川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

善光寺(下)

2009-04-23 05:18:06 | 出会いの旅
 22日(水) 一日、『約束の夏』(若松みき江著・北海道新聞社)を読む。許さん(文京高OG)から借りた本。著者は北海道江別市に住む、許さんのお連れ合いの母の従兄のお嫁さんだという。
 末の息子をやむなく中国人夫婦の養子にして引き揚げた母の姿を長女が描く。

 約束の夏http://www.big.or.jp/~wakamatu/mikie/mikie.html

 このところ我が子と永別する他はなかった母の物語がつづく。
 
 娘に頼んでインターネットで注文してあった高山すみ子さんの『ノノさんになるんだよ 満蒙開拓奈落の底から』(日本図書センター刊・1992年初版・2575円)が届く。若松さんの住む江別市の古本屋から。どういう縁だろう。2400円(プラス送料340円)。

 以下は昨日の続きです。


  私の「善光寺参り」(続き)  鈴木倫子

●古式を守る‘若麻績’一族の祭祀
 善光寺というお寺さんは、聞けば聞くほど不思議な寺だが、‘若麻績’というのもまた不思議な一族だ。毎日仏様の前でお経を読み、信者から供養、祈願の依頼を受けて僧侶としての行をする一方で、自身の先祖は仏教とはまったく異なる作法でお祀りしているという。それは神主さんの祝詞とも異なるもので、一番近い例えは、皇室の葬儀・祭祀を小さくしたものと言えばよいかもしれない。どうやら朝鮮のそれも古い時代の葬儀・祭祀に一番似ているらしい、と、若麻績さんに説明してもらっても、私はどちらも見ていないから、実感がわかない。衣装は、夏冬問わず白い麻の着物だが、デザインは和服とはちょっと違うらしい。かろうじて、写真で見た韓国全羅道の葬送服を思い浮かべてみる。
 昔は毎日朝夕、今は毎月の1日、15日だけになったが、それでも一年通して、朝夕、定められた場所に行って執り行うのだそうだ。若麻績の一族持ち回りで当番がまわってくる。当番になると、昔は他国に出られなかった。何しろお役目が毎日朝夕だから、行ってかえってをするためには移動距離が自ずと制限される。いまは新幹線やら飛行機でたいていの国内なら日帰りできる。また、毎日のことではなくなったから、長期でなければ海外に行ってもかまわない、実際にそうしている。それでも別火(べっか。食事の火を別にする)だの女性と接しないだの出産禁止(お産は血をともなうのでこれを忌む)だのといった禁忌がある。当然のことながら、お産の禁は翌年まで有効だ。若麻績さん、今年はその当番だそうだ。Kすけサンの郷里でお祭りの頭家(とうや)という役割が持ち回りでまわってくるが、それにも、昔は同じような禁忌があったらしい。これは「神式」というか、むしろ「土俗」というか。いずれにしても、社家ならともかく、お寺さんの一族が持ち回りで、いつのころからか、おそらく74代というものは確実に、こんな先祖祀りを営々と続けているとは驚きだ。
 信濃の歴史は古い。麻績(おみ)だの安曇(あずみ)だのといった地名を見ても、諏訪神社の御柱(おんばしら)などの行事を見ても、そこには千代田のお城に坐す畏きあたりとは系統を異にする神様を携えた渡来人の気配が漂っている。それは「高天原から来た」と言い張る人たちよりさらに古い渡来人なのだろう。遠い遠い昔から「善光寺サン」と庶民に親しまれかつ篤い信仰を受け続けてきたお寺のご本尊も、それを祀り続けてきた人も朝鮮半島渡来とは、いやはや何とも感慨深いことだ。

●ブルーリボンを付けたお坊さんがいた
 ところでもう一つ記しておかなければならないことがある。本堂で11時半からの天台宗のお勤めが終わると、若麻績さんが来て「ぜひ、引き合わせたい人がいる」とおっしゃる。「父が亡くなってからは特に、いろんなことを相談にのってもらってきた、私の師匠のような人です」と紹介されたのは玄証院というこちらは天台宗のお住職・福島さん。話によれば若麻績さんより10歳ぐらい年長だが、むしろ年若に見える、色白のお坊さまで、若麻績さんとは対照的。ふと見ると、胸に青いリボンを付けている。「北朝鮮に拉致された日本人を救う会」のメンバーだ。
 若麻績さんが確立協に参加したり、「外」に向けて活動するようになる上で大きな影響と励みを与えられているという。善光寺という大船団のような組織を舵とりして方向を変えていくということは至難の業だし、一人突出して新しいことを始めるというのもはばかられるような気がしていたが、福島さんを見ていて、最近自分の心構えも変わってきたのだと、若麻績さんは語る。
 福島さんは、善光寺のご本尊の写しを開眼供養し、それを2年ほど前に百済の古都・扶余にある朝王寺(チョワンサ)に奉納されたという。朝王寺は百済時代の古刹があったとされる付近の、これも廃寺跡に創建されたお寺で、百済仏が1500年ぶりの里帰りをしたと、日韓の僧侶が大勢集まり、たいそうなよろこびだったという。こちらは秘仏にはなっていないそうだから、お姿を拝観したければ扶余へ行けばよい。

●ますます「気になる」善光寺
 善光寺には「檀家」というものがない。昔は「善光寺領」という寺領をもっていたが、明治維新から後は、それもなくなっている。したがって、経営はもっぱら「善光寺参り」をする善男善女の存在にかかっているのだろうと思う。それが何百年にもわたって、引きも切らずにある、ということが、なんだか不思議なことのようにも思われるのは、もっぱら私が不信心だからなのかもしれない。
 「浅草へ行くなら観音様」と同じノリで観光地として訪れ、お参りする人も少なくないだろう。また、「敬虔な信者」でなくても、初詣をしたり、新車を買ったから交通安全の祈祷をしてもらおうとか、生まれた子どもに祈祷をしてもらおうとか、厄落としだからとか、日本の宗教風土には、良くいえば融通無碍、有り体に言えばお気楽な「ご都合主義」が昔からあるようだ。かく言う私も、真っ暗闇のなかで「お浄土への鍵」を探ってがちゃがちゃやって喜んでるお気楽組だ。
 一方、そんないい加減なものじゃなく、マジで信じておすがりしに訪れている人がいまもいることも確かだ。私がいる間にも、病気の後遺症だろうか、車椅子に座ったり杖をついたりして家族と一緒に参詣に来た人の姿が幾人か見られた。
 史料館の古い絵馬には「目が見えるようになった」「足なえの足が立つようになった」お礼として奉納されたものが幾枚もある。それらは寺の宣伝や権威づけといった要素を多分に含んだ寺伝や縁起絵巻に描かれている奇勝、奇瑞の類とは素性の異なる、庶民の真摯な思いが込められている「証言」と言えるだろう。「善光寺さんのあらたかな御霊験」は、そうやって幾世代も語り伝えられてきたわけだ。
 若麻績さんも福島さんも、そういうマジ組の真剣な思いをうけとめる一方で、お気楽組や勝手組にも正面から向きあって、仏さまのことを語る。私には宗教や信仰のことはわからない。人間が創った仏像が、作法に則って「開眼供養」ということをすると「有り難い力を持つ仏さまになる」ということも、いくら考えてもわからない。ただ、お二人が、善光寺という大船団を現世の様々な問題にヴィヴィットにコミットできるものにしたいと願いつつ「救う会」のメンバーとして働いたり、確立協の会員として人々に働きかけたりなさっている姿をとても頼もしいと思う。そんなお坊さまが二人もいる善光寺って、ますます「気になる」お寺さんだ。また行ってみたいけど、Kすけサンは付き合ってくれるかしら。

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