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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

城戸久枝さんとの交流 きいちごの旅②

2010-05-18 09:09:04 | 中国残留日本人孤児
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5月15日(土)つづき

ロビーのTVで「遙かなる絆」の撮影ドキュメントを見たあと会場を研修室に移して城戸久枝さんとの交流のひとときが始まった。床に車座になった。足が痛くて椅子に座っている人もいる。ぼくが司会する。

 ○ドラマと実際

 夫君と並んで座っている城戸さんにドラマの中では城戸さんの恋人?役の人(劉成さん)がいたがその方は今どうしているのかと聞いてみた。

  「遙かなる絆」 登場人物http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/cast/index.html

 このドラマは城戸さんが10年かけて出版した『あの戦争から遠く離れて』を読んだ岡崎栄さんが制作したものだが、「ドラマ」であり事実とは違うところもある。一番違うところがどうもこの恋人役の存在で岡崎さんの創作らしい。

 城戸さんが本を執筆中からそれを支えてきたのが夫の諭さんで、ドラマ化するとき岡崎さんからこういう設定にしたいと聞いていたという。

 仮に事実であったらと聞いてみたら諭さんは「それはそれで彼女の人生だから」と余裕ある?答えが帰ってきた。

 岡崎さんはこの本を読んですぐにドラマ化の電話をかけてきたらしく「遙かなる絆」というタイトルも岡崎さんが考えた。原作者や当事者の思いを大切に受け止めてドラマ化してくれており、父の幹さんも喜んでいるという。ちなみに日本側の当事者はすべて実名で登場している。

 岡崎栄さんは 「大地の子」を作った人だが、東京教育大学文学部の先輩だ。学生文化会というサークルで活躍されたという。何となくうれしくなる。   

 岡崎栄さんhttp://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20090507et08.htm


 ○牡丹江駅 母子の別れ

いよいよ列車が牡丹江駅を出るという場面で養母の付淑琴さんが「玉福行かないで!」と叫ぶ場面があるが実際はどうだったのか?

 久枝さんはもちろん見たわけではない。本の中ではこう書いている。
 
 「駅のホームで列車を待つ間、淑琴は玉福の手を握りしめて泣いていた。そしてホームに列車が入ってきたとき、淑琴は腰が抜けて崩れ落ちるように座り込んだ。悲しみの余り体中の力が抜けて立つことができない淑琴の体を、玉福は必死で支えた。

 母さん、母さん、僕の母さん、僕はこんなに母さんを悲しませているのかー細い淑琴の体を抱きかかえながら、玉福の胸のなかには二十数年ともに過ごした日々のことが次々に浮かび、涙をこらえることが出来なかった。(略)

 いまにも倒れそうな自分の養母から手を離すことが出来ない。玉福は養母をさらに強く抱きしめた。こんなにつらいのなら、いっそ中国に残ってもいいーそんな考えが、一瞬、玉福の頭をかすめた。(略)」

 同じ場面はお父さんの本(「<孫玉福>39年目の真実」)ではこうなっている。

 母は泣きながら、意識朦朧として倒れかかっていた。
「ママー!」
私は両手で母を抱え、大声で叫び続けた。
「乗れ、乗れや!」
わずかに開けた母の目が優しく私を見た。
「乗れや!」
もう一回母は言った。

 
 こちらが本当のことだったと思われる。久枝さんは本を書いたときにはよくわかっていなかったが後にお父さんが「本当は行かないでと言いたいのに行けと言ったのが心に深く残っている」と聞いたという。

「行かないで!」という叫びは実際にはなかった。「乗れ、乗れや!」という遙かに苦しいわが子を思う言葉が発せられていたのであろう。

 ○やがて「残留孤児」やその妻の方々が発言するようになった。日本に帰ってきてからの苦しい体験や老後への不安を激しく語る人がいる。一昨年から始まった国民年金の支給などの新施策を受けられない人もいる。中国語だから僕には解らないが城戸さんにはきちんと伝わっているようだ。

 ものが書ける人に対する期待が言わせる言葉だろう。城戸さんは「残留孤児」の人々の裁判闘争に関わって実情を理解するようになったが、ノンフィクションライターとしてのこれからの活動の中でこれらの人々の老後問題について書いていきたいと考えているようだ。

 僕に出来ることは楽しい旅の計画を立てることぐらいだが皆さんの話に耳を傾けているとこの人たちが抱える生活上の課題や不安に改めて気づかされる。

 9時半になったので今回の交流はここまでということにし、城戸さんの取材要請があったら誰もが喜んで協力することを確認する。

 僕はその後も11時過ぎまでロビーで有志の方々と交流した。日頃、あちこちを歩いたり、サイクリングしたりしているから、ばてることはなかった。

 
動画「遙かなる絆」http://videonavi.blog66.fc2.com/blog-entry-1939.html

浅間山の麓 きいちごの旅①

2010-05-17 17:12:07 | 中国残留日本人孤児
 昨夜10時過ぎ、きいちごの旅から無事帰ってきました。二日間願ってもない好天に恵まれ、心残りのない移動教室を実施することが出来ました。91になる妻の母も参加者にいたわられて久しぶりに楽しい思いをしたようです。

 5月15日(土)晴れ

 6時、近所にあるMS観光の車庫から我ら3人はバスに乗る。運転手は去年の移動教室と同じく酒井さん。
 7時過ぎには日暮里に着く。河本さんら数人がもう待っている。その後の集合状況もよく、定刻の8時よりやや早く出発。

 首都高が車両事故で渋滞し、どうなるかと思ったが、桶川から高速に乗ったあとは順調、「鬼押出し園」に13時前に着くことが出来た。車内では自己紹介のあと今夜お会いする城戸久枝さんがお父さんの幹さんと中国の故郷を訪ねたドキュメンタリー(NHK「故郷行 中国・家族のルーツをたどる旅」)を見る。

 案内をするぼく自身が「鬼押し出し」に来るのは?十年ぶりだ。昔の記憶は熔岩の姿態と浅間山ぐらいのものだ。

 説明パンフによると「浅間山の火口で鬼が暴れ岩を押し出した」という噴火の印象からこの名が付いたという。

 昼食のあと、1783年の噴火の犠牲者を供養するために上野寛永寺伝来の聖観世音菩薩を厄除観音として祀ったという「浅間山観音堂」まで往復してみた。

 目の前の浅間山はもちろんのことだが四周の山々の景観が言うことなし。中国から来て20~30年経って初めて訪れた人々は感嘆しきり。夫婦や友人同士で写真を撮る姿があちこちに見える。ぼくと一緒の写真に収まってくれる人も居た。

 3時過ぎに北軽井沢の「群馬 満蒙拓魂之塔」。偶然会った地元の方がバスを誘導してくれる。開拓2世の石井勇さんが前もってわかっていたら年寄り(満州からの引き揚げ者・開拓一世)が喜んで迎えただろうにと言ってくれる。

 名刺をもらったのでパソコンで調べてみると石井さんはこの辺りで有機農業に取り組むリーダーの一人だ。

 石井勇さんhttp://www.organic-f.jp/gaido/ishii.html 


 碑前で黙祷。ぼくがみんなを代表して、あれから65年ののち中国人に助けられた日本人孤児が参拝に来たことを告げ、残留孤児とその家族を見守ってくださいと申し上げた。

 みんなは線香をあげてそれぞれにお参りする。野の花を摘んで捧げる人もいる。

 上毛新聞の若い記者が取材に訪れていた。

 キャベツの苗を植えたばかりの畑がどこまでも続く嬬恋パノラマラインを走って「愛妻の丘」へ。今宵の宿・千代田区立嬬恋自然休養村についたのは5時前だった。

  嬬恋パノラマラインhttp://grand-touring-japan.travel.coocan.jp/roadofjapan/bangai/tumagoi/index.htm
 

 夕食後7時から城戸久枝さん夫妻との交流会。お二人は前夜高崎に泊まり、八ツ場ダムの予定地などを通って私たちよりも早く宿に着いていた。

 最初に昨年NHKで放送されたドラマ「遙かなる絆」の撮影ドキュメントを見る。中心は黒竜江省牡丹江の駅で城戸幹(孫玉福)さんが養母・付淑琴さんと別れ帰国の途に就く場面だ。

 (20分にまとめられています。よかったらどうぞご覧下さい。)

 「遥かなる絆」PR あなたは孫玉福をご存知ですか?http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=keigoo&prgid=34924647
 


 この場面を私たちは昨年5月9日、第9回移動教室の宿で見た。今、城戸さんと一緒に見られるとは夢のようだ。

 川越だより・木島平からhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20090510 

 

第10回きいちご移動教室

2010-05-14 05:08:44 | 中国残留日本人孤児
 明日からいよいよ「きいちご移動教室」です。ぼくにとっては今年前半最大のイベントです。

 1985年から「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」が在日コリアンの多住する荒川区三河島で始めた「木苺舎」に淵源する活動です。

 木苺舎を閉鎖したあと、その精神を継承するつもりで「きいちご基金」が年二回の移動教室を行ってきました。

 今回の参加者は49名で大半は「中国残留日本人孤児」とその家族です。城戸久枝さん夫妻が夜の交流会に参加してくれます。

 幸いにも天気も良さそうです。そこで、昨日、最終的にコースを定めて関係者と打ち合わせを完了しました。


  <第10回きいちご移動教室>カラマツ芽吹き、風薫る嬬恋高原

     『遙かなる絆』原著者・城戸久枝さんとともに

○1日目・5月15日(土)

 JR日暮里駅前~(首都高・関越・上信越道)~軽井沢I・C~鬼押出し園(昼食)~群馬・

満蒙拓魂之塔~愛妻の丘~バラギ湖~嬬恋自然休養村 夜・交流会(城戸久枝さん)


○2日目・16日(日)

 嬬恋自然休養村~嬬恋牧場~(志賀草津高原道路)~善光寺(昼食)~(高速)~日暮里

 二日目に雪の壁の残る志賀高原に行けそうです。

  志賀草津高原ルート 雪の回廊http://vwdrive.web.fc2.com/siga.html

 順調であれば信州大学の自然教育園に寄り、長池の周囲を散歩して冬から春へと向かう自然の営みを観察します。北の国で育った人ばかりです。どういう思いをもたれるのでしょう。

 旅の最後は善光寺です。戒壇巡りをしたあと、雲上殿に登ります。ここには満蒙開拓団犠牲者の慰霊碑があります。

 善光寺・雲上殿http://zenkozi.com/highlight/palace02.html

 今回の移動教室では最初と最後に満蒙開拓団犠牲者の慰霊碑を訪ねることになります。群馬県(上州)と長野県(信州)です。

 長野県は特に犠牲者の多かったところです。

 参考 川越だより 「善光寺参り 上」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/f218177f23129782803d746917005f67

 「下」は「次の記事へ」をクリックしてください。

上信の旅①  北軽・嬬恋

2010-05-11 06:51:32 | 中国残留日本人孤児
 第10回「きいちご移動教室」の下見の旅から昨夕6時、無事帰着しました。

 昨年と同様、菜穂子さん(池袋商業高校 84年1~5)が同道してくれたのでいつもよりいっそう楽しい旅となりました。今回は菜穂子さんが助手席に座ってくれました。一人娘の笑ちゃんが希望の高校に入学して肩の荷が下りたようです。運転する妻との会話が弾みます。

 

 5月8日(土)晴

 川越~(高速)~渋川・伊香保~北軽井沢~嬬恋

 ○群馬満蒙拓魂之塔http://eritokyo.jp/independent/aoyama-co11033.html

 北軽井沢から慰霊碑までは立派な舗装道路が続いており55人乗りの大型バスも楽々入れることを確認。

 慰霊碑横の大屋原開拓の記念碑前で弁当を広げるのもイイかな。満州から引き揚げて来て再び開拓に挑んだ人々の苦難の地だが今は正面に浅間山が見える一等地。でも鼻のいい人には家畜のにおいが気になる?


 参考・川越だより「拓魂の塔」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/c8a6846d79776653470fe767979bd66b

 
 ○北軽井沢駅http://www.ma.ccnw.ne.jp/hiro-h/Kitakaru-monogatari/09wa/09wa.htm

 北軽井沢の食堂で昼食をしていると目の前に「北軽井沢駅」舎が見える。昔、草軽軽便鉄道というのがあって本当にここに駅舎があったという。びっくりした。ちなみにこの辺りは「北軽井沢」とは言っても群馬県長野原町の一角。駅ももとは「地蔵川駅」といった。

 近くの「大学村」は元々、法政大学の学者たちの村だったらしい。戦後、内紛で潰えたとか。いかにも「学者」らしい。

 食堂で会った地元の方の話でシャクナゲ園の開花が遅れていることを知る。

 ○法政大学村http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-15.htm
 


 ○愛妻の丘http://www.aisaika.org/mission/14kyabechu/aisainooka.html

 嬬恋パノラマラインをひた走る。どこまでも続くキャベツ畑。その一角にある。

 ○バラギ湖

 宿舎の近くに広がる。桜の花盛り。

 ○嬬恋自然休養村http://hoyou.city.chiyoda.tokyo.jp/tsumagoi/t_index.html

 浅間山の景観がすばらしい。食事が満点。廉価な宿で最高のもてなし。中国から来た人たちならずともびっくりすることだろう。千代田区立だが誰でも利用可。

 

 <移動教室一日目コース(案) 5月15日(土)>

 日暮里~(首都高・関越・上信越道)~軽井沢I・C~鬼押出し園(昼食)~満蒙拓魂之塔

~愛妻の丘~バラギ湖~自然休養村 夜・交流会(城戸久枝さん)

 今のところ天気予報は「晴れ」。シャクナゲは無理だが春の花々とカラマツの芽吹きに迎えられて楽しい交流の一日になるだろう。
 


カラマツ芽吹き、風薫る嬬恋(つまごい)高原

2010-04-06 05:45:37 | 中国残留日本人孤児
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4月5日(月)雨

 5月15日に予定されている「第10回きいちご移動教室」の参加者募集の締め切り日が4日でした。定員50名に対し、49名の申し込みがありました。保留中の方もおられますのでたぶんこれで一杯です。

 午後、参加者名簿を作成しました。今回の特徴はきいちご基金の世話人などをのぞくと参加者のすべてが「中国残留日本人孤児」とその家族だという点です。

 「残留孤児」の方々が帰国して20年以上になります。一緒に帰ったこどもたちが成人し、孫が成育しています。
 
 「残留孤児」やその配偶者の方々が友人を誘って参加するというケースがほとんどです。中には家族ぐるみという方もおられます。

 もう一つの特徴は城戸久枝さんが参加してくださることです。昨年、NHKで放映されたドラマ「遙かなる絆」の原作者です。お父さんの城戸幹さんが帰国したのが1970年と他の方よりは早かったため日本で生まれた「残留孤児2世」です。

「遙かなる絆」はノンフィクションドラマです。城戸久枝さんはドラマの主人公その人と言っていいでしょう。お父さんと同じく中国東北部で生育した方々と交流することを楽しみにしていてくれます。

 参加者の皆さんが「遙かなる絆」を見ていればいいのですが…。これが意外と見られていないのです。
 言葉の壁のせいなのか、NHKの広報不足のせいなのか。

 長いドラマなのでDVDなどで見ておいてもらえたらいいのですが…。

 
 (資料)第10回移動教室の案内文です。


    <第10回きいちご移動教室> 

  カラマツ芽吹き、風薫る嬬恋(つまごい)高原

    『遥かなる絆』原著者・城戸久枝さんとともに

 昨年の旅で子どもたちが雪合戦に興じた白根山の麓(ふもと)・嬬恋高原に遅い春を訪ねます。シャクナゲの花園とカラマツの芽吹きが私たちを迎えてくれます。

 南側にそびえる浅間山のふもとは「満蒙開拓団」生き残りの人たちが戦後、再入植して開拓の鍬(くわ)をふるったところです。

 昨年NHKで放映されたドラマ『遥かなる絆(きずな)』の原著者・城戸久枝さんが一緒に旅をしてくれることになりました。夜の交流会で城戸さんのお話を聞きます。

 昨年5月、木島平の宿で久枝さんのお父さん・城戸幹さんと養母・付淑琴さんの別れの場面をみんなで見ました。一年後に娘さんにお会いできるなんて夢のようですね。ゆっくり交流しましょう。

 ①目的地 群馬(ぐんま)県嬬恋(つまごい)村

 ②宿舎 千代田区立嬬恋自然休養村 (電話)0279-96ー1280

 ③日程 2010・5・15(土)~5・16(日)
                         以下(略)

 
 今回も数人の方から「きいちご多文化共生基金」に寄付をいただきました。基金は市民の寄付のみで運営されています。おかげさまで移動教室参加者の負担を最小限(大人5000円)にとどめることができます。

 一年間に1000円程度以上の寄付をしてくださる方は自動的に会員になります。会員は移動教室などの活動に参加できます。宜しかったら是非、ご検討下さい。

 シャクナゲの群落が今や遅しと待っていてくれるでしょうか。5月の連休明けに下見に行きます。ご一緒できる方がいたら連絡してください。一泊旅行です。

  シャクヤクhttp://asama-kogen.info/shaku/album/page_thumb11.html

きいちご熱川温泉の旅

2010-03-25 21:42:57 | 中国残留日本人孤児
  3月23日(火)曇り

 7時半、上野駅公園口前より「ゆけむり号」出発。Yさん夫婦が間に合わず、「きいちご熱川温泉の旅」の参加者は24人となる。Yさん夫婦は上野駅までは来たが「公園口」が解らなかったようだ。

 昼頃、熱川シーサイドホテル着。ロビーで昼食。

 午後、全員で海岸を散歩。薄日が差してきて大島、利島、新島などの島影も見える。

 磯に降りて貝を探す人、道ばたの山菜採りに夢中になる人…。

 きいちごの群落があちこちに。白い花が満開だ。

 早速、全員で記念撮影。久しぶりに海の気にふれて皆さんの顔がほころぶ。

   きいちごhttp://www.hana300.com/kiichi.html


 夕食後交流会。24人全員の自己紹介。中国から帰った「残留孤児」とその妻、北朝鮮から脱出してきた人…。初参加は夫婦二組。
 
 Sさんは黒竜江省柴河の育ちで「遙かなる絆」の城戸幹さんの故郷のすぐ近くだ。ぼくの生徒だった洋介くんの義父Fさんと同じ職場で働いていたという。

 病気治療で去年一年間きいちごの旅に参加できなかった張さんが「北国の花」という歌を披露してくれた。久しぶりの美声にぼくも大いに喜ぶ。

 散会後、男組は大討論会。

 ○今の学校はこどもを遊ばせて居るだけではないのか。戦後、アメリカに占領されて「日本弱体化戦略」にはめられてしまったのではないか。
「鉄は熱いうちに打て」という。こども時代は大切なときだ。「ゆとり」などといって遊ばせていていいのか?塾の繁盛は日本の学校教育の矛盾の反映ではないか?

 ○首相はなぜくるくる替わるのか?こんな事では責任ある政治は出来ないのではないか?

 ○「知らなかった」という鳩山首相の言うことを信じる人は居ない。なのに、鳩山さんはなぜ、罰せられないのか?

 こんな風なテーマが次々に提起される。被告人席に立たされたようなぼくが懸命に答える。そんな3時間だった。

 中国から帰国(?)して20数年、孫たちの様子を見ていて学校教育への疑問は特に深いようだ。

 根源的な疑問に出会ってぼくも緊張しながら精一杯自分の見解を伝えようとしたが理解してもらえただろうか?

 アメリカの世界戦略と日本のあり方という大きなテーマに発展して議論するなどと言うことは絶えて久しい。有意義なひとときだった。

 ぼくの就寝は11時半頃。

 
 24日(水)雨

 9時、貸し切りバスで出発。城ヶ崎海岸・門脇岬周辺の散歩と海洋公園。

 小雨模様のあいにくの天気だが風がないので散歩は楽しかった。大室山の溶岩流が作り出した景観に時を忘れるひととき。

 12時過ぎ、「ぐらんぱる」で「ゆけむり号」に乗り換えて帰途につく。6時前上野着。5月15日の移動教室での再会を楽しみに解散。

 
 

城戸久枝さんのお話

2010-03-11 06:06:32 | 中国残留日本人孤児
 「第10回きいちご移動教室」にゲストとして参加してくださる城戸久枝さんの講演会があると友人が教えてくれました。

 参加費は無料で当日、先着80名が入場できるそうです。1時25分ぐらいまでに行けばいいのかな。僕はそのつもりです。


 城戸久枝さんの講演会

 ○3月29日(月)午後2時(開場:1:30)

 一部 講演(インタビュー方式)

講師:城戸久枝さん
内容 「あの戦争から遠く離れて」
    NHK放映「遥かなる絆」(中国帰国者の苦悩と感動のノンフィクショ
    ンドラマ)原作者城戸久枝さんが語る人間内面の葛藤。

 二部 音楽 省略

 ○大田区の区民ホール・アプリコ(JR京浜東北線 蒲田駅)
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/aprico/index.html

 ○問い合わせ 大田区福祉管理課援護係
        TEL03(5744)1245

 「あの戦争から遠く離れて」http://www.4jc.co.jp/free/t/anosensou/tokushu.html


  地域の人々と連携して学びの場を豊かにする取り組みで知られる都立小山台高等学校(定時制)からはこんなお知らせがあります。城戸さんのお話とも深いかかわりがあります。どなたも無料で参加することができるそうです。


   第15回「こや定ふれあいスクール」のお知らせ

1 目 的

時下ますますますご清祥のことと存じます。日頃より本校の教育活動にご理解・
ご協力いただき感謝申し上げます。本校では、生徒の生きる力を高め、人権の尊
重、多文化の理解、市民の育成、国際平和をテーマに特色ある教育活動を実施し
ております。今回は武蔵小山商店街の開拓団の歴史について勉強し、平和の大切
さについて学びます。みなさまのご見学お待ち申し上げます。

2 テーマ  東京の満蒙開拓団を知ろう
        ~武蔵小山商店街と戦争~

3 講 師  飯白栄助 様(開拓団経験者、NHK番組出演)
       森沢義勇 様(開拓団経験者)
       藤村妙子 様(東京の満蒙開拓団を知る会)
       今井英男 様(東京の満蒙開拓団を知る会)*助言者
       横山   様(東京の満蒙開拓団を知る会)*助言者

4 日 時  2010年3月17日(水) 18:00~21:05

5 場 所  本校視聴覚室(1階)品川区小山3-3-32
       http://www.koyamadai-h.metro.tokyo.jp/teijisei/index.htm

       小山台会館(3階) 品川区小山4-11-12 
           どちらも東急目黒線武蔵小山駅下車 徒歩すぐ
   
6 時 程  

18:00~       開会(生徒による司会進行)・本校1階視聴覚室
18:05~18:55  NHK番組上映(50分)
18:55~19:10  小山台会館へ移動
19:10~19:50  講演(40分)
          「東京の満蒙開拓団を知る会」によるスライド上映と講演
19:50~20:30  講演(40分)
         *開拓団経験者による体験談 飯白栄助さん、森沢義勇さん
20:30~20:45  質疑
 

7 その他
   自動車での来校はできません。

8 連絡先 
   都立小山台高等学校定時制
          角田・武藤   電話03-3714-8155


※参考※
NHKデジタルBS Hi (2009年8月9日放送)
「証言記録 市民たちの戦争 
強いられた転業 東京開拓団 ~東京・武蔵小山~」(ナビゲーター:中居正広

http://www.nhk.or.jp/shogen/schedule/shimin_past.html

統制経済と物不足により追い詰められた商店主たちは、転業や廃業を迫る政府の
方針もあり、満州開拓に活路を求めた。しかしソ連軍の突然の侵攻により集団自
決に追い込まれる(NHKホームページより)

武蔵小山商店街パルム
http://www.musashikoyama-palm.com/

嬬恋村

2010-02-19 23:17:47 | 中国残留日本人孤児
 寒い日が続いて冬眠状態でしたがようやく青空と日差しが戻ってきました。昨日は会議のため東京へ、今日は特別養護老人ホームの見学で川越の街中へ。少しだけですが体を動かしました。明日あたりからは春の気配を感じられるようになるのでしょうか。

 5月15日に予定している「第10回きいちご移動教室」の目的地が群馬県嬬恋村に決まりました。

 若い友人たちが宿泊先として千代田区立「嬬恋自然休養村」を確保してくれたのです。事務局を担当する僕としては大喜びです。

 浅間山の景観が素晴らしいといいます。料金も格安ですからありがたい限りです。


 嬬恋自然休養村http://hoyou.city.chiyoda.tokyo.jp/tsumagoi/t_kannai.html

 「中国残留日本人孤児」「脱北帰国者」などのみなさんとその家族が日本に帰ってきてよかったなあとひと時でも感じてもらうのが旅の目的です。

 どんな旅程にしたらよいか、これから楽しいプラン作りが始まります。鬼押し出しなどの観光のほかに群馬県の満蒙開拓団慰霊碑の訪問などが考えられます。

 群馬満蒙拓魂の塔 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/c8a6846d79776653470fe767979bd66b

 途中の中之条には「おろかものの碑」があり、長野原の八ッ場ダム予定地もとおります。

 おろかものの碑http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/445f75fbfe2de33841e8c6c05e702b2f

軽井沢 大日向開拓記念館

2010-02-13 12:12:53 | 中国残留日本人孤児
 しびくた日和が続くとやりきれなくなります。布団にもぐりこむ時間が一日の大半を占めます。そのほうが体が楽になります。温かい日差しが待ち遠しい限りです。

 きいちご移動教室の目的地探し、第2弾は軽井沢周辺です。

 一昨年夏、天皇ご夫妻が軽井沢静養中に大日向開拓記念館を訪れたというニュースがありました。抗がん剤治療の一休み中に長野県で見たのではなかったかと思います。

 大日向開拓地http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080830/imp0808300822000-n2.htm

 一年前の今頃、ここを訪ねた箭内 昇さんという方の文章があります。


「未来志向の友好関係は歴史認識から――旧満洲で見た衝撃の遺跡」(2009/02/19)

    大日向開拓団の悲劇


 昨年天皇陛下も訪問された大日向開拓記念館は軽井沢西部の大日向地区にある。1938年(昭和13年)、長野県旧大日向村(現佐久市佐久穂町)の村民は厳しい食糧危機に耐えかね、村民の半分にあたる216戸、764名が吉林市北部の舒蘭県四家房への移住を決断した。


 村ごと移住する「分村移民」としては第1号であり、やがて「開拓」が成功するや、日本政府は格好のモデルケースとして映画や演劇化し、国をあげて満州移住を奨励した。


 だが、移住した大日向村民はその後3つの悲劇に遭遇する。まずは、敗戦直後に受けた現地住民の襲撃で20名以上が殺害され、引き揚げ途中の飢餓などで約350人が死亡した。


 やっとの思いで帰国するが、もはや元の村に自分の土地はない。結局、47年(昭和22年)に65世帯165人が国有地の払い下げを受けて浅間山麓(さんろく)の軽井沢に入植したが、雪深い不毛の原野を切り開く文字どおり「開拓」の苦難を味わう。今は早稲田大学のセミナーハウスや西武不動産の千ガ滝別荘地になっている一帯だ。


 記念館には当時ののこぎりが陳列されているが、こんな道具であの大量のカラマツを切り倒していったのかと思うと胸が詰まる。だが、それ以上の悲劇は、彼らが「侵略のお先棒」を担がされたことである。


 筆者は、それまで満州開拓者たちは移住の最初から最後まで苦難が続いたと思い込んでいたが、記念館を案内してくれた移民2世(満州で誕生)の話に驚愕(きょうがく)した。「われわれの満州での生活はかなり快適だったようです。割り当てられた農地は既耕地だったこともあり、元の大日向村と比べれば別天地でした」というのだ。


 記念館に掲示された「満州大日向村」の地図をみると実に広大だ。鉄道路線でいえば2駅間(列車で30分程度か)、公称総面積は8000町歩(2400万坪)に達する。移民たちには1戸当たり10町歩(3万坪)の農地が給付されたという。日本では当時の1農家当たり平均耕作面積が1町歩であったことを考えると、まさに夢のような「別天地」だったにちがいない。


     国策に翻弄(ほんろう)された人々


 だが、大日向の移民たちは、戦後になってその「別天地」が実は日本政府が実質的に収奪したものであることと、「小作」として使用していた中国人や朝鮮人こそが本来の地主であったことを知って、大きな衝撃を受ける。


 彼らは日本では被害者だが、中国では加害者でもあったわけで、実に気の毒な存在だ。存命の移民たちは今も「現地の人に大変な迷惑をかけた」と悔恨の念にかられているという。


 こうした満州開拓移民は最終的には22万人にまで膨張した。日本側の資料によれば、移民の土地を確保するために設立された満州拓殖公社(満拓)は、41年までに2000万町歩(日本国土の半分以上)を買収(収奪)している。


 このうち中国人の既耕地は351万町歩と当時の日本全耕地の約6割に達する(太平洋戦争研究会編著「満州帝国」河出書房新社)。その背後に日本軍の圧力があったことはいうまでもない。


 筆者は吉林からハルビンまで5時間半も列車に揺られて移動したが、車窓にはトウモロコシ畑や大豆畑が気の遠くなるほど延々と続いていた。この沿線に大日向村をはじめ多くの満州開拓団の入植地が連なっていたことを思うと、やり切れない気分に陥る。


 今年86歳になる筆者の母親に聞くと「当時の日本人は、皆満州はいいところと信じていた」という。われわれは「侵略」という言葉を聞くとすぐに戦争を想起するが、実は権力者による情報コントロールこそが最も恐るべき侵略の正体であることを痛感する。

  出典http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/yanai.cfm?i=20090218c9000c9&p=4

 母村・大日向村は現在長野県南佐久郡佐久穂町の一部になっており、秩父から佐久に抜ける国道299号沿いにあります。秩父事件の時、困民党軍が十石峠を経て佐久に転戦した際とおった道です。僕も何回か訪ねたことがあります。当時の宣伝映画も見ました。

 でも、この 大日向開拓記念館は所在が分からず行ったことがないのです。これでわかりました。春になったら下見に行ってみます。普段は閉まっているようです。

  大日向開拓記念館http://blog.goo.ne.jp/iwanaga7717/e/142cac90a0d4490a033a5b3702245b59

山梨県南アルプス市  (旧)豊村(分村)開拓団慰霊碑

2010-02-11 07:22:04 | 中国残留日本人孤児
 2月10日(水)曇り

 寒い一日です。妻は風邪でダウン。

 先日投函した「きいちご基金」からの「熱川温泉の旅」案内が届いたと何人もの方から参加申し込みの電話をもらいました。「中国残留日本人孤児」か、その配偶者、または娘さんです。

 昨年の旅の楽しかった思い出、新たな春を待ち望む気持ち…。参加希望者はあっという間に定員(20)を超えて24人。すべて「残留孤児」夫婦、または夫を亡くした中国人妻。

 昨年、40年連れ添った夫を亡くされた方がいます。娘さんの話では思い出しては泣いておられるそうです。友人の度重なる誘いにこの旅に参加する気持ちにやっとなってくれたといいます。日本に帰ってからでも25年にはなります。苦労を共にしてきたお連れ合いに別れる打撃に耐えかねておられるのでしょう。

 一泊二日の短い旅ですが温泉に入りながら中国語で心行くまで交流してほしいものです。
3月23日、伊豆の熱川、桜の花が迎えてくれるかな。


 第10回「きいちご移動教室」の目的地決定のための情報収集でこんな記事を見つけました。

 
 終戦記念日に思う、満州開拓団の集団自決 惨禍の記憶今も…山梨

              (毎日新聞 2007年8月15日)

  山梨県南アルプス市の神社に半世紀前から立つ慰霊碑--。碑面には中国残留孤児の石丸美知子さん(67)=同市=の名も刻まれている。戦時中に同県旧豊村(同市の一部)は満州(現中国東北部)開拓団として村単位で移住し、その中に幼少の石丸さんがいた。終戦2日後の1945年8月17日、開拓団141人が集団自決を図り、石丸さんはただ一人生存していたことがその後分かる。


【新聞記事続き】

 40年、豊村の村民は国策で満州に移住し始めた。畑は肥よくで作物はよく実った。現地の人々から強制的に取り上げた土地とは、村民は知らなかったという。

 45年8月16日に終戦の知らせが届くと、土地を取り返そうと現地の人々が村を襲撃してきた。村民は銃などで応戦したが弾が底をついた。村民はダイナマイトによる集団自決を決断し、140人が死亡した。その時を石丸さんは記憶している。

 「会議がある」。5歳だった石丸さんは母から言われ開拓団本部の建物に入った。線香のにおいが立ちこめ、大人たちがすすり泣いていた。急に目の前が揺れ、見知らぬ人が上から倒れてきた。ダイナマイトが爆発した瞬間だった。1週間も昏睡(こんすい)状態が続き、目を覚ますと母と姉が息絶えていた。ひん死の石丸さんは中国人に育てられた。

 養父母の長男と61年に結婚し、その後、中国残留孤児であることが判明し、88年に帰国した。

 額には5センチ、左ひじにも15センチ以上の傷跡が残っている。家族と平穏に暮らしているが、日本語が話せず孤独を感じることも多いという。消え去ることのない痛手を心と体に負い、石丸さんは言葉を絞り出す。「戦争さえなければ……。戦争なんて何もいいことがない」

 開拓団の遺族らは、47年から自爆した8月17日に慰霊祭を毎年開き、慰霊碑は開拓団の悲劇の継承と不戦を誓って57年に建てられた。石丸さんの名は、帰国した今も自決者として慰霊碑に名前が刻まれている。【中西啓介】




   豊村開拓団の記録/5 半身まひの父と涙の再会

                     ( 毎日新聞8月25日朝刊)



 ◇生き残った娘、帰国--草の根活動の端緒に
 「自決した豊村開拓団に生存者がいたなんて」――。当時、県職員だった前南アルプス市長の石川豊さん(79)=南アルプス市小笠原=は、中国残留孤児となった石丸美知子さん(67)が中国黒竜江省阿城県で生存し、肉親を捜しているという事実を雑誌報道で知り、驚いた。知らせは瞬く間に、櫛形町(同町は60年に豊村を編入合併)を駆けめぐった。
 雑誌報道と前後して1982年、中国在住の日本人女性から、厚生省援護局長に「開拓団に住んでいた孤児がいる」という内容の手紙が届いた。同年、慰霊訪中団として中国を訪れていた豊村出身者が石丸さんと面会。写真を持ち帰った。
 83年12月、石丸さんは一時帰国し、父の政吉さん(当時75歳)に面会するため長坂町(現北杜市)の老人ホームを訪れた。車いすで談話室に現れた政吉さんは半身まひで言葉が不自由になっていた。突然現れた娘の存在に確信が持てず、何度も石丸さんの手を握り、背中に触れた。やがて政吉さんは、紙に鉛筆で「美知子に間違いないと思います」と書き、涙を流しながらゆっくりと「ごめんなさい」とつづった。
 「自分が誰なのか分かった喜びと、姉弟がみんな亡くなっていた悲しみで、抱き合って泣くことしかできませんでした」と石丸さんは再会の記憶を思い出す。
   ■   ■
 娘との再会を待っていたかのように政吉さんは85年3月息を引き取った。父の墓参りのため再来日した石丸さんは、町長になっていた石川さんに帰国の意志を伝えた。小学校の同級生5人が満蒙開拓青少年義勇軍として大陸に渡っていた石川さんは「戦争の犠牲者は絶対に放っておけない」と身元保証人になった。
 戦後、村にとって開拓団の話題はタブーだった。余剰農民を率先して送り出した村長以下、関係者の多くが、戦後も村に残っていたからだ。県歴史教育者協議会の相原千里会長(66)=南アルプス市小笠原=は「開拓団の悲劇に村も加担したという後ろめたさがあったのです」と話す。
 だが、石丸さんの帰国のために石川さんが募金を呼びかけると、「支援に役立ててほしい」と町民たちは率先して協力、たちまち150万円を超える義援金が集まった。
   ■   ■
 石丸さんは88年に長女の艶子さん(44)とともに帰国した。町では残留孤児を受け入れたことがなかったが、住民福祉課が手探りで支援策を考え、町営住宅を手配。2人に就職先をあっせんした。90年には長男の政夫さん(43)夫婦が帰国。政夫さんは増穂町内の工場に勤め、石丸さんや家族と穏やかに暮らしている。
 戦後40年以上顧みられなかった開拓団について、石丸さんの帰国をきっかけに、生存者の証言や資料を集める草の根の活動が始まった。99年には櫛形町内の公民館で資料が展示され、00年、14回にわたり「豊小だより」に開拓団の話が掲載された。02年には、沢登眞さん(81)を編集委員長として、開拓団の証言や資料をまとめた本「四道河にねむる拓友に捧(ささ)ぐ」が1000部作られ、旧豊村の全世帯に配られた。
 この本の出版を機に、開拓団を改めて記録する試みが始まった。=つづく


 南アルプス市の豊小学校の近くにこの慰霊碑はあるようです。石丸さん一家のお住まいも近いはずです。「樹園」という宿泊施設もあります。

 甲府盆地がいいかなあと思って適地を探索中に出会った記事です。今あれこれと調査中です。この方にお会いしたい気持ちが押し寄せてきています。

 

 





きいちごの旅に城戸久枝さん

2010-02-10 11:16:15 | 中国残留日本人孤児
 5月に予定されている「第10回きいちご移動教室」に城戸久枝さんが参加してくださるとの知らせがありました。僕が去年の今頃から願っていたことが叶うというので嬉しい限りです。

 きいちご移動教室は「中国残留日本人孤児」とその家族の方々に日本に帰ってきてよかったという思いを少しでも味わってもらえたらときいちご多文化共生基金が実施しています。

 素晴らしい自然とふるさとの風景のただなかで人々と交流する喜びを味わいます。

 昨年はインフルエンザの流行のため秋の「教室」を中止しました。ですから一年ぶりです。

 支援相談員をしている残留孤児2世の人たちと城戸さんとの出会いがあり、5月には一緒に一泊二日の旅ができるというのですから、企画立案係の僕はわくわくしています。

 どこへ行こうかな、どんな旅にしたらいいかな、友人たちと相談しながら、2月いっぱいには決め、3月になったらお知らせを出すつもりです。日程だけは決まりました。

 5月15日(土)早朝出発、16日(日)夕刻帰着、です。

 子どもから老人まで55人が安く泊まれるところ、自然の素晴らしさを堪能できるところ、「残留孤児」を生んだ歴史にかかわりがあるところ、さまざまな要素を考えて決めることになります。

 昨年は北信の木島平でした。満蒙開拓団集団自決事件の高山すみ子さんと出会うなど、僕としても会心の旅を実現できました。

 木島平からhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20090510

 一年前の5月9日、木島平の宿で見たNHKのドラマ「遥かなる絆」の原作者が城戸久枝さんなのです。

 遥かなる絆http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/
 願いというものは持つものであり、伝えれば叶うことなんですね。

 いい情報をお持ちの方がおられたら教えてください。ここにこんないい宿があるよ、とか。

 

 

中国残留孤児 最後の闘い

2009-10-15 05:35:39 | 中国残留日本人孤児
 昨日(14日)は川越氷川神社の例大祭でした。旧市街地はどこも紅白の幔幕がかけられて17日18日の川越祭りが近いことを思わせます。今年の川越祭りの予定です。

 川越祭り(予定)http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1105080001602/index.html

 17日には池袋商高の卒業生たちがきてくれるそうで楽しみにしています。

 昨日は「きいちご基金」の移動教室の企画で右往左往しました。インフルエンザの蔓延で無期延期になっているのですが、「残留孤児」のかたがたが楽しみにしていて、バスの旅とは違った形で何かできないかという声があるのです。
 11月に「川越散歩」というのはどうだろうかと考えて、昼食交流会の場所候補をあちこち訪ねてみたりしました。近年の川越ブームで日曜日に大勢で昼食会ができるところはなかなかありません。伊佐沼のほとりにある元の国民年金保養センターに空きがあることがわかりました。世話人の皆さんと相談して実行の可否を決めたいと思います。
 学校ではインフルエンザのため休校や学級閉鎖になるところが少なくないようです。友人たちとの再会を楽しみにしている方々の気持ちもよくわかります。どうしたものでしょう。

 菅原さんたちが「残留孤児」支援問題で「最後の闘い」に立ち上がるというニュースがありました。ぼくの友人のなかには様々な事情のため、今の支援策もうけられない方がいます。何とかしなければなりません。


「尊厳守る会」設立総会 菅原代表、全国大会開催決める                 
               2009/10/01 毎日新聞 神奈川
 ◇「最後の闘い」

 「中国残留孤児の尊厳を守る神奈川の会」(横浜市中区吉田町)の設立総会が30日、市内で開かれた。代表に選ばれた菅原幸助さん(84)=鎌倉市=は「新政権ができ、待遇改善の最後の闘いだ」と訴えた。11月2日、全国大会を市内で開くことを決めた。

 会には県内の孤児とその2・3世、支援者ら約200人が参加した。過半数が生活保護だった孤児に対し、自公政権下でできた新支援策が昨春実施されたが、「生活保護に準ずる額であり、問題が多い」との不満が新組織結成につながった。

 大会宣言で「国策で棄民された孤児に対し、国の謝罪はなく、孤児が受けた心の傷は癒やされていない。新政権の誕生を機に再び団結し、全面解決をはかろう」と訴えた。

 全国大会には鹿児島や京都などの孤児団体が集まる。菅原代表は「民主党は孤児問題に理解があり、近く菅直人副総理や江田五月参院議長に会い、政府交渉を始める。高齢者が多く、残された時間は少ない」と語った。【網谷利一郎、写真も】

 菅原幸助さんhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/efec8e4eec16591da3e57bbe7a9c75bd

高社郷開拓団犠牲者の命日に

2009-08-25 10:24:25 | 中国残留日本人孤児
 高山すみ子様

 先日はご一緒にあなたのふるさと・飯山市福島を訪ね心に残るひと時をすごすことができました。満州に渡るまで働いた阿弥陀堂付近の畑、ご両親の眠る実正寺の裏山、僕にももう故郷の風景のように懐かしく思い出されます。
 お土産にいただいたスイカやたくさんの野菜はその日の晩、秋山郷の「のよさの里・牧之の宿」で料理してもらい、宿のかたがたとともにおいしくいただきました。真夏の旅が続くので、新鮮な美味しいうちに味わいたいという妻の希望で、そうさせてもらいました。鳥甲山のすばらしい景観とともに忘れることはないでしょう。ありがとうございます。

 今日は8月25日、高社郷開拓団の集団自決でなくなられた方々の64回目の命日です。

 高山さんの二人のお子さん、旭さんと怜子さんをはじめ犠牲となった多くの方々のご冥福を遥かに川越の地から祈ります。

 この64年間、なくなられたお子さんたちの瞳を片時も忘れることなく、慰霊と平和の確立に尽力されてきたあなたの歩みに対しても、心から「お疲れ様でした」と申し上げます。四国遍路にも何回も出たと伺いました。
 21歳の若いお母さんでした。「ノノさんになるんだよ」といってわが子をあの世に送った母の気持ちを想像すると、僕でさえ胸が張り裂けそうになります。
 
 四国をめぐっても心は晴れない、思いは届くものだろうかとおっしゃっておられました。これだけの思いが届かないとしたら、誰のどんな思いが届くというのでしょうか。
 高山さんの尊い思いは犠牲になったお子さんの霊を慰めるだけではなく、この地で人として生きたいと願う多くの人々の心の糧にもなっています。
 この春、お目にかかった「残留孤児」の方々や北朝鮮から脱出してきた家族の方々の心に響いて元気と勇気を生み出しています。

 高山さんと苦労をともにされてきた同士の皆さんの長きに亘る活動に心から深い敬意をあらわし、あわせてご健康を祈念します。
 
 10時から中野の慰霊碑前で慰霊祭が始まったはずです。 霊よ安かれ。(合掌)
 
 

戦争を記憶する(続)

2009-08-15 06:11:04 | 中国残留日本人孤児

昨夜NHKの番組が陸軍の末端幹部であった人が部下のほとんどを犬死させた事実に恐れおののき、戦後60余年社会に顔を出さなかったと伝え、その方の言葉を紹介していました。人のあり方として深く考えさせられます。
 僕は昭和天皇のことを思いました。退位することもせず、恥知らずにも人前に立ち続け、日本人の道義を荒廃させた張本人です。この人の影に隠れて岸信介・中曽根康弘などの歴代宰相は戦争を美化することが愛国であるかのごとき風潮を振りまきました。その弟子である石原慎太郎都知事とその郎党は今日なお恥ずかしげもなく愛国を気取って、侵略を美化する教科書を教育現場に押し付け、「君が代」は歌えないという少数の教員を処分し続けています。
 左派にイデオロギー的な偏向があり、戦後一貫して国政を任せなかった国民の判断は尊重しなければなりませんが、今日なお石原慎太郎とその郎党に一票を投ずる人々の判断は本当に正しいのでしょうか。折からの選挙に当たり、大いに議論してほしいことです。

 さて僕の心に残った戦争にまつわる話の二つ目です。

 高山すみ子さんのお話です。「きいちご移動教室」の下見に行って初めてお会いしたときと5月9日に皆さんと一緒に聞きました。

 佐渡開拓団跡の集団自決の証言です。高山さんは21歳で二児の母親です。
 『ノノさんになるんだよ 満蒙開拓奈落の底から』(日本図書センター刊)から書き写します。


 8月25日

 (略)この佐渡開拓団跡で何千人の人が死んだのかわからない。そのほとんどが銃殺だった。高社郷だけでも570余人が死んだといわれている。
 井戸の中へこどもを投げ込んだ人もいる。井戸はたちまちいっぱいになって、死に切れない人もいた。そういう人は上から銃で撃って殺してやった。
 どの家もどの家も、自決した人たちの死体でいっぱいになった。日本人同士、敵味方の殺し合いを見ているうちに、私も覚悟を決めるよりほかなくなった。

 私が、旭を背負い、怜子を抱いて馬小屋へ入ったときには、仲間のほとんどは自決していた。
 ふたりのこどもを胸に抱き、最後のキャラメルを食べさせた。そして、
「ノノさん(仏さん)のところへ連れて行ってあげるから、母ちゃんの言うとおりにするんだよ」
と言い聞かせた。
 四歳になる旭は、
「ノノさんのところに行けば誰がいるの」
と聞いた。
「ノノさんのところには内地のおじいちゃんもいて、白いご飯がたくさん食べられるんだよ」
と答えた。
こどもたちはにっこり笑った。
「じゃあ、早くノノさんのところへ連れてって」
と旭がいうと、怜子もうなずいていた。
「おじいちゃんのところへ行くにはどうすればいいの」
と聞くので、
「こうやって手を合わせていればいいんだよ」
と、東の方を向いて手を合わせてみせると、こどもたちは私のまねをして手を合わせた。

 私を中にして、右に怜子、左に旭を座らせると、間髪を入れず先生の撃った銃声が聞こえた。怜子は瞬間、兎のようにピョンと2メートルも飛び上がり、旭も血しぶきを上げて絶命した。私は今でも私をじっと見つめていた二人の子供の顔と姿が脳裏に焼きついている。

 二人の死体を片付けて、私の死ぬ番が来た。

 以下(略)

 この本はお近くの図書館にあるはずです。読んでみてください。

 よっぽど覚悟を決めた人でなければ人前で話すことはできません。でもそういう体験を持った方々が私たちの近くにおられるのです。問題は私たちの側にあります。問題意識を持って学ぶ姿勢があるかどうかです。人生の最後に本当は伝えたかった思いを誰もが聞いてくれないとしたらどんなにかさびしくむなしいことでしょう。
 戦争を知らない世代が大半です。僕もその一人です。高山さんの旭さんと同じ年です。知らないと開き直っている人を僕は尊敬しません。若い人でも同じです。わかることは難しくても知る努力をしなければ軽薄な人間になるだけです。身近な人に直接聞いた話は僕のような苦労知らずでもすこしは身について行くような気がします。
 どうしてこのようなことになってしまったのか、どうしたら戦争をせずに国際紛争を解決できるのか、今を生きる市民の一人として精一杯学び、議論する一日でありたいものです。


中国家庭料理・家園オープン

2009-08-12 10:16:40 | 中国残留日本人孤児
 11日午前中にKさんから中華料理店を開業したと知らせがあったので、昼食がてら早速行って見ました。
 僕の家からは歩いて10分ほどです。交通量の多い国道254に面して「中国家庭料理 家園」の看板がかかっています。Kさん夫婦と妹さんが迎えてくれました。

 Kさんは中国残留日本人孤児2世の女性です。僕の生徒ではありません。お母さんが「きいちご移動教室」の常連です。5月の北信濃の旅にお母さんと一緒に家族で参加してくれました。お母さんは県南に住んでおられるのですが、この若夫婦一家は我が家の近くに住んでおられたのです。本当にびっくりしました。
 日暮里で大半の方が降りたあと川越に帰るバスの中で交流して以来、ご近所さんとしての付き合いが始まりました。お連れ合いが中華料理を修業して店を出す話は聞いていましたがこんなに早く開店するとは思っていなかったのです。
 
 4人がけのテーブルが4卓のほか8人ぐらい座れる円テーブルがひとつ、3人がけの小テーブルが2つというこじんまりとしたお店です。

 店の名は家族的な雰囲気の店にしたいという願いをこめてつけたそうです。メニューを見ると僕には手ごろな値段の料理が並んでいて、家族でテーブルを囲んでも大丈夫です。定食類も700円台からあり、付近のサラリーマンの昼食としても手ごろでしょう。事実、国道沿いの自動車販売店の方と思われる数人の姿がありました。

 僕は酢豚定食、妻は牛筋煮込み定食。ボリュームたっぷりなのでどうなるかと思いましたが残さず食べることができました。味のほどをきかれても僕には「おいしかったよ」というしかありませんが、食通の妻が丸をつけていましたからみんなに喜ばれるのではないでしょうか。

 商売の体験がない僕には店を経営する苦労を思うと気が遠くなりそうです。軌道に乗るまで月日もかかることでしょう。がんばってほしいものです。
 僕にとっては妻が留守のときに寄る手ごろな食堂ができて楽しみがひとつ増えました。友人たちが遊びに来てくれたとき案内することもできます。

 「家園」049-223-8218
 
 東京方面から来ると国道254を川越から東松山方面に向かいます。氷川町の交差点を過ぎるとまもなく、左側です。初雁亭の看板の手前です。
 次の信号は宮元町。ここを左折すると神明町で我が家があります。

 15日(土)までは2割引です。暇がある方はどうぞお出かけください。