川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

土方久功(ひじかたひさかつ)

2009-12-06 04:48:28 | ふるさと 土佐・室戸
(丸木)俊さんは若いころ、パラオにわたり、しばらく過ごしました。その時の、腰みの一つ、おっぱい丸出しの写真が面白いです。この時、世話をしたのが、土方久功(ひじかた ひさかつ)ですが、今、土方のほとんどの作品は高知県立美術館に収蔵されました。土方も先祖は高知ですので、丸木とは縁が濃いですね。

 高知の梅原さんのメールにこんな一文がありました。妻は高知の美術館で土方の作品を見て俊さんとの関係を思ったと言いますが、ぼくはすっかり忘れていました。雨の一日だったので家にこもり、パソコンで土方という人のことを調べて見ました。土佐の出の土方久元の孫で演劇の土方与志の縁戚のようです。

 池澤夏樹さんの文章に出会いました。長いけれど勉強になったので紹介しておきます。

 幸福な人生(土方久功展)
  書評者名:池澤夏樹初出:「よむ」初出年月日:1991年2月

 
   幸福な人生というものはあるだろうか。
 自分が幸福だと感じる時はあるし、脇から見ていて今あの人は幸福だと思えることもある。しかし、一つの人生が全体として幸福だったと言うことはできるか。そういう人生は成立するか。
 いかにも満ち足りて、すべてがうまくいっている時期、何の不満もなくて、たしかに幸福だと言える時、それが生まれてから臨終までずっと続くとしたら、それはたしかに幸福には違いない。しかし、人間にとって歳月とはそんなに単調なものではないし、もしも一生の間ずっと自分は幸福だったと言いきる人がいれば、いったいこの人は何をしてきたのだろうと、われわれはその人生観の方を疑うかもしれない。
 では、いったい、どんな順序で混乱と苦労と充足が来れば、その人の生涯はうまく設計された幸福なものだったと言えるのだろう。若い間は活動的な、従って混乱もあれば失意の時期もある生活、老いてはそういう昔を思い出す余裕と手段に恵まれた安楽の日々。若い時の記憶をたどるには、ただ坐って考えているだけでは駄目で、何か手段がいる。それを手中に収めるのが幸福な生涯を得るための秘訣かもしれない。
 土方久功(ひじかた・ひさかつ)の展覧会で、彼の晩年の木彫レリーフと水彩画を見ながら、そういうことを考えた。彼の名はさほど広くは知られていない。彫刻家であり画家であったが、それは本人の意志と才能においてそうであったので、絵画売買の業界は彼を画家とは認めていなかった。民族学者として偉大な仕事をしたけれども、彼がフィールド・ワークをしていた時期には、日本には民族学などなかった。その成果を役立てることができたのは戦後もずいぶんたってからのことである。つまり、大正から第二次大戦の終わりまでの間、日本の社会から突出して生きた人なのである。
 生まれは一九○○年、父は軍人で、なかなかの名門の出。だが、そのことは久功の人生にはほとんど影響を与えなかった。むしろ親しく交わった同年輩の従兄の子、土方与志の方が二○代までの彼には大事だったかもしれない。後に久功が作った俳優座のマークは、与志をきっかけにはじまった演劇界との縁の一つの成果である。上野の東京美術学校彫刻科を卒業して、二七歳の時には丸善で個展を開いている。

 彼の人生にとって最も重要なことは、しかし、その後に始まる。二九歳の時に、南洋に渡ったのだ。当時の日本は、国際連盟の委任統治領として預かったミクロネシアの島々をずいぶん勝手に開発し、植民をはかり、すっかり自分の国の領土のようにしてしまっていた。その統治の中心である南洋庁はパラオにあった。土方久功はそこに住んで、公学校(国民学校の外地版)で少し彫刻を教えたりするかたわら、島内を精力的にまわって島民の生活を見ていった。
 人と土地の出会いは、時として人と人の出会い以上にドラマチックである。かりそめの旅である土地に行った者が、そここそは自分が暮らすべき場所であったと思い込んで、そのまま根をおろしてしまうことがある。前の日までまるで知らなかった土地に、船から降りた途端にすっかり魅了されてしまう。土方久功と南洋の出会いもあるいはそれくらいの衝撃的なものであったかもしれない。少なくともこの後の彼の生きかたにはそれをうかがわせるものがある。
 彼は一九二九年から一九四二年まで、ずっと南洋にいた。最初の二年半はパラオに住み、一九三一年の九月に人口わずか三八○人の離島サタワル島に渡る(サタワルはサテワヌとも表記される)。島の言葉を覚え、習俗や民話を記録し、島民の相談ごとを聞き、一九三八年まで滞在する。そして、再びのパラオ。この後の方のパラオ時代に中島敦が赴任してきて土方久功と親しくなっている。戦争がはじまって三か月目に中島と同じ船で帰国。
 そういうことは一通り知っていた。彼が作った木彫レリーフや水彩画を複写で見たこともあった。南洋での民族学的調査については、この二○年ほどの間に復刻された『流木――ミクロネシアの孤島にて』(未来社)、『覆刻 サテワヌ島民話』(アルドオ)、それに『パラオの神話伝説』(三一書房)などは手元にある。しかし、彼の創作活動の最盛期が晩年にあったことは知らなかった。うかつだったと展覧会の会場で思った。作品の中には制作年代として大雑把に一九二九-一九四二と記したものもあり、それはつまり南洋で作られたということなのだが、木彫レリーフなどは戦後の方がずっと多いし、水彩画の場合はもっとはっきりしていて一九六九年以降に限られている。心臓の発作で倒れて以来、力のいる木彫を捨てて水彩画にしたらしい。それもかつて作った木彫レリーフをそのまま絵にしているから、作品の多くが対になっている。いずれの作品もモチーフは南洋である。ただ、それが現地に滞在している時にではなく、帰国して二○年もしてから生み出されていることに驚いた。
 木の板に絵画的な構図で浅く彫られたレリーフにはどれにも枠が彫りこまれ、水彩画にも窓枠のようなフレームが描かれている。だいたいが一人ないし二人の人物像で、顔の表情はエジプト美術のように横顔に正面からの目を描いたものが多い。そして背景にはおびただしい植物。明るく、装飾的で、いかにも幸福な図柄。彼が住んだ土地に何度か行っているぼくには懐かしい顔。芸術家の記憶の中で純化したために、これらの顔は描かれたのだろうか。その土地に住んでいる時には、目前のさまざまな問題や義務やお互いの立場に邪魔されて図像として表せなかったものが、歳月の果てにいちばんよい姿になって戻ってくる。
 

 そうだとすれば、土方久功は若い間に実によいものを仕込んで、晩年の到来を待ったということになる。そして、その晩年は確実にやってきた。彼の人生の全部を見てとることはできないが、最後にこれらの作品を残した以上、これはなかなかうまく作られた、幸福な人生であったと想像することができる。そう、満ち足りた日々を描いた作品を前にして、その余光にあずかるのも後生として悪いものではない。
(なお、土方久功の著作集八巻が三一書房から刊行されている。また、岡谷公二による伝記『南海漂泊』(河出書房新社)も参考になる。)

 出典http://www.impala.jp/bookclub/html/dinfo/10110006.html

 偶然のことながら,帰ってきた娘の口から池澤夏樹さんの名が出てきました。2001年の同時多発テロ事件以来この方の言動に助けられたというのです。帯広の出身で埼玉大を中退した人だそうです。娘は埼玉の出身で帯広畜大を中退しているので縁を感じているのかもしれません。
 そういえば娘に勧められて『イラクの小さな橋を渡って 』(池澤 夏樹 著 本橋 成一 写真)を読んだことがあります。今は光文社文庫になっているようです。まこと人はいろんなところでつながり助け、助けられているものですね。

 世田谷美術館で開催された土方久功展には丸木俊の作品も展示されたとのことです。
 「パラオーふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功展」http://www.geocities.jp/seppa06/0712toi/setagaya.html

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3 コメント

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土方さんについて ()
2009-12-18 15:04:31
こんにちわ
来年の大河ドラマが「龍馬伝」ということで、
土方久元を、調べて訪問させていただきました。
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土方久功作品の所蔵先 (清水久夫)
2016-03-11 09:10:16
 「土方のほとんどの作品は、高知県立美術館に所蔵されている」とありますが、それは正しくなく、多くの作品は世田谷美術館にあり、神奈川県立近代美術館、東京国立近代美術館美術館、東京都現代美術館にも、代表作が所蔵されています。
 
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土方久功日記について (清水久夫)
2016-10-30 07:33:50
 国立民族学博物館から『土方久功日記』が5巻刊行されています。また、12月には、『土方久功正伝――日本のゴーギャンと呼ばれた男』が刊行されます。
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