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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

映画 『嗚呼 満蒙開拓団』

2009-06-14 05:32:10 | 中国残留日本人孤児
 13日(土)
 思ったより天気が良くなったので昼前に自転車で上尾丸山公園に行く。紫陽花・花菖蒲が盛り、スイレンも咲き始める。途中平方で昼食、鰻重1950円也。値段の割りに味が今ひとつの感じ。小沢屋さんの味が懐かしい。

 7時のNHKのニュースが『嗚呼 満蒙開拓団』の上映開始を伝えている。そういえば今日の食堂で読んだ『毎日新聞』にはどういうわけか広告がでていた。上映運動に力が入っているのだろう。

 とりあえずは東京・神田の岩波ホールです。ぼくも近く観にいきます。
羽田監督のインタビュー記事があったので紹介します。


 
映画「嗚呼 満蒙開拓団」全国上映へ

 「歴史の真実知ってほしい」  羽田澄子監督にインタビュー
 

「満蒙開拓団」の悲劇を描き大きな反響を呼んだ「大地の子」に続いて、NHKでドラマ「遥かな絆」が放映されました。「平塚らいてうの生涯」「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」などの制作で知られる羽田澄子監督の演出による映画「嗚呼(ああ) 満蒙開拓団」が、6月13日の東京(岩波ホール)を皮切りに全国各地で上映されます。羽田さんに聞きました。(編集部)



大きな衝撃、「満蒙開拓団」体験者の証言


 映画は約2時間にまとめられたドキュメンタリー。その多くは、「満蒙開拓団」を体験した人びとの「証言」とその背景を撮った映像で作られています。監督自身がナレーターを務めています。
 映画の冒頭で、「中国残留日本人孤児訴訟」東京地裁の不当判決に怒り、抗議する孤児たちが登場します。映画は、この訴訟に欠かさず参加してきた羽田さんの問題意識と事実を探求する取材を前提に構成されています。
 「満州国」建設、満蒙開拓団の派遣、ソ連の侵攻、そして民間人を見捨て逃亡した関東軍の非情への憤り、置き去りにされ「お芋食べたーい、お芋食べたーい」といいながら連れ去られた妹との離別の悲しみ、凍死・餓死した4500人にものぼる遺体を処置したすさまじい体験、放置された遺骨の埋葬のために奔走し周恩来首相に「日本人公墓建立」を決断させた残留婦人の活動、養父母との再会と離別の喜びと悲しみを語る高齢となった「残留日本人孤児」など、そのひとつひとつの「証言」が大きな衝撃を与えます。そして深く胸に迫ります。



恨みもつ中国人が「なぜ日本人のお墓を」



映画 嗚呼満蒙開拓団のワンシーン
©自由工房 羽田さんは、旧「満州」大連で生まれ、旅順、大連で暮らしました。敗戦後、帰国してからも「旧満州の奥地で何が起こっていたのか」を知ることもなく何十年も過ぎました。
 「残留孤児」訴訟のなかで、目にした冊子「星火方正」(せいかほうまさ)を見て、中国東北ハルビンに近い方正(ほうまさ)に日本開拓団難民のために中国が建立してくれた「方正地区日本人公墓」があることを知りました。
 日本に恨みをもって当然の中国人が「なぜ日本人のお墓を」という疑問をもちました。その後2回の「方正地区公墓訪問」ツアーに参加し、精力的に証言取材を重ねました。
 「映画の筋書きはありませんでした。取材しつつ作り上げました。この人びとの体験を聞き、『人間のすさまじい人生』があったことを知り、驚きとともに自分と同世代でこんな苦労をしている人がいたという痛恨の思いと責任を強く感じました」と映画制作の思いを語ります。



「歴史の真実」から目をそらしてはならない


 映画を作りながら「日本の若い世代は歴史についてどんな教育を受けているのだろうか」という疑問と不安が大きくなりました。
 「歴史の真実から目をそらしてはならない。日本政府の責任も明らかにしなければ…。映画が日本の近現代史を考え、日中関係の大切さを考える役にたてば」と語ります。
 映画の編集をしながら「肉体的な疲れより、精神的な疲れが大きかった」と語るように、それほど辛い、重いテーマでした。
 「この映画を作ることができて、私は大きな重い宿題をひとつ果たしたような気持ちです」と締めくくりました。
(お)



○ 6月13日―7月末 岩波ホール(東京)
 月―金 11:30 14:30 18:30
 土・日・祝 11:30 14:30 17:30
特別鑑賞券 1500円(税込) ペア前売り券(岩波ホールのみ)2900円(税込)
当日料金(税込) 一般1800円 シニア・学生1500円 
※チケットの問い合わせ=岩波ホール 電話03―3262ー5252
 

出典http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/2009/090605.html

ある感想文 『遙かなる絆』

2009-06-12 17:33:24 | 中国残留日本人孤児
 昨日、失業中のAくんが『遙かなる絆』(NHK)の感想を書いてFAXで送ってくれました。20年前にぼくの生徒だった「中国残留孤児」2世の一人です。この不況で仕事を失い、転職準備中です。
 中一で来日しました。日本語も中国語も中途半端なため社会に出てからも苦労の連続ではなかったかと思います。高校3年間は私たちの学校で学んだのですからその責任のいったんはぼくにもあります。
 この際、あらためて日本語に挑戦しようと、感想文を書くことを強く勧めたのです。
 日本語で長い文章を書くのはほとんど初めてだといいます。悪戦苦闘して書き上げたのではないかと思います。原文にぼくが手を加えたのが次の文章です。骨格や語彙(ごい)はそのままです。


     「遙かなる絆」   A
 
 このドラマが終わり、寂しい感じがします。私は生まれ故郷へ帰りたくてたまらなくなりました。

 このドラマは事実に基づいており、孤児たち全体が経験したことの一部だと思います。
 孤児たちは日中戦争の犠牲者です。戦乱の中に生まれ、幼い時、親に棄てられました。
 当時、日本軍は中国で悪事を重ね、たくさんの人を殺したため反日運動が強く、中国人は日本人を強く憎んでいました。

 こうした時期に、中国に捨てられたこどもは何人いるだろうか。何人死んだんだろうか。
 日本人に強い憎しみを持っている状況の中で、運よく、拾われ、育てられた人は捨てられたこどもの何割いるだろう?ほかの子どもたちの運命は?

 運よく中国人に拾われた子どもたちも悪い状況の中で生きのびられた確率はどのくらいだろう?
 無事生きのびられたとしてもその後直面したさまざまな偏見や差別、日本人に対する監視など、その苦労は当事者・孤児本人しか理解できないと思います。

 孤児のこどもである私は実際どのくらい理解できるかわかりません。普通の日本人は理解できるだろうか?

 さまざまな苦労を乗り越え、日本へ帰国してもまず直面したのは言葉や生活習慣の違いから来る壁です。職の変更という苦労に直面しただけでなく、日本語が話せないので「中国人!」と差別されました。

 中国にいる時は「日本鬼子」と呼ばれ、いろいろな差別を受けました。祖国・日本に帰っても「中国人!」と差別されるとは…。
 孤児たちの運命は戦争に翻弄され、戦争が終わって日本に帰っても未だに犠牲になっています。

 孤児は戦争の犠牲者の真の鏡です。
 戦争は二度と起こしてはならない。戦争は世の中に絶対あってはならない、と私は思います。


 「思ったことがなかなか書けない。20数年も日本にいるのに恥ずかしい。」と本人はいいます。
「そんなことをいってもはじまらない。文章の骨格は出来ている、自信を持って毎日一枚ずつ自分の人生について書いてみろ。ぼくが添削するから」とぼくはいいます。

 読まれた皆さんはどう思いますか。40近くなって日本語に挑戦する父親の姿を見て子どもたちはどう思うかな。ぼくだったらお父さんも頑張っているんだな、と蔭ながら声援を送るのですが。

 ぼくの命令に屈したのか、A君は「やってみる」といいました。頑張ってほしいものです。

 Aくんがコンピューター関連の職業訓練校に合格したという報せがありました。けっこう倍率が高く諦めかけていたのです。ほんとうに良かった。
 勝ち取った絶好の機会です。半年間の訓練中に日本語の実力もきっと向上させることでしょう。

 ぼくの夢はいつの日かAくんたちと一緒に「遙かなる絆」の舞台になった辺りを訪ねることです。彼らの故郷もこのドラマの主人公の故郷とほとんど重なるのです。
 Aくんは来日以来一度も故郷に帰ったことがありません。「帰りたくてたまらなくなった」と書いています。帰るときには連れて行ってやるといってくれます。
 日本での生活を安定させ、そのような日が遠くないうちにやってくることを期待しています。 

 

内原義勇軍資料館

2009-05-24 22:08:01 | 中国残留日本人孤児
 『木苺』121号(05年3月)からの転載です。 


     内原郷土史義勇軍資料館
 
                          鈴木啓介

 2月13日に8年ぶりに茨城県内原を訪ねた。木いちご移動教室の下見というわけだが、役場の近くに「内原町郷土史義勇軍資料館」という立派な施設が完成していた。館内は郷土史ゾーン(歴史民俗資料館)と義勇軍ゾーンにわかれている。
 義勇軍ゾーンは1938年に開設された満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の歩みやここでの子どもたちの生活が農具や教科書、写真などで紹介されている。元義勇隊員たちから〈心のふるさと〉などと呼ばれているという日輪兵舎も隣接して復元されている。建坪30坪直径11㍍の「パオ包」にヒントをえて考案されたという円形の建物だが、中央に広い土間があり、その周囲に少年たちが起居したという二段づくりの床板が張られている。開館したのが03年2月1日とのことで、新しいせいか明るい感じ。一巡したところ所長であった加藤完治などの目論見を理解することはできるが、ここで2-3ヶ月を過ごし、「満州」に送られた少年たちの生活の実態と本音はほとんど知ることができないように思った。日輪兵舎にしてもここに60人の少年が詰め込まれ、一人あたりのスペースは畳一枚というではないか。
 「当時、この日輪兵舎を褒める者はあっても批判する者はなかったが、今にして思えば、鶏舎の鶏のように詰めこまれてプライバシーを持つことの許されぬこの兵舎は、まことに非人間的な建物であったといわなくてはならない。満州へ兵農植民を強行しようとする為政者は、貧農の二・三男など人間と思っていなかったから、少年たちを非人間的な日輪兵舎に詰めこんだのであろうか」
 30年余り前に買って読んだ『満蒙開拓青少年義勇軍』(上笙一郎・中公新書)にはこう書かれている。これでもかこれでもかと悲劇を強調することはないかもしれないが、当時の生活の実態を参観者が想像することができるよう必要な説明をつけることは、博物館として最低限の責務ではないだろうか。
 家に帰ってここで購入した『曠野に消えた青春―満蒙開拓青少年義勇軍・群馬根岸中隊』(大利根同志会編・上毛新聞社刊)を読んだ。戦後50年を期して、当時の隊員たちがその体験を綴った記録集だが、編者は「紙のお墓」と称し、「紙の墓はカネでは建ちはしない。体験者がコツコツと建てるしかない。だが、建てておけば紙の墓は激動の昭和を命を賭けて歩んだ少年の真実を、いつでもどこでも、いつまでも語りつづけて、平和の尊さを伝えてくれることを信じて止まない」とあとがきに記している。まことにその通りで、ぼくはこの分厚い本をめずらしく一気に読んだ。加藤が暗記復唱させた『心得』に「他民族ヲ敬セヨ」という徳目があるが、この本には義勇隊は現地人の間では「ショートル小盗児 義勇隊」と呼ばれていたことが「こんな野蛮人に何故なった。誰がした!」という痛責の念とともに記録されている。
 これはほんの一例にすぎないが、体験者でなければ書けない少年の日の叫びやうめきが歴史の彼方から聞こえてくるような気がするのだ。内原を再訪して一番よかったことは、この本にめぐりあえたことかもしれない。3億円以上をかけたというこの資料館が何も語ってくれない「石の墓」にならないよう、関係者の熟慮をお願いしたい。

 内原義勇軍資料館http://sabasaba13.exblog.jp/4090302/

菅原幸助さん

2009-04-24 07:18:52 | 中国残留日本人孤児
 4月23日(木)晴れ 
 昼頃、川越公園の河川敷の林を歩く。何日ぶりだろう。あの冬枯れの風景はどこにもなく、落葉樹が濃い緑の葉に覆われている。ケヤキもエノキも。地上は西洋タンポポの黄色い花が目立つ。
 我が家の一応庭もあっという間に初夏になった。コリンゴの花が散り、塀際のシャガの白い花が咲き続けている。
 明日からは遅い春を求めて、庄内・秋田の旅に出かける。

 菅原幸助さんの本をセブンイレブンに取りに行く。娘に頼んでインターネットで注文して貰ったのだがコンビニで本を買うのは初めてである。送料はナシ。

 高山すみ子さんの縁で菅原さん本人からこの本の出版を教えていただいた。読むのは5月になってからだがぱらぱらめくってみた。本屋の広告から概要を紹介します。ご自分のやってきたことを要領よく書き進めてきた闘いの記録です。ぼく向きの読みやすいドキュメントです。


   「中国残留孤児」裁判―問題だらけの政治解決

         菅原 幸助【著】
          平原社 (2009/04/20 出版) 価格: ¥1,890 (税込)


 国家とは何か、戦争とは何か。
 「満州」の曠野に遺棄された「中国残留孤児」らの人間の尊厳と国の謝罪を求めた裁判闘争の全記録。


   第1章 満州国の崩壊
   第2章 「残留孤児」の発生
   第3章 国会請願運動
   第4章 裁判闘争を提起
   第5章 法廷での意見陳述
   第6章 裁判支援運動の展開
   第7章 明暗を分けた判決
   第8章 政治解決の舞台へ


 著者紹介

 菅原幸助[スガワラコウスケ]
1925年 山形県鶴岡市に生まれる。
1939年 大山尋常高等小学校を卒業後、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所に入      所。
1941年 満州国牡丹江省寧安県満蒙開拓青少年義勇隊寧安訓練所に入隊。
1945年 関東軍憲兵教習隊に候補生として入隊。
   8月、ソ連軍参戦により憲兵に任官。約2000人の邦人避難列車の護衛任      務に就き、満州を脱出。復員(公職追放令該当)。
1949年 公職追放令解除、庄内日報社(鶴岡市)に記者として入社。
1953年 朝日新聞社に記者として入社。苫小牧通信局長(61年)、北海道支       社報道部員(63年)、西部本社社会部員・警察キャップ(68       年)、山形テレビに出向(73年)、東京本社社会部員・中国残留孤      児取材班兼遊軍(75年)。
1985年、朝日新聞社を定年退職。
1987年 中国残留孤児問題全国協議会会長に就任。
1989年 社団法人神奈川中国帰国者福祉援護協会理事長、横浜中国帰国者自立      センター所長に就任。
1990年 鎌倉ユネスコ協会理事長に就任。
2002年 中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団代表相談役に就任(2007年      12月辞任)

 出典http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4938391457.html

 菅原さんは若い頃、「満州」で列車にすがる開拓団の婦女子を見捨てて帰国した。今日の活動の動機がその贖罪にあるとはお聞きしたことがある。
 しかし、菅原さん自身が満蒙開拓青少年義勇軍の出身だとは記憶になかった。しかもぼくがこれから訪ねようとしている庄内の生まれだという。
 新聞記者を辞めてからの活動にしては凄すぎると思っていたがその秘密が少し解けてきたように思う。ぼくのような大学卒のひ弱な精神構造とは違うのである。本物のインテリとはこういう人をいう。菅原幸助という人をさらに良く知りたいと思う。

石岡という方のブログが参考になります。http://blog.kajika.net/?eid=947792

 

高山すみ子さんの故郷

2009-04-21 22:51:39 | 中国残留日本人孤児
 昨日、カツヨシさんが様子を見に来てくれたので、高山すみ子さんに借りてきたVTRを一緒に見ました。「遙かなる大地の墓標」(95年・長野朝日放送)など。集団自決で二人のお子さんが銃殺された現場(佐渡開拓団跡)に立って当時のことを語るという言いようのない場面もあります。
 5月9日のバスの旅で高山さんにお会いする前に皆さんに見て貰うのですが…、こんな旅ってどこにもないですよね。でも、高山さんにお会いするからにはカットするわけにはいきません。
 「残留孤児」の方々はどういう風に受け止められるでしょうか。子供や孫たちは?高山さんとの出会いが人間のすばらしさを確かめ合う場になるに違いないと確信しながら、それでもぼくの心は穏やかではありません。

 4月18日(土)快晴

 8時半頃にご開帳で賑わう善光寺へ。前立本尊につながっているという回向柱にさわるための長い行列に並びます。思ったより早く順番が来てご縁をいただいてきました。境内を一巡して帰るときには、行列は途方もなく長くなっていました。それにしても善光寺に引きつけられていく人の多さよ。

 善光寺ご開帳http://www.gokaicho.com/gokaicho/

 豊田の高野辰之記念館に寄ったあと、木島平村の高山すみ子さんの自宅に向かいます。
 挨拶もそこそこに妻の車で「樽滝食堂」へ。初対面であるにもかかわらず、甥か姪の一家を迎えるように心を許してくれます。オヤマボクチという野草の繊維をつなぎにしているというそばを昼食としました。「名水火口(ぼくち)そば」と銘打ったそば粉十割の腰のある名物でした。
 
 オヤマボクチhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%83%81
 
 昼食後、菜の花の丘公園、犬飼小学校跡、福島の棚田(映画「阿弥陀堂だより」の舞台)、黄梅山実正寺と、今は飯山市となっている旧瑞穂村を案内して貰いました。此処こそがすみ子さんが「満州」に渡るまで住んでいたふるさとなのです。
 父の死の翌年、家を処分してお母さんと兄夫婦とともに新潟から「渡満」しました。だから実家は残っていません。
 「水呑百姓」で貧しかったと言います。子供の時は親戚での子守奉公の合間に長い坂道を学校に通いました。阿弥陀堂の辺りは本家の菜種畑で、よく手伝ったといいます。阿弥陀堂の裏山の三部社は当時からある祠で友達と遊んだところです。子守をしながら村の子供が登ってきたのでしょうか。

 お茶を飲んでいけと言われるので木島平のお宅に寄りました。仏壇には「満州」で犠牲になった旭(あきら)さんと玲子さんの写真が飾ってあります。
 あれから64年近い月日が流れ、夫君が帰国してからお子さんにも恵まれました。「満州」の地を何度か訪ね慰霊もしてきました。しかし、最愛の子をあの世に送った母の苦しみから解放される時はなかったようです。
 あれらのことはなかったかのように進んでいく時代、すみ子さんの思いに寄り添って生きる人がどのくらいいたのでしょうか。10数年前、親戚の人たちが出版祝いをやってくれたそうですが、孤立感がすみ子さんをいっそう苦しめたのではないかと勝手に想像しました。
 文字通り「棄民」として何度も棄てられてきた人です。しかし、稟とした気品を漂わせるお祖母ちゃんです。その魅力の秘密にぼくは少しでも迫りたいと思います。妻も菜穂子ちゃんもそう思ったのではないでしょうか。
 父母の墓参りも出来て嬉しかったと言ってくれました。折を見て訪ねてまたアッシイくんをやりますと妻は言います。
 美しい風景に惹かれて何度も訪ねたこの地にこんな素晴らしいお祖母ちゃんが住んでおられたのです。私たちは何という果報者かと思わないわけにはいきません。

 第9回移動教室。菜の花は見られないかも知れません。でも、高山さんに出会うまたとない旅になります。

 高山さんの家からよく見える高社山の中腹の宿で温泉に浸り、9時から「遙かなる絆」を3人で見ました。

  19日(日)晴れ

 渡したいものがあるといわれるので高山さんのうちに寄りました。大切にとっておいた昨年のリンゴを箱ごとお土産にしてくれたのです。
 おうちの前の小学校だけかと思ったら、そのウラは「ケヤキの森公園」でまさに花盛り。その豪華さは形容の言葉がありません。
 こんどのバス旅行でお祖母ちゃんの出迎えを受ける場所がきまりました。昼時に此処にたどり着ければ最高です。

 高社山をまいて中野の土人形館脇の高社郷開拓団慰霊碑を訪ねました。この辺りは桜の名所で大変な人出です。道が狭く大型バスでの訪問は無理なことがわかりました。
 これで今回の旅はおしまいです。くだもの街道を南下して須坂ICから信越道に載りました。
 菜穂子さんがいい旅ができたと喜んでくれました。高山さんとは初対面なのにまるで古くからの知り合いみたいにうち解けて交流しているのが不思議に思えたといいます。


18日(土)夜9時・NHK

2009-04-17 05:17:39 | 中国残留日本人孤児
 今日は9時に川越を出発して長野県の北部への小旅行です。5月9日に予定されている「第9回きいちご移動教室」の下見をかねています。小布施・中野・長野・飯山・木島平などを2泊3日で廻ります。知友のほか、高社郷開拓団集団自決事件の生き残り証人でもある高山すみ子さんにもお会いしてきます。
 池商87年卒の菜穂子さんが同道してくれます。一年次はぼくがHR担任です。「韓国・朝鮮を学ぶ会」で3年間付き合いました。娘さんがもうすぐ高校生です。学校があるので一緒に行けないのを残念がっているとのことです。菜穂子さんの同道で楽しみが増えます。ぼくの十八番(おはこ)の北信濃をゆっくり案内することができます。

 連続ドラマ『遙かなる絆』がいよいよ今週土曜日にはじまります。

 城戸久枝さんの『あの戦争を遠く離れて』が原作です。中国残留孤児・城戸幹さんの娘さんが父の生きてきた道を尋ねる限りなくドキュメントに近い作品です。
 ぼくの友人のTさんが半生を過ごした黒竜江省林口や牡丹江が舞台です。この家族とのつきあいはもう20年以上になります。まだ見ぬ村や町の風景をみせてもらうだけでもぼくには喜びです。
 残留孤児とその家族のドラマは『大地の子』以来です。「川越だより」の読者の皆さんが見てくださることを期待して再度ご案内します。

 遙かなる絆http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/
 
 番組のHPの「掲示板」に投稿しました。幹さんと同じ職場で働いていた方の投稿もあります。
 信州から「川越だより」は届けられるでしょうか?


『遙かなる絆』NHK、など

2009-04-08 00:59:49 | 中国残留日本人孤児
 中国残留孤児問題にかかわる情報提供です。ドラマ、映画、本…。少し、先の情報もあります。ぼくはカレンダーにしるしを附けました。 


 ◎NHKが城戸久枝さんの『あの戦争から遠く離れて』を原作とする『遙かなる絆』を4月18日(土)から毎週土曜日に5回にわたって放送するそうです。

 『遙かなる絆』 http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/
 
 『大地の子』(山崎豊子原作)以来の残留孤児問題をテーマとする大作です。期待して待ちたいと思います。

 
 ◎城戸さんのお父さん・幹さんが最近、自著を出版されたそうです。

 「孫玉福(スンユイフー)39年目の真実―あの戦争から遠く離れて外伝」

    城戸 幹【著】
    情報センター出版局 (2009/04/16 出版)

  http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8F%E9%8C%CB%8A%B2/list.html

 既に読み終わった忠幸さんの話では自己の体験に即した力作で嘘偽りのないドキュメントだとのことです。ぼくはまだ入手していません。久枝さんの本とともに読んでNHKのドラマを見てみるのがいいと思います。

 
 ◎「中国残留孤児裁判」を主導されてきた菅原幸助さんから手紙をいただきました。4月15日に次のような本を出版されるそうです。

 『「中国残留孤児」裁判 問題だらけの政治解決』
       菅原幸助著 平原社

 今回の裁判闘争は神戸地裁を除いて敗訴となり、政治的解決が図られましたが、問題は山積みだということです。菅原さんは政権交代に期待されています。

 「きいちご移動教室」でお会いする予定の高山すみ子さんにかかわる記事も書かれているとのことです。


 ◎映画『嗚呼 満蒙開拓団』
   監督 羽田澄子  6月13日より 岩波ホールでロードショー

上村重子さん

2009-04-07 07:13:56 | 中国残留日本人孤児

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4月5日(日)

 午後一時、足立区のMさんのお宅を訪ねました。今日は「きいちご基金」が主催する「上村重子さんのお話を聞く会」の当日です。
 世話人など常連の他に中国残留邦人・支援相談員として働いている残留孤児2世の女性たちが数名参加しているのが特徴です。Mさんのお連れ合い、甥のTくんも同席しています。
 重子さんはMさんのお母さんで近所に住んでおられます。

 「きいちご基金」では発足以来、「この人に聞く」という公開講座を開く予定だったのですが、ぼくの発病のため実行できず、3年目になってようやく開催に至ったのです。今回は様々な事情から「公開」というわけには行かず、原則として移動教室などに参加し、重子さんを知る人のみに限定させて貰いました。

 重子さんは旧満州で満鉄職員の子として生まれ、ソ連参戦時に8歳で「中国残留孤児」となった人です。
 奇跡的なことに3人の妹たちとともに1977年身元が判明し、81年に家族とともに永住帰国を果たしました。90年になって7人の子どもたちとその家族全員の呼び寄せが完了し、今は一族の長老として夫君とともに平和な日々を送っています。
 日中戦争、ソ連軍の侵攻・敗戦、国共内戦、新中国の建国、「大躍進・人民公社・飢餓」、文化大革命…。時代の激浪に翻弄されながら、妹3人と7人の子どもたちを守り、育て、祖国に帰還せしめたのです。
 
 昭和12(1937)年生まれです。ぼくよりは4歳うえの、ほっぺたの紅い可愛いお祖母ちゃんです。

 忠幸さんが丹誠込めて創ってくれた歴史年表を思い起こしながら、3時間にわたって人生の話を伺いました。大抵は日本語ですが、ときどき中国語になります。そんなときにはMさんが通訳してくれます。
 また、高校の先生でもある泉田さんが歴史的事実について説明・補足してくれます。
 重子さんは小学校2年までしか行っていません。中国語は孤児になってから生活の中で聞き覚えたもので読み書きはしていません。そんな重子さんのお話は全て自分が目撃し、体験してきたことばかりです。
 どの嫁の悪口をも云うことなく公平に接してくれたお母さん(夫の母親)が重子さんにとっては大きな支えであったように感じました。それにしても良くもここまで頑張ってきたものです。様々な困難を抱え、生きることさえ危ぶまれた末の子供さんも今ではこの日本で元気に生活しているのです。「あの子も結婚したよ」という声はとりわけ嬉しさを感じさせてくれました。
 Mさんも、孫のTくんも今頃の日本にはそうはいない志を持った人です。どの人も自力で精一杯生きてきたに違いないのですが、どこかに重子さんの姿や心が宿っているのだと思います。
 今日のお話をとっかかりにして、重子さんの人生により深くふれることが出来ればと思います。交流を重ねていく中でその魅力の秘密に迫ることが出来るでしょう。


 
 夜は近所のイタリアレストランに会場を移してパーティ。一人一人が、重子さんにお話の感想を伝えました。そして支援相談員として再出発したばかりの4人の思いを聞き、祝杯をあげました。
 今日の集いは私たちの歩みをさらに一歩、確かなものにしました。若い人たちの目が輝いて、まぶしいほどに見えました。歴史に学び、先輩の人生に学び、新たな未来を切りひらくぞと言う静かな決意が垣間見られたのです。
 老、壮、青が緩やかに学びあい、助け合って程良い人間関係を築いて行くことが出来るかもしれません。この日は後世、「きいちご大学」の礎が置かれた日、と記される、かな。


高山すみ子さんと佐渡開拓団跡事件

2009-03-22 06:32:28 | 中国残留日本人孤児
 20日(祝)に長野県木島平村の高山すみ子さんから電話がありました。『きいちご』が届いたのです。
 高社郷開拓団集団自決事件の際、奇跡的に生き残った方です。私たちが5月9日に訪ねるのを心待ちにしてくれているようです。
 お話をしているうちにいろいろなことがわかってきました。ぼくがこのブログで紹介した福島(飯山市)はお祖母ちゃんのふるさとだったのです。
 昭和16年(ぼくが生まれた年、「大東亜戦争」を始めたのは12月8日)満州に渡るまで住んでいたそうです。小学校は今の東小です。菜の花公園のある丘に建つ学校です。高等小学校を終えるまで長い道のりを通ったと言います。
 ぼくが何度も訪ねたことがあり、こんど皆さんを案内しようとしている”ふるさと”の原風景とは高山さんの故郷そのものだったのです。
 「おらが案内したい」となんどもおっしゃってくれました。映画『阿弥陀堂だより』は見たかとも聞かれました。
 第9回移動教室の現地ガイドは86歳になられた高山すみ子さんがやってくれます。こんな豪華な旅がどこにあるというのでしょう。

 佐渡開拓団跡地での高社郷開拓団集団自決事件は満蒙開拓団にかかわる無数の悲劇の中でも取り立てて知られている歴史的事件であるようです。

 山崎豊子さんの小説『大地の子』にも紹介されているそうです。この間の事情を書かれた「棄民」という文章があります。長くなりますが紹介します。
 
 高山さん自身が書かれた本もあります。図書館で読めるかも知れません。
  『ののさんになるんだよー満蒙開拓奈落の底から』日本図書センター刊行


  棄民

   1

 敗戦後、侵攻したソ連によって武装を解除された日本軍兵士約60万人は、シベリアの強制収容所へ送られ、悲惨な年月を過ごしたことは前号に書いた。
 一方、いちはやくソ連軍が国境を越えたという情報をつかんだ関東軍将校たちは、民間人には知らせずに、家族もろとも飛行機や列車で新京から通化に移った。移動したのではなくて逃げ出したのである。すでに大部分の関東軍も朝鮮半島との国境沿いに後退していた。
 民間人155万人は、無防備のまま中国東北部(満州と当時呼んでいた地方)の奥地にとり残された。日本軍のうちで最強部隊とされた関東軍の一部は、負け戦の続く太平洋方面の戦力を補うために太平洋の島々に回されていた。その結果弱体化してしまった関東軍の員数合わせとして、当地の民間人の成人男子は、兵士として前年に徴兵されて、留守宅には老人と女子供だけしかいなかったという。
 日本は、いつの時代でも、一般民衆は特権階級の犠牲にされてきたのだ。


       2

 ソ連国境に近い日本人の一開拓村に住む、松本勝男という国民学校1年生の少年を主人公とした山崎豊子の長編小説『大地の子』 (新潮文庫)は、ソ連軍の侵入から物語をはじめる。
 ソ連侵入の非常サイレンによって、祖父、母、5歳と1歳半の2人の妹、そして彼の一家5人の逃避行が始まった。当初、彼の家族を含め、230名ほどの開拓村の人々は近くの関東軍基地を頼って行ったが、そこはすでにもぬけの殻だった。そこで無防備のまま170キロ離れた勃利に徒歩で向かった。勝男は5歳の妹を、母親は末の子を紐で背中にくくりつけて、敵軍に見つからぬように山中を進んでいったが、それは難渋をきわめていた。途中、末の子の息が絶えた。進むにつれ次第に敵の銃声が近づいてきた。幼い子供の泣き声が敵に発見されやすいので、5歳以下の子供たちは首を絞められて置き去りにされた。やがて祖父も息絶えた。
 大きな川は、敵の追撃を阻むために、日本軍の手で橋を破壊されて渡れない。やむを得ずロープにすがって川を渡った。激流にのまれて流されてゆく者もいた。15日目に勃利に近く佐渡開拓団の住む村に入ったが、すでにそこには3000人以上の避難民がいる。周囲はすっかりソ連軍に包囲されていた。8月27日、ついに敵兵の攻撃が始まった。

「あ! またソ連兵が来るぞ、今度はもっと多勢だ!」
 若い男が云うと、2人の女が、
「お願いです、その銃で撃ち殺して!」
 と哀願した。土塀の外に、キラキラと無数に光る鉄カブトが迫って来た。男は、バーン、バーンと2人の女を撃ち殺した。
「兄ちゃん、僕も殺して!」
 勝男も、頼んだ。
「弾が一発しかない、お前は子供だから、大丈夫だろう」
 と云うなり、男は、銃口を顎の下に当て、
「天皇陛下、万歳!」
 と叫んで、足で引金をひいた。その銃声と同時に、ソ連兵たちは銃を乱射しながら続々と土塀をよじのぼって来た。勝男は今、死んだ男の死体の下に隠れた。生あたたかい血や脳味噌が頭にかかって来、唇に塩酸っぱいものが流れ込んで来、腹も足もぬるぬるとした。

 気がつくと、同じ開拓村の者はほとんど死んでいた。生存者はわずかに顔見知りのおじさんと妹のあつ子と彼の3人だけだった。妹はひどい火傷を負っていた。やがて中国の農民がどこからともなく現れて、別々の男が3人を引き取ってゆく。こうして兄妹がそれぞれちがった運命を生きてゆくのであった。……
 この小説は架空の話ではない。作者の山崎豊子は、事実だけにもとづいてこの小説を書いた。


       3

 彼女がこの大作を創作する際の資料の一つにしたかと思われる文章がある。「歴史と人物」昭和61年冬号に掲載された門脇朝秀「証言 惨!佐渡開拓団跡事件」である。それによると、小説の主人公勝男たちの開拓団一行が佐渡開拓団跡にたどり着いた8月24日には、すでに5つの開拓団、3千人ほどの民間人が集まっていた。彼らがどんな最期を遂げたのかを、その記事のなかの幾人かの証言が明らかにしてくれる。
 万金山高社郷開拓団に所属する滝沢隆四郎は次のように証言する。この開拓団600名がこの地に着いた23日夕方近くに、不時着したソ連の偵察機一機を一部の団員が焼いてしまうという事件が起こった。ソ連軍は報復攻撃をしかけてくるだろう。そうかといって、安全な所に逃げるだけの余力はなかった。追い詰められた一行は集団自決の道を選ぶ。次の証言はなんとも哀れを誘う。

 誰が持っていたのか、母親と子供たちには薄く口紅が塗られていた。一方、流れ出る血の海に足をとられながら、逃げようとする子供に銃を向ける若い父親。何もわからずに振り向いて父親を見る幼い姉妹。こうして馬小屋に積まれた死体はこの団だけで514体に達した。

 開拓団とは何だったのか。昭和不況の真っ只中の1936年(昭和11年)に、日本政府は、満州国へ20年間で100万戸を移住させ、人口の10パーセントを日本人で占めようとする計画を発表した。それも、同一地方出身者で一移住村をつくらせようとしたのである。その計画の裏側には、農家の次男・三男対策というか、農村の過剰人口の解消という狙いもあった。その計画に協力した県には補助金を出すという。その頃貧しかった長野県は、補助金欲しさに、率先して開拓村をつくった。『大地の子』の主人公勝男が所属した開拓団信濃郷は、長野県の南信濃郷開拓団をモデルにした。


       4

 『大地の子』にふたたびもどろう。
 一家が逃避行していた最中、息絶え絶えの祖父が嫁と勝男を手招きしてこう言った。

 わしは、もう助からん、タキエ(嫁)と勝男に詫びたいんじゃ、一家を挙げて満州へ移ろうと云い出し、しぶる息子を説き伏せて、開拓団に加わったのは、このわしのせいじゃ、お前たちの将来のため、お国のためと思うてのことが、今、国からは見捨てられ、お前たちをこんな酷い目に遭わせてしもうた、息子は現地召集、嫁と孫たちまで、生き地獄にさらしてしもうたが、……
        
 やがて、祖父は、骸骨のように痩せた体を異国の寂しい草原の木陰の下に横たえたまま死んでいった。
『大地の子』を読みながら、日本という国は、開拓団をつくって異郷の地へ送っておきながら、いざという土壇場では彼らを見捨ててしまったという重い事実に、頭を抱えてしまった。そのことがどうにも理解できなかったし、やり切れなかった。
 事実をもっと深く確かめようとして昭和史関係の本を読みだした。当時の指導者たちはなぜそんな非道なことをしたのか。私はそのことにいつまでもこだわってしまった。ところが、前号で紹介した半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』のある箇所を目にした時、思わず絶句してしまった。
 ヨーロッパの戦史を開いてみるとわかるが、敗戦を覚悟した国家や軍が真先に行うべきことは、非戦闘民の安全を図ることである。あのヒトラーでさえソ連軍の侵攻から自国の非戦闘民を救うために、200万人もの民を4ヶ月も以前から陸・海・空全軍を使って安全地帯へと移送させていたのである。日本はなぜそうしなかったのか。著者は、日本の国や軍の指導者の考え方には「民を救う」という発想はなかったと言い、こう分析する。

 日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。
 『大地の子』の主人公勝男とあつ子は、中国人に引き取られてからどう生きていったのだろう。


       5

 中3の国語の教科書「国語 3」 (光村図書)に「お辞儀する人」という安西均の詩が載っている。この詩は、中国残留孤児の存在を私たちに知らせる。「だれにともなく深く一礼」する劉桂琴さんの「お辞儀」を前にして、私は絶句するばかりである。


   お辞儀する人
             安西均

 中国残留孤児の第7次訪日団45人は、3月3日(昭和60年)
午前十時十分、成田空港から日航横で中国へ戻って行った。
それを報道する翌日の朝刊の写真には―

めいめい手を振って別れの
挨拶をする、一行から少し離れ、
床に手荷物の紙バリクを置き、
こちらに向って、深々と
頭を下げてゐる女のひと。
劉桂琴さんといふそうだ。
推定(何と悲しい文字だらう)
前夜、叔父と名乗る人が、空港へ
駆けつけてきたが、別人だった。
記者団の質問に「日本が私の生みの親、
中国が育ての親です」と答えたきり、
深夜、ホテルの自室で、大好きな
ハルピンの民謡を歌ってゐたそうだ。

桂琴さんの写真に添へて「だれにともなく
深く一礼」と説明がある。だれにともなく!
こんなにも美しく、哀しいお辞儀の姿を、
私はかつて見たことがない、ただの一度も。
私は思わず胸のうちで、この姿に
会釈を返す。このひとが戻っていく国の言葉で
〈再見(ツアイチェン)〉と言ひたい気がする。
東京の空までが、春近い気配にうるみ、
じっと雨を耐へてゐる朝だ。

 出典http://ogaki.web.infoseek.co.jp/motto29.htm




       
                                


高社郷(こうしゃごう)開拓団の悲劇

2009-03-07 09:38:41 | 中国残留日本人孤児
6日(金) 午後、本格的な雨の中を歩いて街に出ました。郵便局で貯金証書の再発行を申請し、文房具店で宛名ラベルを買ってきました。何年ぶりかではいた長靴は劣化して水が滲みてくるは、傘の効果がないのか下着まで濡れるは、で、散々ですが「雨中の行軍」は結構壮快でした。3年前の手術以来、こんな体験は初めてです。
 滑稽なのはこのラベルが使い物にならなかったことです。娘が帰ってきて指南を受けながらいざ印刷と言うときにぼくのパソコンには適していないと言うことがわかったのです。基礎的な知識がないために起きたことです。こういうこともあろうかとレシートだけはとってあります。明日またやり直しです。

 夜遅くなってから信州北部にあるはずの満蒙開拓団の慰霊碑などの所在を調べました。5月の「きいちご移動教室」の学びの場にするためです。

 目的地の木島平村に高山すみ子さんという方がおられ高社郷開拓団の悲劇を語り続けていることを知りました。

    95年10月13日の「毎日新聞」(長野県版)

 高山すみ子さん(72)=木島平村=ら高社郷開拓団の避難民は一九四五年八月二十三日、やっとの思いで佐渡開拓団跡にたどり着いた。しかし、ソ連軍に囲まれ脱出は不可能、と団では自決することを決めた。翌日、団の解散式で副団長が涙を流して訴えた。「生きて辱めを受けるより、死して護国の礎となろう」。その晩から、順次自決していった。

 「あるお母さんは小さな子供を井戸に投げ込んだのさ。そしたら、中は死体でいっぱいで、その上に落ちたから、まだ生きてる。それで、『お母さん、言うこと聞くから助けて、お母さん』って泣き声が井戸から聞こえてな。お母さんの方はたまげたけど、石を投げつけて殺してしまった」。高山さんは目を赤くしながらも話し続ける。

 高山さんも三歳の長男と一歳の長女に、最後まで隠し持っていたキャラメルを食べさせ、言い聞かせた。「『ノノさん(仏様)になって、内地へ帰るんだ。ノノさんになったらな、じいちゃんとこ行くんで、白いまんま(ご飯)がたくさん食べれるよ』ってな。すると、まんまと聞いてうれしかったのか、ニッコリ笑ってな『早く連れてって』て言うんさ。それで、『東の方へ手を合わせれば行けるんだ』っておれが手を合わせたら、まねして一生懸命手を合わせて……。そこを男衆に頼んで銃で撃ってもらった」

 ここまで話したところで、あふれる涙でしゃべれなくなった。それでも、とぎれとぎれに口を開く。「あの時のことは、絶対忘れられねえ」

 二人の死を見届けて、いよいよ高山さんの番になった時。「さあ、かあちゃんも今いくぞって目をつぶったら、ソ連の戦車が来て、おれを撃とうとした人が戦車に撃たれちまった」。高山さんはそのまま数日気を失った。気付いた時は、天井までぎっしりと積まれた死体の中にいた。「ああ、生きてるんだ。ここで死んじゃならねえってことなんだ。そう思って逃げ出した」

 妊娠中だった高山さんは逃げる途中に流産した。そんな体では帰国は無理だと自決を勧められたこともあった。けれども「どんなことがあっても生きて帰って、ここで何があったか日本に伝えなければと、それだけを考えてたんだ」。歴史の、そして戦争の証人になろうという意地が、五百キロ近い逃避行を支えてくれた。

 帰国後、高山さんは出征から帰った夫との間で子供を産み、今では孫もいる平和な家庭を築いた。しかし、満州で失った子供たちを忘れられるわけがない。佐渡開拓団跡に来たのは八四年に続いて二回目。「子供をここに置いてきたんだよ。どんなことしたって、何年たったって、子供に謝りに来ないとならねえ」

 悲惨さ、無念さ、残酷さ……。どんな言葉でも表現しきれない現実が、腹を痛めた子供との別離をも生んだ。それが「戦争」だった。

 佐渡開拓団跡に着いた団員たちは、酒やお菓子を供えて、犠牲者の慰霊をはじめた。高山さんは少し離れたところで、目をつぶり、じっと祈っていた。五十年前、なすすべもなく死んでいった子供と生き残ったという重荷を背負ってきた母親。悲劇の地に再び立ち、いったい、何を語り合っていたのだろうか。涙を浮かべたその姿には近寄りがたい厳しさがあり、それ以上話しかけることができなかった。
  出典      http://blogs.yahoo.co.jp/mainichi_shibanu/18986387.html

 高社山(こうしゃざん)はこの辺りの代表的な山です。山の北側は日本有数の豪雪地帯です。この山のお陰で雪が少ないのですと南側の小布施町に住む友人が語っていました。
 その山の名を冠した開拓団の悲劇です。85になられたはずの高山さんは今も元気に活動しておられるでしょうか。07年に上田市の集会でお話しされています。移動教室の参加者は残留孤児とその家族が大半です。高山さんとお会いできるようにしたいものです。
 高山さんの証言が載っている立派な体験記が発行されています。

 『福寿草』 私たちの戦争体験記
       
       発行   木島平公民館
        〒389-2302
        長野県下高井郡木島平村大字往郷914-6
        TEL0269-82-2350
       編集    木島平村戦争体験記編集委員会
         木島平村教育委員会内
 出典http://m-take-web.hp.infoseek.co.jp/tihou40.html

 10年前の発行です。ぼくが暫く前、宿舎になる村営のホテルの方に調べて貰ったときにはこのような手がかりは何も得られなかったのです。歴史を伝えていくことはほんとうに難しいことなんですね。
 
 犠牲者の慰霊行事について報じた記事があります。中野市東山の満州開拓者殉難慰霊塔で少なくとも05年までは高社郷開拓団の慰霊祭が行われていたことがわかります。こんどの旅でここは是非訪ねようと思います。

  満州開拓団「高社郷同志会」http://www.shinshu.co.jp/local/2005/050902/n05.html

名簿づくり

2009-03-05 21:20:06 | 中国残留日本人孤児
 昨日は天候も悪く、寒い一日だったので家にこもって一日中パソコンに向かっていました。
 いつもの通り「川越だより」を出したあと、「きいちご多文化共生基金」の会員名簿づくりを始めました。「基金」が発足してまもなく2年になるというのにきちんとした名簿がないのです。
 この会の目的は中国残留孤児や脱北帰国者などのかたがたと交流を深め日本社会への定着を支援することです。難しいことは何もやりません。一緒に旅をしたり、遊んだり、学んだりします。
 会員は一年間に1000円程度以上の寄付をする事になっています。しかし、これとて「原則として」です。出来る人が出来る範囲で拠出すればいいのです。要は参加し、交流することなのです。
 ですから一度でも活動に参加した人は全て会員に登録して「移動教室」などの案内を届けます。
 参加者名簿はそのたび毎に作っていたのですが、昨日やっと、それらを統合し会員名簿を作ったのです。氏名・住所・電話番号の他に生年月日が記載されているのが特徴です。これは旅行などの際、保険にはいるときに必要だからです。
 大人から子供まで140人ほどの名前が登録されました。日本人、在日コリアン、漢人、中国帰国者(残留孤児とその家族)、モンゴル人、中国朝鮮族など様々ですが残留孤児とその家族が圧倒的多数です。
 一人一人の情報を入力しながらこれらの人との出会いや表情を思い出します。バスの旅は大家族のようだと言われた方がいますが、ぼくにとっても大切なお一人お一人です。
 名簿の完成で案内漏れがなくなるのは一安心です。忠幸さんとカツヨシサンに点検をお願いしました。

 夜になってこんどはメール便のタックシールの宛名入力に挑戦しました。娘が装置をつくってくれ、ぼくは名前や〒番号・住所を原簿からコピーして貼り付けていくだけです。やったことがないことに挑戦することに臆病この上ないのですが、やっているうちに調子に乗り、真夜中までかかってこれも完成しました。
 夕方に昼寝(?)をしているので体力もOKです。今まではぼくが宛名書きをそのたび毎にしていました。これがうまくいくと仮にぼくが出来ないときでも妻などにやってもらえます。
 きいちご基金の事務局は「前期高齢者」ばかりです。「中国語」にかかわる全て(翻訳・通訳・連絡・資料づくり)は忠幸さん。機関誌『きいちご』にかかわることはカツヨシさん。庶務・企画立案はぼく。それぞれに老化に伴う症状がありますが若い人の助力を得て与えてくれた仕事を楽しんでいます。
 近く『きいちご』第4号ができあがります。5月9日からの第9回『きいちご移動教室』の案内とともに来週末には会員の下に届けることが出来るでしょう。
 心の通う友人たちに恵まれてささやかなりとはいえ、市民としての活動を続けられることは幸せそのものです。
 
 
 

『小蓮の恋人』

2009-03-04 06:53:25 | 中国残留日本人孤児

昔、読んだ『小蓮(シャオリェン)の恋人』というノンフィクション作品を書架から探し出して再読しました。この本は井田真木子という人が92年に文春から刊行しています。ぼくは93年2月23日に卒業生・李さんの薦めで購入したと書いてあります。
 再読のきっかけは一昨夜、満智子さんと電話で話をしていて、実はこの人が「小蓮」その人であることを思い知ったからです。ぼくが満智子さんと交流するようになったのは昨年の春、中国残留孤児の支援相談員の仕事を紹介したときからです。初めてあったのは秋になって一緒に足尾にバス旅行をしたときです。いずれの時かにこのことは聞いていたのにスッカリ忘れていたのです。(ぼくの忘却力はかなりのスピードで増強されています)。
 91年9月14日、満智子さんが中国吉林省の故郷の村を10年ぶりに訪ねるところからこの物語ははじまります。驚くべきことに登場人物は全て実名で一族の集合写真が巻頭を飾っています。お母さんとお姉さんの姿もばっちりです。先のバス旅行で友達になったばかりです。
 こうなるとさすがのぼくも熱心な読者になります。昔、読んだはずなのに何一つ思い出さず、我ながらあきれます。『恋愛』と『帰郷』をテーマに残留孤児2世の若者たちの世界に切り込んだ優れたドキュメントだと思われます。

文春文庫版http://www.amazon.co.jp/gp/product/416755402X/ref=olp_product_details?ie=UTF8&me=&seller=
 

 作者の井田さんは若くして亡くなられたようです。18年経った今、満智子さんはこの作品を読み返したと言います。何かをやって自分を精一杯生かしたい、自分は何をやりたいのか? 真剣に考える人です。こんどは自分の言葉でそれを書いてみたい、とも思っているようです。
 

 この本の的確な紹介記事があります。どうぞ、参考になさってください。http://alkali.gooside.com/books/albk0307.html

 

【アルカリ】0307
99/ 09/07(火)
『小蓮(シャオリェン)の恋人』
(井田真木子・文春文庫・515円+税)

 中国残留孤児二世の青春

 中国残留孤児のことが話題になったのはいつのことだったろう。15年前? いや、もう20年も昔だろうか。

 数十年の時を経て日本人だという名乗りをあげた人たちの姿をテレビでよく見た。日本人にはとても見えない。やっぱり、中国で育てば中国人になるんだろうかと、思った。

 いつの間にか残留孤児探しのブームも去り、彼らの生活が話題になることは滅多になくなる。熱しやすく冷めやすい、世間の人たちの習いではあるけれど。

 不意に中国残留孤児の子供たちが登場した映画『新宿黒社会』を見たとき、まるで関心のなかった彼らのことが気になりはじめた。

 『新宿黒社会』の主人公は椎名桔平が演じる刑事だ。残留孤児二世として十代半ばで日本にやってきて、必死に日本語を覚え、警察大学校を卒業し警官になる。新聞が記事にするほど優等生の残留孤児二世。しかし、彼は日本で孤立無援のまま貧しい暮らしをしている両親のために汚職に手を染め、そのうえ、グレてチンピラの仲間入りをした弟のために歌舞伎町の中国マフィアと一戦交えなくてはならなくなる。主人公の姿は残留孤児ブームに湧いた頃を思うと、薄ら寒い。残留孤児ブームって一体何だったんだろう。そして、そのブームがきっかけで日本にやってきた人たちはどうなったのか。

 すっかり忘却の彼方にあった残留孤児たちの二世が、長じて日本社会とどうつきあっているのか。その気になって調べてみれば、その報道のされ方は二通りしかない。

 苦心を重ねたうえで立身出世した美談か、日本社会に溶け込めず、グレて暴力と犯罪に走る過酷な現実か。

 井田真木子は残留孤児の二世たちを描くと決めたとき、その二つのステレオタイプにはハマらない青春を描きたいと思った、という。ニュース・ヴァリューを持たないかも知れないが、リアルに近い残留孤児二世たちの姿を見てみたいと。

 そこで、東京の下町で中国総菜の弁当屋を営んでいる王家を取材する。主人公は、20歳の満智子=王成蓮。日本に移り住んで10年がたつ。彼女は、自分のなかに、20歳の日本人の自分と、10歳で成長を止めてしまった中国人の自分がいるという。そして、そのアンバランスさが苦しいと訴える。彼女の中の少女を成長させるために、著者は彼女と二人で10年間一度も訪れる機会がなかった彼女の故郷へと旅をする。

 残留孤児ブームが起こった頃、中国の農村部は極端に貧しかった。人民公社が農政を牛耳り、農民はどれだけ収穫高を上げようとも豊かにはならず、農政の失敗は容易に飢餓を招いた。

 だから、残留孤児たちは一族郎党を引き連れて日本を目指す。

 そして、その結果、彼らが日本の文化とのギャップに苦しみ、差別に悩まされようとも、故郷を捨てたという罪悪感が残った。彼らは貧しさをコネを使って脱することが出来たというわけだ。

 だから、中国が恐ろしい。自分たちが捨てた故国が。

 しかし、一方で日本の社会で彼らが得られるポジションは決して高くない。日本の学校教育のレベルの高さに、不自由な日本語でついていくのは難しい。したがって、豊かな国日本で、彼らがその豊かさを十分に享受できないということがままある。しかも、中国人の感覚では家族という概念は親類縁者に拡大していく。つまり、貧乏な家族にたくさんの人間がいる、ということだ。

 しかし、満智子の帰郷は意外な発見をもたらした。それは、人民公社がなくなり、徐々に開放政策をとりつつある中国では、かつての貧しかった村が確実に豊かになりつつあるということである。その発見は、満智子が日本と中国を結びつけていくきっかけになる。ようやく、自分のなかの中国人と日本人が折り合いをつけていけそうな希望が見えてくる。

 本書は、日本人の血を頼って海を渡った家族がどのように日本社会で生きたかを描いたノンフィクションだ。そして、その焦点を二世たちの結婚問題に絞ることで、明確に残留孤児一家の社会的ポジションを浮き彫りにする。そして、同時に異文化に戸惑いながら、たくましく生きていく人々の光と影を鮮やかに描いている。

 同性愛者たちの生き方を描いた『もうひとつの青春』では、いささか理屈っぽさが鼻についた井田真木子だが、本書は『プロレス少女伝説』と並んで、ぼくの好きな本である。彼女の作品はいずれも一筋縄では行かない多様な主題を扱っているが、本書は異文化というハードルをいかに乗り越えていくかを個性的な視点で描いたノンフィクションとして古典になっていくだろう。

 一読して、敬愛する近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』ほかのシリーズを思い出した。共通しているのは、日本人がとかくうらやましがるバイリンガルが決してラッキーなばかりではないという苦い現実を描いていることだ。しかも、そこには、彼ら宿命のバイリンガルたちへの優しさが溢れんばかりにある。決して声高には語っていないけれども。

 日本人は、今も昔も、異文化に対してナイーブかつ鈍感なところがあって、そのあたりはやっぱ島国? だからなのかもしれないが、これからはどんどん変わって行くだろう。しかし、そのときに異文化コミュニケーションを甘く見ないこと! が繰り返し語られていくに違いない。本書はそういう意味でも読みごたえのある本だ。



餃子パーティに招かれて

2008-12-24 14:56:31 | 中国残留日本人孤児
 緒方正人さんの記事に最首(さいしゅ)さんのブログを追加紹介しました。また、トラックバックしてくださった方の記事もご覧ください。でも、これだけでは緒方さんの考えや生き方を理解するのは困難ですね。
 著書を読んだり、行動の軌跡を辿ったりして彼が言おうとしていることを少しでも理解したいと思います。私たちの人間観・自然観はこれでいいのかとその根底を問いかけている方です。ぼくが学んできた「大自然教」と通じる思想でもあるような気がします。
 
 ・『常世の舟を漕ぎて-水俣病私史』(1996年/世織書房)

 ・『チッソは私であった』   (2001年/葦書房)

 日本橋高校の入学拒否事件についてはお二人の方がコメントをよせてくれました。ぼくも昔の体験を書きました。学校にかかわる人が避けて通れない問題といえます。あなたの意見を聞かせてください。感想でもいいですよ。


 21日(日)Tさん宅の餃子パーティに招かれました。

 ご夫婦の他に次男・洋介くん一家4人、長男のお嫁さんと娘さん、忠幸さんと私たち。都営住宅の居間と台所ははち切れんばかりです。
 奥さんと二人のお嫁さんが次々と中国・東北の家庭料理をつくってくれて食卓に乗り切らないほどです。一時から七時まで珍しくぼくの箸が休むことがありません。ビールも進みました。久しぶりの賑わいにTさんの顔も綻びがちです。

 当日の話から(記憶のメモ) 

 Tさんは1943年生まれでぼくよりは2歳下です。45年黒竜江省林口で孤児となり、養父母に育てられます。実子に恵まれなかった両親に大切に育てられました。
 57・8年頃の大躍進の頃には食べるものがなく、木の葉の粉を団子にして生き抜いたと言います。
 耐えられなかったのは文化大革命期の迫害です。比較的経済的に恵まれていた養父母は日本人を養子にしていることと相まって批判の矢面になったのです。この時のことは40年が経ったいまもTさんの深い心の傷になっているようです。
 中国に帰ったとき30万円(?)を投じて養父母の墓を建てたと言います。中国では庶民に縁のない 金額です。養父母への思いの程が伝わってきます。
 洋介くんは15歳の時日本に来たのですが、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんにかわいがって貰った日々が懐かしそうです。

 10歳の頃の写真があると古い新聞記事をみせてくれました。80年代のはじめの訪日調査に加わったときの日本の新聞にいまの写真と共に並んでいます。一瞥してTさんだとわかります。目がくりくりしてさっぱりした男前です。
 この写真は地方政府の役人が来て撮ったそうです。だとすれば1953年頃には中国の公式帳簿に日本人孤児Tさんは写真と共に記録されていたはずだと忠幸さんは言います。本名はわからなかったにせよ、日中両国政府にその気さえあればその時点で身元調査が可能だったのです。
 日本政府が身元調査に乗り出したのはこの時からでも30年後のことです。Tさん自身も文革期の迫害を逃れることは出来ませんでした。「日本人であること」がいいことは一つもなかったのです。責任を果たさなかった日本政府に代わって「侵略戦争」のツケを一身に担わされたのです。
 日本に帰ってからは頭痛と日本語の壁に苦しんできました。それはいまも変わりません。

 洋介くんのお連れ合いは生き生きとしています。何ものにも挑戦して自分の世界を広げていこうとする若い女性の魅力があふれています。この四月から残留孤児の支援相談員になって学ぶことの大切さ、喜びを知ったからでしょう。小学生の娘さんからローマ字を習ってパソコンにも挑戦したそうです。最初にみたHPが「川越だより」だとかでぼくも感激です。
 世の中の風潮にながされないように子育てをしたいと考えています。忠幸さんにもぼくにも問いかけがありましたが、これもまた本当に難しいことです。
 しかし、嬉しい気持ちになりました。ここに考える母親がいるなあと思えたからでしょう。こういう人が孤立することなく話し相手を見つけられるようにぼくも手を貸せればいいと思ったことでした。
 

 Tさんの奥さんは来日して一年ですが夜間中学に通って日本語の力をめきめき付けています。先日の日本語のテストは98点だったとTさんが自慢します。もともとが才能に恵まれた方です。そこに来て努力家ときています。数年を経ないうちにこの社会に根を下ろしてTさんにとってはもとよりみんなの頼りがいのある存在になるのではないかと思われます。
 
 御馳走になりながらTさんの家族と半日を過ごしました。洋介くんと出会ってから20年が過ぎましたがこうして家族ぐるみの交流を楽しむのは初めてのように思います。
 どの家族もが抱えもつ難題をTさんの家族も抱えもっています。残留孤児家族特有の課題もあります。でもこの一家は魅力ある嫁さん連合を中心にして一つ一つ課題を解決していくだろう。我が一族と同じだな。帰りの電車の中で思ったことです。
 
 一家の団らんに招かれて皆さんと友達であり続けると思うことはぼくにはとても嬉しいことです。妻も忠幸さんもこの点では同じ気持ちだと思います。
 ごちそうさま。ありがとうございました。
 

東京の支援相談員の不安

2008-12-14 04:54:13 | 中国残留日本人孤児
 中国残留邦人支援法の改正に伴い、国は08年4月から、支援相談員制度を発足させました。
 本年度から国民年金の満額支給と月額最大八万円の生活支援給付金の支給が制度化されましたが、これらの事務が円滑にすすむよう中国残留日本人孤児(法律では「残留邦人」・1946年12月31日までに生まれた人)やその家族(配偶者と同行入国した2・3世)を支援することが主な仕事です。
 残留孤児家庭の実態や歴史的背景などを理解していなければつとまりません。中国語と日本語に通じていることも 絶対条件です。これらの事情から残留孤児2・3世の方々がもっとも適任と考えられます。

 厚生労働省の決めた基準では対象者30名に1名の割合で区市に配置することになっています。

 東京都で支援給付を受けている人員が多いのは次の区市です。08年6月現在

足立(218人)江東(188)江戸川(171)板橋(145)葛飾(121)太田(103)北(87)墨田(69)八王子市(50)立川市(41)新宿(34)昭島市(30)三鷹市(29)杉並(27)荒川(26)港(26)世田谷(24)西東京市(23)中央(22)府中市(22)

 どの区に何人とはわかりませんが千代田区のように残留孤児が一名(もっともこの数字は区市側が把握しているもので実際はもっと多いのではないかと思われます)となっているところにも支援相談員は配置されています。週一日勤務です。

 ぼくは新制度発足を知り、かつての同僚である忠幸さんと共に昔担当した元生徒(2・3世)数人に受検を薦めました。区市がそれぞれ募集するのが当然ですが、それを行わず、東京都が一括採用し区市に派遣する形になったところも少なくありません。
 労働条件(勤務日数・賃金・交通費など)は国からの補助金を元に自治体で決める建前ですから区の非常勤職員としてきちんと処遇しているところから、東京都のようにまるでボランティア扱いかと思うところまで結構開きがあります。

 ここに来て東京都で一括採用されたひとびとについては来年度は雇い止めになることがわかりました。区市での雇用になるというわけです。 私たちは受検を薦めた責任もあり、10月に都庁を訪ねて制度改善に指導責任を果たしてくれるように要望してきました。が、年末になっても継続採用は保障されるのか、労働条件はどうなるのか、東京都から本人たちには何の説明もされていないようです。

 支援相談員に採用された卒業生が水を得た魚のように熱心に活動している様子を見聞きしてぼくは心から喜んでいます。制度を整え、安心して働けるように自治体の方々には智慧を絞ってほしいと思います。同じ仕事をして労働条件に極端なアンバランスがあるようでは困ります。
 残留孤児支援事業は私たち日本国民と日本政府が長く放置してきた戦後責任を幾分なりと果たすための施策です。区市当局はそのことをきちんと自覚して仕事をしてほしいものです。私たち市民もこれらのひとびとが「日本に帰ってきて良かった」と安堵してくれるように 交流の場をつくり共に生きる歩みを印していきたいものです。


公務員

2008-12-10 22:35:50 | 中国残留日本人孤児
 9日(火) 
 昨日貰った宿題に取り組みました。Aさんにかかわるいくつかの課題です。国民年金加入問題、永住資格取得問題、パスポート取得問題etc。どの問題にも収入がほとんどないこと、つまりカネが隘路ですが対応する人の心の貧しさが立場の弱い人をいっそう苦しめていることがわかります。
 市役所や社会保険事務所、入国管理事務所などで働いている公務員に接すると情けなくなります。その人の立場に立ってわかりやすく説明するという姿勢が欠如しています。社会的弱者を対等な人間と見ていないのです。これでは怖くなって二度と近づきたくなるのは当然です。そのために大切な権利が空洞化し、ますます本人が生きがたくなります。
 個々の問題に詳しい知友に相談すると道が開けるかと思いあちこちの友人に電話しました。直ぐにどうなるというわけにはいきませんが協力を得られそうな話しもあり元気づけられました。



 前に紹介した城戸久枝さんのノンフィクションがNHKでドラマになるというニュースがあります。忘れないように新聞記事を貼り付けておきます。

 


  城戸さん(松山生まれ)原作 ドラマ撮影始まる 八幡浜

              2008/11/30 愛媛新聞

 松山市生まれのノンフィクション作家・城戸久枝さん(32)=東京都在住=のルポルタージュで、第三十九回大宅壮一ノンフィクション賞などに輝いた『あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局刊)を基にしたNHKドラマの制作がこのほどスタート。二十九日、八幡浜市を皮切りに愛媛ロケが始まった。十二月三日まで、同市のほか松山、伊予、西予の各市で撮影予定。
 原作は、中国残留孤児として育ち一九七〇年に帰国した城戸さんの父幹さんの人生をたどったルポ。幹さんは旧満州(中国東北部)で将校だった故城戸弥三郎・八幡浜市議の長男で実家が同市にある。
 ドラマのタイトルは「遥かなる絆」で二〇〇九年四月から毎週土曜日に六回放送予定。中国残留孤児を描いたドラマ「大地の子」を手掛けた岡崎栄さんが演出し、六十歳をすぎた幹さんを加藤健一さん、青年時代の幹さんを香港映画などで活躍するグレゴリー・ウォンさんが演じる。久枝さん役は鈴木杏さん。
 
  鈴木杏さん  
 http://ameblo.jp/anne-al/entry-10155097999.html
 
 

 同日は同市保内町川之石の診療所で、帰国した幹さんが妻となる陵子さん(佐藤めぐみさん)の働く病院を訪ねるシーンを撮影。岡崎さんは「人間愛をうまく表現したい。日中関係が良い方向に向かう作品になれば」と話していた。