ないだろう、という話をこのあいだ教室でした。この辺の「時代設定わざと間違えてます感」も含めてマジックリアリズム印というのであれば、まあ、たしかに誰にでも模倣できるスタイルではある。
この3章の重要なポイントはあと二つ。
ひとつはアウレリアーノの性体験で、ここには「純真なエレンディラとその非道な祖母に関する信じがたくも悲しき物語」が埋め込まれている。短編ネタはいくつかこの小説にあり、すでに整理されていると思うけれど、いちおうチェックはしておきたい。そのエレンディラのような少女を前にしたアウレリアーノは<少女が努力をしてもますます無関心でおそろしく孤独になっている自分を感じた(3-20)>とある。どういうことなのだろう。結局なにもしないままその非道な祖母がやっている移動娼館を立ち去ったアウレリアーノは<少女を愛しまもってやるという抑えがたい欲求を感じていた。夜が明けて、不眠と熱で焦燥した彼は、少女と結婚をして祖母の暴虐から救い出し、彼女が七十人の男たちに与えていた満足を自分が毎晩もらうという静かな決意をした(3-20)>。
ところが一座はすでに立ち去った後。
失意のアウレリアーノは、ちぇっ、もう女なんて要らないよ、ということになる。アウレリアーノは兄と同じく情欲が満たされる前の孤独に引き寄せられているけれど、彼にはもうひとつ奇妙な正義感があって、これがそういう倫理とは無縁の兄との違いになっている。愛にせよ正義にせよ、なにごともほどほどにね、と私たちは言い聞かされて常識的な大人に育つわけだが、そういう常識とは無縁のこの兄弟は性欲や正義感のような「満たされる前がいちばん楽しい」状況(これをこの小説では孤独と呼んでいる)に居ついてしまう。
やがて、ウルスラがアマランタとレベーカが「そろそろ結婚できそうな」ことに気付いたという下りがあるが、おそらくこれは、ラテンアメリカにおけるキンセアニョス、すなわち15の春が近づいてきたということだろう。高校生にならんとするころにもう結婚相手の心配をされることをかつては幸福と呼んだのかもしれないが、先進諸国ではもうそれも過去の話。しかしここはマコンド、ラテンアメリカのテレノベラを煮詰めたような環境だ。ウルスラは娘たちのために家の増築を決意する。
そんなときにやってきたのがアポリネール・モスコテ。
こいつはマコンドに現れた初めての国家権力である。
3章のもうひとつの大きなポイントだ。
やがて息子のアウレリアーノが逆らい続けることになる国家の手先がこのドン・アポリネール・マスコテ、いきなり家のペンキにいちゃもんをつけたりして、町の創始者ホセ・アルカディオに手ひどくしばかれて一度は退散するも、軍隊を連れて戻ってきて、結局はホセ・アルカディオと和解して(このじいさんは誰とでも結局和解するのである)マコンドに居つく。
そしてそこを訪れたアウレリアーノの前に現れたのがレメディオス。アウレリアーノがいわゆる少女性愛の傾向があったことがなんとなくほのめかされて、この章は終わっている。このモチーフ、つまり大人の男が少女に真剣に恋をするという話はイサベル・アジェンデの『エバ・ルーナのお話』のひとつでもトレースされているが、それはまたいつか振り返ることにしよう。