川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

啓介・正月の日記(19歳)

2007-12-31 08:13:08 | 父・家族・自分
 昨日は娘の部屋の大掃除の際出てきた息子の幼少時の和服をAさんの子どもさんに着てもらうことになったので自転車で届けに行き、帰りに仙波河岸公園などを歩いてきました。気圧の谷が通過したのか、帰宅するやアラレに見舞われました。夜、高校時代下宿を同じくした大阪の藤戸さんから何十年ぶりかの電話をいただきました。弟さんが室戸でポンカンを生産しているとのこと。昼間に兄から届いていたポンカンが、まさに藤戸農園のものでした。機会を作ってかつての同宿生が会えるようにしたいものです。
 父の20歳の正月の日記に刺激されて、自分の同じ年頃の日記を捜してみました。どんなことを考えていたのか。20歳の年の正月にはほとんど何も書かれていないので、19歳の時の日記を紹介することにします。
 前年、東京教育大学の受験に失敗し、浪人中で9月から東京の代々木ゼミに通っていたのですが、正月は故郷室戸岬に帰っていました。
    
   1961年1月1日(日)快晴
1961年を除夜の音とともに迎えた。例年よりも遅く、昼近く屠蘇を祝う。終日、隣でテレビを見て過ごす。例年になく静かな新年である。
 自分と家族、そしてあらゆるひとびとの平和を祈ってやまない。戦争は一人一人の心に巣食うものなのだ。
 ラオス情勢は北ベトナム軍の介入が伝えられ危険な様相を呈し始めている。世界のいろいろの地域に人類滅亡の種がまかれている。好景気の華やかな幕開けとはいえ、平和への道はまだまだ遙かだと言わねばなるまい。人間の良識が試される年だともいえるだろう。
 中小企業の苦しみ、低所得者階層のうめき、国内政治の場からは、陽の当たらぬひとびとを開放するべき年であろう。所得倍増の甘言に踊るより、月給・日給倍増の本質を獲得する年だ。階級対立のない世界の礎をこの年に築くべきである。
 家の中では久しぶりに明るい年になるであろう。いいことがいくつかあるだろう。その一つ一つを大切にしたい。そして、あるいは残念なこともあるかもしれない。それもまた大切にしたい。
 自分のこと。それはまず、大学進学。そしていろいろの試練に会うことだろう。過ぎし年がけっして満足するに及ばなかったが、しかしまた、稔りのない年でもなかったように、この年も一歩一歩前にだけは進もう。
  世界中のあらゆるひとびとに幸いが多くあるように
 昨年末から元旦にかけて、室戸にはめずらしいほど、寒い日が続いた。

 1月2日(月)晴れ
 温かい1月2日。
 。夕刻…「がめつい奴」「大菩薩峠」  いい映画だと思う。
 。学校にいってみた。
  ずいぶん変わった中で、築山に一本の小さな木(ひまらや杉?)が植えられていた。北鮮に帰られた朴さんの記念の樹だ。何か胸に迫るものがあった。若々しい青年の国と一刻も早く交際できるように。
 僕にとっては恐らく顔も知らない子どもたちだろうが、小六と中二の少年の母校は僕の母校だ。朝鮮民主主義人民共和国という名のその国がいまはもう僕らの後輩の国。懐かしいような。人間みな同胞。そんな感じを抱いた。
 三七度線のさびしいくさり。そんなものも、遠からず、きっととりのぞいてほしい。日本海を間に一衣帯水の両国、早く早く遊びに来てほしい。少年たちの生まれたふるさと・むろとみさきに来てほしい。懐かしい友人たちと成長を話しあってほしい。 いい気持ちだった。

 父の日記に比べるとなんだか子どもの作文のようです。でもこの日記を読んで僕はとても嬉しかった。北朝鮮に帰った朴さんの記念植樹に関わっての記事です。
 「北朝鮮」と書くべき所を「北鮮」と書いています。後に差別表現だと気づくのですがこのころ新聞なども略称として使っており、僕にも問題意識がありません。「三七度線」は単純な間違いでしょう。
 一家が北朝鮮に「帰国」したのは前年の10月のことです。ですからこの記事はその直後に書かれたことになります。場所は「築山」で、木は「ひまらや杉?」です。
 数年前からこの木について何度か文章を書きました。この夏には木が完全に枯れ果てているのに気づき、室戸岬小学校を訪ねて、何の木だったかを調べようとしたのですが手がかりは得られません。廃校の可能性さえある学校です。記念碑の保存をとりあえず、校長先生にお願いしました。
 たった半世紀足りずの間に旧校舎は取り壊され、「築山」は影も形もありません。記念碑は移されて尊徳像の近くにあります。僕は「ひまらや杉?」と書いていますが、肝腎の木はもはや存在しません。移植したときにうまくいかなかったのか、僕が知る限り「ひまらや杉?」とは違う木が栄養失調のためかひ弱な姿で立っていました。
 僕は二人の後輩たちが北朝鮮から故郷に帰ってきたとき、あの記念植樹がこんなに大きくなっているよと案内してやりたいのです。室戸岬は潮風が吹きまくるので幼樹が成長するためにはよほどの世話が必要です。枯れさせてしまったのですからいまからでも代わりの木を植えて育ててやりたいと思います。
 学校ではこの碑の由来を調べさせて子どもたちに世話を頼んでほしい。北に帰った人たちのその後の運命がどうなったか、なぜ今も、故郷に帰ってくることができないのか。そういうことにも関心を持つ子供を一人でも育ててほしい。
 19歳の僕は「ふるさと・むろとみさき」と書いて、一つ一つの文字の上に「・」を附けて強調しています。中学生の時から故郷を離れて生活していたので僕自身、「ふるさと・むろとみさき」への思いが強かったのかもしれません。
 明日はこの日記が書かれてから47年目の正月です。朴貞香・朴元達姉弟への今の思いは9月21日のこのブログにつづりました。19歳の時とほとんど変わっていません。私たちの手で「さびしいくさり」をなんとかして取り払い、さっこちゃんたち・ふるさとの友と再会させてやりたい。
 僕は祈る気持ちで新年を迎えます。「北朝鮮政府は北朝鮮に帰国した在日コリアンと日本人妻、その子どもたちの消息を明らかにし、故郷訪問の自由を保障せよ。日本政府は日本人妻とその子どもたちの保護を外交の課題とし北朝鮮政府と強く交渉せよ。」

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