ヘーゲルにおいて微分法とは、量の無限定化を通じて比例へと極限するための数理である。言い換えればそれは、量化して質を喪失した具体的存在を本質へと再抽出する数理である。ヘーゲルは自らの量理論の注釈において語ろうとするのは、微分法に見られる数学の限界を示し、数学に対する哲学の先導的鼓舞の必要性である。以下では、数学史におけるフェルマーやバローによる微分法の成立に始まり、微分法の意義を後付けたカルノーやラグランジュの試みを敷衍し、その数学的限界を語ったヘーゲル量理論の実質的な別冊部分を概観する。ここでの注釈1は、量の極限に現れる無限定量と量的比例の繋がりを数理において後付けた数学史の論述部位をまとめたものである。
[第一巻存在論 第二篇「大きさ(量)」第二章C「量的無限定性」の微分法成立に関する注釈1の概要]
数学と形而上学のそれぞれが提示する各無限、および方程式に現れる比例関係について次のようにまとめられた。
・数学的真無限 ・・・無限数を比例により有限的に表現。規定を数理自らに持つ
・形而上学的悪無限・・・無限数を質の無限連鎖で表現。規定は他者に委ねられる
・単純比例 ・・・変数における単なる二者関係だけを表現
・冪比例 ・・・自乗を通じた変数自らの質の表現
冪比例に対象の質の現れを見出すなら、微分法の意義も方程式における変数の本質の抽出へと集約される。ところが微分法における無限微差の概念は、無限定量を限定量に同一視する点で誤りを含む。その誤りは、ニュートンの微分法において既に数理的詐術を通じた無限微差の消去の後付けとして現れていた。ニュートンがまだ比と量、および限定量と無限定量を厳密に区別していたのに対し、その後の微分法は接線影、さらに指標三角形を用いて微分値への無限接近を試みる。そこでの微分法と経験的微分値の誤差は、始めは無限微差の微小性、後には手順的簡便を理由にして経験的に消去された。いずれにおいてもそれは、導関数における下位項の恣意的消去である。それに対してカルノーとラグランジュが導関数における下位項消去の数理概念を与える。すなわち原函数における各項に意味づけを与え、それを導関数における下位項の消去の要否に連繋した。かくして微分値への無限接近に始まる数学の試みは、原函数と導関数の各項の間に成立する比への到達において止揚された。微分で得られた比の理解は、原函数における各項の意味づけに連繋しなければならない。しかし数学は自らの孤塁を守る限り、それに到達することはかなわない。
1)数学的無限
数学的無限はその多大な有効性にかかわらず、自らの根拠づけに無自覚であり、その無自覚のゆえの演算誤りを持つ。例えば数学は有限量の演算規則を無限定量にも適用し、その適用にあたって演算各部の取捨選択を行う。しかしその取捨選択は演算規則から決定されず、数学世界の外部にある演算対象の質に応じた経験的妥当性において決定される。もし厳密な正確さにおいて自らの演算結果を権威づけようとするなら、数学は演算各部の取捨選択についてその数理的解決の方途を自ら示す必要がある。とは言え数学的無限は、形而上学的無限に比べると真無限を実現している。それは規定を自己に内に復帰しており、他者に規定を委ねる悪無限を廃棄するからである。そもそも無限大と無限小は限定量ではない。すなわちそれらの量は限定され得ない。それらの規定は、他者との比例関係としてのみ現れる。ただし数学においても無限数は、以下の如くに数学的真無限と形而上学的悪無限の2系統に表現されている。
・数学的真無限(有限数の比による比例的な無限数表現) ・・・非通約的分数、比例による有限的表現にある無限級数
・形而上学的悪無限(無限系列による没比例的な無限数表現)・・・無限小数、集合数の無限系列にある無限級数
2)比例の比例としての冪比例
限定量の比がAとBの固定した比率として現れる場合、両者の比例関係もB/Aの定数で現れる。式表現で言えば、次のようになる。
B=nA
この数式を言葉に戻すと、その意味は「BはAのn倍」である。したがってこの式表現においてBは主語であり、nAは述部である。主語Bは、nAによって自らのより具体的な姿を表現する。そしてここでのnはAとBの量的関係を表わす比率B/Aである。それはBの量とAの量の相関を表現する。ただしこのnはAとBの質に対して外面的で無関心に留まる。例えばn=2なら、Bが常にAの2倍値として現れることを表す。それはBが常にAの2倍だと言うAに対するBの量、またはAが常にBの半分だと言うBに対するAの量を表す。しかしこの量はAとBの内面的な質ではない。AとBは比率nの決定に参与せず、AとBではない何者かがこの比率を決定していても良い。むしろそのようにこの比が決定されたと考える方が、比の決定に対するAとBの参与不在を説明し易い。また日常経験における固定的な各種交換比の現れ方を見ても、交換される二者の比は二者以外の何者かが決定している。
一方で限定量の比がA2とBの比率として現れる場合、両者の比例関係は固定した定数として現れない。その式表現は、次のようになる。
B=mA2
この式表現においてAとBの量的関係を表わす比率mは、B/A2である。その表わす比率は、Aの値に対応して流動する。例えばm=2であっても、Bは常にAの2倍値ではなく、Aの値に応じて変えられてしまう。それは、(m,A)=(2,2)ならBは8であり、(m,A)=(2,3)ならBは18であると言うようにである。要するにここでのAは、AとBの量的関係を変動させている。したがってこの式は、単にAとBの量的関係を表わすだけに留まらない。それは自らの在り方によってBの量を変えてゆくAの質も表現している。AとBが固定比率にある場合、Aの値に比例していたのはBの値である。しかしAとBが流動比率にある場合、Aの値に比例するのはBの値ではなく、AとBの比率である。このことはnとmの両者を並べるとより明瞭になる。
n:m | = |
| : |
| |||||||
= | 1 | : |
| ||||||||
= | A | : | 1 |
A2とBの比率mは、AとBの比率nに定数1/Aを乗じた値である。このことは、A2とBの比率が、AとBの比率に対してAの値に応じて(A:1)で比例すること、または(1:A)で反比例することを表わす。もともとnはAとBの二者の比例定数なので、mはそれに対してさらに比例する定数として現れている。つまりその関係は、二者の比例関係がさらにその内の一者と比例する関係である。それゆえに「B=mA2」を言葉に直せば、その数式が表わすのは「BはA2のm倍」や「BはAのA倍値のm倍」だと言うより、むしろ「BはAのmA倍」または「BはAのm倍値のA倍」である。
3)微分値における本質
「B=mA2」は、自らの在り方によってBの量を変えてゆくAの質を含む。そうであるなら次の興味は、そのAの質を「B=mA2」から抽出することに移る。ここでAの質にこだわらずに式の右辺の質を考えた場合、Aの係数がそのまま右辺の質となる。「B=nA」においてAとBが固定比率n:1にある場合、両者の相関はそのままnの固定値で表現される。すなわち「BはAのn倍」である。その右辺が表現する質は、Aの係数「n」に極限される。つまり単純にAB座標における式が表わす線の傾きが、右辺の質である。ただしこの右辺の質は、先に述べたとおりにAの質ではない。右辺の質がAの質として現れるためには、その質表現の中にAが現れなければいけない。一方でAB座標において「B=mA2」が表わす線は曲線である。そしてその式が表わす線の傾きは、「B=nA」の場合と違い、A座標に応じて刻々と変化する。Aの質を「B=mA2」から抽出するために、曲線における特定点の線の傾きを得る方法は既に微分として確立している。単純にその値を言えば、線の傾きは「2mA」である。そしてこれが「B=mA2」の特定点におけるAの質である。さらに言えばそれは、「B=mA2」の特定点におけるAの本質である。
4)無限微差
「B=mA2」における特定の点の線の傾きは、その点における無限微差にある2点間の傾きの極限値として次のように得られる。
B’= lim Δ→1/∞ { m(A+Δ)2-mA2 A+Δ-A } = lim Δ→1/∞ { 2mAΔ+Δ2 Δ }
=2mA
ここでの極限値の取得において登場する3個のΔは、消滅しつつある無限微差である。それらは限定量ではないが、他者を規定する点で限定存在である。またもともと比において限定量は、限定存在としてのみ現れる。それぞれは、恣意的扱いにおいて最初と最後のΔは生成する1に収束し、真ん中のΔは消滅する0に収束する。以下にこの恣意的扱いに関わる数学の諸見解を確認する。
4a)ニュートンにおけるフラクション(流率)とモーメント
フラクションとは、具体的な物体運動と区別される速度のような諸関係の比である。それは生成において既に比であり、消滅において比でなくなる。したがってフラクションの比の消滅が限定量を消滅させるのであり、フラクションの限定量の消滅が比を消滅させるわけではない。ただしそれは、生成と消滅の間際に不可分な実体を現すものではない。それゆえに比が表わすのは原子論ではない。カルノーも消滅する限定量の大きさは、その連続性において大きさの比を保存するとしている。このことは連続性の悪無限が限定量を消滅の中に復活させるのでなければ正しい。一方でニュートンは、生成と消滅における瞬間的な加量と減量に対し、それをモーメントと名付ける。それは、生産された大きさを生成する始元であり、生産された大きさとして質に無関心な限定量と違い、質的規定にある限定量である。ただしそれを加量と減量として扱うと、モーメントは連続性の悪無限に引き込まれてしまう。
4b)ライブニッツとヴォルフにおける算術的無限小、およびオイラーとラグランジュにおける幾何学的な無限小
ライブニッツとヴォルフは、有限的な大きさに対する無限小の大きさを消去できるとする。しかし彼らはその消去の許容を、経験的妥当性において示すだけで、その根拠は示していない。しかしそのような見解は、厳密さを要求する純粋数理に反する。一方でオイラーとラグランジュも、微分において加量の比を考察する一方で、そこに現れる無限小の大きさをゼロとみなす。ただし彼らは、商としての比を幾何学に求め、差としてのゼロを算術に扱った。しかし彼らにおいても、微分における無限微差のゼロ消去に対し、その根拠づけを示していない。ランデンの手法も、幾何学的に現れる個別の無限微差に算術的に等置された値を使っている。それは逆に微分法が持つ簡明さを喪失し、導関数が示す原函数の比例相関を不明瞭にしている。
4c)フェルマー・バロー・ライブニッツ・オイラーにおける幾何学と算術の癒合の試み
微分に向けた幾何学と算術の癒合は、下記f(x)曲線図において次の式が成立することをもって行われる。
(b-a)+(f(b) -f(a))= f(b) b-c
すなわち
BD長 DA長 = Bb長 bc長
この式が表わすのは、AB間のx軸y軸の各増分の比が、直線ABを接線とみなしたときの接線影bc長に対するBb長の比に等しいことである。そこでf(x)の微分値も、指標三角形ABDにおけるABを接線とみなすことにより試みられた。しかし異なる傾きを示すはずの2点ABにおける各接線の同一化は、無限微差の扱いを決定しなければ、両点を無限に接近させても実現しない。とは言えここには既に、和の極限に比が現れている。
4d)ニュートンにおける幾何学と算術の癒合の試み
上記の難点に対してニュートンは、次のようにdxdyのゼロ消去を示す。ただしここで前提されるのは、ABの中点から無限微差の半分づつの増分点と減分点で得られる微分値が、点Aからの無限微差の増分点と減分点で得られる微分値に等しいとする恣意である。 ={ydx+xdy}-{ydx+xdy+dxdy}=-dxdy≒0
{(x+ dx 2 )(y+ dy 2 )-(x- dx 2 )(y- dy 2 )}-{(x+dx)(y+dy)-xy} ={xy+ ydx 2 + xdy 2 + dxdy 4 -xy+ ydx 2 + xdy 2 - dxdy 4 }-{xy+ydx+xdy+dxdy-xy} ={ ydx 2 + xdy 2 + ydx 2 + xdy 2 }-{ydx+xdy+dxdy}
これはあいかわらず無限微差消去の経験的妥当性を示すだけで、その根拠を示していない。式のはじめに0ではないと前提されたdxもdyは、二つの微分式の等値を前提にした上でその0化が要請されている。しかしこの説明は、厳密さを要求する純粋数理に反する。このニュートンの誤りに対してラグランジュも同じ批判をしている。
4e)カルノーとラグランジュによる無限微差消去の根拠づけ
(x+dx)nを二項展開すると次の多項式が得られる。
(x+dx)n=xn+pdxxn-1+qdx2xn-2+…+dxn
この多項式は、第一項を除くといずれの項もdxの乗算式である。それゆえにdxを0として消去するなら、(x+dx)nは元のxnに収束する。しかしdxが0でないなら、多項式の残りの各項が全て消去し得ない。これまで消去する理由はいろいろと述べられてきた。ここでは逆に、消去し得ない理由を問うべきである。そうなると明らかにすべきなのは、多項式の各項が持つ質的な意味である。すなわち第一項は速度であり、第二項は加速度、第三項は抵抗と言うようにである。この捉え方での多項式の微分における各項は、値の微小や経験的妥当性を理由にして消去し得ない。すなわち各項の消去の妥当性は、質的意味の欠如に従う。ただしカルノーとラグランジュは、このようなこの正当な説明をする一方で、結果値の妥当性および計算の簡素化において下位項の形式的消去を容認している。
4f)比の極限値の意味付け
無限微差における多項式の各項の消去は、各項が果たす量的なものの質的規定、すなわち比例における役割の有無に従う。そもそも極限と言う言葉も、変量の関数に現れる一定の値を既に示唆している。そして次の計算式が目論むのも、この極限に現れる比の取得である。しかしここで得られる比についても矛盾は残されている。
y=f(x)+k ※k:y=f(x)における増加yの増分値
k=ph+qh2+rh3+・・・ ※h:y=f(x)における増加xの増分値
| =p+qh+rh2+・・・ ※x値のh増分に対するy値の増分比 |
| {p+qh+rh2+・・・}=p ※k/hの極限値 |
ここでのk/hの極限値とは、もちろんdy/dxを指す。しかし増分hを0に扱うと増分kも0となり、係数p=k/h=0となるべきである。ところがf(x)が定数式ではなく、かつhが増分値である限り、係数p≠0でなければいけない。これは不合理である。ただしここで確認すべきなのは、k/hの極限値として導出されたpの意味である。ところがラグランジュは、単にpを理論的な導出値として捉えただけで満足している。
4g)最後の比
上記のk/hの極限値は、f(x)のxy軸の各増分の最小値dy/dxをもって最後の比として現れる。しかしこの場合、f(x)における或る点Aとその最小増分座標点Bを結ぶ弧ABは、AB間の最短経路でなければ不合理である。さもなければ、同じ2点間にさらに小さな弧が現れてしまう。つまり曲線における極小の弧は、直線でなければいけない。すなわち極限において曲線は直線に移行する。それが表現するのは、曲線式における冪部分dxnの消失とそのdxへの移行である。ところがそれは、曲線の曲線としての質の消失であり、ひいては最後の比をも消失させる。これを避ける上で必要なのは、曲線の直線への移行ではなく、逆に直線の曲線への移行である。なぜなら極限値として現れる無限小とは、直線的限定量ではなく、曲線的無限定量だからである。
5)微分法に見られる数学における根拠づけの逆転
上述4c)の段階で、数学は経験的物理と微分法の齟齬を自覚し、多項式における諸項の恣意的消滅により両者の調整を図っていた。ところが今では微分法が経験的物理を根拠づけ、証明するものに祭り上げられた。しかし微分法を無概念なままに放置する限り、その根拠づけと証明は単なる逆転したものに留まる。このことが露わにするのは、数学が経験的物理を自らの外界に置き、自らの数理の由来に無頓着な学問だと言うことである。それが表現するのは、先験的学問としての数学の数学たる姿である。ただしその法治主義は数学の長所でもある。
(2019/09/15) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第二章Cb(1)) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第二章C)
ヘーゲル大論理学 存在論 解題
1.抜け殻となった存在
2.弁証法と商品価値論
(1)直観主義の商品価値論
(2)使用価値の大きさとしての効用
(3)効用理論の一般的講評
(4)需給曲線と限界効用曲線
(5)価格主導の市場価格決定
(6)需給量主導の市場価格決定
(7)限界効用逓減法則
(8)限界効用の眩惑
ヘーゲル大論理学 存在論 要約 ・・・ 存在論の論理展開全体
緒論 ・・・ 始元存在
1編 質 1章 ・・・ 存在
2章 ・・・ 限定存在
3章 ・・・ 無限定存在
2編 量 1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
2章C ・・・ 量的無限定性
2章Ca ・・・ 注釈:微分法の成立1
2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
2章Cc ・・・ 注釈:微分法の成立3
3章 ・・・ 量的比例
3編 度量 1章 ・・・ 比率的量
2章 ・・・ 現実的度量
3章 ・・・ 本質の生成
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