Crónica de los mudos

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』5

2024-06-19 | 北中米・カリブ
 この小説は人物名が似通い過ぎてこんがらがるとか、似たようなエピソードが反復されるので分かりにくいとか、そういう「なんとなくの感想」を聞くことが多いが、ゆっくり読めばなぜそういう感想が出てくるのかがよくわかってきて、一つ目のほうは「たしかに似たような名前の人物は出てくるがゆっくり読めばその違いは誰にでもわかる」し、二つ目のほうは「反復されているのは語り口であってエピソードそのものではない」という説明で事足りる。私たちがいま実践しているスロー・リーディング、要は(空疎な理屈をこねずに)原書をゆっくり味わいましょうという由緒正しい(というよりたぶん時代錯誤の)大学文学リーディングなのだが、これでやっても全19章で19週、5か月で読めてしまうのだから、今月末に文庫が出ることでアクセスが容易になった日本語読者の皆さんもぜひこの「ある章をゆっくりと読み込む」のと「読んだ日に次の章には進まない」を実践してもらえれば、と思います。
 そんな暇ないか、知らんけど。
 さて第5章(といっても繰り返しますが番号はついてない)は婚姻の場面から。マコンドは教会がない町なので、花嫁の父モスコテさんがまだ小学生くらいで生理を迎えたばかりのレメディオスをブエンディーア家に連れてくるという、わが国でおなじみの(昔はね)嫁入り婚が執り行われるのである。それを待ち受けるアウレリアーノは例の<わずか数年後に銃殺部隊の前で身につけることになるのと同じ(5-1)>ブーツなどをはいてがちがちに緊張しております。
 いっぽう同じ日程で結婚するはずだったレベーカとピエトロ・クレスピだが、何者かの策略でピエトロが町の外におびき出されて延期になる。これを仕組んだのが本当にアマランタなのかが気になるところで、文章からは真偽のほどは見えてこないのだが、レメディオスが毒を飲んで死んでしまう(これからね)ことにアマランタが罪の意識を抱くというあたりから読者はなんとなく、このアマランタが<好きな男を奪われた恨み>に居ついている、恨みという名の孤独に取りつかれていることが分かってくるようになっている。
 この章における魔術的リアリズムの発露(っていちおうチェックしてますが、本当にマジックリアリズムとか言っちゃっていいのか少し疑問に思い始めてきた)はニカノール神父の例の空中浮揚。ホットチョコを飲んでえいやって言うと少し浮かぶ。これをネタにお金を集めた神父は町に templo を建てようとする。授業では寺院と訳していたが教会です。
 これが建つのが十年後、そこで最初にレベーカが結婚式をあげたらいい、とアマランタが痛烈な提案をして(要は十年おまえは結婚できないと言い放つ)二人の断絶は決定的になる。
 そしてレメディオスの死。
 そしてこの小学生みたいな子が実はマコンドでもっともよくできた「大人」だったことが分かるという、ここが実に面白い設定。マコンドというのは中庸と和を貫く大人がいないのだが、彼女はその中で例外だった。そして例外の子は若くして死んでしまうのである。この夭逝したレメディオスを銃殺される前、最後に思い出すことになるのがアルカディオなのだが、この話は次の章のこと。
 さて後半は長男ホセ・アルカディオの帰還と、やもめになったアウレリアーノがリベラルな人たちと戦争に出ていくまでのエピソードが中心になる。ホセ・アルカディオの帰還とレベーカとの関係のところはあまりにも有名なので割愛するが(ホセ・アルカディオの長旅の最中にカルペンティエールの『光の世紀』の登場人物に出会ったりするところも含めて)、レベーカの初めての性体験がやはり事細かに書かれていている段落(5-18)は注目に値する。
 レベーカは野生と抑制の危ういバランスのなかに生きる女。彼女には抑制を外す機会を与えてくれる相手がどうしても必要で、それはピエトロ・クレスピのようななよなよした奴ではなかったのである。しかしこのレベーカの「タガを外す装置」がこの先、誤って発動することになるのだが、それは次の次の章あたりの話になる。
 なによりも面白いのは、娘をなくした父親モスコテと、新妻をなくした若いやもめアウレリアーノが関係を深め、議論するなかで政治の話のなるところ。こんな文章を書けるのがガルシア・マルケスのすごいところだろう。<アウレリアーノはその当時、保守とリベラルの違いについてとても曖昧な知見しかもっていなかったので、義父は彼に型通りの説明をしてやった。リベラルっていうのはな、と彼は言った。フリーメイソンのことだ。たちの悪い連中で、司祭の首に縄をかけたり、非宗教婚や離婚をすすめたり、私生児に正規の子と同じ権利を認めたり、国を連邦制のもとでバラバラにして最高権威から権力を簒奪するような奴らだ。いっぽう保守というのは神から直接権力を授かって、公共の治安と家族の倫理を安定させようとする人々のことだ。キリスト信仰と権威主義を擁護し、国を小さな自治体に解体するようなことは決して許しはしない人々だ。(5-32)>
 これは南米どころかスペイン語圏全域あるある。
 リベラル、言い換えると左翼はキリスト教保守の様々な権威を破壊するから危険という考え方で、この考え方がスペインの内戦を引き起こし、チリのクーデターを引き起こし、保守をカトリック教会に読み替えればメキシコ革命後の様々な動乱を引き起こし、キューバで1959年に起きた出来事に対して多くのラテンアメリカの「由緒正しい考え方をする人々」の眉をひそめさせてきたのである。
 とりわけジェンダー平等の観点から少しずつ変わり始めているこの政治上の対立はラテンアメリカ全域に埋め込まれている現役のマシンで、いまも立派に駆動中である。でもなかなかそれを短くまとめられるものではない。
 さてこんな話をしながら、じゃあ俺はリベラルのような過激派ではないかな、と思い始めていたアウレリアーノだが、モスコテが選挙で平然と票の差し替えをする(これまた南米あるある)のを目の当たりにし、そういうことをするなら俺もリベラルになるかも、とか言っているうちに本当に内乱が起きる。
 マコンドに軍隊がやってきて、いろいろあって、アウレリアーノは21人の同志を引き連れて戦へ。ゲバラのなれの果てみたいなアリリオ・ノゲーラなる偽医者も現れ、ラテンアメリカの歴史的文脈への手掛かりが随所にちりばめられていることに改めて気付かされる章だった。
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