川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

奥武蔵‥ 里の秋・ミカン狩り

2011-11-02 13:36:11 | 中国残留日本人孤児

10月29日(土)晴

 8時過ぎ「きいちご」号日暮里出発。世話人の洪さん・田中さんが家庭の事情で来られなくなったのに加えて僕の卒業生の池田さんから娘さんの発熱で欠席通知。寂しい思いをしていたが駅で旧知新友に会うといつもの元気がでてくる。

 〇参加者40人。中国残留孤児とその家族18人、在日中国人4人、北朝鮮を脱出してきたコリアン2人、在日エチオピア人1人、台湾系日本人2人、コリア系日本人1名、、日本人12人。(70代6、60代10、50代3、40代8、30代6、10代以下7人)(女27、男13)

 〇車内でのお勉強  ①「奥武蔵」「荒川」「高麗神社」②テーマソング「里の秋」

 〇10時過ぎ 高麗神社到着。高麗家住宅なども見学したあと聖天院まで歩く。

 〇12時 埼玉県平和資料館 中川村開拓団の資料などを見たあと展望台へ。残念ながら関東平野の眺望は効かない。

   資料館裏の「物見山公園」で昼食。

 〇2時過ぎ こども動物自然公園

 〇4時前  国立女性教育会館到着  館内見学

 

 〇6時 夕食

 〇7時~9時 交流会(201研修室)

 

10月30日(日)晴のち曇

 〇7時半 朝食  アビーさんは日曜礼拝のため帰京。

 〇9時~11時  ときがわ町大附園。みかん狩り。記念撮影。

   

 〇小川町の「ヤオコー」で弁当などを買う。12時過ぎ寄居町の「川の博物館」到着。

  広場の芝生で昼食。地元に住む菜穂子さんの同級生・良子さんが訪ねてくれる。

  館内見学。こどもたちは「荒川わくわくランド」。2時40分~3時10分 アドヴェンチャーシアターで「荒川笹舟の冒険」を   見る。

 〇4時前 「道の駅花園」に寄り、お土産を買ったあと関越高速道路で帰途につく。カラオケ大会。

 〇6時半 日暮里駅到着。川越着は7時半。

 感想あれこれ

 ①「初恋」の絶唱。 帰りのバスのなかで高橋千恵子さんが「初恋」を歌いあげた。「砂山の砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠く 思いいづる日」。啄木の歌がもとになっている歌詞だった。朗々たる歌声に感動した。元気になってよかったなあ。来日数年、確かな日本語の響き。夜間中学での学びの賜物か?

  「初恋」〇http://www.youtube.com/watch?v=l6PJLSVaR1c&feature=related

 ②「残留孤児」2世の活躍。上村さんが通訳ほかで持ち前の味を出してくれた。菅沼さんが「中国残留邦人支援相談員」仲間を二人も誘ってくれたのも嬉しい。これからはこれらの人々が智慧を出し合い、移動教室をより豊かなものにしていってくれるだろう。次代に託す僕の夢が少し膨らんできた。

 ③こどもたちの世界ができた。 親子連れの参加が増えたのでこどもが7人になった。菜穂子さんが「こども担当」になってくれてこどもたちの世界ができた。生涯忘れ得ぬ友達になるといいな。

 ④夜の交流会が充実。今回は会場が立派な研修室で「教室」でのHRの雰囲気。「担任」の僕も気合が入ったがみなさんもひとりひとり黒板の前に立って自己を語った。素晴らしかった。こんな場はそうはあるまい。「きいちご移動教室」のメインイベントになりつつある。

 ⑤国立女性会館。「広い」「安い」はいいが食事はどうかと心配したが僕には結構なものだった。風呂を5時くらいから利用できたらもっといいかな。

 この辺りは関東では指折りの自然・文化地帯。世界遺産級の「原爆の図・丸木美術館」も近くにある。この施設を活用しようとの声があがっていたのは嬉しい。

 ⑥今回訪ねた地域は言わば僕の裏庭。「川博」を除けばふだん自転車で駆け回っているところ。遠い昔、海をわたってこの地を拓いた人々に思いを馳せたり、荒川の恵みに気づいたりしてくれただろうか。これをきっかけに足を運んでくれる人が出てくると嬉しい。僕はそんな人を案内するのが最高。

 ⑦この移動教室に参加するために家族との旅行計画を延期してくれた人、あれこれと日程を調整してくれた人‥ありがたいことです。みんなで心を寄せ合って作っていく「教室」です。これからもよろしく。

 案内が届いても参加できない時は声をかけてください。なぜ?どうした?と心配してしまうのです。



講演会「二つの祖国~満蒙開拓団ゆかりの地を訪ねて」

2011-09-15 23:43:29 | 中国残留日本人孤児

友人から講演会の知らせがありました。僕も行きます。よかったらどうぞ。

9月17日に国際理解講座『二つの祖国~満蒙開拓団ゆかりの地を訪ねて~』を開催します

 中野区国際交流協会は、なかのZEROとの共催で以下のとおり講演会を実施します。 

 日本で最も多くの満蒙開拓団員を送り出した長野県の下伊那郡泰阜(やすおか)村から、中島多鶴氏を講師にお招きします。中国東北部(旧満州)からの引揚者であり、帰国後は中国に取り残された残留孤児や残留婦人の帰国支援に尽力し、菊池寛賞など数々の賞を受賞しています。 

 長野県泰阜村は、昭和14年から終戦まで1,139人を満州に送り、無事に日本に帰還したのは半分以下の445人という歴史の悲劇が深い爪痕を残す村です。彼女も昭和15年に16歳で家族とともに満州にわたり、逃避行の末昭和21年8月一人で故郷に帰ってきました。日本と中国、二つの祖国を持つことを運命づけられた彼女が、命の尊さや平和への願いを語ります。

国際理解講座『二つの祖国~満蒙開拓団ゆかりの地を訪ねて~』    申し込み03-5340-5011

  1. 日時 9月17日(土曜日) 午前10時~正午
  2. 会場 中野ZERO西館3階 会議室1(中野区中野二丁目9番7号)


同時開催 写真展「残留孤児のふるさとを訪ねる」

  1. 期間 9月17日(土曜日)~20日(火曜日)
  2. 会場 なかのZERO本館 展示ギャラリー

 中野区国際交流協会と樹徳茶館(中国の文化と歴史を知る会)の共催で写真展を実施します。苦難の末、帰国した残留婦人たちや日本人公墓のある方正で暮らす残留孤児2世の写真など多数展示する予定です。

 なかのZERO●http://www.nices.jp/access/zero.html

 


第12回きいちご移動教室(上)

2011-05-18 11:52:06 | 中国残留日本人孤児

昨日、千葉に住む美緒子さん(池袋商高OG・69年度2年4組)が自宅菜園で採れたキヌサヤを届けてくれました。妻がアジの煮干しのダシで煮てくれ夕食時に美味しくいただきました。このところ例年のプレゼント、美緒子ちゃん、有り難う。来年は還暦になるとか、久しぶりにみんなに会えるかな。

 午後、藤田さんが様子を見に来てくれ、福島の子どもたちの疎開作戦について語ってくれました。子どもの未来に責任を持つはずの小中学校の校長たちに疎開を提案してみても主体的に考え、判断する姿勢はみじんも見られないとのことです。すべてお上まかせです。

 これで子どもたちの将来に責任が持てるのかとあれこれ考えを巡らせています。藤田さんらしいなあ。

 事ここに至っても心ある市民の提案や批判を無視して事なかれを決め込む。学校も東電と同じです。大きな災いが子どもたちの未来に降りかかってこないかとぼくも心配しています。

 

                      きいちご移動教室の備忘録

 

 5月14日(土)晴れ

● 6時前、川越からの参加者7名を乗せ「きいちご」号、MS観光の車庫を出発。8時過ぎ、定刻よりやや遅れて日暮里を発車。首都高、関越道経由で一路信州安曇野に向かう。

 参加者43名。中国残留孤児とその家族21名、北朝鮮を脱出してきたコリアン家族4名、在日エチオピア人1名、コリア系日本人・在日コリアン4名、在日台湾人1名、日本人12名。(70代12,60代18,50代1,40代6,30代1,20代1,10代4)(女27,男16)

●車内でのお勉強 ①テーマソング「故郷」の練習 ②DVG・北朝鮮帰国者の記念植樹のその後(長野県立大町北高校放送部制作)③脱北者Kさんの お話。

●12時過ぎ 安曇野・大王ワサビ農場到着。ワサビ畑を眺めながらグループごとに昼食会。のち自由行動。

大王ワサビ農場http://blog.goo.ne.jp/fuekitty/e/eb385e8f4db77afdd62ea51eb1ce669e

 

八面大王伝説http://www.geocities.jp/tyuou59/hatimenndaiou.html

●3時過ぎ農家民宿「ごほーでん」到着。散歩、入浴。

●6時 夕食

●7時過ぎ 交流会(自己紹介と感想)

●9時~ 自由時間

                                           room1.jpg

 

 5月15日(日)快晴

●8時20分 常念岳をバックに記念撮影               

                                              

●9時過ぎ 松本城着                                       

●12時半、長野自動車道・国道142号経由で八島が原湿原到着。昼食。

●1時半過ぎ ヴィーナスラインを霧ヶ峰~車山~白樺湖と快走。 遠くに富士山を見る。

(富士山。下の矢印で写真を動かして見てください。当日は昼間で、遠くにやっと見える程度でした)

●142号脇の「蓼科農ん喜村(たでしな・のんきむら)」でおみやげを買った後 佐久インターから上信越道・関越道で一路東京へ。4時過ぎ、横川saを出たあたりから音楽の時間(カラオケ大会)。日暮里到着は7時半前。川越に着いたのは9時前。


 

 

 


移動教室へのお誘い

2011-04-07 10:42:23 | 中国残留日本人孤児

 

きいちご多文化共生基金の主催する「移動教室」のご案内です。

 きいちご基金は「中国残留孤児とその家族、脱北帰国者など民族的マイノリティの日本社会への定着を支援する」ことを目的に年2回の移動教室を実施しています。この趣旨を理解していただけるならどなたでも参加できます。

 始まったばかりのNHKの朝ドラ「おひさま」の舞台にもなっている長野県の安曇野を訪ねます。よろしかったら、ぜひ、どうぞ。

 

 

<第12回きいちご移動教室>

晩春の安曇野(あずみの)

 北アルプスの麓に湧水の里を訪ねて

 

 安曇野は北アルプスの残雪が美しい季節です。湧水に恵まれてワサビの栽培が有名です。田植えも始まっていることでしょ

う。

 中心都市・松本は城下町です。移動教室の常連・Mさんが「満州」に渡る前、6歳まで過ごした故郷でもあります。松本

城にも登ってみましょう。その景観の素晴らしさに誰もが圧倒されます。

 

  ①目的地 長野県安曇野(あずみの)市

 ②宿舎 農家民宿ごほーでん ( 〒399-8303長野県安曇野市穂高3580-1 TEL 0263-82-6820)

 ③日程 2011・5・14(土)~5・15(日)

 ④集合時間 14日(土)7時50分(バスは定刻8時に発車します)

 ⑤集合場所 JR日暮里(にっぽり)駅東口広場(JR日暮里駅北口改札を出て右に行くと東口広場があります)

 ⑥参加費(旅行傷害保険料を含む)

    大人         5300円

    小中高生      3300円

    幼児(3歳以上)  1300円

 

 ⑦必需携帯物品 14日の昼食(弁当) 寝間着  レジャーシート 雨具

 ⑧服装 散歩に適した服装と靴

 ⑨参加申し込み

   ○申込期限  先着45名で締切です。早めに申し込んでください。

   ○申込方法 電話  Eメール などで鈴木啓介まで申し込んでください。申し込みは家族単位で参加者

           の氏名、生年月日を明記し、代表者の住所、電話番号、メールアドレスを知らせてください。

   ○これまで移動教室に参加したことがある人は氏名だけで結構です。

   ○費用送金  申し込みとともに費用を郵便振り込みで送金してください。

        振替口座 00150-6-483807 きいちご多文化共生基金

   ○取り消し  申し込み、費用払込後、こちらから特に連絡しない限り申し込みを了承したこととします。何らかの事

   情で参加を取り消す場合は、早めに連絡してください。

 

   主催 きいちご多文化共生基金

      連絡先 〒350-0823 川越市神明町43-26

          電話049-224-4646  または080-1278-4906(スズキケイスケ)

          Eメール keisukelap@yahoo.co.jp

 

 


桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡を訪ねて

2011-04-06 12:58:05 | 中国残留日本人孤児

 昨日、7時過ぎに無事川越に帰着しました。今回の故郷訪問の旅はほとんど計画性のない行き当たりばったりの日々で、結果としてみれば14泊15日の長い旅になりました。突然の訪問にもかかわらず、旧友・知己・親族が都合をつけて歓待してくれました。感謝あるのみです。

 3月22日(オーシャン東九フェリー) 23・24・25(コンフォートホテル高知駅前)26・27(室戸岬・実家)28(馬路温泉)29・30(実家)31(愛媛県四国中央市・蔦廼屋)4月1日(東横イン・松山)2(東横イン・岡山)3(東横イン・敦賀)4(安曇野市・ごほーでん)

 宿泊先の一覧です。安くて便利な都市型ホテルを利用することが多くなりました。パソコンも自由に使えるので何よりです。でも、圧巻は「農家民宿・ごほーでん」です。景観も設備も料理も最高で低廉ときています。(長期滞在者は一泊二食で5500円)。自由に使えるパソコンも数台常備されています。

 地震・津波に原発事故という未曾有の困難のただ中におかれている人々には申し訳ないことですが、関東を脱出して、のんびり、ゆっくり、春を迎える列島を楽しませてもらいました。

 忘れないうちに昨日のメモ。

4月5日(火)快晴

 朝からこれ以上はないという青空。正面の常念岳は言うに及ばず、白馬方面のアルプスの雪山の景観は形容しがたい。

 今日は5月の「きいちご移動教室」の下見。「ごほーでん」の目と鼻の先にある「大王ワサビ園」「穂高観光協会」に寄った。

 

 午後は塩尻市の「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」跡を訪ねることにした。「大陸の花嫁」を養成するための施設だった。

 ●http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300433_00000&seg_number=003

妻が20数年来愛飲している「井筒ワイン」のワイナリーが「桔梗ヶ原」(ききょうがはら)の交差点近くにあるので訪ねてみたが、どなたも聞いたことがないとのこと。次に市役所へ。市民課、庶務課と回されて調べてくれたがわからず、広丘支所に行くように指示される。

 支所長の林さんが『野村区史』をひもといて心当たりの民家に電話を入れてくれる。その結果、教えてくれたのは「塩尻市大字広丘野村」。塩尻から松本に向かう国道19号をすすみ、九里巾交差点先の「SEIYU」手前で右折し、四つ角を直進したら、二つめのT字路を左折、さらに突き当たりを右折した先の小さな分かれ道の畑の隅にその「木柱」はあった。細い木柱に刻まれている文字の全文。

 

長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡

 戦時中、中国東北区(旧満州)への開拓移民の配偶者(花嫁)を養成する施設として、長野県が全国にさきがけて昭和15年9月に開所した。「大陸の花嫁学校」として全国に紹介された。

 

 これが訓練所跡を示すすべてである。高ボッチ高原に続く畑作地帯に見えるが、このあたりは宅地化が進んでいる。注意深くこの木柱を読んだとしても「訓練所」を想像することは難しい。

 失礼を省みず、近所のお宅を訪ねたら小沢洋さんが出てきて相手をしてくれた。

 小沢さんは昭和18(1943)年生まれというから当時のことを知るわけではないが、小学生時代までは「日輪兵舎」などの施設が残っていて、いくつかの寮(宿舎)は関係者に払い下げられたという。

 お父さんは県の職員として八ヶ岳の訓練所(今の農業大学校)で働いており、「満州」にも行ったことがあるらしい。戦後、同じく県の施設であるここに転勤してきたが、結核のため早世された。倉庫を探せば古い写真が見つかるかもしれないといっておられた。

 木柱を立てたのは「SEIYU」に近い所に住んでいた清水幸人さん(当時の野村区長)だが故人である。清水さんは戦後この地に入植した人らしい。

 小沢さんにお会いできてほんとうによかった。幽かではあっても「桔梗ヶ原訓練所」のイメージが浮かび上がってきた。

それにしてもと思わないわけにはいかなかった。跡地がキレイさっぱりなくなっているばかりではなく、かつて塩尻にこのような歴史があったことを市役所の職員の誰もが知らない様子なのである。

 小学校や中学校の「郷土史」はどうなっているのだろう?

 長野県は満蒙開拓団の送出にもっとも熱心な県であった。信濃教育会が果たした役割は計り知れない。かれらの後裔である「民主主義教育」を担ってきた人々は何をしてきたのだろう。歴史の証拠を闇に葬ることだけに熱心だったのか。

 歴史の事実に学ぶことが出来ない人間は現実をありのままに認識することも出来ない。ただただ時代に流されていくだけである。それが『教育県・長野』の実態なのか。

 塩尻市にはせめて跡地に説明板を作るなりのことはしてもらいたい。旧広丘村野村区の区史(平成9年刊)にはこの地域の戦後開拓の記事があるが訓練所については「あった」というだけである。

 <付け足し>

 小沢さんが読んだ記憶があるという『信濃毎日新聞』の記事「足元をみつめて」を書き起こしたブログがある。日付が分からないが(戦後60年)とあるから2005年の記事と思われる。

 ●http://www.justmystage.com/home/yagisan/asimoto.html

 

 


『花の夢 ある中国残留婦人』を見る

2010-10-21 18:09:06 | 中国残留日本人孤児
 10月20日(水)曇り

 午後2時から荒川区町屋のホールで『花の夢』の上映会がありました。「中国残留邦人」への理解を深めてもらおうと区が主催したものです。

 荒川区で中国残留孤児の支援相談員をしている洋子さんが主催者側の一員として通訳を担当しています。僕が北高に赴任したときの3年生です。平日の午後のこととて集まりを心配していましたがそれでも100人程度は来てくれたようです。

 「川越だより」を見てきてくれた人も二人はいました。明子さん(池袋商高81年卒)。この日は保育の仕事が早番だったと市川から駆けつけてくれました。もうひとりは満智子さん。こちらは残留孤児の娘さんです。

 足が冷えるので洋子さんが用意してくれた椅子に足を投げ出しての無様な格好ですが両脇に魅力的な女性が座ってくれるという僕にとってはこの上なく贅沢な映画鑑賞です。

 1925(大正14)年生まれの栗原貞子さんというきれいなおばあちゃんの人生物語です。

 ●『花の夢』http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=8553


 僕の感想・雑記。

 ①退屈になることなく(眠くなることもなく)栗原さんの人生を理解することが出来た。

 これは監督の東志津さんの映画作りが工夫されているからだろう。栗原さんが満州時代の友人や先輩を訪ねた場面で、凄惨を極めた逃避行の真実が明らかになるのも自然な造りである。

 時々登場する満州時代の同期生たちの写真や何気ない今の東京の生活や風景の断片…。なぜか僕には良かった。

 ②ソ連軍の収容所を脱出して彷徨する身重の栗原さんを嫁にしてくれた中国人の男性。写真だけしか出てこず、名前も覚えられなかったがこの方との出会いが栗原さんの第二の人生を支えた。
 無事出産した長男と新しい夫との間に生まれた子供たちが今はともに家族をなしてこの東京で母を大事にして生活している。
 苦労は多いに違いないが今の日本ではなかなかに望めない「豊かな」老後と言えないか。

 ③今の日本はむちゃくちゃである。自分が、何を大事にしてどう生きたらよいかを議論したり、学んだりする場がないのではないか。僕が高校の教師ならこの映画を見せて議論の場を作ろうとするだろう。
 栗原さんとその家族の姿から若者も何かを学び取ることが出来るのではないか。

 ④栗原さんが居たのは「竜虎開拓団」。私費帰国で苦労しているとき助けてくれたのが同じ開拓団にいた千野誠治さんだったという。昔、僕の生徒のお父さんの葬式でお会いしたことがある方だ。残留孤児や残留婦人のために今も働いておられるのだろうか。

 ●千野誠治さんhttp://homepage2.nifty.com/munesuke/war-memory-18-chino-seiji.htm 

  映画会がはねた後、小一時間三人でお茶にしました。初対面の明子さんと満智子さんがうち解けて交流する様子を眺めているだけで僕は十分です。お互いにいい友達になってくれるでしょう。

『花の夢ーある中国残留婦人』上映会

2010-10-06 16:26:48 | 中国残留日本人孤児
 荒川区で中国残留日本人孤児支援相談員をしている卒業生の洋子さんから映画会の知らせがありました。

 ○映画「花の夢ーある中国残留婦人」

 ○時 10月20日(水)2時開始

 ○所 荒川区 ムーブ町屋 3Fムーブホールhttp://www.cbc-move.jp/access.html

 ○入場料 無料

 ○主催 荒川区



 映画の内容や監督の東 志津さんの思いは次のHPをご覧下さい。東京に住む栗原貞子さんという残留婦人の人生の話のようです。<語り>余 貴美子。

  ●「花の夢」http://www2.odn.ne.jp/ise-film/works/hananoyume/hana1.htm

 僕が中国残留婦人・孤児の方々のお話を最初にきちんとお聞きしたのは1990年11月27日です。北高の生徒のおばあさんの庄司政恵さんを学校にお招きして生徒と一緒に聞きました。歴史のただ中に連れ戻されて緊張していたことを思い出します。

 その後も何人かの方々のお話を聞かせてもらいました。一人一人の人生は似ているようで皆違います。それらの人生に出会うことによって「歴史」が暖かくなり人ごとではなくなります。

 映画をみることがきっかけになって新たな出会いが始まることもあるかもしれません。

 昼間ですから無理があるかもしれませんができたら足を運んで見てください。僕も見に行こうと思っています。

 

中国家庭料理「家園」 開店一周年おめでとう

2010-08-10 21:23:31 | 中国残留日本人孤児
 8月8日(日)

 「家園」が開店一周年を迎えた日なので我が家の三人組でお祝いがてら駆けつけて夕食会をした。

 ふだんは主人の河本さんが一人で切り盛りしているが、日曜日は奥さんの秋子さんが店に出て応対している。看護婦の仕事がお休みの日だ。

 主人も気さくで明るい人だが、秋子さんがいると店の雰囲気がぐっとアットホームになる。笑顔がやさしい。

 知らない土地でお店を初めて一年、よくも頑張ったものだ。働きづめだったが7月から木曜日が定休日となった。

 地元の人々にもだいぶ知られるようになったのか、おなじみの方が結構多いようだ。美味しくて、値段も手ごろだからだが、店主夫婦の人柄も愛されているからだろう。

 私たちは店の奥に席を取ってかってにお祝いの宴会。僕も久しぶりに生ビールで乾杯した。

 ごちそうは餃子(野菜・肉・水)、レバニラ、ピータン豆腐、肉ときくらげと卵の炒め物、ラーメンサラダ。

 妻と娘は「原爆の図・丸木美術館」の原爆忌の行事で忙しい日々が続いた。暑さの中でよく頑張った。

 僕も例年になく体調がよく東西南北、一人で泣くことなく走りまわれた。

 というわけで互いの健闘をたたえあってまことに心地よいひと時となった。

 
 ○私たちにとっては人々と交流しながら、気兼ねなく宴がはれるお店ができて本当によかった。「家園」がさらに多くの人々に知られることを願うばかりである。

 ○家園http://www.lococom.jp/tt/7348/ 
 ○川越だより「家園オープン」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/c8c8cb050b1abe613a45323d280cf786

「私はもう子どもじゃない」

2010-06-30 06:00:57 | 中国残留日本人孤児

「北高新聞」(1988・3)に掲載された「中国から来た友達の手記」の二つ目を紹介します。

 春江さんの娘さんがこの春、高一になりました。先日の話を思い出すと自分の高一の時の思いを大切にして、親として精いっぱい生きようとしていることがわかります。

 日記として書いた文章です。親の思いを受け止めながら、自分を確立して生きたいという誠実でまっすぐな気持ちがつづられています。春江さんの「第二の誕生」の産声だといえるのかも知れませんね。

 詩のような文章です。声を出して読んでみてください。あれから22年、春江さんはどんな世界を見つけたのでしょう。

 


 私はもう子どもじゃない

      ○○春江

 私はもう子どもじゃない、自分は大人です。子どもだといわれたくないのです。

 だって15歳以上は青年だとみんながいうのです。だったら私は青年だ。

 自分はいつも自分はもう子どもじゃないから、できるだけ自分でやる、できるだけ自分で考える。それに、家族に何かあった時、みんなで相談するといいな、と私はいつも思います。

 しかし、両親にとっては、私は子どもだ。たとえ私は大人になっても両親にとってはやっぱり子供だ。

 しかし、、自分がやれる時には、両親は何もいわないで、ただ見守っていればよいと思うのです。

 もし、、自分ができない時に、ちゃんと話してくれるといいな。

 自分の子どもも一年一年大きくなって、親はこれを見て嬉しいでしょうー。嬉しいよね!

 私は今と昔を比べてみるとまるで別人の気がするのです。

 中国の時は、多分、子どもの時だから、毎日はただ遊んで食べて寝るだけです。しかし、今は自分も考えていなかったぐらい変わったのです。一体どうしてこんなに早くかわったのでしょうー。

 多分、私は別の世界に来たからだ。それに自分の目の前は中国にいる世界と全然違うからだ。別の世界に来て、自分は自分を変えた。

 それにこの社会も私を変えたのです。日本は豊かな国です。みんなは一生懸命働くし、それに自由です。こういうことで私も、変わったのです。

 今、私は中国の国籍です。みんなこういうのです。

「日本の国籍に変わったら、そうすればあなたはもう日本人ですよ。それに、中国の国籍だと自由もないし、さびしいと思わないですか?」

 友達の話を聞いて、私は少し不安です。どうしよう。自分でゆっくり考えてみると、私は中国人だ、中国人を恨んではいけない。

 確かに中国には外国を旅行したりする自由がないのです。でも私は中国人でいることは忘れていないのです。

 中国には10億の人々がいます。その人たちはみんな中国人で、そのような自由がなくても、みんなは楽しい生活を過ごしています。

 私は別の世界に来て、いろんなことがわかったのです。

 幼い時の世界はいつまでも私の心に残っています。

 新しい世界は、今住んでいる世界です。

 これから私は未来の世界をさがしにいきます。

 私はもう子どもじゃないのです。

 大人だよ、大人だよ、未来の世界をさがしにいきますからー。

                        (88年1月25日)




二つの名前

2010-06-28 04:59:43 | 中国残留日本人孤児

【川越だより】のアクセス・ランキング

  過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

  日付    閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.06.27(日) 767 PV 248 IP 4563 位 / 1430345ブログ
2010.06.26(土) 911 PV 283 IP 3248 位 / 1429947ブログ
2010.06.25(金) 777 PV 257 IP 4160 位 / 1429490ブログ
2010.06.24(木) 655 PV 247 IP 4534 位 / 1429090ブログ
2010.06.23(水) 821 PV 290 IP 4107 位 / 1428681ブログ
2010.06.22(火) 703 PV 270 IP 3636 位 / 1428187ブログ
2010.06.21(月) 790 PV 247 IP 4173 位 / 1427661ブログ

  過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

      日付     閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.06.20 ~ 2010.06.26 5337 PV 1831 IP 4056 位 / 1429947ブログ
2010.06.13 ~ 2010.06.19 5492 PV 1859 IP 3677 位 / 1426671ブログ
2010.06.06 ~ 2010.06.12 4927 PV 1638 IP 4834 位 / 1423481ブログ

トータルアクセス数

トータル閲覧数(PV) 323139 PV
トータル訪問者数(IP) 105017 IP

昨日も一日、本や資料の整理です。生徒の書いたものはなかなか捨てられません。

「北高新聞」(78号 88年3月8日)が出てきました。

 22日に紹介した春江さんの日記から二つの文章が「中国から来た友だちの手記」として掲載されています。高一の1月に書かれたものです。貴重な記録ですから皆さんにも読んでもらいたいと思います。


 二つの名前  

        ○ ○春江

 私は日本の名前が大嫌いなのです。日本の名前は意味がないから、私は気にくわないのです。

 それに、おばあちゃんは私に相談もしないで、かってに決めたのです。もし相談してくれたら、私は春江と呼ばれないかもしれない。
 
 この名前を決めた時、「これはだれの名前ですか?」と私は中国語でおばあちゃんに聞いたのです。「あなたの名前ですよ」と答えた。

 どうして私の名前なの?私は李茹(リール)です。どうして変わるのですか?ね、どうして変わるのですか?

 「日本に来ているから、日本の名前を使わないとだめだ。」とおばあちゃんが言った。

 そうかもしれないけど、しかし、勝手すぎます。どうして私に相談してくれなかったのですか?

 私は中国の名前が好き。だって、意味を持っているから。茹(ル)というのは、がまん強いという意味です。これは中国のおばさんがつけてくれたのです。

 私は日本に来て、自分の名前を変えないといけないことを知っていた。私はずっと自分の名前を考えたのです。それなのにおばあちゃんはかってすぎます。相談もしないで。

 お父さんは私を<由美>とつけたのですが、自分の名前は自分で決めるわ、と私はお父さんに言ったのです。「それでもいいよ」とお父さんが言った。

 私は自分がやっぱり中国の名前と思って<Yリール>と決めたのです。

 おばあちゃんに話をしようかなと思った時に、もうおばあちゃんが区役所で春江とつけていたのです。

 今年で私は日本に来て四年目になります。

 自分でゆっくり考えてみると、春江っていい名前です。だって私は春に生まれたのです。春をつけてくれたことは今思うと少しうれしいです。

 それに先生たちは私のことを春江さんと呼ぶのです。

 現在、私は二つの名前を持っています。他人ができないことです。

 李茹(リール)という人はいつも私の心にいる。

 春江は今の私です。

 李茹は私が中国にいる私です。

 春江は日本にいる私です。

 こういうふうに考えてもいいじゃないかと思います。

 今、私は日本の名前は嫌いじゃないのです。

 しかし、中国にいる私も忘れていないのです。

 と、私は今思います。

       1988年1月24日

 




Yくん姉弟と友人たち(下)

2010-06-22 21:47:47 | 中国残留日本人孤児

二年目のテッセンが風呂の窓を覆い尽くすような勢いです。花も連日、5つ6つ咲かせます。

 http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3&imgurl=http://mymimosa.net/archives/2006/05/images/1148732291.jpg&imgrefurl=http://mymimosa.net/index.php%3Fdate%3D2006-06-02&usg=__J0hWHLByd2t3hrV6ZTsKlBYDWuU=&h=480&w=640&sz=336&hl=ja&um=1&itbs=1&tbnid=yw0ofXp0rMw0yM:&tbnh=103&tbnw=137&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%2586%25E3%2583%2583%25E3%2582%25BB%25E3%2583%25B3%26um%3D1%26hl%3Dja%26sa%3DX%26rlz%3D1T4TSJB_jaJP347JP347%26tbs%3Disch:1&um=1&sa=X&rlz=1T4TSJB_jaJP347JP347&tbs=isch:1&start=0#tbnid=yw0ofXp0rMw0yM&start=0

 今朝は妻が炬燵(こたつ)をしまいました。抗ガン剤の副作用で僕の足が異常に冷えるので梅雨寒に備えてそのままにしてあったのです。

 このところ川越の気温は高く、夜も窓を開け放したままです。こういう時の方が体調はいいのです。

 

 6月19日(土)<Yくん姉弟と友人たち>つづき

 歳は下なのですが入学したときからY介くんやOくんはYくんを何かといえば頼りにしていました。

 10歳で来日したYくんの方が日本語も達者で日本社会にも通じていたのです。15.6で来日したばかりの二人には灯台のように大事な存在だったのでしょう。

 Oくんは直近に来日したばかりで日本語が全く出来ません。学校では定員(15)を超えてまで合格とさせるかどうか大議論があったほどです。ほとんどをマンツーマンの授業とすることになり、すでに転勤されていた忠幸さんが講師として配属されたのです。

 忠幸さんはもちろんのことYくんがいなければ卒業というわけには行かなかったのかもしれません。穏やかな性格ですが人に対して優しく誠実な好青年だったのです。

 この日は何年ぶりかの再会ですがタクシードライバーの先輩として失業中のY介くんにはこれまでもアドヴァイスしてきたようです。トラック運転手のOくんと3人の会話は中国語でぼくには解りませんが仕事の話が中心のようです。

 妻を含む4人の女性たちの会話は盛り上がりっぱなしです。中断するということがないのです。

 こちらの話の内容は僕にもよくわかります。

 子育てにまつわる春江さんの話が印象に残っています。

 受験産業の謀略に引っかかってこどもを「受験」に駆り立てる友人たちとつきあいながら、自分は高一になる一人娘とどういう関係を築いてきたかという実践報告です。

 この6年の間に春江さんは自分の生き方に自信を持ってきたのだと思いました。離婚体験も今は「恥ずかしい」とは思わなくなったと言います。新しいお父さんと娘さんとの関係構築も自然で反抗期のやりとりもなかなかのものだったようです。

 もともと自分で何事もしっかり考える人です。小さいときから日記をつけていて、高校生の時にそれを読ませてもらったことがあります。

 来日にあたり、おばあちゃんが「春江」と一方的に名前を付けたことに対する疑問や思いを日本語でしっかり書いてありました。

 僕はそれを「北高新聞」で紹介したことがあります。自分の人生ですから自分で納得できるように生きたいという思いが子供心にも息づいていました。

 大人になっても困難に直面しながらも納得できる人生を切り拓いてきたのです。そこから生まれた自信が「親といえどあなたの人生を生きることは出来ない」と力強い「自立」のメッセージを娘さんに送らせるのでしょう。

 僕は「自由放任」という言葉を思い出していました。保護をしなければならないときが過ぎたらその人(子)の人格を尊敬して保護の任務を放つのです。「自立」と「共生」の関係が親と子の間にも生まれることが望まれるのです。

 精一杯誠実に人生を生きて力強さを獲得した一人の女性に会っている喜びを感じました。それが自分の生徒だった人なのですから我がことのようにうれしいのです。

 6時を過ぎても「討論」は終わりそうにないので「継続」を提案して6時半頃にようやく散会となりました。久しぶりにビールを飲んでいい気になった僕が少し疲れてきたのです。

 自制して酒をやらなかったYくんが帰りも川越の我が家まで送り届けてくれました。
余ったごちそうはおみやげにして持たせてくれたので三日後の今日まで我が家では妻がいろいろと手を加えて美味しく食べさせてくれました。

 Yくんが造ってくれた思いがけないプレゼント。これがまた何かにつながるかもしれません。ありがたい思いを大切にして日々を生きたいと思います。

 



Yくん姉弟と友人たち(上)

2010-06-20 21:42:00 | 中国残留日本人孤児

6月19日(土)曇り

 数週間前に予告されてはいましたが、こんな日があるといいなと想っていた一日がついにやってきました。

 Yくんが10時半頃、車で我が家まで迎えに来てくれて昼頃には足立区にある自宅につきました。それから日が暮れる頃まで豪華で楽しい宴を張ってくれたのです。

 Yくんは北高88年入学の「中国帰国生徒」(おばあちゃんが「残留婦人」)です。僕が北高に赴任して2年目に<帰国生徒担当>となった4月に入学してきた16人の生徒の一人です。

 91年3月卒業後もOBのCamp、結婚式(96年)などで顔を合わせました。しかし、97年夏、北軽井沢のCampでお連れ合いのEさんと赤ちゃんだったSさん共々一泊二日を過ごして以来は久しく会う機会がなかったのです。

 専門学校卒業後会社員となって全国各地を飛び回ったり、運送会社で働いた後、数年前からは都心を拠点とするタクシードライバーになっています。川越からの車中でこの13年の歩みを聞きました。

 中国からやってきて日の浅いEさんと二人で三人の娘さんを育てながら懸命に生きてきた日々です。Sさんは中2,Aさんは小6,Yさんは5歳になりました。

 丈夫な体に恵まれたとはいえ、仕事はきつく家に帰ることが出来ない日々が続いたり、腰を痛めて転職を余儀なくされたりもしました。

 タクシードライバーになって3年、不況のあおりで水揚げは落ちる一方ですが、仕事の面でも家族の生活の面でも今、ようやく安定の局面を迎えることが出来たのです。

 家は都営アパートの4階にあります。車から降りると女性ばかり数人の歓声が中空から響き渡りました。Yくん一家のほかにお姉さんの春江さんも来てくれていました。

 春江さんは一つ上です。2004年4月、一人娘のRさんと日光への日帰り旅行(第一回きいちご移動教室)を楽しんで以来です。

「一週間前に弟に知らされて以来、夜も眠られませんでした」。こういって僕が元気なのを喜んでくれました。

 見たこともないような大きな画面の液晶TVのある部屋で開宴を待ちます。やがて二つ並んだテーブルに三人がつくったという料理が運ばれてきます。

 見事な鯛の丸揚げ餡かけを中心に中国の家庭料理が所狭しと並んでいきます。その豪華さに驚きます。

 昔、母が元気な頃、正月や神祭には我が家の表の間には手作りの皿鉢料理が並びました。磯魚の活け造リや鯛を酒と薄口醤油で炒りつけたものをはじめとして各種のお寿司(カマスの姿寿司・海苔巻き)、昆布巻き等々。母が前夜から丹誠を込めて造っていました。

 そんな日のことを思い出しました。最後にできあがったばかりの水餃子が次々に運ばれてきます。今日はまた何という日なのでしょう。

 予定時間間際にY介くんとお連れ合いのHさん、息子のKくんがOくんの車で到着。いよいよ開宴です。

 Y介くんOくんはYくんの同級生です。こんなうれしい集いが用意されているとは直前になるまで僕にはわからなかったのです。(つづき)

 

 


家庭訪問

2010-06-07 04:35:38 | 中国残留日本人孤児
【川越だより】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.06.06(日) 709 PV 245 IP 4082 位 / 1420762ブログ
2010.06.05(土) 750 PV 234 IP 5214 位 / 1420313ブログ
2010.06.04(金) 555 PV 190 IP 5417 位 / 1419910ブログ
2010.06.03(木) 668 PV 222 IP 4223 位 / 1419480ブログ
2010.06.02(水) 630 PV 245 IP 3517 位 / 1419058ブログ
2010.06.01(火) 693 PV 219 IP 4386 位 / 1418545ブログ
2010.05.31(月) 616 PV 200 IP 5227 位 / 1418027ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.05.30 ~ 2010.06.05 4534 PV 1503 IP 4710 位 / 1420313ブログ
2010.05.23 ~ 2010.05.29 5050 PV 1608 IP 4272 位 / 1417064ブログ
2010.05.16 ~ 2010.05.22 5839 PV 1616 IP 4209 位 / 1413703ブログ

トータルアクセス数

トータル閲覧数(PV) 308092 PV
トータル訪問者数(IP) 99934 IP


  6月6日(日)晴れ

 北区王子の恵美ちゃん(78年3月 池商卒)宅に預かってもらっている順子号に半年ぶりに乗って足立区西部を訪ねました。

 環七で隅田川、荒川を渡り、最初に着いたのは鹿浜五丁目団地。僕が北高校在職中に担当した中国帰国生徒(中国残留日本人孤児二世)のうち二人の実家があります。

 二人とは転居?などで連絡が取れなくなって久しく、気がかりだったのです。

 Hくん(89年入学)宅は留守で僕の知っている電話ももはや通じませんが、Iさん(88年入学)宅ではご両親にお会いすることが出来、概略ながら消息を知ることが出来ました。いずれ本人と連絡が取れるかもしれません。Iさんの娘さんは大連に留学中といいます。

 午後は埼玉県と隣接する舎人団地にTさんご夫妻を訪ねました。きいちごの移動教室で出会った方々です。

 突然の訪問だったのに大歓迎を受けました。勧められるままにごちそうになりながらお二人の人生の話を伺いました。Tさんは僕と同世代の中国残留日本人孤児で中国人だった奥さんと河南省鄭州から1986年に帰国された方です。

 お二人は帰国後懸命に働いてお子さん二人に教育をつけさせたと言います。今はそれぞれに家族を持ってロンドンと香港に居り、この夏久しぶりに帰国するようです。
 
 長いご苦労が実って今は平安を得たようです。一昨年からの新法の施行で医療費の不安がなくなり経済的にも一安心だとのことです。

 同じ時代を生きてきながら僕には想像もつかない人生です。日本語しかわからない僕に時には筆談を交えながら前半生の体験を語ってくれました。奥さんのお父さんは共産党に追われて台湾で人生の後半を過ごされました。そのために残された家族は苦しい生活を強いられたのです。

 Tさんのお父さんは香川県琴平の出身です。この秋には四国の旅をしようということになりました。そんな機会を通してお互いをもっとよく知り合うことが出来るでしょう。なんだかとてもうれしい成り行きです。

 車に自転車を積んで王子まで送ってくれました。恵美恵美教の教祖の話は今回も印象深いものでしたが報告は他日を期すことにします。

 今日(7日)はこれから鎌倉に行きます。珍しく県外出張?が続きます。

 


善光寺 きいちごの旅④

2010-05-23 01:37:14 | 中国残留日本人孤児

きいちごの旅から帰ってきてちょうど一週間が経ちました。参加された方々からの感想文も届き始めました。中国語の作品です。加藤さん(文京OG)に送って翻訳をしてもらいます。

 旅の最終日の記録です。


 5月16日(日)快晴

 こんな日もあるのかと思うほどの青空。朝早くから起きて散歩する人、山菜を採る人、太極拳をやる人…。

 9時、城戸夫妻と別れて「浅間白根火山ルート」で志賀高原へ。標高が上がるにつれ季節が逆戻り。峠付近では雪の壁が残っている。

 横手山ドライブインで休む。スキーを楽しむ人々が見える。遠くのアルプスがまぶしいほどに輝く。

 アルプスを背景に写真を撮りあう。


 横手山から見た日本アルプスhttp://www.google.co.jp/imglanding?q=%E6%A8%AA%E6%89%8B%E5%B1%B1&imgurl=http://www.geocities.jp/tokumura4820/IMG_25334.jpg&imgrefurl=http://www.geocities.jp/tokumura4820/newfile86.html&h=471&w=707&sz=167&tbnid=gYJPtkRQsW46CM:&tbnh=93&tbnw=140&prev=/images%3Fq%3D%25E6%25A8%25AA%25E6%2589%258B%25E5%25B1%25B1&hl=ja&usg=__biZJjPzX4Unl5_MRpWtE7iW4voI=&ei=ElHzS4jtJI3i7AOSsoWMDA&sa=X&oi=image_result&resnum=7&ct=image&ved=0CCAQ9QEwBg&start=0#tbnid=v9FTAkS0SNHhtM&start=13

 下り道では山桜が美しい。湯田中で山道と別れたあとはどこまでも続くリンゴの花の中を善光寺へ。

 昼頃、到着。徳行坊(とくぎょうぼう)の小林執事が案内してくれる。本堂前でいったん解散してそれぞれに昼食とする。私たちは仁王門近くの喜多平でそばにありつく。

 門前そばの会http://www.monzen-sobanokai.jp/top.html

 午後の部は「お数珠頂戴」から始まった。

 http://www.daihongan.or.jp/shounin_ojyuzu.html

 本堂で読経と祈祷の様子を見学したあと、いよいよ「お戒壇巡り」。

 瑠璃檀下の真っ暗な回廊をめぐり、ご本尊の下にかかる極楽の錠前に触れて、ご本尊と結縁を果たすための道場であるという。

 日曜日とて参詣者が多く、大盛況。

 結縁を果たすことが出来たのか、どの人の顔も明るい。

 最後にバスに乗って雲上殿へ。市街を展望する丘の上に開拓団の慰霊碑や拓魂碑が並ぶ。

昨日、群馬県の犠牲者の碑の前でしたと同じようにささやかな慰霊の行事をした。

 信濃郷開拓団の集団自決の場にいたMさん(当時8歳)が今回は参加できなかったので代わりにMさんの奥さんに最前列に立ってもらって全員で黙祷した。


 僕は言うに言葉なくただただ「中国人に助けられた孤児とその家族を見守ってください」とお願いした。

 別れに当たって小林さんが若麻績住職のメッセージを伝えてくれた。

 私たちを生かしてくれている目に見えないものへの感謝のこころを忘れるな。木で言えば根っこ。祖先たちが歩んだ歴史、などなど。

 高速道路に乗ったのは5時過ぎ、参加者、一人一人の旅の感想に耳を傾けた。

 日暮里到着は8時半。
 

 参考・善光寺http://zenkozi.com/about/principal.html


「上毛新聞」が報道 きいちごの旅③

2010-05-21 05:06:00 | 中国残留日本人孤児
5月20日(木)雨

 千葉の美緒子さん(池袋商 71年卒)が菜園でつくったキヌサヤを送ってくれました。少年の頃、畑でとれたキヌサヤを母が鯵のダシで煮てくれました。今は、そういうわけにはいかないので(新鮮な鯵が手に入らない)、妻がじゃこのダシで食べさせてくれます。

 美緒子さんありがとう。兄からも小夏とニンニクが届きました。小夏は土佐・室戸の特産のミカンです。どなたか暇な方はお出かけ下さい。小夏が沢山食べられますよ。 


 群馬県の『上毛新聞』(5月20日)に「きいちご移動教室」の参加者が「群馬満蒙拓魂之塔」を訪れた時の記事が掲載されました。写真付きです。


●祖先の歴史思い黙とう

(群馬満蒙拓魂之塔の前で黙とうする中国残留孤児と家族 )
 
 全国各地の中国残留孤児と家族ら約50人が長野原町北軽井沢の群馬満蒙(まんもう)拓魂之塔を訪れ、自分たちや祖先がたどった歴史に思いをはせた。

 訪問は、埼玉県の民間団体「きいちご多文化共生基金」(鈴木啓介代表)が主催する「きいちご移動教室」の一環。

 群馬満蒙拓魂之塔は、旧満州(現中国東北部)から引き揚げてきた本県の旧開拓団や義勇隊などが、慰霊のために1974年に建立したもので、今回の訪問は、2世3世が多くなる中で、中国残留孤児と家族らに自分たちの歴史について学び、知ってもらおうと実施した。

 参加者は拓魂之塔を前に手を合わせ、黙とう。鈴木代表が「あれから65年ののち、中国人に助けられた孤児たちが参拝に来ました。どうか残留孤児と家族を見守ってください」と述べた。参加者は焼香したり、花を手向けたりして故人の霊を慰めた。

 鈴木代表は「地元の人に『前もって訪問がわかっていたら、喜んで出迎えたのに』と言っていただいた。次は、地元の帰国者の人たちと交流したい」と話していた。

 きいちご基金は、中国残留孤児と家族、脱北帰国者の日本社会への定着支援を目的に、首都圏の教職員などが2007年に設立。関東近県の中国残留孤児の歴史にまつわる施設や慰霊碑を巡る同教室や、旧満州からの帰国者の話を聞く勉強会を年数回開催している。

 出典・写真●「上毛新聞」 http://www.jomo-news.co.jp/news/a/2010/05/20/news08.htm