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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

別天地 立山だより(3)

2011-07-16 06:22:45 | 出会いの旅

7月15日(金)晴れ

8時半のバスで弥陀ヶ原から室堂平へ。ここは標高2500mの別天地である。主峰・雄山(おやま3003m)を中心とする3000m級の山々がぐるっと連なっている。まるで雲上の神の遊び場だ。どの山も雪渓がまだら模様に走っている。

 雲影をどこにも見ることができない絶好の登山日和で雄山に登る人々の姿が多いが、それは最初からあきらめて僕らはみくりが池の周囲を散歩する。弥陀ヶ原とは違って高山植物は少ないが景観の素晴らしさはたとえようがない。前日の歩行で疲れたのか、動きの鈍い僕はベンチを見つけては休んだ。そのたびごとに見える風景に感嘆する。

 雪渓の雪が解けて小さな川になる営みをまじかに見た。雪の道を歩くことは敬遠して地獄谷の散策は放棄したので昼ごろには室堂のターミナルに到着した。体調を考えて今日の行動はここまでとし、バスで弥陀ヶ原の宿舎へ。ゆっくり休む。

 食後は雲海の果てに沈む夕日を一時間近くも眺めた。雲海というものを初めて知ったような気がする。富山湾が1500m上昇したと思ってもらえばいいかな。

 一面の波濤である。岸辺に打ち寄せる白波…。ホテルのすぐ下まで押し寄せている。昨日歩いた弥陀ヶ原はことごとく波の底になってしまった。海面が1500m上昇して日本列島はまさに沈没してしまったのである。そんな幻想の世界にしばし浸ったというわけだ。

 日本人とイギリス人のカップルがそれぞれの親をこの立山に呼び寄せて交流している姿があった。日本人の娘さんは宮崎の出身で両親は宮崎から駆け付けたという。

 今日は称名が滝に遊んだ後魚津に向かう予定だ。好天。(16日朝)


立山だより

2011-07-14 16:16:43 | 出会いの旅

7月14日(木)晴れ

 今朝、ふもとの宿を出て10時ごろ立山弥陀ヶ原にある国民宿舎立山荘に旅装を解きました。天候に恵まれたので11時くらいから3時過ぎまで、弥陀ヶ原の周遊や広大なカルデラの展望を楽しみました。

 チングルマという花がいたるところに群れをなして咲いています。イワカガミも目立ちます。

 日差しは強いけれど2000mの高原です。すがすがしい空気をいっぱい吸って歩きまわりました。

 あすは室堂平を歩く予定です。


立山へ

2011-07-12 05:25:44 | 出会いの旅

梅雨明け後の酷暑が続きます。夏の旅行の予定を急遽繰り上げて立山(富山県)の散歩をしてくることにしました。昔から一度は行ってみたかったところです。奥飛騨から峠を越えて有峰林道を走るのを楽しみにしていたのですが通行止が続いているようです。

 運転主役の妻もまもなく66になります。無理がいかないようにあちこちで休みながらの旅です。学校が夏休みになる前、ちょうど一週間ぐらいになるはずです。条件が整っていれば「立山だより」などをお届けできるのですが‥。

室堂平

 立山室堂平の写真です。今頃の実際はどんな風景なのか?

立山ライブカメラhttp://www.murodou.co.jp/kozan/live.htm


伊豆高原の散歩道

2011-07-07 19:32:50 | 出会いの旅

4時前に伊豆高原の保養所から帰ってきました。月曜日(4日)の朝、急に思い立って出かけ3泊4日、暑さを逃れてのんびりしてきました。

 4日(月) 

 富士吉田の浅間(せんげん)神社による。コノハナサクヤ姫を祀る。社殿は豪華。川越では果たせなかった茅の輪めぐりをすることができた。

  北口本宮富士浅間神社●http://www.myspiritual.jp/2010/08/na.html

箱根峠から熱海峠までの高原の道のきりが深く、運転の妻は細心の注意を要した。十石峠をすぎるとよく晴れて道端の紫陽花(あじさい)が美しい。

 5日(火)

 昨夜来の雨が上がって気持ちの良い青空。一碧(いっぺき)湖の周囲を散歩する。気持ちの良い遊歩道、小一時間。湖畔の芝生の広場にエノキの大木が枝を張っている。昼食は一碧園。妻はここでざる蕎麦用の器を買う。女主人が喜んでそば猪口になる器をサービスしてくれた。半世紀にわたって大きな食堂を経営してきたが近年規模を縮小し、店で使ってきた道具類を安価で販売しているという。大切にしてきた道具を譲り受けてくれる人がいるのが本当に嬉しそうだ、

 奥野ダム(松川湖)にも行ってみた。ダム下の奥野公園から遊歩道を昇る。カラス山椒(サンショウ)という高木が多いのに気づく。湖畔にはコンクリート舗装の道が続いており、伊東市民の散歩道になっている。湖底に沈んだ村の資料館近くで立派な実を付けたヤマモモを発見。あと一週間ばかりで熟するか。甘そうな実を選んで食べてみた。酸っぱみはあるが美味しい。今年一番の味。

  

 妻が楮(コウゾ)の赤い実を見つけてくれた。木苺に似ている。甘いがやや糸を引く感じ。

            

 帰りに奥野公園のベンチで休む。

  めぐり来て 山風涼し 奥野公園

 6日(水)

 伊豆市中伊豆町の万城の滝を訪ねる。奥にサワラの原生林があるというので行ってみたが入口の発見に失敗し、訪ねるのはまたの日にする。

  コビサワラ原生林と万城の滝●http://photohi.sakura.ne.jp/kobisawara/kobi.htm

 午後は貴僧坊というところの水神社。神社脇から清冽な湧水。これがこの辺のわさびを育む。

 伊豆高原は高原といっても海に近く、暑いからと夏は敬遠してきたが、湖畔や山の散歩道にも恵まれていることを知った。保養所をせいぜい活用させてもらおう。


目次・九州路に友人たちを訪ねて(10)

2011-05-29 06:20:28 | 出会いの旅

 5月29日です。九州の旅から帰ってちょうど1ヶ月、旅のメモをやっと書き終えることが出来ました。とびとびになったので目次を作ってみました。世話になった友人たちが読んでくれるかな。

 今日は4年前、弘子さんが旅立たれた命日でもあります。先日、犬走の里を訪ねたとき教育委員をやっていたことを初めて知りました。教職を辞して夫の故郷に帰ってからはその地の人たちを心から大切に思って活動したに違いありません。そんな話をもっともっと聞かせてもらいたかった。静かな笑顔が素敵でした。Tくんが蛍を見に来てくださいと言ってくれたので、また何時か、寄せてもらいます。正浩さんの高齢者大学での授業も受けられるといいが…。

 川越は今日も梅雨空です。先日東松山の農林公園で摘んで届けたポピーは丸木美術館で満開になったとか。なんだかちょっぴり嬉しくなっちゃった。世話になった友人たちを案内できる日が来るといいな。

 

(1)「川内で百姓はいかが」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/695aecf99dcfedf08c2c8836c55b2f02

(2)隼人塚http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/f18700b35dd212ef015518e1ff977ba4

(3)「はやとの風」「しんぺい4号http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/91b0a6862fa4d1c6b0a659702d3ba756

(4)故郷・人吉に帰ったお二人http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/5d95ab0096cdfb14ec3413e72cdd3e51

(5)「弘子さん、こんにちわ」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/fbaf20815b2cb653a2b16aba4470cf90

(6)故郷の歴史の中に生きる人http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/cfe7acfe6354e741ff4321052f440dc0

(7)東松浦半島・鷹島http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/79dac9efa10633ff0723545406af380d

(7つづき)http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/69d36fb48a6a26387fcfbb0faa03dccf

(8)北松浦半島・平戸・生月島http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/a448ac2c2c4a8e4a03e4a7a8f8240dad

(9)旅の終わりにhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/6e32eecc9233cc53e451e1b9dfb49c28

 


旅の終わりに 九州路に友人たちを訪ねて(9)

2011-05-29 04:57:03 | 出会いの旅

4月29日(金)晴れ

 平戸・フランシスコザビエル記念教会…正宗寺(松浦隆信墓)…天満宮…松浦史料博物館(昼食)…崎方公園…三浦按針の

墓…遠見展望所…平戸和蘭商館跡…平戸桟橋~(タクシー)~田平・平戸口駅14・48~(松浦鉄道)~16・07佐世保駅16・1

7~(JR佐世保線)~16・29早岐駅16・40~(JR大村線)~17・22大村駅17・38~(バス)~17・52長崎空港

                                              (長崎空港18時45分~20時25分羽田空港~23時帰宅)

 最後の夜は千里が浜の「ホテル蘭風」●http://www.hotelranpu.com/

  劇場レストランとでもいうようなところで食事をしながら中国雑伎団の公演を見た。四川省から来たという10代の子どもたちが繰り広げる熱演に感動した。旅の終わりに心に残るプレゼントをもらった。美空ひばりの「越後獅子の唄」を思い出しもした。厳しい訓練に耐えて彼らはこれからどんな人生を歩んでいくのだろう。

  「越後獅子のうた」●http://www.youtube.com/watch?v=1eHADjFpO9k中国雑技団公演

 朝はゆっくり波打ち際を歩いた。平戸商館長・リチャード・コックスが本邦最初にサツマイモを栽培したという畑にもいってみた。

 宿の車が平戸市街を見下ろすザビエル記念教会までつれていってくれた。たびら平戸口駅から松浦鉄道の列車に乗るまで丘の上から港町まで平戸の街歩きを楽しんだ。

  <たびら平戸口駅>

 

日本最西端の駅の碑                      田平平戸口駅ホームにて


北松浦半島・平戸・生月島 九州路に友人たちを訪ねて(8)

2011-05-28 11:10:26 | 出会いの旅

4月28日(木)晴れ

 長崎県松浦市今福・梶谷(かじや)城跡~松浦鉄道・田平平戸口駅(日本最西端の駅)~平戸大橋~生月(いきつき)大橋~博

館・島の館(勇魚取り・かくれキリシタン)~塩俵の断崖~大バエ灯台~平戸城~千里が浜・鄭成功児誕石・廟~ホテル・蘭風

  27日夜。一日の疲れをものともせず、砂恵子さんは手作りの料理でもてなしてくれた。ぼくも妻もいい気になって千年の知己のように遅くまで語り合った。酒も進んだ。

 ぼくは社会科の教師になったが生徒が授業に興味を持ってくれなくて苦労した。大学進学に無縁な学校でぼくの「政治経済」など何の意味もないと拒否されたのだ。そこからぼくの自覚的な教師人生が始まったといえる。

 砂恵子さんは数学の先生であった。さぞや苦労したことだろうと思った。受験に関係ない生徒に「なぜ、数学を勉強しなければならないのか」と問われて、太刀打ちできる「先生」がそうはいるとも思えない。ぼくなどは受験に大いに関係あっても数学は苦手で一切勉強しなかった。やがて恐怖症になったくらいだ。

 昼間「せんせい!」と砂恵子さんに声をかけた卒業生の嬉しそうな姿を思った。いい先生だったのだなあ。

 そんな所から話が弾み始めたのかな。友達になってくれるかもしれないとぼくの心も弾んできたのだろう。

 28日は快晴。お二人が案内してくれる北松浦半島は教員生活の舞台だったところだ。

 

 ①梶谷城跡http://lunabura.exblog.jp/14066075/   

 長崎県松浦市に入ると間もなく細い山道を登ってすばらしく展望のよい梶谷城跡に出た。案内板にはこうある。

梶谷(かじや)城は、松浦党の初祖・源久公が築城したと伝えられており、築城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説がある。いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、相当長年月にわたって断続的に利用された松浦党の重要な山城である。」

 中世、玄界灘・東シナ海一帯に「日中韓民衆の共同体(「倭寇」ともいう)」(山下さんのことば)を形成した「松浦党」の一大拠点だったのだろう                                                      

 近くに松浦東高校の立派な校舎が見えた。この3月末に閉校となった。砂恵子さんが最後に働いた学校だ。島々からフェリーで通う生徒も多かったという。

②島の館http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/ikitukis/ihakubutu/ihakubutu.htm

平戸大橋・生月(いきつき)大橋と渡ってついた生月島の入り口にある博物館。主として捕鯨に関わる展示を見た。この写真にある模型は江戸時代の沿岸捕鯨の様子をわかりやすく生き生きと見せてくれる。

 網を使った捕鯨の様子のジオラマ(模型)

③大バエ灯台から北東部を望む(生月島)

 生月島の北端、何十年も昔から来てみたかったところ。中高時代の下宿にこの島から来た人が居た。先日来、食べさせてもらった鯛は岩本くんがこの海域で釣ったものだという。 

④平戸城からの景観http://www.geocities.jp/joysunny/hirado/hirado008.htm

 帰りに松浦氏の本拠だった平戸城に連れて行ってもらった。秀吉と親交があった松浦鎮信(まつら・しげのぶ)は1613年、この城を自ら焼いて家康に恭順の姿勢を示し、平戸藩の安泰を図ったという。城は模擬復元されたものだが、お城からの眺めは格別である。

IMG_3178

⑤鄭成功廟http://www.hirado-net.com/user/08teifes/08teifes.html

岩本くんが最後に連れて行ってくれた所。今宵の宿「蘭風」の近くの丘の上にある。

 鄭成功は1624年、この地で生まれたという。父・芝龍は福建の海商(密貿易商)とある。東アジアの海を牛耳っていた海賊の親玉だったのかな(母マツは平戸の人)。松浦一族とはつきあいが深かったのだろう。遠い昔、「倭寇」の大半は漢人だったと聞いたこともあるが自分から勉強したことはない。山下さんや岩本くんに「松浦党(まつらとう)」の地を案内してもらった今度こそ、本の一冊ぐらいは読んでみよう、と思った。この年になってもなにも知らないことが多すぎるなあ。

 岩本ご夫妻とはホテルの玄関でお別れした。ゆうべ、たしか岩本くんが国技館で相撲をみたいと言っていた。そんなときにまた、砂恵子さんにもお会いできるかもしれないなあ。「有り難うございました」。

 

 


東松浦半島・鷹島 九州路に友人たちを訪ねて(7のつづき)

2011-05-27 12:49:22 | 出会いの旅

 ④鷹島(たかしま)肥前大橋  近年開通した橋で日比水道を渡り、佐賀県唐津市肥前町から長崎県松浦市鷹島へ

 

⑤鷹島歴史民俗史料館

 鷹島は1274年、81年と続く「元寇(げんこう)」で大きな被害を受けたところだという。81年には「神風」が吹き、侵略軍が壊滅した。近年海底に眠る遺物が発見・調査され、展示されるようになったらしい。

 おびただしい史料が展示されているがこういうところに入るとぼくはすぐに疲れてしまって丁寧に見ることが出来ない。それでもモンゴル侵略軍艦船の木製の「碇(いかり)」には驚いた。挟み込まれた石を含めて一トンはあったという。

鷹島歴史民俗資料館

http://www.city-matsuura.jp/www/contents/1227840289309/index.html

 元寇の「碇(いかり)」

大イカリ

http://www.city-matsuura.jp/www/contents/1241781236992/index.html

この資料館で一番印象に残ったのは受付の若い女性が「先生!」といって砂恵子さんに声をかけたことだ。この春、砂恵子さんの勤めていた高校を卒業してここで働くようになったらしい。おとなしそうな人だ。気づいてから声をかけるまでに少し躊躇があったようにみえた。

 一年前に定年退職した学校の卒業生にであって砂恵子さんはとても嬉しそう。いい仕事についてよかったと心から喜んでいるようだった。なんだかとてもいい雰囲気。この島から対岸の学校に毎日フェリーを利用して通ったのだろうか。

⑤高串温泉・肥前町福祉センター

 昼食後、橋を渡って岩本くんおすすめの湯へ。つるつるの「美人の湯」。先日入った田上くん宅の湯や嬉野の湯を思い出させる。

 

⑥川南造船所跡

 帰りに伊万里湾の反対側、浦ノ崎というところの巨大な造船所跡廃墟に連れて行ってくれた。優れたブログがあるので一緒に行ったつもりでごらんになって下さい。

 

伊万里造船所 廃墟

●川南造船所跡http://kiokuya-haikyo.versus.jp/ruins/fact/kawa/kawa.html

 戦時中、輸送艦や人間魚雷・回天をつくった所だという。社長だった川南豊作は1961年旧軍人とともに戦後唯一のクーデター未遂事件(三無事件)を起こした人だということだ。そういえばそんなことがあったなあ。「平和ぼけ」して何の記憶もぼくにはない。

 川南造船の本拠は長崎の香焼島で南極観測船になった「宗谷」もここでつくられたという。


東松浦半島・鷹島 九州路に友人たちを訪ねて(7)

2011-05-27 07:10:57 | 出会いの旅

4月27日(水)曇り時々雨

 伊万里~波多津~唐津市肥前町・大鶴炭坑跡「にあんちゃんの里碑」~法海寺「鶴の岩屋」~光明寺「大鶴鉱業所殉職者之

碑」~鷹島肥前大橋~松浦市歴史民俗資料館(元寇・海底遺物)~高串温泉~川南造船所跡

 岩本くんは大学の新聞部の後輩だ。佐賀県伊万里の出身だが、長崎県の高校で働いてこられた。80年代の初めに「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」が対馬の旅をしたときに案内をしてもらった。その時には山下さんもぼくも家族ぐるみで参加した。30年も昔のことだ。

 今回の旅の趣旨を話すと「妻も話し好きで楽しみにしている」と言ってくれたので気分が大きくなり、お会いしたこともない奥さんだったが二晩も厄介になることにした。

 砂恵子さんは島原の出身の数学の先生だった。東京で学生生活のあと、郷里の高校で働き、岩本くんと出会った。お子さんたちは皆、関東にすみ、定年退職後はお二人で旅行やダンスを楽しんでおられるという。

 夕食時には岩本くんが生月島までいって釣ってきた鯛を刺身や煮魚にしてご馳走してくれた。27日は砂恵子さんも一緒に「にあんちゃんの里」や鷹島を案内してくれるというので気分が高揚する。

 

①大鶴炭坑跡「にあんちゃんの里」

10年前見つけられなかったところにようやく来た。仮屋湾のどん詰まりに軌道跡かと思われるものが見えるほかは炭坑跡をしのばせる雰囲気はなにもない。それでもこの記念碑が出来たおかげで大鶴炭坑とそこで生きた人々の思いが心ある人には伝えられていくきっかけにはなるだろう。

 ●杵島炭坑大鶴鉱業所http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/kijimatankou-01.html

北林谷栄さんに続いて長門裕之さんも亡くなった。子どもの頃に大きな影響を与えてくれた映画「にあんちゃん」。これからも子どもたちに見せてくれる大人がいるといいな。ぼくと同じように日記も読みたくなる子がいるかもしれない。

 ●映画「にあんちゃん」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/b055ddb3710122875574cf96600ffe72

 安本末子さんがここを訪ねたという記事があった。元気で日立市に住んでおられるとか。記録映画「在日」には娘さんがここを訪ねた場面があるという。気になっていた情報である。もう10年以上前のことばかりだが紹介しておきます。(11・5・27)



  『にあんちゃん』の原作者42年ぶり故郷へ

   (1999年1月27日・西日本新聞)

   旧杵島炭鉱・大鶴鉱業所(現佐賀県肥前町)の炭鉱を舞台に両親を亡くした在日韓国人の少女らが兄らと懸命に生きる姿を描いたベストセラー「にあんちゃん」の原作者・三村末子さん(59歳、旧姓安本、茨城県在住)が42年ぶりに同町に帰省。町内での小・中学校の同窓会に出席した。

席上絶版状態の「にあんちゃん」を同窓生らが自費出版する計画も発表され、三村さんを感激させた。「にあんちゃん」は1953から1954年に書かれた三村末子さん(安本末子さん)の日記で1958年に光文社から出版。今村昌平監督で映画化。

 三村さんは中二で神戸に引越し、以降、一度も同町を訪れることもなかった。今回は還暦記念の同窓会とのことで懐かしい故郷へ。同級生の

山口駿一同町収入役らの案内で鉱業所跡や一昨年、同級生たちが建てた記念碑を見て回った。
 三村さんは『家並みや道路は変わりましたが友人への懐かしさは変わりません。復刊で、貧しくとも助け合った時代の良さが伝われば』と話していた。

 ●「にあんちゃん」その後 長女・玲子さんの大鶴訪問

        http://madonna-elegance.at.webry.info/201010/article_22.html


②鶴の岩屋  

 「にあんちゃんの里」の碑のすぐ上の「法海寺」(無住)の本堂の中にある岩屋。こんな磨崖仏(まがいぶつ)が彫られている。山下さんは岸岳落城後、落ち延びてきた波多三河守の家臣たちが彫ったと教えてくれたがそのような説明はここにはなかった。

 

 出典●http://www.geolocation.ws/v/P/25497783/-/en

 

 

③光明寺 「大鶴鉱業所殉職者之碑」

 肥前町入野の光明寺に大鶴炭坑で犠牲になった朝鮮人の慰霊碑があるというので連れて行ってもらった。住職の娘さんが遠くからご苦労様といってお茶菓子の接待をしてくれた。

 大鶴炭坑の労働者の大半は朝鮮人だったという。90年に建てられた碑には子どもの名前も刻まれている。安本さん一家と同じような家族がけっこう沢山住んでいたのだろうか。関連記事にはこうある。

 

肥前町入野の光明寺の裏手には、閉山時の一九五七年に建てられた『大鶴礦業所殉職者之碑』がある。この碑の横には一九九〇年に建てられた朝鮮人死亡者を追悼する『韓国人傷病没者之霊位』という碑があり、一九四五年八月までの朝鮮人死者五一人分の戒名、死亡年月日、氏名、年齢が刻まれている。寺には死者の名簿があり、遺骨の所在について聞くと、日本人のものとともに合葬されているという。

長崎在日朝鮮人の人権を守る会の『原爆と朝鮮人』六の調査によれば、大鶴炭鉱での死者の遺骨は光明寺の納骨堂に置かれていたが、「大鶴礦業所殉職者之碑」が建てられると、その内部に収められた。しかし、三〇年の歳月を経て、碑の内部に雨水が入り込み、木やスフ、厚紙で作られた容器は破損し、遺骨が識別できなくなり、『韓国人傷病没者之霊位』の碑を建立したときに、合わせて納骨したという。 

大鶴炭鉱の朝鮮人名簿は、厚生省勤労局調査の佐賀県名簿には含まれていない。追悼碑には名前が刻まれたが、大鶴炭鉱の死亡者の連絡先については判明していない。すでに閉山から五〇年が過ぎたが、どこかに手がかりはないものだろうか。(二〇一〇年六月)」 

 ●筑豊・佐賀の追悼碑 http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/1006tikuhousaga.html                            

写真

朝鮮人の無縁仏が眠る慰霊碑には、川原浩心住職が毎朝、花と水を供え、手を合わせる=唐津市肥前町入野の光明寺(「朝日新聞」佐賀版2010年08月16日)


故郷の歴史の中に生きる人  九州路に友人たちを訪ねて(6)

2011-05-25 08:57:29 | 出会いの旅

4月26日(火)晴れ

 清正(せいしょう)公さま~黒髪山(閻魔石像・乳待坊展望台)~有田・李参平座像(陶製)・大銀杏~唐津・虹ノ松原~漁師村

(昼食・イカの活け作り)~鏡山(領巾振山ひれふりやま)~北波多村・法安寺~伊万里市役所~岩本さん宅(泊)

 

  山下さんは私たちのためにフィールドワークの計画をたてておいてくれた。有田の陶祖・李参平の末裔に当たる金ヶ江さんにもお話を聞けるようにしておいてくれたが、それは勝手ながら次の機会にしてもらった。有田は10年前、弘子さんに案内してもらっていたせいもあるが、今回は何よりも山下さんと故郷山内の関わりの様子を知りたかったからだ。山下さんと一緒でなければ絶対に行くことのない地元の歴史の中を歩いてみたかった。

 

 ①踊瀬の清正公さま

 僕らが降り立った永尾駅からほど近い踊瀬(おどりせ)という小さな集落の裏山に「明神さん」の社(やしろ)があり、虎に跨る(またがる)武将が刻まれた石碑がご神体として祀(まつ)られていた。「文化八未(ひつじ)八月吉日建立」の銘があるという。文化8年とは1811年。

 正史によれば加藤清正は1611年、熊本城内で死去したことになっているが山下さんの研究によればそれは影武者で、本当の清正は徳川の目を逃れて武雄城主・後藤家信にかくまわれた後、無念のうちに死去し、この丘に埋葬されたという。これは武雄藩最大の秘密とされ村人にも守秘義務が課された。

 200年後の世の人がこうして石像を作り神として祀ったのは、清正の無念の霊を鎮め、後の世の人々への「祟り(たたり)」を封じ込めようとの切なる思いからであろうという。いつの頃からか村人たちはこの丘を「セイショウコウさん」と呼んだ。

 村人からの聞き取りや古文書の研究を通して山下さんはこの話を「伝説」として切り捨てるわけにはいかないと考えている。400年近くものあいだ踊瀬の人々が「話すな」の戒めを堅く守り、塚を祀り続けてきた想いと意味はあまりにも大きく重いからだ。

 今年は清正の死後400年に当たる。ご神体の石碑を祀ってからは200年だ。節目の年に期すところがあるように思えた。武雄市の高齢者大学の講師に呼ばれて話す計画があるようだ。明神さんに鳥居を建てる構想もあると聞いた。

 地区の人々が長く秘密にしてきたことを表に出すのである。その可否を皆さんに相談してもらった。熱心な議論の末、賛成が得られたという。

 丘の入り口や畑で山下さんが土地の人と挨拶を交わしていた。こうやって訪ねては400年のいいつたえに耳を傾けてきたのであろう。故郷に生きる歴史家の思いをかいま見てぼくの心まで温かくなるようだった。

 

 ②黒髪山 石造閻魔(えんま)大王 

 黒髪山までは旧山内町で山下父子(父は故・四郎さん)の手になる説明板があちこちにある。

 

武雄市重要文化財

石造閻魔王立像

指定年月日 昭和五十六年三月三十日

一見して異邦の作を思わしめるこの
閻魔王像は、天正十年(一五八二)韓国
渡来の像で、運搬人二百人を要してたとの
銘が像背にある。
 全高一八五センチメートル、鎌倉期に
完熟したといわれるわが国における閻魔
王信仰の一端をうかがうことができる。
 閻魔王は、冥界にあって、亡者の罪業
を裁断するといわれる一三王のうちの中
心的存在であり、極楽往生の為に我が国
でが信仰されるようになった。
彫刻としては、いたって簡略であるが、
石造彫刻における半肉彫像に移る室町
末期の作として民俗文化財としても
重要である。

昭和五八年三月
武雄市教育委員会


        黒髪山●http://hasamiooen.fc2web.com/2009-report-54-1.html

 

③乳待坊(ちまちぼう)展望台から  雌岩・雄岩

 展望台からは遠くに犬走の山下家のあるあたりも見える。岡方というだけあってけっこう高い台地の上にあることが分かる。山下さんはこの巨大な岩の下あたりまで歩かしてくれた。洋裁で使う「チャコ」の原料を採取する場所がこのあたりにあったという。四国参りの人たちが遺したミニ88カ所もあった。

黒髪山の乳待坊(ちまちぼう)の奇岩

 

④鏡山(唐津市)

 車を走らせて虹ノ松原を見たあと、「漁師村」でイカの活け作りをご馳走してくれた。刺身になっても生きている代物だ。妻はもう大感激。鏡山には唐津湾を見下ろす展望台がいくつかあり、「松浦佐用姫」の悲恋の物語から「領巾振山(ひれふりやま)」とも呼ばれているという。

  ●松浦佐用姫http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/matsura/sayohime.html

 朝鮮半島は玄界灘のすぐ向こう。6・7世紀の歴史の舞台を俯瞰しているような気になる。

  ●http://iyashi.midb.jp/best/808

 

⑤法安寺(唐津市北波多)

 山下さんの「世界史」の授業の締めくくりの舞台は岸岳の麓の法安寺というお寺。波多三河守(はた・みかわのかみ)という武将の巨大な像がたっていた。ぼくには馴染みのない名前だが山下さんの説明に次第に興味をそそられた。

 岸岳に拠る波多氏は玄界灘周辺に日韓民衆の共同体(一般の歴史学者は「倭寇」という)を形成した「松浦党」の一派。三河守は秀吉の朝鮮出兵を批判して追放・改易された。(美貌の妻を秀吉に献上しなかったために恨まれたという説もあるらしい)。

 この寺は波多氏とその家臣たちの無念の怨霊を鎮魂し、後世の人々への祟りを封じるため近代になって創建されたという。

 ●「岸岳城跡法安寺」http://web.people-i.ne.jp/~houanji/framepage.html

岩山に無数の仏像が刻まれている。日本一大きいという釈迦涅槃(しゃか・ねはん)像もある。それらをみながら境内を散歩していると聞き慣れたご詠歌が流れてきた。

 明星の いでぬる方の 東寺  暗き迷いは などかあらまじ

 ぼくの故郷・室戸岬の最御崎寺(ほつみさき寺・四国霊場24番)のテーマソング。山下さんとは親しい若い住職の日々の演出だと思われるがぼくには懐かしさと共に滅亡した波多氏への感興をかき立ててくれた。去りがたい思いの中で「山下・世界史」の時間は終わった。昔、池商の生徒たちが魅了された山下節とはこういうものであったのか。

 夕刻、伊万里市役所駐車場まで送ってくれ、岩本くんにバトンを渡してくれた。

  ●法安寺http://web.people-i.ne.jp/~houanji/framepage.html


「弘子さん、こんにちわ」 九州路に友人たちを訪ねて(5)

2011-05-24 05:17:20 | 出会いの旅

4月25日(月)晴れ

 永国寺(耳塚)~熊本県人吉駅8・51~(JR肥薩線)~10・15八代駅10・32~(JR鹿児島本線)~12・14荒尾駅12・37

~13・17佐賀県鳥栖駅14・22~(JR長崎本線・佐世保線)~15・32永尾駅(武雄市山内町)~山下さん宅(泊)

人吉にさよならして佐賀県武雄市の山下さんを訪ねる日だ。賀明・紀子夫妻が駅まで送ってくれる途中で永国寺に寄り、「耳塚」を見せてくれた。昔、京都の豊国寺の巨大な耳塚を見たことがある。目的は変わらないようだ。永国寺-15永国寺●http://susono.jugem.jp/?eid=1156

 人吉発の各駅停車に乗ってお二人と別れ、球磨川の美しい風景を眺めながら八代に向かった。満ち足りた思いに浸った。

 お二人は4日間も生活丸ごと私たちにつきあってくださった。40余年前の大島での生活があって、夢のようなこの日々が実現できたのだが、変わることのないお二人のおおらかな人柄の御陰だ。今度はいつどこでお会いできるかな。川越にも来てくれるといいが…。

 八代・荒尾・鳥栖と鈍行を乗り継ぐ。鳥栖では街に出てみたがショッピングモールのほかには何もなかった。帰ってきてから孫正義さんの出身地だと知った。

 吉野ヶ里、佐賀、武雄温泉と過ぎるといよいよ佐世保線「永尾駅」だ。3時32分定刻についた。下りる人はだれもいない。跨線橋を渡ると山下さんが出迎えに来てくれていた。高校生時代はここから学校に通ったが何十年も乗り降りしたことはないらしい。無人駅になった今も通学の生徒には利用されているのか自転車が並んでいた。

                                        永尾駅●http://www.geocities.jp/shindaisakura/nagaoeki.html

 懐かしい風景が目に入ってきた。犬走・岡方の山下家。僕らは三度目だ。60になった01年夏、カツヨシさんと一緒に世話になった。あの時は弘子夫人が笑顔満面で出迎えてくれたものだ。

 次は06年夏、ぼくは左肺摘出後の抗ガン剤投与が終わったばかりだった。弘子さんが同じ病で闘病中だと聞き、天草を訪ねる旅の一日目にお見舞いに寄った。今度は蛍の頃に来るからねといって別れた。家の前まで出て僕らの車が見えなくなるまで手を振ってくれた。

 それから一年も経たない07年5月、危篤だと聞いて嬉野の病院を見舞った。蛍の季節だったかもしれないが一緒に見ることはもはや出来なかった。これが別れの時になった。

   ●「弘子さんを見舞う」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070526

 旅装を解いたあと、丘の上の弘子さんの墓に詣でた。立派な納骨堂の上に「倶会一処(くえいっしょ)」と大きな文字が刻まれている。脇に植えられたトキワマンサクは花盛り。

 

墓前に二人並んで妻に写真を撮ってもらった。後ろには連綿と続く先祖の墓、目の前には村の風景が広がっている。山下さんはこの4年、よく頑張ったなあと思った。寂しさに耐えかねたときには一人ここを訪ねたのか。

 墓参りのあと岡方の村を案内してもらった。田んぼを隔てた反対側の丘の上に天満宮があった。徐福伝説と関わりのある祠や逆立ちした猿が彫られた珍しい灯籠がある。お父さんが案内板に由来を書かれていた。

犬走天満宮

犬走天満宮●http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/saga.html

 手入れの行き届いた山下家の庭の一角に小さな銀杏(いちょう)の木があった。ソフト部の指導時に池袋商高の校庭で拾った銀杏(ぎんなん)が育ったものだという。池商はフランス人学校に変身中だが銀杏の木はどうなったか?仮に伐られてしまったとしても池商の生徒たちをこよなく愛した「山下先生」の九州の家の庭に2世が生き続けているのだと思った。

 夜、病院勤めのTくんが帰ってきて心づくしのご馳走をしてくれた。僕らが会うのは遠い昔、一緒に対馬を訪ねた時以来だ。その時は小学校の低学年だった。年月を隔ててもお母さん似の笑顔に変わりはなかった。

 遅くまで美酒をかわした。庭からもいできたハッサクをぼくがむさぼるように食べるのを見て、台所に立った山下さんは実だけを丁寧に採ってお皿に盛って食べさせてくれた。

 田んぼの畔沿いに連なる蛍の話が出た。何時か、本当に見てみたいものだ。

 


故郷・人吉に帰ったお二人  九州路に友人たちを訪ねて(4)

2011-05-21 14:55:08 | 出会いの旅

4月23日(土)晴れ

 人吉城~青井阿蘇神社~市街(昼食)~錦町・西乗寺           

人吉城 武者返し石垣

 

4月24日(日)曇り一時雨

 川辺川ダム予定地跡~五木村・子守歌公園~宮園・大銀杏~五木温泉・夢唄(昼食)~旧相良小学校分校跡~相良温泉・茶湯

~めぐり観音(川辺川)

 

ぼくが人吉・球磨地方を訪ねるのはこれが3度目だ。妻は学生時代にも来ており4度目になるという。球磨川の畔の城跡が好きなせいもあるが、なんといっても賀明さんや田端さんの故郷であるからだ。

 お二人は大島高校の同僚だった。教員として初めて働いた伊豆大島で3年間を共に過ごした。二年目であったか、賀明さんが結婚した。念願かなって故郷から紀子(あきこ)夫人を迎えたのだ。ぼくも3年目の夏に結婚し、同じ教員住宅のお隣さん同志になった。馴染みのない土地で暮らす妻にとって紀子さんは心強いお友達になってくれた。

 大げさに言えば24時間生活丸ごとのつきあいだった。

 僕らはしょっちゅう集まって大島高校の改革について議論した。そのたびごとに女性二人は料理をつくってくれた。

 偏食の強いぼくは餃子も食べられなかった。賀明さんや田端さんが手作りで食べさせてくれた。磯釣りの手ほどきもしてくれたが、ぼくは磯で寝てばかりで身に付かなかった。

 あれから40年あまりが経ち、この4日間、故郷に帰った賀明・紀子夫妻を訪ねてゆっくりと過ごさせてもらうことが出来た。

 どこがみたいとか、そういうことは格別にない。日常の生活の中にお邪魔してお二人を育んだ人や土地、お二人の人生の一端に触れることが出来ればそれが最高だ。正にそんな3泊4日になった。

 賀明さんのブログ「だんだんなー」にこの4日間が紹介されている。

   ●「だんだんなー」http://blog.goo.ne.jp/fsfc-gamei/e/fcf58e9a60bf43a457d1a4e1048934c2

 23日は4人で人吉城をゆっくり散歩した。球磨川の畔に聳える中世以来の相良氏の居城跡。ぼくはここのたたずまいが好きだ。今回初めて本丸跡まで登った。紀子さんはなんと、ここまで登るのは初めてだとか。

 午後は紀子さんの実家でもある隣町の西乗寺を訪ねた。弟さんご夫婦は賀明さん宅の夕食会にもつきあってくれた。和洞さんには10年余り前にお寺を訪ねてお目にかかっているが、奥さんの累子さんは初めてだ。大隅の垂水からお嫁さんに来られたという。はきはきして機知に富んだかわいい方だがどっしりと腹の据わった女性ともお見受けした。遅くまで話の輪に加わってもらって焼酎がいっそう進んだ。

 24日に連れて行ってもらった賀明さんの育った相良村の小学校の分校跡やめぐり観音付近の川辺川のたたずまいも心に残った。

 川辺川の風景

ここは今も彼の釣りの重要なスポットだが幼い日、カッパとして日がな一日を過ごした場所でもある。どのあたりだったか、学校帰りに近道をするために勉強道具を頭の上に載せて川辺川を泳いで渡ったとも聞いた。

 川辺川ダムは中止になって清流は残ったが上流の五木の村の風景は一変していた。旧村は跡形もなくなり、丘の上に新しい村が創られていた。ぼくにはまだしっくりしない感じに見えた。

 この村は、この川はこれからどうなっていくのだろう。ぼくにとって「五木」は遠い昔、子守歌を耳にしたときから、日本の秘境であり、「ふるさと」である。今はもう秘境とは言えないが人々の「ゆたかな」生活がある「ふるさと」であり続けて欲しいと思う。

 

 

 


勇気100%

2011-05-16 07:25:00 | 出会いの旅

きいちご移動教室の最後はいつもの通り音楽の時間だ。バスが日暮里駅に着く直前にカンちゃんやナリちゃんなど小中学生のグループが聞いたことがない唄を歌ってくれた。けっこう多くの人が唱和していた。ぼくは歌声に耳を傾けながらこの子たちと出会うことが出来た喜びをかみしめていた。有名なアニメソングらしい。

 今日はこれから癌研有明病院に行きます。どんな通知簿をもらうのでしょう?

  ●「勇気100%」http://www.youtube.com/watch?v=MMt8QfbE8jE

   作詞 松井五郎 作曲 馬飼野康二

 


がっかりして めそめそして

 どうしたんだい

 太(たい)陽(よう)みたいに笑(わら)う

 きみはどこだい


やりたいこと やったもん勝(が)ち
青(せい)春(しゅん)なら
つらいときはいつだって
そばにいるから

(ゆめ )はでかくなけりゃ
つまらないだろう
(むね)をたたいて
冒(ぼう)險(けん)しよう

そうさ100%(ひゃくパーセント)勇(ゆう)気(き)  もうがんばるしかないさ
この()(かい)中(じゅう)の元(げん)気(き)  抱(だ)きしめながら

そうさ100%勇(ゆう)気(き)  もうやりきるしかないさ
ぼくたちが持(も)てる輝(かがや)き  永(えい)遠(えん)に忘(わす)れないでね

ぶつかったり 傷(きず)ついたり
すればいいさ
HEARTが燃(も)えているなら
後(こう)悔(かい)しない

じっとしてちゃ はじまらない
このときめき
きみと追()いかけてゆける
(かぜ)() きだよ

昨(き)日(のう) 飛(と)べなかった
(そら)があるなら
いまあるチャンス
つかんでみよう

そうさ100%勇(ゆう)気(き)  さぁ飛(と)び込(こ)むしかないさ
まだ(なみだ)だけで終(お)わる ときじゃないだろう

そうさ100%勇(ゆう)気(き) もう ふりむいちゃいけない
ぼくたちはぼくたちらしく どこまでも駆(か)けてゆくのさ

たとえさみしすぎる
夜(よる)がきたって
新(あたら)しい朝(あさ)
かならずくるさ

そうさ100%勇(ゆう)気(き)  もうがんばるしかないさ
この()(かい)中(ちゅう)の元(げん)気(き)  抱(だ)きしめながら

そうさ100%勇(ゆう)気(き)  もうやりきるしかないさ
ぼくたちが持(も)てる輝(かがや)き  永(えい)遠(えん)に忘(わす)れないでね


   

 

 

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安曇野賛歌

2011-05-14 04:16:46 | 出会いの旅

安曇野わさび田湧水群(あづみのわさびだゆうすいぐん)
名水画像

今日は「きいちご移動教室」で信州・安曇野に行きます。参加者は44名。中国残留孤児とその家族、脱北者家族のほか、今回は遠くエチオピアからきた青年が参加します。70近くになって初めてアフリカ人と友達になれるかな。

 春は遅いとはいっても桜は終わり、ワサビの白い花の季節でしょうか。心ゆくまで晩春の安曇野を楽しんでもらおうと思います。

 宿の近くに「早春賦」の歌碑があります。●http://www.ne.jp/asahi/ariake/yama/sousyunfu.html

      作詞:吉丸一昌、作曲:中田 章

1 春は名のみの風の寒さや
  谷の鴬 歌は思えど
  時にあらずと声も立てず
  時にあらずと声も立てず

2 氷解け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも雪の空
  今日もきのうも雪の空

3 春と聞かねば 知らでありしを
  聞けば急(せ)かるる胸の思いを
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か

 

 

外国から来た人にはとても分かりづらい歌詞です。それでも春を待つ北国の人の思いが伝わるでしょうか。バスの中で紹介します。

 ●「早春賦」佐藤しのぶhttp://www.youtube.com/watch?v=zrCSwQJimuk&feature=related

 明日は松本城を見学した後ヴィーナスラインを走って帰ります。八島が原湿原・霧ヶ峰・車山…どんな景観が広がっているのでしょう。

 ●八島が原湿原ライブカメラhttp://nature2.jp/marsh/

夕べ遅くキセンくんが来て泊まっています。宿泊行事参加は小学生の時以来だと言います。今朝、6時、近くのMS観光の車庫から東京・日暮里に向かいます。12回目になっても子どもの時のようにわくわくしています。

 

安曇野市の天気 - 5月14日(土)

 

時間 0時 3時 6時 9時 12時 15時 18時 21時
天気 晴れ
晴れ
晴れ
晴れ
晴れ
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晴れ
晴れ
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晴れ
晴れ
晴れ
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気温(℃) 9 8 8 13 18 18 15 11
湿度(%) 56 62 66 42 32 34 42 52
降水量(mm/h) 0 0 0 0 0 0 0 0
風向
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