Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
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境界線上の詩

2020-07-15 | 
 ようやくあと半月で終わりそうなオンライン授業、勤務先ではメディア授業と呼んでいますが、なんだか朝から晩まで気づいたら添削をしている感じ、進研ゼミの赤ペン先生ってこんな感じなんでしょうかね。ゼミで読んでいたのはグロリア・アンサルドゥーアの『ボーダランズ』、エッセイ部分を明日で読み終え、まとめをしたうえで後半の詩のパートを分けて翻訳してもらう。2週間で20編の詩の添削。自分で自分の首を絞めるというのはまさにこのこと。
 改めて読んでみると非常に面白い本だった。
 基本は英語だが、ところどころに混じるスペイン語を正確に読めないと分からないことが多すぎるし、メキシコの歴史や文化にある程度通暁していないと理解にしくい箇所もあり、またオクタビオ・パス『孤独の迷宮』などあらかじめ読んでいる必要のあるテクストがいくつもあって、英語畑のアメリカ文学の世界の人が素で読んでどこまで理解できるのか聞いてみたいところ。題名があらわす通り、国境の両側から異なる読みができるという性格をもつテクストと言えるかも。ちなみに私たちは上のスペイン語版も参照しながら読んできた。
 アンサルドゥーアについてはレズビアンという側面が安易に強調されるきらいがあるけれど、本書をよく読めばむしろ、コアトリクエ神話からマリンチェやグアダルーペの聖母などを通じて自然につながっていく「西欧近代が覆い隠した地母神ルーツ」への傾倒が顕著で、そこが同じチカーノを論じても劣等感のみを見出し、同じマリンチェを見ても裏切り者表象しか見えてなかったオジサン(=歳を食った男の子)作家パスとの違いといえようか。詩に対する向き合い方も大文字文学のそれではなく、やはりトーテムやクランデリスモといった先住民文化の影響が色濃い。意図的に様々な文化的ルーツをテクストに混在させている。それが英語とスペイン語を自在に掛け合わせた詩のなかでどう表れているかをあと2週間で検証、優秀な皆さんにレポートとしてまとめていただく予定にしています。


2020年7月、パンデミックの夏、天満のディーバで

そんなことしてる場合では

2020-06-26 | 
 愛とはそんなもの、みなさん、間違いない、あらゆる詩人たちの母だった私が言うのだから。愛とはそんなもの、隠語とはそんなもの、ソネットとはそんなもの、午前五時の空とはそんなもの。いっぽう友情とはそんなものじゃない。友情さえあれば人は孤独になることはない。
 そして私はレオン・フェリペとドン・ペドロ・ガルフィアスの友だったが、いちばん若い詩人たち、愛の孤独と隠語の孤独のなかで生きていたあの子たちの友でもあった。
 そのひとりがアルトゥーロ・ベラーノ君。
 私は彼と知り合い、友になり、彼は私のお気に入りの詩人というか偏愛していた詩人だったけれど、彼はメキシコ人ではなく、いわゆる「若い詩人」とか「若々しい詩」とかいう名称が用いられていたのは、原則的に、パチェーコや、グアナフアトの某有名ギリシア人や、内閣府で働いていた例の太っちょや――こいつの代わりにメキシコ政府からどこぞの大使だの領事だのに任命してもらうという魂胆で――いまとなってはネルーダ的黙示録の三騎士だったか四騎士だったか五騎士だったかも思い出せない農村詩人たちに成り代わってやろうと頑張っていたメキシコの若者たちなのであって、アルトゥーロ・ベラーノはみんなのなかでいちばん若く、少なくともしばらくのあいだはいちばん若かったけれど、メキシコ人ではなかったから、結局は「若い詩人」だか「若々しい詩」という名称、つまりパチェーコや、グアナフアトだかアグアスカリエンテスだかイラプアトだかにいるらしいギリシア人や、時の経過で脂肪だらけのおデブさんに成り果てた(というのは詩人にはよくあること)あの太っちょや、日に日に増殖して(行政と文学の)官僚主義にますます順応していく(というより「くつろぎの場を見出す」、「ねじで自分を取り付ける」、「時のはじめから根付く」というのかしら)農村詩人たちの像が草を食む絨毯というか肥沃な大地を引っ剥がすことを目標にしていた、あの形はないのに生きた塊、には属していなかったわけ。そして、その若い詩人たちというか若い世代が目指していたのは、大地を揺るがし、そのときが来れば、ただひとり本当の意味で執筆を行なっているように見え、役人っぽくは見えないパチェーコを除く、それらの像たちを引きずり倒すことだった。でも心の底ではパチェーコのことも敵と思っていた。心の底では誰のことも必然的に敵とみなしていた。だから私が、でもホセ・エミリオは素敵な人よ、とっても優しくてチャーミングで、そのうえ本物の紳士なんだから、と言うと、メキシコの若い詩人たち(とアルトゥーロ、彼はみんなとは違うけれど)は私を見つめて、このおかしな女はなにを言ってやがるんだ、文哲学部四階女子トイレの地獄から着のみ着のままで飛び出してきたこの化け物はいったいなにを言ってやがるんだ、みたいな顔になって、ふつうそんな顔でにらまれたら女はなにも言い返せなくなるものだけど、もちろん私は別、私はあの子たちみんなの母親なのであって、怖気づいたりはしなかった。
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大学院で読んでいる上の本、ここで揶揄されているメキシコの詩人について、実名で現れるホセ・エミリオ・パチェーコ以外のモデルは誰かという話になり、暫定的に「ギリシア人」をオメロ・アリドゥヒスに、「太っちょ」をオクタビオ・パスにしておいた。農村詩人はそれ以外の公に認められている人たち、大学の先生を兼ねている自称詩人とか、ラテンアメリカにうようよいる偽文化人のことであろうか。オンライン授業で講読をすると年に4冊くらいの翻訳と4冊くらいの解説本が書けそうな気がしてきた。イサベル・アジェンデ『無限計画』も40ページまで訳してしまって。どう考えてもそんなことしてる場合じゃないんだけど。
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Roberto Bolaño, Amuleto. 1999, Anagrama, 55-56.



黒いひし形

2020-06-05 | 
 そしてそのとき私はトイレに戻った、それがなんとも妙なことにトイレどころか元の個室に、つまり前に座ったのと同じ個室に戻り、そしてその便座に再び腰かけて、要するにまたもやスカートを「まくりあげて」パンツをずりおろし、といっても、もよおしていたというわけじゃない(まさにこういう時こそお腹のなかのものが出たがるというけれど、私はそうはならなかった) 、ペドロ・ガルフィアスの本を開いて、読書をしたくはなかったけれど読み始めた、最初はゆっくり、一語一語、一行一行、でもすぐにペースが速くなって、最後は猛スピードになり、詩の一行一行がものすごいスピードで飛び去って行くのでそこになにかを読み取ることすらできなくなって、言葉が隣の言葉にくっついちゃって、そうね、自由落下式の読書っていうのかしら、いっぽうでペドロ・ガルフィアスの詩はそんな読み方にほとんど耐え切れなくなってゆき(どんな読み方にも耐え得る詩人や詩もあるけれど、大多数はダメ)、まさにその瞬間ふと廊下から音が聞こえた、ブーツの音? 軍靴の音? でも、チェー、と私は自分に言い聞かせた、それはちと出来過ぎよ、そうじゃない? 軍靴の音ですって! でも、チェー、と私は自分に言い聞かせた、いまにも冷たい空気が入ってきてベレー帽が上から襲ってくる、するとそのとき誰かの声が「了解しました軍曹」とか、なにか違うことかもしれないけれど、そんなことを言うのが聞こえてきて、その五秒後に誰かが、たぶんさっきの声の主と同じ奴がトイレのドアを開けてなかに入ってきた。
 そして、なんとも哀れなことに、風が造花のあいまを下ったり流れたりするときにならす音、風と水の花が咲く音が聞こえて、ルノワールのバレリーナのように、まるで子どもを産むかのように(実際のところ、どういうわけか、なにかが産まれそうな、自分が産み出されそうな気がした)両足を(そっと)床から上げて、そのとき履いていた黄色のらくちんなモカシンシューズにひっかかったパンツがこのか細いくるぶしをまさに足かせにし、兵士が個室をひとつずつチェックするのを待つあいだ、そのときがきたら、この哀れなウルグアイ出身の、でもメキシコをなによりも愛する詩人がドアを開けさせず、メキシコ国立「自治」 大学に残された「自治」の最後の砦を死守すべく身も心もしゃきっとさせているあいだ、 要するに待っていたあいだ、ある特別な静けさがうまれたのだ、それは音楽辞典にも哲学辞典にも記載されていない、まるで時間が千々に砕けて、単なる言葉ではなく身振りや行為につながれもしない純粋な時となって、同時に四方へと流れてゆくかのような、そんな静けさがうまれて、そしてそのとき自分の姿が見えて、さらに、うっとりと鏡を見つめる兵士の姿が、つまり黒いひし形にはめ込まれるか湖に沈みこんでいる二人の人間の姿が見えて、ああなんと、心の底からぞっとしたのだ、なぜならつかのま自分が数学の法則によって守られていることがわかったから、自分が詩の法則とは相反する酷薄な大宇宙の法則によって守られていること、そして、兵士がこれから鏡をうっとりと見つめること、そして、個室という特異点にいて同じくうっとりとなった私に彼の息が聞こえてくる、彼の姿が脳裏に思い浮かぶ、その瞬間から私たち二人の特異点が死という残忍なコインの裏表になることがわかったからだ。
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Roberto Bolaño, Amuleto. 1999, Anagrama, pp.31-34.


Rabia, rabia contra el morirse de la luz.

2020-06-03 | 
No entres con calma en esa buena noche,
la vejez debe arder y delirar al acostarse el día;
rabia, rabia contra el morirse de la luz.

Aunque los sabios, en su fin, saben que lo oscuro es lo exacto,
porque sus palabras no han desatado relámpago alguno
ellos no entran con calma en esa buena noche.

Los hombres buenos, cercana la última ola, lloran convencidos
de que sus frágiles hazañas podrían haber brillado en verdes bahías;
rabian, rabian contra la muerte de la luz.

Los ingobernables, que cazaron y cantaron el vuelo del sol
se percatan demasiado tarde, de que sufrieron a su modo,
y no entran con calma en esa buena noche.

Las personas graves, cerca del fin, que ven con cegador suspiro
que los ojos ciegos relampaguean como meteoros y están felices,
rabian, rabian contra el fin de la luz.

Y tú, padre mío, allá en la triste altura,
maldíceme, bendíceme, con fieras lágrimas, te suplico,
no entres con calma en esa buena noche
rabia, rabia contra el morirse de la luz.
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Dylan Thomas, Poesía completa. Traducción de Margarita Ardanaz Morán, 2002, Visor Libros, p.393.

グロリア・アンサルドゥーア「もうひとつのメキシコ」

2020-05-31 | 
風に袖がはためく
足が砂にめり込む
ここは地が海とが接する境
時と場を移せば激しい衝突になる場
地と海がたがいにやさしく
そっと重なりあう場所

国境の向こうにはメキシコ
波に洗われ荒れ果てた家並み
海からそびえる断崖
銀の波が泡を立てて
国境のフェンスに穴を穿つ

海が水の売人たちをけしかけて
ボーダー・フィールド・パークの鉄柵を
攻撃するのを見つめる

この血管を流れる黒い血には
イースターサンデーの復活だ

海の泣き声が 風の息吹が聞こえる
心臓が海に合わせて鼓動する
陽光にくすむ霧のなかで
カモメが飢えた鳴き声をあげ
海の酸っぱい香りが体にまとわりつく

フェンスの穴を抜けて
あちら側へと行く
海の塩辛い息で
139年も錆び続けた
ざらざらの鉄条網を握る
鉄色の空の下で
メキシコの子どもたちがサッカーボールを蹴り
それを追ってアメリカ側に入る

鉄のカーテンに手をあてる
有刺鉄線をぐるぐる巻いた金属フェンスが
ティファナとサンディエゴが出会う海から
波を打って山へ
平原へ
砂漠へと延びる
やがてこの《トルティーヤ・カーテン》はリオ・グランデに姿を変え
低地へと流れ込み
南テキサスのマジック・ヴァレーを流れて
メキシコ湾へと流れ込む

1950マイル(3100キロ)にわたって開いた傷が
民族を 文化を分断し
この体の頭からつま先までを貫き
この肉体に長い棒となって突き刺さり
わたしを割る わたしを割る
わたしを裂く  わたしを裂く
ここが我が家
この細くて長い
有刺鉄線の上がわたしの家

でも大地の肌に継ぎ目はない
海はフェンスで分断できない
は国境で立ち止まりはしない
白人の男にその傲慢さを
どう思っているか示そうと
イエマヤはフェンスを一息でなぎ倒した

この地はかつてメキシコだった
インディアンのものでもあったし
それはいまでも変わらず
これからも 変わることはない

わたしは一本の橋である
白人の国から背中を濡らした者へ架かる橋
過去はわたしをうしろへ引っ張り
現在はわたしを前へと押す
グアダルーペの聖母よ わたしを守りたまえ
こちら側にいるこのメキシコ人のことを
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Gloria Anzaldúa, Borderlands, La frontera, The New Mestiza. 1999(2d.ed.), Aunt Lute Books, pp.23-25, 青字はスペイン語から