Crónica de los mudos

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グアダルーペ・ネテル『冬が明けて』

2019-08-27 | 北中米・カリブ

 ときたま学外から図書館司書を通じて研究室にある本の取り寄せ注文が舞い込んでくる。もちろん匿名であり、こちらとしてはどういう状況にある人かまったくわからないので、注文のあった翌朝には必ず図書館カウンターに届けることにしている。そのとき、いったいどこの誰のもとへと向かうのかを考えて、少し楽しい。ラテンアメリカ文学を読みたいなどという学生がパンダ以上に珍しくなった昨今、なんとなく自分の存在意義が認められたような気がする、要するに単なる自己満足に過ぎないのだろうけれど。

 下の小説、自分にしてはめずらしく辛口の評価を与えているが、英訳はまあまあ好調。ちなみに米国ではクラウディオのような男がミソジニック・エディターとして否定的評価を受ける。マッチョなスペイン語圏では「トラウマを抱えた厄介な男」かもしれないが、それは男目線でもある。冷静に見れば単なるミソジニック野郎。ネテルは少しずつリーダブルに変化していることが個人的には気になるところ。読みにくいことが文学的な質を担保するわけではないのだが、読みにくさも含めて好きになる相手というのもいるわけで。

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(2014.12.5. 初出)

クラウディオはキューバ人、ニューヨーク在住の出版社勤務。セシリアはメキシコ人、パリ在住の学生。クラウディオにはハバナでの記憶と最初の恋人を失った痛みが、そしてルースとの込み入った関係がある。セシリアには過去の困難な思春期が、そして墓めぐりの趣味を共有する病弱な青年トムとの関係がある。クラウディオがパリを訪れたとき二人の運命は交錯する。クラウディオとセシリアがパリとニューヨークでの日常を細かくつづっていく間に、二人の神経症、恋愛感情、嫌悪感、恐怖に導かれた追想などが垣間見え、二人がどのようにして知り合ったか、いかにして愛し合うようになり、いかにして憎み合うようになったかが判明する。

 『冬が明けて』はシャープで、ときとしてユーモラスで、ときとして心震わす文体により恋愛関係のメカニズムをさまざまな側面から明らかにする。ニック・ドレイク、マイルズ・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」、キース・ジャレット、フィリップ・グラス「めぐりあう時間たち」などの音楽を背景にクラウディオとセシリアの恋愛譚が各自の人生における重要な過去にまでおよぶより大きな物語を形作っていく。彼らはともに出会いと喪失、探求と不安、焦燥と懊悩などで構成された複雑な地図上を歩き、状況に導かれるがまま、他者と、そして自分自身と深く関係する鍵を得ようとして、そして可能であれば自らの幸福のオアシスを作り上げようとするあまり、やがて精神衰弱の深みにはまってゆくことになる。すでにおなじみとなった独自の小説世界、マージナルな人々と追放とアブノーマルを軸とする世界をさらに深めることで、グアダルーペ・ネテルは挑戦的かつ極めて密度の濃い小説を書き上げた。本作をもって彼女が現代ラテンアメリカ小説に欠かせない声であることが証明される。

 という裏表紙の案内。

 本当にそうか読んでみた。

 とうとうラテンアメリカにもこういう小説が出てきたか…と深く納得させてくれるという意味では、興味深い小説である。

 章立ては単純で、2人の主人公、クラウディオとセシリアによる一人称の語りが交互に進む。前半は互いの現状、そしてその過去が描かれる。セシリアはなぜパリへ来るにいたったのか、また、やさしい父親との良好な関係と、父を捨てて愛人の下へ走った母親への嫌悪感などがたんたんとつづられる。いっぽうのクラウディオは、子持ちのブルジョワ夫人ルースとのぴりぴりした関係、そしてキューバでの少年時代の性の目覚めが描かれる。

 作者が心情的に寄り添っているように見えるセシリアは、少々ファザコン気味のインテリで、メキシコ時代、母親が去った後にひとりで墓で遊ぶのが習慣になったことから、パリでも墓のそばにあるアパートに暮らすようになる。ヨーロッパになじめず、ほとんど引きこもりの状態になっていたところ、壁一枚を隔てた隣室に住んでいるイタリア人トムと知り合い、次第に打ち解ける。

 トムは循環器系に重病を抱えていて、やや気難しい性格である。彼らのあいだに肉体関係はなく、いっしょにパリの墓を訪ねて歩き回ったりする程度の間柄であり、おそらくセシリアはトムのなかに父の姿を見出している。

 いっぽうのクラウディオは、ルースがヒステリーをよく起こすので、しんどいなあ、と思い続けている。というのも、クラウディオは極度の潔癖症で、部屋もきちんと片付いていて、仕事(編集者)も万事手抜かりなく進めるので知られるタイプなのに、そこにときたまヒステリーを起こしたルースが電話をかけてくるからだ。クラウディオはこの年上のルース、たぶん50代だと思うが、このルースと体の相性がいい。クラウディオはセックスにも独自の見解があるようで、そこにはあるトラウマがあることが明らかにされていく。

 クラウディオのトラウマは2つ。

 ひとつは少年時代のはじめての性体験のこと。レイナルド・アレナス自伝を先に読んでいれば、な~んだ、って感じですけど、これってその後に男性をマッチョ化させる契機になるのかもしれません。

 クラウディオのもうひとつのトラウマは小説の後半まで明かされない。これはキューバ時代の恋人に関することで、最後にここがわかったときには、ちょっと、むむむ…な感じがしましたが、日本の少し若い人向けの恋愛小説などにはよくあるパタンか。涙が止まりませんでした…みたいな感じで、ケータイを介して売れたりする小説。

 この二人が知り合うのは、クラウディオが知り合いのキューバ人女性のつてを頼りにパリへ来たとき。同じく女性と知り合いだったセシリアはクラウディオになんとなくひかれ、同じころにトムが不可解な置手紙を残してイタリアへ帰ってしまったこともあって、ニューヨークへ帰ったクラウディオからラブレターメールが来て心を動かされる。クラウディオが好きな詩人であるセサル・バジェホの墓探しをいっしょにしたなんて思い出もあったりして。

 セシリアはパリ大学で博士論文を書いているのだが、それは「パリで客死したラテンアメリカ作家たち」という趣旨で、コルタサルやバジェホなどが対象になっている。なお作者ネテルはコルタサルのファンで、単行本も一冊書いているほど。

 結局セシリアはニューヨークへ。

 生身の恋愛に疎かったセシリアはクラウディオとはじめてことにおよび、彼のことが好きになってしまうのだが、ある日、ルースのことを知ってしまう。それで一気に醒めたセシリアは荷物をまとめてパリに帰り、事情を知ったキューバ人女性の友達もあきれて、もう二度と会うなと言う。

 いっぽうセシリアに捨てられ、またルースに自殺騒ぎを起こされたクラウディオは、極度の精神不安定になり、場所はニューヨークなので分析医にかかるようになる。ここでの分析医との対話からクラウディオのトラウマが明らかにされる。

 クラウディオはやがてあることにのめりこんでいく。

 ここから先は筋を言うのも慎みたいが、あることというのは、ある運動のこと。やはりネテルは村上春樹を読んで育った世代なのである。トムが入院し、クラウディオがその「あること」のクライマックスで迎える大団円についてはもはや書くまい。

 ネテルには期待しているのだが、ちょっとこの受賞作は個人的には、やりすぎ、の感が否めない。これはこれでありだし、おそらく日本の読者は世界でもっともこの種の話をありがたがって読むとは思えども、もう少し毒を残しておいてもよかったのかな。

 そういう受容の仕方しかできない読み手も不幸だと思いますが。なにしろ彼女の小説のなかでは、この作品が真っ先に英訳されている。世界文学のマーケットで売れ筋であることに間違いはないのだろう。

 彼女については次回作に期待したい。

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