北海道時代の30才になる前、
僕は、はじめて海外に出かけました。
その当時、
沢木耕太郎の「深夜特急」シリーズがすでに刊行されており、
大沢たかおのように「深夜特急で世界を歩くこと」は、僕の憧れになりました。
好景気の余韻が少しだけ残る、1ドル120円のときでした。
(ガソリンはレギュラーが100円を切る時代でしたね)
しかし、この当時の北海道の景気は急降下、
すでに季節雇用になっており、
「冬は自分で生きていってくれ!」時代でした。
お金はありませんでしたが、独身の身、
自分のプランで自由な時間が確保できたときでした。
「深夜特急」シリーズのほか「アジアンジャパニーズ」など
関連するバックパッカー関係の本を読み漁り、
もう気分は「大沢たかお」でした。
北海道銀行からナケナシの15万円を引きだし、
「よしっ!西遊記の三蔵法師みたいにいざ天竺へ!」と意気込み、
格安航空チケットのパキスタン航空(タイ往復4万円)、
リュックサックひとつでタイへ飛びました(残金あと11万円・・・)。
タイへ行ったのは、
「タイの首都バンコク(ドン・ムアン空港)からは
格安で世界のどこへも行ける」と聞いたからで、
とくに「タイに行きたい」と思ったわけではありませんでした。
タイまではフィリピンにトランジットして14時間、
ドンムアン空港に着いたのは深夜2時くらいでした。
「おー!アジアンジャパニーズと同じ展開だ~!」などと
空港でウロウロ、露頭に迷ったのを憶えています。
それからの代表的な軌跡を以下に挙げる。
①タイ
「バンコク―ドンムアン空港」 →(乗り合いタクシー)→ 「カオサン通り」
→(夜行バスと連絡船)→ 「サムイ島」 → 「バンコク―カオサン通り」
→「バンコク―ドンムアン空港(エア・インディア)」
→ (インドーカルカッタへ)
当時のタイの物価は、1バーツ=3円、500mlのコーラが8バーツ(バンコク)、
屋台のトムヤンクンが20バーツ、エアコン付個室ホテル一泊200バーツ程度。
(値段交渉可能でした)
格安飛行機チケットを購入する目的で行ったタイですが、ホント最高でした。
②インド
「カルカッタ―チャンドラ・ボース空港」 →(徒歩)→ 「サダルストリート」
→(深夜列車)(TATAバス) → 「ブッダガヤ」
→(深夜列車)→ 「バラナシ(ベレナス)」(ガンジス川)
→(TATAバス)→ 「スノウリ(インド-ネパール国境)」(陸路で国境超え)
→(徒歩)(TATAバス)→ (ネパール―ポカラへ)
当時のインドの物価は、1ルピー=3円、
ドミトリー(大部屋雑魚寝ホテル)一泊50ルピー程度、
(インドはなんでも交渉により物価を決めるので特定な物価定規がありません)
このころはASIA物価にも慣れ、庶民と同レベルを意識してお金を節約し、
長期滞在を楽しもうとおもっていました。
しかし、戦後の日本と同等な環境と喧騒のインドに疲弊し、
デリーまで行く予定であったが隣国へ逃避・・・
③ネパール
「ポカラ」 →(TATAバス)→ 「カトマンズ」
→(徒歩)→ 「カトマンズ(トリブバン空港)タイ航空」
→ (タイ―バンコクへ)
当時のネパールの物価は、1ネパールルピー=3円、
疲れを癒すため、贅沢に個室ホテルに宿泊、一泊250ネパールルピー程度。
(ネパールもインド同様、ある程度、物価を交渉できましたが安かったですね)
ポカラにてしばらく静養・滞在、やさしい安らぎの国でした。
④再びタイへ
「魅惑・自由の国-タイ」を再認識、その居心地の良さからしばらく滞在
→ 「バンコク―カオサン通り」
→ (日本帰国ー北海道へ)
いま想い出しても、非常にエキサイティングな旅でした。
ここまでの旅行日程は全部で1ヶ月半余り、
途中、飛行機(空港使用)も2箇所ありましたが、
使用したお金はぜんぶで13万円程度でした。
帰国後、
友人から「なんか(痩せて)いい男になったなー!」
といわれたことを思い出します(^^ゞ
その後、
海外がものすごく近い存在となったため、
調子に乗って、海外への憧れは増幅。
「よーし!今度は中国から筆談でアジアを歩くぜ~!」
「測量で青年海外協力隊へ参加し、グローバルなヤツになってやるぜ~!」
など、
海外を視野にした目標を次々に立てましたが・・・
それぞれ現実的な諸事情により次々に頓挫・・・
それっきり、
10年のパスポート有効期限も切れ
現在に至る・・・
次回は、
育児が落ち着いたら、欧米人夫婦のように、
愛する嫁さんとナップサック背負って世界を歩くことにします。
だけど、
エキサイティング過ぎるところや不衛生なところは無理だろうな~(悲)
それぞれの国の旅行記を描きだすと長くなるので、また追々・・・・