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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

朝鮮総連・朝鮮学校と私(Ⅲ)

2010-08-15 04:28:56 | 韓国・北朝鮮
      朝鮮総連・朝鮮学校と私  ある在日の告白(Ⅲ)

                元 智慧(うぉんちへ) 
 

   「祖国」訪問  

 朝鮮学校へ通う生徒も日本学校の生徒同様、在学中に幾度か修学旅行というものを体験する。殊に重要視されているのが、高級学校(日本の高校に相当)三年の時に企画される、「祖国訪問」である。
 全国にある高級学校の生徒のほぼ全員が、一年をかけて順次、新潟港より渡航する。船は、あの悪名高い「万景峰号」である。
 拉致関連のニュースなどで、チマチョゴリ(朝鮮学校の女子の制服)を着た女子生徒やブレザーを着た男子生徒が一斉に下船する姿をご覧になった方も多いと思われるが、あの光景がまさにそれである。

 一昔前、特に金日成が存命中は、この修学旅行の他に、芸術やスポーツなどの各分野で選抜された者が、「偉大なる首領様」の前で自らの腕を披露する公演などの機会もあったが、それも彼が亡くなった後は、下火になった様である。
 さてこの修学旅行、私も例に洩れず参加した訳であるが、個人的にはその一昨年、別の機会に訪れており、結果的には二度訪朝する事となった。
 船の中では、夜毎集会が開かれ、修学旅行中、より一層の国家と金一族への絶対なる忠誠、この修学旅行での「得難い」体験を、今後どの様に自らの人生に反映していくか、勿論それは前提に国家の為に生きるという事があるのだが、教師たちはいつになく力が入って、生徒たちにその決心を迫るのであった。
 新潟港を出発した我々が、二泊三日の船旅を終えてまず目に入るのが、元山(ウォンサン)の港である。北朝鮮がどの様な国家であるか熟知していない殆どの生徒は、只々純粋に初めて見る「祖国」の光景に感無量になる。そして、次々と起こる歓喜の声。両足で祖国の地を踏む者もいれば、敢えて片足で踏みしめる者もいる。
 到着後、まずパスしなければならない事は、厳しい荷物の検閲である。アメリカ製の全てのもの、そして北朝鮮の思想にそぐわないものは、否応無しに没収される。そして、それ以上に、北朝鮮の文化度の低さを露呈させる様なもの、例えば音楽機器など電子機器類は実に厳しかった。その行為自体、自らの後進性を露呈している様なものであるのだが。カセットテープやCD、そしてビデオテープなどはその内容まで調べられ、特に「問題」がなければ後日返却されるという状態であった。恐らく当局は、国家体制が文化によって崩されるという事を、熟知しているからであろう。
 港町元山はお世辞にも美しい街とは云えず、特に目立っているものといえば、船舶と在日朝鮮人の生徒や、観光客相手に営業している飲食店ぐらいのものである。この飲食店、基本的には北朝鮮が外貨を得るためのものであり、そこに住む人たちは利用できない。海外より訪れた人たちが、山盛りの肉や松茸、そしてにぎり寿司などを頬張っている姿を、現地民、特に子どもたちが窓越しに生唾を飲み込んでいる光景に、この国が抱える経済や食糧事情などの一端を垣間見る様な気がした。日本と北朝鮮、そして現地民と在日朝鮮人の歪みきった戦後の関係を如実に物語っている。
 元山には長居せず、我々は直ぐ様一路、首都平壌(ピョンヤン)へ向かう事となる。使い古されたバスに揺られ、道なき道をまっしぐらに走っていく。目に入る光景はとてものどかなものであり、人の姿はあまり見られない。禿山が多い北朝鮮の山道を数時間走り、我々は修学旅行の大半を過ごす事となる平壌へと入っていく。
 平壌という街は、しばしば「写真用・写真用の街」と云われる。紛れもなく海外メディア向けの宣伝シティであり、そこに暮らす人々も、「選ばれた人」たちである。まるで、遊園地にでも入るかの様に、首都の入り口には、「ようこそ、平壌へ」という看板が掲げられており、周りは子どものようにはしゃいでいた。
平壌は北朝鮮の街の一つである事には違いないのであるが、それは北朝鮮の本当の姿ではない。朝鮮総連や在日の資本家から掻き集めた金を注いで、戦後「祖国復興」という名の元に労働を課せられた人たちの血と汗を思えば、何ともやりきれない想いが胸を占めた。それが平壌なのであり、労働を強いられた人たちはもう殆どいない。
 首都に入った我々の最初の義務、それは金日成像に「礼を尽くす」事である。滞在中、事ある毎に訪れる事になる訳であるが、一昨年行っている事とは云え、私はうんざりする思いであった。人が人を奉り崇めるという事を何よりも嫌っていた私は、もはや溜め息しか出なかった。そして、これから始まる想像も出来ない事に、皆胸をはずませている中で、この尋常ならざる国家体制に一人大いなる疑問を抱いていた。


 永久保存された遺体
 

  初日は慌しく過ぎ、宿泊先へと向かった我々は休む間もなく、クラスごと一同に会する事となる。これから始まるこの「意義ある」訪朝における、各々の決意を否応なしに述べさせられる。心にもない事を適当に述べた後、一息ついて夕食時間となる。
 北朝鮮においてこの様なホテル住まいをしているだけでは、とても日本において報道されている様な貧困や飢餓に喘ぐ人々の姿は想像できない。それ程、平壌における宿所の食事は豪勢である。
 しかし、それ以上に驚くのは、それを見て何も感じない同級生たちの姿である。北朝鮮の人民が飢えようと死のうとまるで他人事、という顔で目の前の食事にありついている。ここでそういった話は禁句だと思っているのか、或いは只単に無関心なのか、とにかくその様な話題が出る事は、最後までなかった。
 北朝鮮では、言論の自由がない。言論の自由のみならず、一切の自由が許されない。しかし、その様な説明を事前に受ける事など一切ないし、教師はいかに素晴らしいかを連呼するばかりである。真の意味においての修学旅行であるならば、現実をあるがままに伝えるべきである。生徒たちは戦後の北朝鮮がどの様な道のりを歩んできたのか知らないし、いうなれば北朝鮮という国についてまるで無知である。
 さて、その翌日我々は、北朝鮮において「第一の聖地」と呼ばれる、錦繍山記念宮殿へと向かう事となる。他でもない。故・金日成の遺体が安置されている、建築物全てが大理石という贅を尽くしたものである。独裁者の遺体を永久保存する事は、何も北朝鮮が初めてではなく、旧ソ連などで既に行われている。その昔、スターリンがレーニンの死後、遺体を永久保存する様に命じた事は有名な話である。因みに、レーニン廟付属研究所の遺体保存技術者たちは、第二次世界大戦後も共産圏の独裁者たち、金日成の他にもベトナムのホー・チ・ミンらの遺体永久保存を次々と手掛ける事となる。
 話を元に戻して、とてつもなく巨大な建物で、どこが入り口なのかすら分からない。我々は一列に並び案内されるままに進んでいく。この宮殿には、彼にまつわるものが数々展示されており、とにかく圧巻である。そして、ついに遺体安置場へと入る事となるが、その前に全身に殺菌シャワーを浴びせられる。ここまでして見る価値があるのかと疑問にも思ったが、良くも悪くも歴史上の人物との「対面」はもう目の前である。誰もが息を殺して、やや緊張感を伴って、赤く薄暗い照明だけがあるその場へと向かう。
 ここを訪れるのは二度目であるが、まるで初めて訪れたかの様な緊張感が身を包む。一歩一歩踏みしめながら、その瞬間が近付く。透明な箱の中に彼はまるで生きているかの如く眠っていた。どの様な想いを秘めている人でも、これを目の当たりにすれば、激動の歴史を生き抜いてきた指導者を偲ばずにはいられないであろう。
 しかし、静かにその厳かな空間を抜け出した次の瞬間、やはり大いなる疑問を抱かずにはいられない。彼がどれ程の人物か定かではないにしても、これ程の建築に一体どれ程莫大なる工費がかけられているのであろう。聞く所によると、優に数十億はつぎ込まれていると。当然、朝鮮総連の強力なバックがある訳であるが、一方で人民が刻一刻と倒れていく姿を想像すると、やはり憤りを抑えきれない。かつての共産国家がそうであった様に、こういった体制の下では、一人の人民の命よりも、「偉大なる指導者」の遺体の方がよほど価値があるのであろうか。
 政治的指導者の遺体を永久保存して神格化してしまうという何とおぞましい事。しかしそれよりさらにおぞましいのは、そういった事を推し進める共産主義体制そのものである。
 金日成という人物の事に関しては、実の所現在でも謎が多いとされている。確かな事といえば、元来スターリンの傀儡政府としてソ連軍の後押しで彼は北朝鮮に入り込んだが、政治闘争で親ソビエト派であった政敵を粛清する事で権力を掌握し、息子に権力を譲る事で、体制を盤石なものとしたという事である。
 いつの世も、独裁国家は滅びの途を歩む事となる。何もかもが完全に常軌を逸した世界、それがプロレタリアート独裁という名のファシズムがもたらしたものの正体である。
 現在に至るまでこの国を取り巻く情勢は常に緊迫しており変化し続けているが、北朝鮮の歴史は、血塗られた「粛清」の歴史でもある。有史以来、最も悲惨な歴史の一つとして名高い在日朝鮮人の帰還事業。あの十万近い人々は今いずこへ。金日成によりその殆どが粛清され、信じた自らの指導者と国家により裏切られ、物言わず逝った事を思うと、今ここにいる己の姿が滑稽に思われた。


    国境の町


 訪朝した者が必ず訪れなければならない場所、それはもう一つの北朝鮮の聖地である白頭山である。飛行機に乗り平壌からさらに北へと向かう。聖地と呼ばれる所以、ここは金正日生誕の「伝説」の地であり、朝鮮民族の霊峰とも言われる。
 しかし、山脈が連なる土地は特有の気候があり、「天池」があるとされる頂上付近はおろか、登る事さえ余程天候が芳しい時以外は難しいとされている。私は結局二度訪れ、この山に登る事はなかった。
 中国との国境があるこの町、両江道恵山市はやはり、首都平壌とはかけ離れた田舎町である。我々は殆ど何も手が加わっていないこの町で一泊する事になる。
 その日、北朝鮮では電力不足で頻繁に起きる停電が止まず、私は急に思い立ち友人数人と部屋を抜け出し、町へと繰り出した。北朝鮮でのむやみな行動は慎むようにと厳しく指導されてはいたが、時間を持て余していたので、やや興奮気味で教師たちの目を盗んで出掛けていった。
 まず眼に飛び込んで来るもの、それは町に人の姿が見当たらない事、そして禿げた山々である。恐る恐る歩き始めてしばらくして、やっと民家らしいものが見えてきた。勿論人もいる。
 日本の服を身にまとった我々をじっと睨む様に凝視する貧しい人たち。民家といっても日本の様なそれではない。只、人がやっと住めるか住めないか、といった程度の何ともお粗末なものである。
 そして、恐らくまともに食べていないのであろう。顔色はひどく悪く、頬も黒ずみこけている。
 我々はそれらを尻目に、先へと進んでいく。やがて、何やら行列をなしている光景が目に入った。一体何なのか、確かめるべく近付いてみる。行列の原因はすぐに判明した。食糧の配給である。
 戦後日本においても、配給が行われたが、自由経済がないこの国では、いまだに(当時)配給制度なのである。トラックが到着し、皆抱えている幾つもの袋を差し出す。米なのか、他の食糧もあるのだろうか。初めて見る、めったに見る事のできない光景に、我々はしばらく立ち尽くしていた。
 「食べる」事が決して当たり前ではないこの国で、人々は一体何が人生の歓びなのであろうか。それが生まれた時からそうなので、そういった感覚はもはや麻痺されているのであろうか。その様な事をふと考えながら、さらに先へと進んだ。
 しばらく怖い程静かな町を歩き続けた我々の前には、大きな金日成とスローガンが描かれた看板があった。「偉大なる首領、金日成大元帥は永遠に我々といらっしゃる」、確かこの様な内容であったと記憶する。
 思わず吹き出してしまった私は、次の瞬間には呆れ果て、妙な脱力感に見舞われた。この様なスローガンを突き付けられて、しかしその結果は極度の飢えと貧困である。何故この国は、これ程までに貧しく、一向に発展しないのか、歴史や国家体制の歪みから生じた仕方のない事なのであろうか。そして、国民はその様な体制に反旗を翻し立ち上がる気力すら、もはやないのであろうか。先程我々を見つめていた人々の目には妙な鋭さがあったが、しかし光は失せ、目は完全に死んでいた。
 しばらく様々な事に想いを巡らせていたが、あまり宿所を離れすぎると問題になる恐れがあるので、適当の頃合いを見て、戻る事とした。
 ここで見た光景はいまだに私の目に焼き付いて離れない。国家が抱える矛盾をこの目で見た感覚は、日本にいては決して体験出来るものではなかったであろう。
 宿所へ戻ったが特にお咎めはなしで、何事もなかったかの様に、しばらくは所内で過ごした。
 その昔、日本では「国境の町」という歌が流行った。国境というものは、人の心を揺さぶる何かがあるのだろう。この歌が流行った頃、日本にはまだ国境というものがあり、人々は何か言いようのない魅力がある国境に想いを馳せて、この歌を口ずさんだに違いない。
 国境の向こうはもう中国である。近年脱北、つまり飢餓や政治的な迫害により北朝鮮を抜け出し、中国を始めとする近隣諸国へと逃げる者が後を絶たない。北朝鮮では、移動の自由もない為、幾ら苦しかろうと、現住している場所から離れる事は至難の業である。事実、国境付近に住む者たちは、決死の覚悟で越境する者が多い。リスクが多過ぎるこの命懸けの亡命は、彼らに残された最後の生きる道なのであろう。失敗し強制送還され、死の収容所が待っているにもかかわらず決行する。ここに住む者たちが、最低限の「人間らしさ」をも与えられず、国家の奴隷と化しているその姿を見ていると、私はもはや修学旅行以上のものを見た充足感と、愚かな体制への怒りが微妙に入り混じり交差していた。

                (『木苺』124号 05・10)






朝鮮総連・朝鮮人学校と私(Ⅱ)

2010-08-15 04:28:25 | 韓国・北朝鮮
今日はこれからRさん一家と伊豆に行きます。水曜日まで「川越だより」はお休みです。宜しかったら元さんの文章の続きを読んでみてください。 


朝鮮総連・朝鮮人学校と私 ある在日の告白(Ⅱ)
                  
               元 智慧(うぉんちへ)


    民族学校の教師
 
 日本の学校であろうと、民族学校であろうと、人は青春時代に様々な教師に巡り合うものである。また、どの様な教師に巡り合うかで、人生が少なからず左右される場合も大いにあり得ると言っても過言ではない。特に、中学や高校では進路の問題が切実な問題となり、その際、教師が果たす役割は非常に大きい。
 私も例に洩れず、この時期は大いに悩み、苦しんだ。しかし、そこは民族学校。様々な弊害や試練が待ち受けていた。
 さて、民族学校では、私の様に小中高と一貫して進む者もいれば、途中で日本の学校に転入する者も少なからず存在した。理由としては、やはり進路の問題が最も多く、特に日本の学歴社会のレールに乗るためには、出来るだけ早い内より方向転換した方が良いのは、火を見るよりも明らかである。
 この頃に自らの進むべき道が明白であるならば、ある意味においていずれの学校を選択しても良い様なものであるが、しかし大多数の生徒は中学の時、それ程真剣に進路問題を捉えている訳ではない。従って、特に問題意識を持たぬまま、歳月だけが過ぎ去っていく。
 しかし、日本の学校に転入する場合、事はそう簡単な事ではないのである。現在の事情は、多少変わっているであろうが、当時は幾多の障害を乗り越えなければならなかったのである。
 その障害とは、一つに教師の妨害がある。何しろ、表向きには日本の国民と手を取って、共存すべしなどと豪語しているものの、実際の教育では、日本は敵国であり、日本国民は忌むべき存在であると説いているのである。
 教師というよりも学校全体が、生徒が日本学校へ流れ込む事を阻んでいるのである。様々な形でそれは表れるが、例えば親が総連などの組織にいる場合、推薦入試の際の推薦状を書いてもらえないなどである。
 民族学校では、高校進学の際、生徒から進路相談を受ける事はない。生徒たちは、ごく当たり前にそのまま民族高校に進むものであると普段より刷り込まれており、全体主義の中では、個人の進路や将来などどうでも良い事なのである。
 最も問題ある事の一つに、教師自身が一度も日本の社会に出ず、民族系の大学を経て教壇に立つ事が何とも嘆かわしいのである。(そういった意味では、日本学校の教師の中にも同じ様な場合もあるが…。上記の理由により、民族学校の場合は教員免許を取得する事なく、教壇に立っている。)
 従って、もし仮に生徒から進路について相談を受けたとしても、それに対応しうる能力を持ち合わせていないのが実状である。自らの世界の全てが、北朝鮮であり、総連である人に、これから日本の社会、さらには世界にはばたこうとする生徒に対する人材育成の心持は、そもそも微塵もないのである。
 彼らにとって人材育成とは、組織の中でのそれであり、またそういった事は、国や組織に仕える者こそ、優れた人材なのである。そこに、個人の夢や希望、能力などはもはやどうでも良い代物なのである。
 今でもある教師の言ったセリフが忘れられない。「民族教育において、人材育成とは総連の幹部を育てる事である。クラスの中に、そういう者がある一定の割合で存在し、その他の者はもはや学校とは関係がない。」
 また、校内暴力に関して言えば、日本の学校ならば暴力を振るった教師は当然処分を受けるであろうし、ニュースに流れ、問題になるであろう。しかし、民族学校では、生徒に対する暴力は日常茶飯事であったし、ほとんど表沙汰になる事なく、繰り返されていた。
 教育とは、人として正しい道を歩むためのもの。その教育の場での、この様な人間を人間として大切に扱わない教師と学校。それは、紛れもなく北朝鮮や総連の戦略なのである。
 総連が掲げている標語、「一人は全体のために、全体は一人のために」というものがある。あの独裁国家を民主主義と謳っている愚かなる体制同様、この様な有名無実な標語は、上記の様に現実と余りにもかけ離れている。やはり、人生とは全ての局面において、自らの意思によって判断・選択し、決定する。これこそ、真の民主主義、そして自由ではなかろうか。
 民族学校の教師とは、この様に生徒一人ひとりの人生をないがしろにする人が多い。人の人生がどうでも良いという事は、言ってみれば自らの人生もそれ程大切に考えていないのである。個人の人生よりも、国家や組織を優先する学校を学校と呼べるであろうか。
 私がいつも考える事は、まず人間が大切であるという事。それ以上でも以下でもない。また、人間が生きるという事は一体どういう事なのかを教えない教師も、到底教師とは言えないのではなかろうか。


    非公然組織「学習組」
 

 拉致問題発覚以降、民族学校から消えたとされるものがある。現状は分からないが、当時高級学校(日本の高校に当たるもの)に入学すると、学校側よりあるものに“勧誘”される者が少なからずいた。
 私もその一人なのであるが、ある放課後、担任に呼ばれ、こう切り出された。
「君、学習組に入る気はないかね?」
「学習組?」
「そうだ。名誉ある盟員になれば、祖国のために貢献する事が出来る。」
「はぁ。で、そこではどの様な『学習』をするのですか?」
「金日成主席の教えについて、さらに深く学び、祖国に命を捧げるために、身も心も鍛錬に鍛錬を重ねるのだ。どうかね?」
「…。折角のお誘いですが、お断り致します。純粋な教養の為の学習ならともかく、その様な活動に身を投ずる事には、興味がありませんので。」
「(やや怒った表情で)そうか、分かった。仕方がない。しかし、今日のこの事はくれぐれも口外しない様に。最高機密の一つなのだから。何も聞かなかった事にしておいてくれ。」 
 
 「学習組」とは、北朝鮮と朝鮮労働党に絶対の忠誠を誓う北朝鮮直轄の「革命組織」で、 在日朝鮮人系の朝銀信用組合に強い影響力を行使してきたとされる、メンバー約2,000人(当時)から成る、非公然組織である。
 通常、日本の社会、特に会社や学校においては、一切の政治・宗教活動は禁じられている筈である。それは、過去の戦争に対する猛省に拠る所が大きいと思われるが、集団がある特定の思想に染まった時の恐ろしさは、計り知れないものがある事を知っているからであり、当時の日本の軍国主義を始め、ナチズムやスターリン主義はその最たる例である。
 しかし、ここへ来て、また新たな動きがある様である。総連が、解散していた「学習組」の復活・再編を進めているという情報が流れた。総連の資金調達や組織の強化・引き締めなどの他、拉致事件や核開発問題で、日朝間の正規ルートによる交渉の行き詰まりを受け、対日工作を強化する狙いがあるそうである。その翌年には、ミサイル開発に使用可能な機械をイランへ輸出したとして、 警視庁が摘発した都内の工学機器製造会社による不正事件にも関与した他、対韓国工作も担当していた事が明らかになっている。
 また、公安当局によると、「学習組」は日朝首脳会談直前、つまり拉致問題発覚直前に、金正日の指令で解散したとされている。総連の中でも、秘密工作機関として公安当局にマークされていた学習組解散の背景には、北朝鮮の「民主化イメージ」を打ち出す戦術があったとも言われている。

 「学習組」は、校内においても「最高機密」という扱いであった。従って、その活動も秘密裏に行われ、その様子は茶番そのものであったが、盟員の各々は何ら疑いを持つ事なく、活動していく事となる。金日成思想を唯一の思想として。

 高校時代などは、年齢を重ねたとは言え、まだまだ自らの人生観の確立には至っていない場合がほとんどであろう。また、在日社会は、マイノリティーであり、かなり閉鎖的な社会である。ある意味、その「温室」で育った現在の三世や四世の大部分は、ある年齢に達するまで、外界を知らずに育つ。現在、民族学校の教壇に立つ者などが、良い例であろう。民族系の大学を出るまでの16年をその中でのみ過ごし、日本のこの厳しい社会を全く知らずに来た未熟者に、次の世代を担う子どもに、一体何を伝える事が出来るであろうか。
 
 終戦から、60年が過ぎようとしている現在でも、世界各地では紛争が絶えない。米ソの冷戦はとうの昔に終焉を迎えたが、宗教が絡んだテロリズムという新たな脅威が出現している。
 在日の子どもたちが、自らが背負った歴史的背景を知る事は確かに切実な問題である。しかし、世界はこの在日社会、さらには北朝鮮が中心で動いているのではない。複雑な世界情勢を常にグローバルな視点を持って見つめ、その中で自分たちはどの様に生きるべきなのか。
 この様に、民族教育の問題点の一つは、常に在日や北朝鮮社会を中心にしか見ないという点である。それでは、いくら言語教育や歴史教育を施した所で、何の意味も持たない無益なもので終わってしまう。
 緊迫した世界情勢が刻々と変化する中で、この様なシステムが崩壊する日は、そう遠くない。


   北朝鮮、万景峰号、そして朝鮮総連
 

 朝鮮総連の傘下にあるのは、何も朝鮮学校などの教育機関だけではない。その中には、金融機関、出版社、保険会社、さらには歌劇団や歌舞団にまで及ぶ。
 数年前、公的資金投入や破綻などで話題となった朝銀の全国組織「在日本朝鮮信用組合協会(朝信協)」は、民族系の金融機関である。因みに民族系の金融機関とは、在日朝鮮人・韓国人たちから預金を集め、在日系企業や市民への融資を行っている金融機関を指す。また、「朝銀」という名前が付いたものが北朝鮮(総連)系で、韓国(民団)系には「商銀」という名が付いている。
 当局直属の機関であり、全国各地の朝銀は総連に人事権を握られた機関であった。この朝銀の存在こそが、総連、さらには金政権をも支えていたと言っても過言ではあるまい。何故ならば、朝銀は莫大な預金をせっせと本国へ送金しており、それがミサイル開発や核開発の温床となっている可能性、何よりも、民族を破滅へと向かわせる金一族にとっての資金源ともなっている可能性がある事はほぼ間違いないと見られている。多くの国民が餓死していく中で、彼らだけが私腹を肥やしているのである。
 送金ルートは、大方次の通りである。現金の場合は船で北朝鮮まで運ぶのが一般的、日本へ寄港する北朝鮮の万景峰号で、北朝鮮への親族訪問などで乗船する人の手荷物に、数千万円ずつ入れ運ばせて無事持ち出す事が出来る。また、日本各地の海岸に接岸する北朝鮮の密入工作船に運び込み、持ち帰るというルートもある。
 
 万景峰号には、私も数回乗船した事があるが、友人の中には決して少なくない額を親や親族から預かり、本国に持ち込むケースが多く見られた。因みに、私が持ち込んだ物資は、ほぼ全て当局に没収されたのであるが…。
 帰国運動により北へ渡った者を持つ在日の多くには、現在でも北朝鮮へと送金している者が少なくない。本国の紙幣などは紙屑同然であるし、北朝鮮では外貨(主にドルや円)しか流通が出来なくなっている状態である。送金された金銭が、当局へと没収されるのはまず間違いなく、また物資なども、一部の特権階級の中で横流しされているのが実状である。
 この様な、北朝鮮への送金システムの歴史は古くに遡る。それにより、総連の一部のトップたち、北朝鮮特権階層の資金となり、総連の故・韓徳銖議長ら一族も、本国での贅を尽くした生活ぶりが時折伝わって来た事を思い出す。
 しかし、何と言っても先に述べた在日朝鮮人の帰国運動が何よりの原点である。帰国した10万近い者の多くは日本に親族を残して海を渡った。金日成の狙いの一つは、彼らを“人質”に取り、多くの在日から莫大な金をむしり取る事であった。
 日本においての著しい差別に耐え切れず、藁をも掴む思いで海を渡り、そこに待ち受けていたものは、日本のそれより遥かに厳しい差別と貧しい生活であった。何一つ自由はなく、反抗した者は即刻、収容所へと送られる。生き長らえた者は人質として利用され、また、日本に残った在日も北朝鮮により翻弄された者は後を絶たない。全財産を没収され、無一文になった者も大勢いる。
 新潟発の船には、現在でも親族訪問の為に乗る人が多数存在する。何を思い、決して安くない代金を支払い、繰り返し訪問するのか。私には、到底理解出来ない事である。はっきり言って全くの無意味である。
 しかも、親族訪問の際の面会日時や場所などは、全て当局によって決められ、徹底的に監視が付く。焼け石に水とは、まさにこの事。あの政権を打倒しない限り、あの国への金や物の流れは一切断ち切るべきである。さらに、総連支部や分会など小規模集会での募金、朝銀の預金、そして民族学校の教職員の給料や生徒の学費など、何かしらの形でこれら全てのものから北朝鮮へ送られる資金が集められる。
 
 有史以来、一体どこに自らの国民を人質に取り、海外の同胞から金を奪い、軍事最優先の独裁政権を維持する為に使った政権があっただろうか。歴史上、最も非人道的で、自国民を微塵も愛さず、有名無実な社会主義体制を維持する愚かな国家が、現在まで地球上に存在し得ている事は、これはもはやこの国だけの問題ではなく、地球の恥である。
 個人的には、総連は日本の中にある第二の北朝鮮であると思っている。いや、見方を変えれば総連なくしては北朝鮮の現在までの存続はあり得なかった様に思う。空前絶後の愚かなる体制は、チャウシェスク政権の様に民衆によって打倒されるべきであり、それを支え続けた総連の大罪は、もはや拭い様がない。

              ((『木苺』123号 05・7)