
どちらが読みやすいかといえば、やはり英語だろうか。
彼の場合は英語のほうが母語に近いと明言しており、ということは、私はより分かりにくいほうのスペイン語を読んだことになる。
本書は3部構成。
第1部はオーストリアのユダヤ系物理学者ポール・エーレンフェストの晩年にまつわるもので、彼の自死に至るまでの経緯を前作『恐るべき緑』によく似た圧縮形の文体で描く。エーレンフェストは1920年代の物理学を席巻した量子力学の台頭をそれとは少し距離を置いて傍観する立場にあったようだ。物理学の進化に大いに貢献したというほどのレベルの業績はあげるに至っていないらしいが、教育者としてよく知られ、同業者や後進たちの論文を片っ端から精読してそれを検証することで知られていたという。
自分が自分が、というよりも、面倒見のいい学者。
文理を問わずに存在するのだが、やはり目立つのは派手な業績を残した人で、こういう学者たちは教え子や後輩たちの記憶(という「彼らが死ぬまで」という期限付きの媒体)には残っても学問体系のなかに名前となって残るのは難しい。文系はむしろこういう人のほうが多いのが伝統で、そういう無駄なことはやめてとにかく皆さん学問体系のなかに残る業績をあげることだけを目指して下さいという大きなアナウンスを聞き続けてもう20年以上になるだろうか、それで私たちの学問世界が特によくなったようにも思えないのは、とりあえず今は置いておこう。
第2部は生前のエーレンフェストがハイゼンベルクと並んで理解不能な学者のリストに並べたジョン・フォン・ノイマン、ハンガリー時代のヤーノシュ、あだ名ヤーンチの数奇な生涯を彼と関係をもった人々による証言で再構成するという、ラテンアメリカ文学を読んでいればすぐにロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち』を思いつく構成になっている。彼がプリンストン高等研究所時代につくった初期型コンピューターの名称が本書の題名の由来だ。
私たちは、いま私自身が見つめているラップトップやスマホもふくめた日常の人工的計算処理機、それをゆるやかに人工知能と呼ぶとすれば、このAIの起源がどこにあるのかなど知らぬまま生きている。暮らしに必要な電気が地震頻発国の原子力発電所からくることも知らずに電気を使うな、とか言いたいのではなく、テクノロジーと私たちの生活との関係は概してそのようなものであり、私たちは起源を知らずに、もしくはそれを忘れて今現在の利便性のみを享受するという選択をほぼ一択的状況下で日々迫られ、それが選択であるということも忘れた。
この小説はそれを思い出そうとする。
ちょうど日本でも公開が迫るクリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』は原爆の生みの親のその後の葛藤と赤狩りに巻き込まれる苦悩を描いているというが、言うまでもなく原爆は彼一人が粘土で一からつくりあげた個性的工芸品ではなく複数の科学者が軍の後ろ盾の下、共同作業で生み出したマシンである。ロス・アラモスに隔離されることもなく軍のオブザーバーとして時たま訪れるだけだった(とリチャード・ファインマンに回想される)ノイマンはオッペンハイマーのような逡巡や悔悟の念などとは無縁の人間で、彼はちょうど緑色の霧、すなわち塩素ガスを生み出して第一次大戦の戦場を地獄に変えたフリッツ・ハーバーが、緑は緑でも毒の緑ではなく別の緑の心配をしていたのと同じように、おそらくロス・アラモスで浴びた放射能が原因で癌を患うようになった晩年、原爆の後継である水爆開発に使用した自らのコンピューターの行く末を案じていた。それはセル・オートマトンと呼ばれる自己増殖型の次世代コンピューター、要するに現在のAIのことだったようだ。
そして第3部、ここではノイマンが予見だけして死んでいったAIが現実となって人間に牙をむく。それはロンドン近郊に住んでいたひとりの少年が開発したチェスプログラムで、やがてこの「ディープ・マインド」はチェスの世界で人間を上回った後、世界で最も人間的で最も数学的に難解とされるあるゲームの世界最強棋士をターゲットに選ぶ。
と聞けば、この第3部が2016年のあの事件を題材にしているのだと気づいた人は多いと思うが、ここがこの小説の白眉なので、これ以上はこれから読む人の興を削がないよう伏せておく。
科学とテクノロジーが人間の身の丈を上回って自己増殖的に暴走しだす未来を予見した人間は多い。科学者より妄想がたくましい文学者はもちろんのこと、そのような暴走をいかにも許しそうなナチという権力に対峙したエーレンフェストもまた違う角度から科学の未来を悲観した。いっぽうで悲観とか悔悟とかいう人間の気まぐれとは一切無縁の場所からテクノロジーの可能性を100どころか200、300と引き出したときに何が起きるかを「計算できる」天才がノイマンだった。そしてその「結果」と向き合ったもうひとりの人物。
最後の彼は私たち自身でもある。
あなたは審判の日をどう生き残るだろう。
いわゆるシンギュラリティとどう向き合うだろう。
翻訳のようなことをしている私にはもう答は出ている。
マシンと張り合うことなどはもう忘れて、アドロゲのホテルで誰も読まないスペイン語詩の翻訳と注釈を続けるのみなのである。
Benjamín Labatut, Maniac. 2023, Anagrams.