川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

父逝く

2007-11-02 10:53:04 | 父・家族・自分
 父・為利は11月1日午前9時12分に死去しました。10月22日に100歳を迎えたばかりでした。8月からは眠ったままで、10月31日の弟の命日の直後に逝ったことになります。母・直恵の死(1996・10・27)からは11年が経ちました。
 2年前の誕生日に白寿の祝いということで知友を招いてお客をしました。朴保くんにも来ていただいて「鯨捕りの唄」「ひろしま」など歌ってもらいました。私たちとしては生前葬のつもりでもありました。父は皆さんの前に元気な姿をみせ、お礼の言葉も述べました。でも、やはりここまででした。
 その直後に僕は入院、手術ということになり、翌年一月に元気な姿をみせようと帰郷したときには会話は困難になっていました。「生ある限り生きなきゃならない」と確かに聞いた気はしますが、生きるのはたいへんそうに見えました。
 父の世話になりながら役に立つことはなにもできませんでした。ずうっと父に付き添った姉に感謝するばかりです。長生きしてくれたおかげで、出不精の父を引っ張り出して何度か旅をしたり、帰省のたびに体験談を聞いたりしたこと、そのくらいです。戦争や教育に関わる体験談は何回か収録し、本にできないかと考えたのですが放置したままです。
 「為やんはまじめだから直恵は幸せだ」と横浜に住んでいた平野のばあさんからきいたことがあります。夫の「女遊び」に泣かされたじぶんの体験と共に。確かにそんな人でした。妻を喪ったとき「より良い半分をなくしてさびしい」とみんなの前で語ったのでした。
 その妻の元にようやく帰ることができたのです。長い人生、本当にお疲れさま。
感謝と共にその健闘にねぎらいの言葉を贈りたいです。
 
 10月中は皆さんに心配をかけました。体調もよくなってきましたので、父の野辺の送りに高知県室戸岬に帰ってきます。10日には室戸岬小学校の同窓会もあります。川越に戻るのは中旬になります。パソコンは毎日使えますので、また室戸便りを書きたいと思います。どうぞよろしく。


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2 コメント

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大往生 (カツヨシ)
2007-11-03 12:20:48
「お父上の訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します」という型通りの弔意の表現では余ってしまうものを綴ります。
 3年前に初めてお会いしたときのことは(すでにこの「通信」のコメント欄に書いていますが)今も鮮やかに胸に刻まれています。3日間夕食を共にしていただきました。愛飲されている焼酎の蜂蜜割りのグラスを傾けつつ、「とおい、とおい、とおーい昔」の教え子のだれそれについて記憶をまさぐるようにして訥々と話されます。けいすけさんが昼間案内してくれた、戦死した教え子の名前を刻んだ黒い碑面が、脳裏をかすめます。ご家族の「お客様にご挨拶を」の言葉に促されて、しゃんと居住まいを正すようにして、立派なご挨拶を頂きました。そしてあの言葉「神様の前では、人はみな平等……差別はいかん……差別はいかん」へと続きます。それは初対面の、遠来の客への真摯なメッセージでありました。そこには教育者としての魂が、赤々と全生涯を貫かれたものが凝縮されているように感じられたのでした。
 100歳の天寿を全うされての大往生、まことに「感謝とともにその健闘にねぎらいの言葉を贈りたい」思いに誘われます。本当にありがとうございました。安らかにお休みください。

 数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り  芭蕉
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夕陽 (けいすけ)
2007-11-03 21:58:15
 有明からフェリーに乗り、午後1時、徳島着。日没の頃、室戸岬に着きました。気象条件がよく、水平線に落ちるダルマ夕陽が見事でした。11年前、母を見送った後、父と室戸岬の山上でこのような光景を見たのを思い出しました。この地で90年近くを生きてきた父でしたがこんな景色は見たことがないといっていました。ふだん、なかなか会うことのない親族が明日は集まってお通夜ということをします。
 Oさんなど早くにご両親を失った友人たちのことをなぜか思います。父も母もいない故郷の家に始めて泊まるのです。66歳にして。
 カツヨシさんのコメントを始め、メールなど有難うございます。父に読ましてあげたいものです。
 
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