4日通夜、5日葬式と、父を送る儀式が無事終了し、娘が川越に帰ったのを最後に遠くから来てくれた親族も皆いなくなりました。僕は昨日、娘を高知空港に送った後、通夜に顔を出してくれた旧友であり、父の元主治医であったT君の家を訪ね感謝の言葉を伝えてきました。ご本人は仕事で不在ですがS 子夫人が長時間応対してくれました。S子さんとももう30余年の付き合いです。妻と二人、女性同士の会話が弾み、僕はたいてい聞いているだけですが、いい女性と出会ったなーと改めて敬意を抱きました。私たちは妻でもっているのです。
葬儀では父の後輩である米倉益(すすむ)先生の別れの言葉が心に響きました。先生は室戸小、佐喜浜中で父の同僚、年は19歳下です。今は障害を持つ人々の施設「はまゆう園」の園長さんです。
父を慕って室戸小に赴任し、奥さんともそこで出会いました。学校の職員室での結婚式はいまどきの何億もかけた著名人のそれよりも遥かにすばらしかったと誇らしげに語ります。マイクも持たず、原稿なしで会場に響き渡る肉声で父に語る言葉は為やんを愛し、尊敬する人の熱情に満ちています。
父は校長として、先生方一人ひとりを信頼し、その実践を励まし、見守るような
存在であったようです。米倉さんが「荒れる」子供の心に思いいたり、障害を持つAくんと歩み始めたとき、それを支持し、学校全体の取り組みへと導いてくれたそうです。Aくんは卒業にあたり自分の創作物を、校長先生にと言って父に渡し、一生懸命働く人になりますと述べたということです。Aくんは、「校長先生」とは幾度も会っていたわけでなく、また、父も、そのときはすでに他校に転勤していたのです。米倉先生の今日まで続く障害児教育の原点はここにあるらしい。
先生方にあれこれと指示することはほとんどなかった。憲法記念日が近づくと「憲法をしっかり教えていますか」と問いかけるときを除いて。
父は昭和のはじめ、浜口内閣が教員の給料を全国一律に削減しようとしたとき、郡の教員の会議でこれに反対する決議を提案しようとした。父の勤めていた羽根村のように極貧の村の教員の給料は他に比べて低く、ただでさえ困窮していたのです。
この企てを知った校長たちは恐れおののいて、父の説得に当たった。共産党と間違われて君の未来が危うくなるという人もいた。結局、自分がかわいい校長たちに丸め込まれたらしいが、国民の教育条件に差別があってはならないという父の信念は益々強まった。
こんな父にとって、戦後の新しい憲法は血肉のようなもので決して譲り渡すことの出来ないものだったと、米倉先生は父の言葉を引きながらその思いを語りました。
先生は障害者とともに歩む長い功労のゆえに先日、知事の表彰を受けられました。その朝の新聞で父の訃報に接したそうです。橋本知事の横に父の姿が確かにあったと話されました。
こうやって文章をつづりながら、僕も米倉先生のように、尊敬する先輩を心をこめて送りたいものだと思います。他の人がどのように評価しようが、自分にとっては本当に大切な人。その思いを生きているうちに届けることはもちろんですが、出来ることなら人々に聞いてほしいものだとも思わされたのです。
葬式の前後にいろいろな話を聞きました。父は学校で赤ちゃんの子守もしていたそうです。託児所のなかった時代、乳飲み子を抱えて出勤する女先生の授業中、赤ちゃんを抱えて過ごしたのです。校舎の補修に明け暮れた話は聞いたことがありますがこれは初めてです。嬉しくなりました。
教員生活の半分以上が「校長」です。僕がいつになったら校長になれるのかと心配していたフシがあります。そのうちにあきらめたのか、啓介はいつも子供たちと一緒でいいなーというようになりました。僕は父にまつわるいくつかのエピソードを聞いて、父の校長生活も先生方や子供たちとともにある充実感に満ちたものであったろうと思うことが出来るようになりました。
一人の教育者の実像がくっきりと浮かんできます。
「為やん」と「啓やん」の姿勢や歩みがぴったりと重なっていることにも気づかされました。
何よりも「おやじの背中」を見続け話し続けた分量の豊かさに心打たれます。ぼくは父親から聞くべき多くのものを聞かないうちに逝かれてしまった。
「タンタンタタタン カンカンカカカン
少年の日、仕事場からいつも甲高い音が響いた。父はブリキ屋。(中略)父の手には切り傷が絶えず、手負いの熊のように黒ずんでいた。時には、広壮な神社仏閣の屋根の銅板葺きを手がけ、その完成した姿を誇らしげに見上げていた。仕事には厳しく、弟子にも念入りな仕上げを求めた。『仕事がオレの財産だ』……
そんな口癖に、完璧さや実直さを至上のものとする職人気質が溢れていた。(中略)夏の朝、祭囃子が聞こえてくる中、明治生まれの職人は旅立った。享年七十四歳。その夜、花火は讃歌のように空を焦がした。
それから十余年。ある日、遺品の中に、古ぼけた菓子折りを見つけた。紐にくくりつけた荷札に、父の字で『カツヨシ通知票/長太郎(父の名)・カツヨシ答案用紙』とあった。父の尋常小学校時代の『修身・國語・算術・地理』などの答案、ぼくの小・中学校時代の大量の答案が、それぞれきちんと折り目をつけてしまわれていたのだ。父のものは八十年前、ぼくのものがほぼ五十年前。長い年月を経て黄ばんだ紙たちは、親しく寄り添うように重ねられていた。そのたたずまいから、小学校で学業を断念せざるを得なかった父の無念と、学びへの渇望と、ぼくへの期待が熱く立ち上がってくるのだった。
『カツヨシ、人間は苦労するために生まれてきたんだと俺は思う』『人さまに迷惑をかけちゃあならねぇぞ』『子どもが大学に行きたいと言ったら、行かせられる親でいろよ』……近頃しきりに父の言葉を思い出す。あれは父自身が自分に言い聞かせ励ます声でもあったのではないか。そしてぼく自身は苦労や実直さや「人さまとの付き合い」や学びへの熱望を、どれほど積み重ねられたのか。そう振り返るとき、またあの音が胸を打つのだ。
タンタンタタタン カンカンカカン 」
「父への詫び状」といった思いもありました。
重ねてご冥福をお祈りいたします。
誰やらの句に、
父と来た道来て父の墓(はか)洗う
(日頃こうしたブログのコメント欄に書き込むことは絶対にしないのですが、あまりのタイムリーさに、今回だけは書かずにいられませんでした。室戸の福祉=同和教育、すばらしいですね)
先生の研究はどうしたら読めますか。題名なり、お名前なり、教えていただければ幸いです。なお、父の旧姓は「坂井」です。