朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

毒親は連鎖するのか。

2021-04-22 22:27:02 | 毒親のこと

私は母の事を「毒親」だと思っています。

母はギャンブル依存症で多額の借金を作りました。私はその借金を肩代わりしました。

そして母は私に「(親の)借金を返すのがあんたの宿命なの!」と言い放ちました。

でも私が母の事を「毒親」と思うことは他にもあります。

私が自分で考え、自分の力で道を切り開こうとする全ての事を母は「反対・否定・批判」してきました。

むしろ母のこのような部分が「毒親」だと思っています。

よく「毒親は連鎖する」と聞きます。

私は絶対に絶対にぜっっっっっったいに!!!!「母のようになりたくない」と思い、ブログ名も「母のようになりたくないのに」と…ちょっと重たいブログ名を付けました。戒めとして付けました。

しかし、時々“私の中の母の部分”が顔を出します。ものすごく自分に対して嫌悪感でいっぱいになります。髪の毛や爪のように切れるものなら切りたいし、かさぶたのように剥がせるものなら…“私の中の母の部分”を切り落としたい、削ぎ落したいです。血を入れ替えて変われるものなら…健康だった10代、20代の頃、献血を何度かしましたが…変われませんよね

ふと“母の母”である祖母は毒親だったのか…と考えました。

私のことをとても大事にしてくれた祖母です。

「たった一人しかいない娘(私)を困らせて…」といつも案じてくれた祖母です。

 

祖母は戦後まもなく女手一つで商売をしていました。(祖父は普通の会社員)田舎の町の小さな商店だったそうです。

日用雑貨や食料品を販売し、夏になるとかき氷、冬はそばを作って食堂みたいなこともしていたそうです。

仕入れも祖母が一人でやっていました。背負子を背負って電車に乗り、大きな町まで仕入れにいっていました。

母はよく言っていました「おばあちゃんがハイカラな生地を仕入れてきて、それで洋服を作ってくれるのが嬉しかった」

「夏になると店でかき氷を売るんだけど、シロップをかけ放題で食べた」「おばあちゃんが商売をしていたから(持ち物など)何不自由なく用意してもらった」

母にしてみれば祖母は「自慢の母」だったのかもしれません。

そんな子供時代をおくっていた母は高校を卒業後、東京に出てきて就職をします。

当初祖母は母の上京を大反対したそうです。

東京で仕事をしている時も祖母から頻繁に手紙や電話がきて母のことを案じていたと。

しかし、母は数年で実家に戻ります。そして地元の会社に就職、父と出会って「できちゃった結婚」をしました。

この話を聞いて私は母に尋ねました。「どうして東京にでたの?」

すると母はこう言います「私が実家にいたらおじさん(母の兄弟)が結婚できないじゃない。小姑がいる家にお嫁さんなんかきてくれないでしょ」

「兄弟のため、実家のため」

母はよくこの言葉を言いますが、正直信じられません。

「できちゃった結婚」をした母は祖父母に全てお金を出してもらって急遽結婚式を挙げました。

新生活に必要な家財道具も全て祖父母が用意しました。

私が生まれた時も上げ膳据え膳で祖母に世話をしてもらいました。

そして幼い私を祖母に預けて働いていました。(保育園のお迎えはいつも祖母でした)

夫婦喧嘩の絶えない両親だったので家の中がひっくり返るくらいの大喧嘩をして何度も、何度も、何度も…数えきれないほど祖父母に泣きついていました。

経済的にも支援してもらっていたと思います。

そんな祖母が「毒親」?

母は祖母に「依存」していたのかもしれません。

いつでも祖母が助けてくれる。祖母は一番私(母)を愛してくれている。

だから母はいつも祖母が私に何かしてくれると(お年玉や成人式の晴れ着など)「私(母)がいるからあんたはおばあちゃんによくしてもらえるのよ」と言っていました。

祖母も自分に「依存」していた娘(母)を見放すことができなかった…

そう考えると、ある意味祖母は母にとって「毒」だったのかもしれません。

毒は毒でも麻薬のような…快楽を与え、それなしでは生きていけない「毒」だったのかもしれません。

私の中にも流れている母のDNAと祖母のDNA。

「猛毒」にもなりたくないし「麻薬」にもなりたくない。

祖母には本当に感謝しています。「私は愛されている」と深く深く感じる事ができました。

しかし本当に「毒親は連鎖する」のならば、この負の連鎖を私が断ち切らねばなりません。

 

いつもブログをご覧いただきありがとうございます!

私が実家にいた頃、母の昔のアルバムを見たことがあります。

白黒やセピア色の写真でもわかるほど、写真の中の母は誰よりも「ハイカラ」な洋服を着ていました。

そしてちょっと気取ったような…ツンとすました表情をしていました。(母は目力が凄いんです

「うわー。自分のクラスにこんな子がいたら絶対に近づきたくないわぁ」と思いました

祖母も母も洋裁が出来ます。私は…正直そんなに得意じゃありません。

そういう「違い」も母にしてみれば私を否定・批判する材料のひとつだったのかもしれません。

とにかく私と祖母の仲を妬む人でした。

戦争中、貧しかったり辛い思いを沢山してきた祖母。

戦後すこし経って日本に活気が戻ってきて、欲しいものが欲しいときに手に入るようになって。

商売をしていたこともあり「最新のもの」が一般の人より先に手に入れることが出来て…そりゃ自分の娘に与えたいと思いますよね。。。



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