朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

母からの電話①

2022-02-10 10:40:10 | 毒親のこと

昨日の夕方、母から電話がかかってきました。

私が結婚して地元を離れて十数年。

どういう訳なのか、私の宿命なのか

私が日常生活にささやかな幸せを感じていると母から電話がかかってきます。

はじめの頃は電話に出ていました。

電話の内容は今までの恨み辛みです。

「私は不幸だった」

「私は恵まれていなかった」

「だけど私は人の為に尽くしてきた」

「なのに報われない人生だった」

あぁ…なんだかこうしてブログに書くことも馬鹿馬鹿しくなります。

この人はなんでこんなことしか喋れないんだろう。

「年をとってからの立振る舞いは人生の成績表」

私がいつも心に留めている言葉ですが、母は本当に残念な立振る舞いをしています。

母の恨みつらみの負のオーラが電話線を通ってこちらまで届きそうでした。

実際、母からの電話の後は肩に憑き物でもついたのかと思うほど疲れました。

でも母の恨み節を聞いてあげることが、私が唯一できる“親孝行”なのかな…と言い聞かせ我慢していました。

でも我慢の限界。このままでは私の心まで飲み込まれてしまう。

私がいま一番大切にしなければいけない人たちを不幸にしてしまう。

私が会社員だったころ、私は母に「中途半端に接してこないで」とよく言われました。

母がいう「中途半端」が未だによくわからないし、母から言われた「中途半端」がその後の私の人付き合いにも影響しています。

「私の言動は中途半端なのかな?」

「本当はちょっとしんどくなってきてるけど、もう少し頑張らなきゃだめなのかな?」

幼稚園でのママ友付き合い、PTAの役員のこと…加減がわからなかったし、自信がなかった。人の目が気になって、他人からの評価が怖かった。

幼稚園のママ友付き合いとPTAで余裕がなくなって、子育てでも色々あって、ここ数年は母からの電話にも出ませんでした。

よほどのことなら留守電にメッセージが入るだろうし、もしもの時は母がお世話になっている福祉から電話がかかってくるだろうし。

実際、一昨年母が引っ越すことになり福祉の方から私の元に電話がかかってきました。

私は「新しい住所は教えていただかなくて結構です。私は母に何の援助もできませんが、母が最期を迎えた時は身の回りの片付けにいこうと思っています。母がお世話になります。よろしくお願いします。」と伝えました。

 

話は戻って昨日の夕方。

私のスマホに母から電話がかかってきました。

先々週から家族全員コロナに罹患して、少しずつ“日常”を取り戻してきたところです。

私は咳の症状がまだ続いているため、処方された咳止めを今週いっぱい服用します。

職場から「薬の服用が終わってから職場復帰です」と言われたので今週いっぱい仕事を休まなければいけません。

今回のコロナ罹患で3週間仕事を休みました。生活面に影響がでちゃうな…切り詰めた生活をしなくちゃいけないな…と少し不安を感じていました。

それでも、子ども達が学校に登校できること。持病持ちの私が重症化しなかったこと。大黒柱の夫が高熱を出さずにすんだこと。この程度ですんでよかったと思っています。

そんな時に母からの電話。

2回かかってきても留守電には何もメッセージが残されていません。

それからしばらくして別室にいた夫が家電の子機を持ってわたしの所にやってきました。

「お母さんから…どうする?」(夫は私と母との関係を全て知っています)

「いま出かけてるって言おうか?」と言ってくれましたが、私は母からの電話に出ることにしました。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

「もののけ姫」の中で祟り神の呪いがアシタカの腕に巻きつくように

母からの恨み節の電話は耳から呪いが侵入して私の心を蝕みます。

私は母が望むような親子関係は築けないし、母が「中途半端」というならばもう私は母との付き合いを「ゼロ」にするしかない。

それを「親不孝」と思っても構わない。

なのにどうして私を放っておいてくれないの。もう親離れ子離れしたいよ。


凹んで凹んでまた立ち直る

2022-01-17 23:14:26 | 毒親のこと

某SNSで「毒親育ちは見返りを求める」という見出しの投稿を見ました。

毒親育ちは完璧主義で承認欲求が強いそうです。

自分で処理しきれないほどの要求にも無理して応え、他人の失敗を許すことができないそうです。

「私がこんなに頑張って、尽くしてあげてるのに!!」

毒親育ちはそんな感情になるそうです。

そのSNSには最後にこう指南がありました。

「あなたがやった仕事に対して相手がどう思うか、どう受け止めるかは相手の自由です。見返りを求めてはいけません。」

「キャパオーバーになるほどの仕事を引き受けないこと。やると決めた仕事は最後までやり遂げる覚悟をもって。」

 

この投稿を読んでしばらく落ち込みました。

息子の幼稚園時代、仲が良かったママ友とトラブルがありました。結果…今はその人と連絡を絶っています。

当時私はPTAの会長、彼女(Pちゃん)は卒対の責任者でした。

Pちゃんは卒園アルバム用に撮っていた写真を紛失しました。写真の保管方法のルールも守っていませんでした。

その事を誰にも告げず、引っ越しのため退園しました。その引っ越しも突然決まったことではありませんでした。役員・係を決める前から分かっていた引っ越しです。途中で幼稚園を退園することが分かっているのに卒対の責任者を引き受けました。一緒に卒対の仕事を引き受けたお母さん達にも引っ越しのことは言っていませんでした。

引っ越しの件はプライベートな事なので退園ギリギリまで言うか言わないか…そんなのどうでもいいです。

写真を紛失したことが許せないんじゃない。人は誰でもミスをします。失くし物もするし、手を滑らせて物も壊す。

写真を紛失したことを誰にも告げなかったこと。報告も相談もなかった。これが今でも私の心の中でくすぶっています。

そこに諸々の小さなモヤモヤがくっついて…結果今でも私はPちゃんを許すことができません。

 

そんな私はこのSNSの投稿と同じ「毒親育ちは見返りを求める」なのだろうか…

写真を紛失したことが許せないのは「私がこんなに頑張って、尽くしてあげてるのに!!」と見返りを求めているの?

私は彼女を許さなければいけないの?

私は彼女を受け入れなければいけないの?

許せないのは、受け入れられないのは私が「毒親育ち」だから?

心が狭いの?完璧主義なの?私がいけないの?

会長職も、卒対の責任者も各々が自分でやると決めた仕事。くじ引きや押し付けられた訳じゃない。

蓋を開けてみれば「え?なんでこんなにゴタゴタ揉めるの?」「娘の幼稚園時代とは全然違うじゃん」と挫けて、心折れて、自分を犠牲にしてしまって…息子のADHDに気付くのが遅くなってしまいました。

そして、なによりこのSNSを見て一番心がかき乱されたのが

人間関係で失敗して仕事を辞めることが多かった母の口癖がまさに「私がこんなに頑張って、尽くしてあげてるのに!」だったこと。

母のようになりたくないのに

母のようになりたくないのに

結局私も母と同じなの?

 

落ち込む日が数日続いたある日。

娘と同じ幼稚園→同じ小学校に通っているお母さんからLINEがきました。

内容は小学校のPTA役員についての質問でした。

私は一昨年PTAの役員を経験していて、同じ役職を今年度はPちゃんが務めています。

PTAについて最新の情報を聞きたかったらPちゃんに尋ねるのが一番なのに、そのお母さんは私に尋ねてきました。

なんでだろうな?と思いつつ、話せる範囲の情報を伝えました。コロナ禍のPTA活動なので例年とは少し違います。

娘と同じ幼稚園→同じ小学校にあがったお母さん達のLINEグループがあります。もちろん役員について質問したお母さんもグループLINEに入っています。

役員について質問したお母さんは、Pちゃんが写真を紛失したことを知らないし、私とPちゃんの間に溝が出来ていることも知りません。

グループLINEのなかではPちゃんは相変わらず明るく、みんなを持ち上げてくれて、場の雰囲気を盛り上げてくれます。みんなもPちゃんに対しての良い印象を持っていると思います。

私は夫に「〇〇さんから役員について質問されたよ。Pちゃんに聞けば一番早いのに…」と言いました。

すると夫が「(そのお母さんは)誰に聞けば一番いいのか分かっているんだよ。」と。

ふと、小学校6年生の時にもらった成績表を思い出しました。

担任の先生が一言書く欄に「誰も気付かなかった片付け物をきれいにしてくれました。さり気ない気配りが出来るその姿を見ている人が必ずいます。」と書いてくれました。当時も今も“はて?なんのことだろう???”と思い出せませんが

勉強も出来なかったし、運動も音楽もダメダメでした。

今も昔も自分に自信がありません。

波風立てず、人畜無害であることしかとりえがありません。

でも、夫の一言と小学校の成績表を思い出して、少し心が軽くなりました。

心が軽くなってくると「毒親育ちは見返りを求める」についての考え方も変わってきます。

「力不足かもしれませんが会長職をお引き受けします。子ども達のために精一杯頑張りますので、みなさんご協力おねがいします。」

こう言って私は会長職を引き受けた。これって私は他の保護者に見返りを求めているの?

他の役員さんも自分で決めて引き受けてくれた。Pちゃんも卒対の責任者を自分で引き受けた。

自分で決めて引き受けた仕事をやり遂げず、写真を紛失したことを誰にも告げず立つ鳥跡を濁しまくって引っ越した。

紛失したことが許せないんじゃない。報告も相談もなく引っ越していったのが許せない。立つ鳥跡を濁しまくった後、残されたみんながどんなに困って悲しい思いをするか…子煩悩なPちゃんならわかるはず。

さらに数か月後、再びこの街に戻ってきたPちゃんは私に対して心無い言葉を投げつけた。

やっぱり私はPちゃんを許せない。だってたくさん傷ついたから。その傷は未だに癒えない。

でも全く癒えてないわけじゃない。LINEも整理した。だけど良くなってきた傷口がまた開く時だってある。

いつまでたっても許せない私がいたっていいじゃないか。

それを「心が狭い」とか「毒親育ちだから」とか一括りにしたければすればいい。

ど~~~~~~したって許せない事もあるんだよ

 

ブログをご覧いただきありがとうございます。

役員について質問をくれたお母さんからお礼のLINEをいただきました。

「丁寧に教えてくれてありがとう。私はまだ役員を引き受けていないのでそろそろかな…って思っているんだけど、コロナ禍のPTA活動がどうなのかわからなくて。」

ここ数年、「PTAのあり方」が全国で見直されています。

うちの子が通っている学校のPTAも今の時代にあったやり方を考えていきましょう…と会長さんが仰っていました。

しかし、このコロナ禍の影響で「例年はこうしていたPTA活動をこれからはこうしてみましょう」の「これから」がまだ試せていません。いつ例年通りに学校行事が再開されるのか、いつPTA活動が再開できるのか。

「〇〇さんはまだ役員やってないよね?いまのうちにやっちゃいなよ!!」ってはやし立てられるのは嫌なんだよね…

と言っていました。

PTAの役員決めの際の「〇〇さんはまだやってないよね?」の圧力…嫌ですよね。人のことは放っておいてよ


紅葉を見ると思い出す母との出来事。

2021-11-26 17:35:42 | 毒親のこと

11月も下旬になり、関東近郊は紅葉の見頃となりました。

コロナが少しずつ治まってきたのか「紅葉見物の観光客が増えてきました」などのニュースを見かけます。

東京から車や電車で数時間で行ける某観光地の様子をテレビでみて…胸がざわつき、嫌な思い出がよみがえります。

両親が離婚する少し前、母は毎度おなじみの“人間関係のこじらせ”で仕事を辞めました。

当時50代半ばの母。もうそう簡単に仕事先は見つかりません。

そして相変わらずパチンコ通いも続き、借金は増え、私と言い争いになれば父の家に。父と言い争いになれば私が住むアパートに。父と私の間を行ったり来たり…そんな生活をしていました。

そんな母がどこから聞きつけたのか(職安?)「某観光地にあるホテルに住み込みで働こうと思う。」と言い出しました。「山間の観光地にあるホテルだから、今度こそパチンコを辞めることができる!」と。

改心なのか、一念発起なのか。ずいぶん大きなことを考えたんだな…と思いました。この頃の私はとにかく母と話すことに疲れていて、“私がお金さえ払えば母はうるさく言ってこない。もうそれでいいじゃないか。”という考えでした。なので住み込みで働く!と言う母に対しても“好きにすれば”と思いました。

「面接を受ける前に一度そのホテルを見てみたい。連れて行ってよ。」と言うので車で数時間かけて行きました。

国道を通り、大きな街からもどんどん離れていき、山道を登り…そのホテルはありました。

近くにはお土産屋さんが数軒と資料館的な建物と飲食店があるだけ。コンビニもないような山間の静かな環境にあるホテルでした。もちろんパチンコ店もありません。一番近いパチンコ店に行くためには山を下って1時間以上かかりそうです。

母はいたくこの環境が気に入った様子で「ここで働けばもうパチンコにいかなくてすむ。やり直せる。」と言いました。

そして面接を受けた母。年齢と業務が未経験であったこと、それを理由に“仮契約”みたいな形で数週間働くことになりました。

母は従業員専用の寮に入ることになり、着替えや身の回りで使う荷物を持って再びホテルへ。

寮の管理人さんに挨拶をすませ、部屋に荷物を運び、母に「頑張ってね。必要なものがあったら送るから。」と言って別れました。一人で車を運転して山を下りる私。所々に観光地や日帰り入浴等の施設がありましたが寄り道をする気にはなれませんでした。母の好きにすればいい…と思いつつ、「なんでこんなことになったんだか…」どっと疲れました。

母がホテルで働くようになって数日後。母から電話がかかってきました。

綺麗な空気、綺麗な景色を見ながら清々しい気持ちで働いていると喜ぶ母。

私は素直に「よかったね。」と言いました。

ところがその次母が言った言葉に絶句します。

 

「本当に素晴らしい環境で働いているのよ!夫婦や親子でこのホテルで働いている人もいてね、あんたも一緒にこっちにきなさいよ。良いところよ~。」

 

母は本気で言っています。私は虫唾がはしるほど嫌悪感でいっぱいになりました。

進学、部活、習い事、友だち付き合い…何もかも批判され、否定され、貶されて

就職も「もっと大きな会社に就職しなさいよ」と言われ、せっかくいただいた内定を辞退しました。自力で短大に行く希望も潰されました。

当時私は社会人5年目くらいでした。正直自分には合わない職種の仕事でしたが、それでも必死に働いて、職場でも自分の居場所が出来てきて、母の借金を返しながら新しいことを学んだりささやかな“幸せ”をみつけようとしている頃でした。

それをいとも簡単に「こっちにきて一緒に働こうよ」?

子どものことをなんと思っているの?自分の持ち物だと思っているの?

私には“心”がないと思っているの?親の言うことにはなんでも従うと思っているの?

その時の電話で私は母に何と言ったか覚えていませんが、いまだにあの観光地をテレビ等でみると嫌な気持ちになります。

身勝手全開な電話がきてから数日後。

再び母から電話がありました。夜遅い時間でした。

「こんな時間にどうしたの?」と聞くと、「階段から転んで怪我をした。」と。

一瞬ヒュッと肝が冷えましたが、電話の向こうの母の声はそれほど弱っていませんでした。

「大丈夫なの?」と尋ねると、母が事の顛末を話してくれました。

仕事が終わって寮に帰宅後、街の小さな商店に買い物にいこうとして出かけた母。

季節は冬。外は小雨が降っていたそうです。

鉄製の外階段(屋根なし)をつっかけサンダルで降りた時、あしを滑らせて階段から転んだ。

“そんなの転ぶに決まっているじゃん…”私は心の中で大きくため息をつきました。

物音に気付いた同じ寮に住む人がホテルの近くの診療所に連れていってくれたそうですが、レントゲン等の設備がないため怪我の詳しい状態がわからないとのこと。

「だからさ、あんた明日私を迎えにきてよ。」

平日です。私にも仕事があります。

でも、ここで「私にも仕事があるんだけど」みたいな事を言ったら、電話が壊れるほど大声で喚き散らし、どのみち迎えに行く私に暴言を吐き、最悪の雰囲気のなか車を運転して山道を降りてこなければいけません。

翌朝私は仕事を休んで母を迎えに行きました。

母は包帯で腕を吊っていましたが、痛み止めが効いているのか顔色は悪くはありませんでした。

寮の管理人さん、ホテルの責任者さん、一緒に働いていた従業員の皆さんにお詫びをし、母を連れて帰りました。

帰りの車の中は母のワンマンショーです。「コーヒーがのみたい」「あのパン屋さんが気になる」「ちょっと道の駅に寄りたい」今日中に診察してもらえなくなるんじゃないかと不安になりました。

やっとの思いで自宅に帰ってきて病院に行きました。レントゲンを撮ってもらった結果“全治1~2か月”程度の怪我と診断されました。

母は自分でホテルに連絡を入れ、状況を説明していました。

「再びまた戻ってきます!」と言っていましたが…結局ホテル側から本契約を頂けませんでした。

仕方がありません。年齢も50代半ば、宿泊業で働いた経験なし。わざとじゃないとはいえ不注意で怪我をする(しかも職場の敷地内)。

当時は外国人観光客がまだ少ない頃です。宿泊業界は“買い手市場”だったのかもしれません。

もしあの時「あんたも一緒にこっちにきなさいよ。」という母の言葉に従ってあの山間のホテルで働くことになっていたら…ゾッとします。私の人生メチャクチャになっただろうな

 

ブログをご覧いただきありがとうございます!

日が昇る前にアパートを出発して急いで母を迎えに行った私。

そんな私に母は「化粧っ気もない顔でwww」と言い放ちました。

未だにあの街の紅葉情報とか見聞きすると気分が悪くなります

綺麗に色づく山はなにも悪くないし、母がお世話になったホテルも何も悪くありません。皆さん「お大事にね」と優しく声をかけてくださいました。

結婚してからまだ1度も訪れていないあの山間の街。

コロナが収束したら夫と子ども達と一緒に紅葉を見に行って、思い出の上書きをしたいです。


毒親は連鎖するのか。

2021-04-22 22:27:02 | 毒親のこと

私は母の事を「毒親」だと思っています。

母はギャンブル依存症で多額の借金を作りました。私はその借金を肩代わりしました。

そして母は私に「(親の)借金を返すのがあんたの宿命なの!」と言い放ちました。

でも私が母の事を「毒親」と思うことは他にもあります。

私が自分で考え、自分の力で道を切り開こうとする全ての事を母は「反対・否定・批判」してきました。

むしろ母のこのような部分が「毒親」だと思っています。

よく「毒親は連鎖する」と聞きます。

私は絶対に絶対にぜっっっっっったいに!!!!「母のようになりたくない」と思い、ブログ名も「母のようになりたくないのに」と…ちょっと重たいブログ名を付けました。戒めとして付けました。

しかし、時々“私の中の母の部分”が顔を出します。ものすごく自分に対して嫌悪感でいっぱいになります。髪の毛や爪のように切れるものなら切りたいし、かさぶたのように剥がせるものなら…“私の中の母の部分”を切り落としたい、削ぎ落したいです。血を入れ替えて変われるものなら…健康だった10代、20代の頃、献血を何度かしましたが…変われませんよね

ふと“母の母”である祖母は毒親だったのか…と考えました。

私のことをとても大事にしてくれた祖母です。

「たった一人しかいない娘(私)を困らせて…」といつも案じてくれた祖母です。

 

祖母は戦後まもなく女手一つで商売をしていました。(祖父は普通の会社員)田舎の町の小さな商店だったそうです。

日用雑貨や食料品を販売し、夏になるとかき氷、冬はそばを作って食堂みたいなこともしていたそうです。

仕入れも祖母が一人でやっていました。背負子を背負って電車に乗り、大きな町まで仕入れにいっていました。

母はよく言っていました「おばあちゃんがハイカラな生地を仕入れてきて、それで洋服を作ってくれるのが嬉しかった」

「夏になると店でかき氷を売るんだけど、シロップをかけ放題で食べた」「おばあちゃんが商売をしていたから(持ち物など)何不自由なく用意してもらった」

母にしてみれば祖母は「自慢の母」だったのかもしれません。

そんな子供時代をおくっていた母は高校を卒業後、東京に出てきて就職をします。

当初祖母は母の上京を大反対したそうです。

東京で仕事をしている時も祖母から頻繁に手紙や電話がきて母のことを案じていたと。

しかし、母は数年で実家に戻ります。そして地元の会社に就職、父と出会って「できちゃった結婚」をしました。

この話を聞いて私は母に尋ねました。「どうして東京にでたの?」

すると母はこう言います「私が実家にいたらおじさん(母の兄弟)が結婚できないじゃない。小姑がいる家にお嫁さんなんかきてくれないでしょ」

「兄弟のため、実家のため」

母はよくこの言葉を言いますが、正直信じられません。

「できちゃった結婚」をした母は祖父母に全てお金を出してもらって急遽結婚式を挙げました。

新生活に必要な家財道具も全て祖父母が用意しました。

私が生まれた時も上げ膳据え膳で祖母に世話をしてもらいました。

そして幼い私を祖母に預けて働いていました。(保育園のお迎えはいつも祖母でした)

夫婦喧嘩の絶えない両親だったので家の中がひっくり返るくらいの大喧嘩をして何度も、何度も、何度も…数えきれないほど祖父母に泣きついていました。

経済的にも支援してもらっていたと思います。

そんな祖母が「毒親」?

母は祖母に「依存」していたのかもしれません。

いつでも祖母が助けてくれる。祖母は一番私(母)を愛してくれている。

だから母はいつも祖母が私に何かしてくれると(お年玉や成人式の晴れ着など)「私(母)がいるからあんたはおばあちゃんによくしてもらえるのよ」と言っていました。

祖母も自分に「依存」していた娘(母)を見放すことができなかった…

そう考えると、ある意味祖母は母にとって「毒」だったのかもしれません。

毒は毒でも麻薬のような…快楽を与え、それなしでは生きていけない「毒」だったのかもしれません。

私の中にも流れている母のDNAと祖母のDNA。

「猛毒」にもなりたくないし「麻薬」にもなりたくない。

祖母には本当に感謝しています。「私は愛されている」と深く深く感じる事ができました。

しかし本当に「毒親は連鎖する」のならば、この負の連鎖を私が断ち切らねばなりません。

 

いつもブログをご覧いただきありがとうございます!

私が実家にいた頃、母の昔のアルバムを見たことがあります。

白黒やセピア色の写真でもわかるほど、写真の中の母は誰よりも「ハイカラ」な洋服を着ていました。

そしてちょっと気取ったような…ツンとすました表情をしていました。(母は目力が凄いんです

「うわー。自分のクラスにこんな子がいたら絶対に近づきたくないわぁ」と思いました

祖母も母も洋裁が出来ます。私は…正直そんなに得意じゃありません。

そういう「違い」も母にしてみれば私を否定・批判する材料のひとつだったのかもしれません。

とにかく私と祖母の仲を妬む人でした。

戦争中、貧しかったり辛い思いを沢山してきた祖母。

戦後すこし経って日本に活気が戻ってきて、欲しいものが欲しいときに手に入るようになって。

商売をしていたこともあり「最新のもの」が一般の人より先に手に入れることが出来て…そりゃ自分の娘に与えたいと思いますよね。。。


渡辺えりさんの言葉

2020-11-30 21:56:35 | 毒親のこと

自分の道を自分で決めて

家族と共に毎日を過ごしていますが、時々後ろ髪をひかれるような…、母を見捨てて、私は親不孝ではないのだろうか…と考えてしまう時があります。

そんな時、渡辺えりさんが新聞の悩み相談で答えていた記事を見かけました。

 

「束縛する母親は嫌っていい」 渡辺えり「人生相談」回答が大反響

 

娘を自分の持ち物のように思い、いつまでも自立させずに縛ってしまう母親は誘拐犯と同じ、もう母親とは言えません。

渡辺えりさんの回答の中でこの言葉が一番心に残っています。

自分が母親を嫌いになってはいけないという強迫観念から逃れてください。

そしてこの言葉にとても救われました。

私も2人の子どもの母になりました。

毒親のもとで育ち、母のようになりたくないと強く願っているのに時々チラつく母の存在…。

戒めとしてこの言葉を忘れずにいたいと思います。

我が子が自立し、自分の道を歩き始めたとき、道のスタート地点で“いってらっしゃい!”の横断幕と“一息つきたくなったら戻っておいで”と子どもが好きなご飯とフカフカのお布団を用意できるような母親になりたいです。

 

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