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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

残留孤児とモンゴル沙漠植林

2008-10-26 14:51:07 | 中国残留日本人孤児
 こんな記事を見つけました。先日のきいちご移動教室に参加した残留孤児の皆さんやブリンさんなど内モンゴルから来た方々に読んでもらいたいのでとりあえず紹介します。
  

  植林活動で恩返し 中国残留孤児女性内モンゴルで
        
              東京新聞 08 ・10・18


 
 月末に来日し講演
 中国残留孤児の烏雲(ウユン)さん(70)=日本名・立花珠美=は、日本の肉親が判明した後も中国・内モンゴルに残り、「沙漠(さばく)」の緑化に取り組んでいる。「中国に恩返ししたい」という思いからだ。今月末に来日し、講演を通して協力を呼び掛ける。(山本哲正)
 

 母・姉・弟を失う
 「母は一歳の妹を刺しました」。烏雲さんは敗戦時、一九四五年八月の混乱を振り返る。日本に帰国しようと、中国東北部(旧満州)から歩く約千六百人の隊列に烏雲さんの家族六人もいた。隊列がソ連軍に遭遇し、姉と弟二人が殺された直後に始まった集団自殺。怖くて逃げ出した烏雲さんは、母が短刀で胸を刺し倒れる姿を目にした。
 父は役人として満州に渡った。「当時は現地の農民から卵を買うなど、私たちに侵略の感覚はなかった。しかし、後に歴史を学び、侵略と分かった」と烏雲さん。自らのつらい体験もあり「戦争は特攻の若い男性だけでなく女性もひどい目に遭わせる」と非戦への願いは強い。
 
 養母の愛に包まれ
 一人残された当時七歳の烏雲さんは、中国人に助けられ、回り回ってモンゴル民族と漢民族の夫妻の養子となった。養母は、恐怖で悪夢にうなされる烏雲さんに、ぜいたく品だった砂糖水を作って与え、「お母さんが抱っこしてあげる」と、深い愛情を注いでくれた。
 学校でも、日本人の烏雲さんを差別することなく、奨学金も出してくれた。烏雲さんは「恩返しに、中国の子どもたちのために頑張りたい」と勉強に励み、高校教師になった。
 
 「沙漠化」止めよう
 七〇年代以降、教え子たちの家庭が学費も出せない貧困状態にあることに気付いた。草原の沙漠化で農業収入が減っていたからだ。退職後の九四年から、ホルチン沙漠(約五百二十万ヘクタール)での植林活動に尽力。日本の植林ボランティアの全面支援で緑化が進んだ約三百六十ヘクタールは「烏雲森林農場」と名付けられている。
 黄砂を引き起こす沙漠化を食い止めようと、日本からの植林隊は今も続々とホルチン沙漠を訪れる。烏雲さんは「私は中国人の愛を受け、日本人の愛を受けている」と喜ぶ。八一年の一時帰国で徳島県に住む実兄と再会したが日本に戻らず、「育ての親」の地で尽くし続けた成果だ。
 烏雲さんが名誉顧問を務めるNPO法人どんぐりモンゴリ(愛知県長久手町)は、森林農場を拠点に、植林のほか、現地の子どもたちの教育支援に力を入れる。沙漠化の改善には現地の人々の教育も重要なためだ。同法人は、通常使われる「砂漠」ではなく、人為的要因で「水を少なくした」ことを強調するため「沙漠」を使う。沙漠化に対する意識改革を促す狙いだ。
 今回の来日講演を企画した同法人の角和保明理事長(64)は「私たちの会は、烏雲先生の奉仕の思いに学び、貧困地域での活動を手伝っている。先生の話を多くの人に聞いてもらい、活動にも協力を呼び掛けたい」と話している。
    ◇
 烏雲さんの講演(一部有料)は、十月三十日から十一月四日まで計六回開かれる。十一月三日午後一時-同三時半(名古屋市中区のモンゴルレストラン「シンキロー」で)など。問い合わせは、どんぐりモンゴリ=電0561・61・3329。

 どんぐりモンゴリ http://www.mongori.jp/index.htm

支援相談員の待遇改善

2008-10-25 07:27:55 | 中国残留日本人孤児
 23日(木)朝10時、忠幸さんと都庁の「中国帰国者対策係」を訪ねました。本年度からはじまった支援相談員制度で活躍中の人々の待遇改善をお願いするためです。
 東京都で採用されて区市に派遣されている相談員の日当は9000円で交通費相当分もこれに含まれているという説明です。A市1日、B区1日という具合に週2日勤務です。国が予算化して自治体に交付する日当がこれです。
 これではボランティア活動の交通費支給程度で生活を支える賃金だとはとてもいえません。区によっては嘱託職員として採用し、独自の労働条件を整えているところもあります。人を雇う時の当然の姿勢です。
 来年度から都での採用はなくなり区市の制度となるそうです。ならば区市で制度設計をするわけですから板橋区などの例にならい労働条件の整備をはかってほしいものです。
 やり甲斐のある仕事だからといって卒業生やその家族に応募を薦めた結果、私たちの知り合いが8人この仕事をしています。すべて中国残留孤児2世の女性たちです。生き生きと活動している様子はきいちご移動教室の記事でも報告しました。
 都庁や区役所で働いている人々が自分がこの仕事をやるとしたらという思いにたって考えてほしいものです。国の基準だからといって決められた手当を支給するだけならロボットでもやれます。

 午後は日暮里で「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の会合がありました。韓国で在外国民に国政参加の道を開く立法が行われるという報道があります。これらにかかわって僕の考えを書いておきたいのですが他日を期すことにします。

 昨日は雨のせいもあったのか寝たり起きたりの一日でした。疲れがたまったのか、先日、胆石(?)の痛みに一夜苦しんだ妻が検査の結果「たいしたことではない」とわかり、一安心。
 今日は1969年3月、都立大島高校卒業生のクラス会です。僕が最初にHR担任をした面々です。天気も回復してきたようで、元気も徐々に回復してくることでしょう。

支援・相談員(続)

2008-03-04 17:57:42 | 中国残留日本人孤児
 久しぶりに都庁を訪ね、生活福祉部で支援相談員について教えて貰いました。忠幸さんと同道。
 厚生労働省から一定の予算は配当されるが、あくまでも区市町村が実施主体で労働条件なども自治体が決めるとのことです。残留孤児30名につき相談員ひとりを配置するのが国の基準ということですから、どの区市町村にもというわけではありません。東京でいえば、足立、江戸川、板橋、練馬、北、葛飾、江東、品川などが多いところではないかと思います。30人より少ないところはどうするのでしょうか。一日単位、一時間単位で雇うことになるのでしょうか。
 僕が住む川越市は埼玉県ですが対象は18所帯で相談員は週一日だけの勤務だそうです。こんなことで相談に応じられるのかと疑問です。季節ごとに労働時間を決めたところもあるようです。4・5月は書類提出があるから多くするが、他の月は配置しないとか。人と人の信頼関係を抜きに成り立たない仕事なのに、と思ってしまいます。区市町村長に聞いてみたいものです。こんな条件で自分なら働きますか。
 東京都の担当職員の方は初対面の私たちにも丁寧に、時間を割いて話をしてくれました。都立高校で働いたこともあるということで、親しみを感じてくれたのかも知れません。少数居住者の自治体のために都でも募集をするそうです。中国語が出来ること、残留孤児に対する理解があることなどが求められます。嘗ての生徒で受検希望者が3名はいます。早速情報を伝えることにします。訪ねてよかったと思います。
 各区市の担当部局の方々もこの制度を実効のあるものにするために心を砕いてほしいと思います。残留孤児の方々が身を削って闘い取った制度なのです。時には幹部を説得して、働く人にも、当事者にも受け入れられる制度設計をしなければ意味がありません。自治体によって取り組む姿勢が違いすぎる、というのが今の僕の印象です。制度発足の4月はもうすぐです。
 帰りに二人で都庁の展望台に登って、コーヒータイム。忠幸さんは二つ先輩です。何かを言い出すのはたいてい僕ですが、それをきちんとフォロウし、行き届いた仕事をするのは忠幸さんです。大学で中国語を習得して以来半世紀、今も研修を続けています。一緒に仕事をするようになって20年が過ぎましたが、僕は何かといえば頼りにしています。
 帰ると花見バスの参加申し込みの手紙が届いています。中国語です。文字を共通にしているお陰で大体のことは解ります。楽しみにしている人たちに応えられるような旅にしたいと僕も元気づきます。5日には開花予報が発表されます。

中国残留孤児・支援相談員

2008-03-02 10:01:13 | 中国残留日本人孤児
 29日夜、嬉しい報せがありました。18年前の卒業生から「支援相談員」という仕事に就けそうだという電話です。
 「中国残留邦人支援法」の改正により、残留孤児に対する年金支給などが改善されることはこのブログでも書いたことがあります。しかし、同じ法律に基づき、自治体に支援相談員という制度が作られることには無関心でした。4月1日に発足ということを知ったのは最近のことです。
 残留孤児2世のAさんがこれに応募、みごと内定ということらしいのです。特別職の公務員で週4日程度の勤務ということですから、僕が5年間勤めた東京都の「嘱託」と似た勤務条件です。
 残留孤児の自立を支援し、さまざまな相談にのるのが仕事ですから、Aさんにはうってつけでしょう。祖母や親たちの苦難を側に見ながら、「非行」に走りがちな同世代にも心を砕いてきた人です。中国語も達者ですから、親たちの世代の相談事にしっかり対応できます。頑張ってほしいと思います。
 残留孤児の皆さんが立ち上がって勝ち取った法律改正です。自立支援の相談員に最もふさわしいのはAさんのような2世です。あちこちで応募してほしいと思っていたら、その後数人の人から問い合わせがありました。自信はないが自分も少しは社会の役に立ちたい、という思いが聞こえてきます。
 各地の自治体が、この仕事の重要性に鑑み、真に適正な選考をしてくれるように願うばかりです。自治体によっては問い合わせに応えられない、無責任でいい加減な所もあるようです。こんな制度が作られたことさえ把握していないかのようです。皆さんの自治体はどうでしょうか。
 僕もこの川越をはじめ、いくつかの自治体に問い合わせをしてみるつもりです。
折角の法律に魂を入れるのは私たち市民です。30日は残留孤児やその家族を中心に花見の一日、よろしかったらどうぞ。

聞き書きをやりませんか。

2008-01-16 17:09:18 | 中国残留日本人孤児
 きいちご基金の忠幸さんが中国残留婦人・孤児の聞き書きを一緒にやろうというかたを捜しています。①意欲がある②暇がある③中国語が出来る、の3条件が整っていれば最高です。然し、仮に③が満たされていなくても①②が有ればなんとかなると僕は思います。
 右も左も「侵略」とか「植民地支配」とか「開拓団」とか「残留孤児」とか…という言葉で歴史が解ったつもりになっている人が多いのが現実です。歴史の証人が隣人としてこの社会で生きているのに、これらの人と会話の一つも出来ない(しようとしない)人が歴史論争をやっていたりするのです。
 私たちは、閉ざされた世界で孤立を余儀なくされているひとびとと友だちになって、私たち自身の現実の生活を豊かなものにすることを目的に活動しています。それらのひとびとの歩みを知ることは、私たち自身が生きているこの時代をよく知ることにつながります。そして私たちの一人一人が歴史を書く人になっていくことが大事です。
 関心がある方が居られたら連絡してください。
 
 忘れない内にお知らせしなければならないことがあります。尋ね人です。
今から7・8年前、中国黒竜江省寧安市民主村(旧寧安県石岩鎮)に肉親の墓を捜しに来た日本人を知りませんか。
 3・4人の日本人(内一人は白髪の男性)が来たのですが、墓は見つからず、「学校の近くだった」という事でそのあたりに花を供えて帰っていったそうです。
 ところがその後、水道工事で穴を掘った際、人骨が出てきました。男女各一体。男は軍人だったようで軍服の階級章と長靴が出てきました。
 このときの工事責任者は1月12日のブログに書いたTさんの奥さんの弟さんです。Tさんご夫妻はそのとき里帰りしていて、偶然この現場を目撃したのです。弟さんは遺骨と遺品をビニール袋に入れ再び穴に埋めたということです。
 Tさんご夫妻はそれ以来、墓捜しに来た日本人の手に遺骨を渡してやりたいと思い続けて来たのですが、どうすればいいのかわからず、気になったまま、今日に至っているそうです。
 
 どうすればいいのでしょうか。どなたか、いい智慧が有りましたら教えてください。

 22日に目黒の祐天寺で日本政府が主催して韓国人の遺骨の送還、慰霊式があると友人が知らせてくれました。韓国から50人の遺族が来日して出席するとのことです。23日にはソウルで式があり、約100人の遺族の手に遺骨が渡るといいます。九州に住むこの友人のようなひとびとの運動が実って、解放独立から63年目にして漸く実現します。あちこちに散らばっているたくさんの遺骨はこれからです。なんと言うことでしょう。
 
 Tさんの奥さんは1941年に河北省で生まれた中国人です。日本軍の侵略をもろに受け、国共内戦、大躍進期の飢餓などを生き抜いて、残留孤児のTさんと結婚しました。「日本鬼子」と一緒になったばかりに文化大革命期の苦労はなみたいていのものでは無かったでしょう。その奥さんが旧日本軍軍人の遺骨のことをここ数年気にかけているのです。なんとかして遺族を捜し出したいと思います。

きいちご基金HP開設

2007-09-21 20:51:33 | 中国残留日本人孤児
 
四月に発足した『きいちご多文化共生基金』のHPが開設されました。
 
     http://www.geocities.jp/kiichigokikin/
 
 一人ひとりの事情や特徴をともかく認めた上で、交流を大切にしながら民主主義の社会を作っていく。その為に意見交流や出来ることをやっていく小さなグループです。当面、中国残留孤児や脱北帰国者(北朝鮮を脱出して日本にたどり着いた元在日コリアンとその家族)のかたがたとの交流を中心に出来ることをやります。
 こういうことは私たち名もなき者が「相身互(あいみたがい)」の思いをほんのちょっとずつ大切にして、生きている限りやっていくことです。ですから思いがある限り誰でもが仲間です。
 どうか、ときどき、ご覧になって、よかったら感想や意見を遠慮なく書き込んでください。
 当たり前のことを実現することが難しい世の中です。異見を我慢をしながらでも認め、いっしょに取組むことを見つけていきたいものです。


 奈判利(なはり)の米ケ岡を訪ねたときのことを写真つきで紹介してくれたブログがあります。なはりサポータークラブというのは個性的な魅力ある人がいるのだなあと改めて感心しました。日曜日の稲刈りに招待されましたので、見学に行きます。

 http://www.neconote.jp/gc/

 

中国残留日本人孤児と中国人妻

2007-08-04 18:08:39 | 中国残留日本人孤児
 2日から3日にかけ、「きいちご一泊研修の旅ー<中国残留日本人孤児>の方々と共に」ということで塩原温泉に行って来ました。カツヨシさんが<ぼくの2票>のコメント欄にその様子を書いてくれましたのでお読みください。
 <残留孤児>3人、中国人妻6人を含む16人の参加です。きいちご基金の財政的基盤が弱いため一泊旅行をなかなか企画できなかったのですが、おおるりグループのホテルを利用することで成功させることができました。
 1泊2食4725円、往復送迎(無料)付で、現地でもリンドウ湖への無料送迎(入場無料)など、いくつかのサービスがあります。おかげで僕は「おおみ劇団」の実演を快適なゆけむり会館で見ることができました。小学生の頃寺の庭にござを敷いて見た田舎芝居の雰囲気を中国からきた人々と味わったのです。おおるりグループのことは昨年の小学校の同窓会の時、友人に教えてもらいました。感謝。この会社は庶民のために社会福祉事業をしているのかと感心しました。http://www.ohruri.com/
 5時半から9時過ぎまで、夕食を共にしながら半生を紹介しあいました。この日はじめて会った方もいます。日本に来て20年以上経った方ばかりですが、日本語の壁は厚く、KさんとIさんが通訳として今回も大活躍。
 僕とは年齢もほとんど同じですが、中国で40年あまり、日本で20年あまり過ごした体験はあまりに違います。その具体的な話は皆さんにも直接聞いていただきたいとおもいます。妻に比べて夫たる人の参加が少ないのは日本に帰ってきて病気のために亡くなったり、入院したりしているからです。
 他人のことは聞いてもなかなか理解できるものではありませんが、この人たちの半生は日中の現代史そのものです。過去のことは思い出したくないと言う方もいます。それでも語ってくれるとしたら私たちは自分自身がよりよく生きるために耳を傾けましょう。
 僕はあなた方の人生の物語はこの国の宝だから聞かせてくださいとお願いしました。ウチに来てください。餃子を作って待っています。そこで人生の話をします。と言ってくださる方もいます。僕は今までもそんな誘いを受けて何度かご馳走になりにいきました。
 しかし、みんなで押し掛けるというわけにはいきません。ですから、きいちご大学をつくるのです。残留孤児や中国人妻のお話に耳を傾ける「この人に聞く」というシリーズをまず始めます。具体的なことが決まったらお知らせします。
 この大学の目的は知識を得て資格を得ることではありません。その人をすこしでも深く知り、友として生きていくことです。そしてさまざまな人々と共に生きる社会に近づいていくために私たち名もなき市民にどんなことができるかを考えたりもします。丸川さんのような人がなぜ学ぶのかという疑問にたどり着いたとき、手をさしのべられるように(半分冗談)東京大学の近くに学舎を確保しようかと画策しています。
 今まで通り、バス旅行も、今回のような一泊研修旅行もやります。楽しく、元気に、この人生を生きるために皆さんも学友(きいちごの会員)になってください。
 


 

如意寺の住職さん

2007-06-02 05:49:20 | 中国残留日本人孤児
 5月20日のきいちご移動教室は41人が参加しました。中国残留孤児4名とその家族のほか中国から来た人々が多いのが特徴です。今回は青海省から来た人、内モンゴルから来た人がいます。皆私たちの生徒であった人やその家族、友人です。韓国から来た人とその家族、コリア系の人々、そして僕のような在来型日本人。通訳になろうとして中国語に挑戦している娘さんが2人もいました。
 前日の雨が大気をすっかりきれいにしてくれて本当に素晴らしい初夏の空。木々の緑も鮮やかです。Fさんが「夏は来ぬ」の歌唱指導をしてくれました。小さいときから朝鮮総連系の学校で育った人です。拉致問題や北朝鮮の人権問題を学ぶ中で出会った僕にとっては比較的あたらしい、そして若い友人です。日本の唱歌への理解も深く、指導力も優れています。今回はPさんもWさんも欠席なので唱歌の時間の心配をしていたのですが、帰りのカラオケ大会を含めて素晴らしいできでした。
 関越道赤城インターでおりたあと利根川の右岸を北上し、岩本という駅のところで岩本発電所を遠望しました。第二次大戦末期、この発電所建設工事のため連行された中国人が過酷な労働のため、たくさん犠牲になったのです。
    朝鮮新報 岩本発電所に関する記事
 
 月夜野の如意寺に着きました。利根川の段丘の山裾に位置する曹洞宗の寺院です。驚いたことに住職さんが私たちを本堂にいれ、中国人殉難者の法要を営んでくれました。お経を上げ、参加者に焼香をさせてくれました。前夜、思いついて、慰霊碑を見学する際、卒塔婆を建てて供養できないかと住職さんに相談したのです。
 イイですよといってくれたのですが、こんなきちんとした法要を営んでくれるとは考えてもいませんでした。考えない方がおかしいのです。卒塔婆を建てて供養するとはこういうことだったのです。形だけのまねごとを考えていた自分の浅はかさがまたもあらわれてしまいました。
 住職さんは法要のあと、お話をしてくれました。先々代の住職は中国人殉難者の遺骸を引き取り法要を営んだのですがこれには当時の特別高等警察(特高)が良からぬことと干渉した。敵国の捕虜の死を弔うということは非国民的行為というわけです。当時の村人の証言によれば、住職は訪れた特高を寺域には入れず、外で話をつけ追い返していたそうです。また、寺の過去帳には中国人の名も村の人たちの名も同様に記されていると言います。このことを知った中国の人たちが住職を中国に招待したが何かの事情で行けなかったと言うこともあったそうです。先々代とは住職のおじいさんのことだと思われます。恥ずかしいのか、そうはおっしゃらなかったのですが、先々代を尊敬していると力を込めて話されました。
 お話のあと、本尊(釈迦如来)をまつってある須弥壇(しゅみだん)の裏側に私たちを案内してくれました。中国人の遺骨を安置してあった所です。横長の板に墨書されています。
 遺骨安置所 中国人 前中華民国  岩本発電工事就業中 殉難病没死者五十三体 外六霊 当時俘虜 昭和二十八年七月遺骨送還公約日 住職玉峯道仙是ヲ親書ス
 何年後トイエ共此札取リ去ル可カラズ 現住十九世自記ノ所
 
 遺骨送還が決まった日、住職はここに歴史の事実をはじめて書き留めたのであろうか。もうすぐふるさとへ帰ることができることを故人に伝え、その霊を供養する尊い姿が浮かび上がってきます。またこのことを後世に伝えようという19世住職の強い意志が感じられます。半世紀ののち是を読む私たちに歴史の事実を心に刻み、未来に生かせと教えています。遺骨を入れてあった木の箱が今も本尊の下に安置してあります。
 住職さんの心遣いのおかげで本当にいい学びができました。参加者がどう受け止めたか、後日文集を作ってお届けすることを約してお礼を申し上げました。
 裏山に建てられている慰霊碑を見学し、小学生のN君が卒塔婆を供えました。慰霊碑の裏には殉難した人々の名前が刻まれています。昭和28年(1953)7月といえば僕がこのN君と同じ小学校6年の時です。殉難者の遺骨は無事遺族の手に渡ったのでしょうか。今日なお、韓国への遺骨送還に心を砕いている友人のことを思い出します。
 バスに乗って花の終わったリンゴ畑の中を高山高原牧場に向かいます。僕がたくさんの犠牲者が出た朝鮮人の慰霊碑はなぜないのか?とといかけました。高柳俊男教授が答えてくれました。どんなこたえだったとおもいますか?皆さんも考えてください。
 高原牧場と群馬県立天文台の楽しい4時間については参加者に語ってもらいましょう。次回は10月の中旬の日曜日です。どなたもどうぞ楽しみにしてください。
(昨日の訪問者は73人でした。ありがとうございます。) 

中国残留孤児の人権回復を

2007-05-31 07:41:12 | 中国残留日本人孤児
 昨日は12時半から厚生労働省前を通る短いデモに参加しました。全国各地から集まった残留孤児の方々のしっぽについて歩きました。800人の残留孤児の参加者に対し僕のような一般市民の姿はほんのわずかです。その後、日比谷公園の一角で行われた座り込み行動の前段集会に途中まで参加しました。
 菅原幸助さんのお話が印象に残ります。ソ連軍が侵攻してきたとき真っ先に逃げた関東軍の旧軍人らが800万円とか500万円とかの軍人恩給を受け取ってきた、旧満州国の官僚らも戦後国内において同様の地位を占め高額の年金を得てきたというのです。それに対し、満州の地に捨て置かれてきた孤児に対しては、帰国後も生活保護を与えてよしとしてきたのです。
 菅原さんは19歳の時、官僚の家族らが逃げ出すとき、その警護を命じられて、そのおかげで帰国できたとのことです。旧満州で支配層にいた人たちの戦後の歩みも見てこられたことでしょう。彼らは捨ててきた同胞に思いを寄せたことがあったのか。82歳になっても孤児の人権確立まで闘うと言う菅原さんの姿に悔しさと共に人間の輝きを見ることができます。
 僕は90年代に在日韓国人傷痍軍人の陳石一さんの裁判を応援したことがあります。戦後、彼らの日本国籍を一方的に剥奪しておいて、日本国籍がないことを理由にこの国は障害年金の支給を拒否してきたのです。そのことについてかつて同じ釜の飯を食い、今は年金生活をしている人たちが何も言わず、「シカト」していることが一番悔しいと陳さんは言っておられました。
 旧軍人たちのある者たちは生き残ったことが恥だと言って、あちこちに戦没者の慰霊碑を建て身の証にしているが、生きて、人としての尊厳を求めて闘っている人々に知らん振りをしてきたのです。その頂点に立ってきたのが岸信介元首相ではなかったか。僕はかつて愛知県の三ヶ根山というところで岸元首相が揮毫して、東条英機ら7戦犯の巨大な墓を建て顕彰しているのを見たことがあります。岸元首相が満州国経営の大幹部であったこともよく知られています。
    三ケ根山 殉国七士廟

 安倍首相が残留孤児の代表と会って、従来の政策の不充分さを認め、人間としての尊厳を保つに足る処遇策をうち立てると約束したそうです。祖父を尊敬するという安倍さんに祖父がしなければならなかったのに、しなかったことを心を込めてやるという思いが宿ったとすれば嬉しいことです。官僚どもの抵抗を断固排除してこの国に希望があることを示してほしいと思います。
 日の丸のはちまきをしている方が目立ちました。各地で裁判を闘っている代表の方が次々に決意を表明されました。ほとんどが中国語です。私たちの移動教室と同じように通訳のかたが日本語にしてくれます。孤児の平均年齢は67歳だと言うことです。僕もこの4月から完全な年金生活者になりました。もうすぐ66になります。
 孤児の人々に「かえってよかった」と心から思っていただけるよう、私たちなみの年金を支給するなどと言うことは、その労苦を思えば当然のことです。その労苦を理解していない人、理解しようとつとめない人々が多すぎます。理解したいという人のために僕もすこし努力をしようと思います。僕は100人近い彼らの子どもたちの教師であったのです。何もしなければ税金泥棒です。移動教室や知り合いの方々のお話を聞く会などの案内をこのブログでもしようと思います。残留孤児の人権回復の闘いに立ち上がらなければならないのは私たち自身であることを肝に銘じたいと思います。
 
鎌倉ユネスコ(55号)(03・12・1発行)に菅原さんの紹介記事があります。

ハーイ、こんにちは・・・・・・“人権賞”受賞の菅原幸助さん
嬉しいニュース。
鎌倉ユネスコ第二 代理事長・菅原幸助さんに、横浜弁護士会第8回“人権賞”が贈呈された。
同賞は、年一回、人権を守る活動で優れた功績を残した人や団体を表彰するもの。
菅原さんへの授賞理由は中国残 留日本人孤児の日本国籍取得を実現させた実績と、帰国後、国の支援がない ため自立が困難になり厳しい生活を余儀なくされている孤児たちが、政府に 損害賠償を求める集団訴訟を支援しつづけた、その地道な努力と行動力。

過去15年間に菅原さんのお世話で帰国した中国残留孤児は300世帯に及ぶ。
みんな就職させ自立させたつもりだった。が、彼らが定年を迎える段階になって、実際にはその7割が規制の多い僅かな生活保護で暮らさざるを得ない苛酷な現実にあることを知る。10万人の賛同署名を集めての二度にわたる国会請願は不採決に終った。
集団訴訟の弁護士探しを依頼され途方に暮れていた菅原さんの相談相手が鎌倉ユネスコの理事長職をバトンタッチした及川信夫弁護士だった。
及川さんの紹介で小野寺利孝弁護士に出会いそこから輪は広がった。
今、1,262人の原告に対し、183人の弁護団へと発展。
菅原さんを含め、みんな手弁当のボランティアだ。 一人からの出発を決意し踏み出した背景を菅原さんは「私の青春時代の罪ほろぼし」と言う。
親の反対押し切り満蒙開拓を夢見て渡満。農事訓練生としてホームステイした中国人家庭で中国語をマスター。
そこを見込まれ終戦の年3月、憲兵教習隊員にひっぱられた。ほどなく敗戦。関東軍将校や高級官僚の日本帰還任務に追われるなかで見聞した開拓団おんな子供の悲惨。
帰国後は朝日新聞事件記者で鳴らした時期もあったけど、あれが侵略戦争だったと本当に気づいたのは、横浜中華街取材で会った中国人学生との対話から。 53歳、遅い気付きだった、と。
「受賞はもちろんありがたいことだけど、孤児たちが安定した人間らしい暮しができる日が来ない限り、喜ぶわけにはいかない」と語り終えた菅原さん、三年前に病んだ椎間板ヘルニア後遺症で痛む足をかばうかのように、ステッキをつき初冬の街を去って行かれた。その後ろ姿には、2年以内の判決をめざし、勝訴の日まで粘り強く支えていくための全国100万人署名と支援募金運動の重責が懸っていた。


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夏は来ぬ――きいちご移動教室

2007-05-17 07:40:56 | 中国残留日本人孤児
「希望はどこに」の続編を書かなければと思いつつすこし疲れ気味なので、閑話休題。11日に池袋商業高校の定年組OB教師たちの会に出たほかはずうっと川越です。ときどき、鳩山という町の里山を歩いて、都幾川の温泉に入ります。水くみをして帰ります。この数日は<きいちご移動教室>の準備で暮れて行きます。
 6回目になる今回は20日に群馬県の後閑にある、如意寺と高山村の牧場を訪ねます。午前中はフィールドワーク、午後は自然の中での交流というのが定番です。「大東亜戦争」末期、利根川の岩本発電所建設工事に動員され犠牲となった中国人の慰霊碑を如意寺に訪ね、法政大学の高柳俊男さんの講義を聴いたり、住職さんの話を伺います。高山高原牧場で昼食のあとゆっくりと緑の中で過ごします。「中国残留孤児」とその家族を中心に49人が参加する予定です。日本語が充分でないため、家に閉じこもりがちな人々を誘って、素晴らしい日本の自然を満喫し交流を深めるのが目的です。
 昨日は今回のテーマソング「夏は来ぬ」の歌詞のプリントを作りました。「卯の花の匂う垣根に…」と一字一字、書き写していくのですが、佐々木信綱の詩の世界を理解することの難しさを実感します。卯の花こそ我が家でも咲き誇っていますがホトトギスもホタルもクイナも縁がありません。田植えにしても様子がすっかり変わってしまって、早乙女を見つけることはできません。この唄が「教育唱歌」となったのが1896年ということですから、仕方がないのかもしれません。
 僕は幼少の頃、麦わらでホタル籠を編んだり、蚊帳の中にホタルを放したりした思い出があります。小2の時、早世した弟がまだ赤ちゃんの時だったと思います。田植えをした記憶はありませんが、家族みんなで稲刈りをしたり、千歯という物を使って脱穀した楽しい労働の日を思い起こすことができます。                                               
 ホタルといえば今は中学生の母となったSさん姉妹が高校生の時、一緒に「残留婦人」のおばあちゃんの故郷を訪ねたときのことが忘れられません。鳥海山の中腹のキャンプ場で闇の中を乱舞するホタルの群に心を奪われたのです。ここに連れて行ってくれたのは同僚のIさんでした。Sさん母子はこのバスの旅の常連ですがIさんはこの数年姿をみせてくれません。心が疲れていたとき、自然の治癒力のすごさを僕に教えてくれたのは山の達人であるIさんです。また、いつか、そんな日のあることを願っています。
 さて、65になる僕にしてこんな遠い、貧しい記憶しかありません。都会育ちの若い人や外国から来た人たちに佐々木信綱の世界を想像してもらうにはどうしたらいいのでしょう。そんなことをあれこれと考えていると旅の楽しみがじわじわとわいてきます。
 今回初参加のF君はピアノの名手ですがカラオケのチャンピオンになったこともあると言います。朝鮮人学校の育ちですが「夏は来ぬ」は愛唱歌でもあるとか。Fくんのリードのもとで参加者の声が響く20日のバスの風景が意欲をかき立ててくれます。
 この旅に次回から参加してみたい方がおられたら、遠慮なく連絡してください。主催はきいちご多文化共生基金。参加費は100円(旅行保険料)です。自然に親しみ、隣人と仲良くしていこうという方のすべてに参加資格があります。年間、1000円程度以上のカンパで会員になることもできます。

 
 僕が懐かしい唱歌などを思い出すときお世話になるブログがあります。皆さんも訪ねてみてください。
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