唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 存在論 解題(第二篇 第二章C 量的無限定性)

2019-12-10 21:21:22 | ヘーゲル大論理学存在論

 具体的存在は限定量となり数へと抽象されることにより、具体的存在の質が量へと純化する。しかしその量は外延と内包において質を持ち、再び量は質へと転化した。ヘーゲルはこの量から質への復帰を、さらに量の無限定化を通じて比例に極限するものとして扱う。すなわちヘーゲルは、数学において微分が受け持つ役割を、量化して質を喪失した具体的存在を本質へと再抽出するものとして捉える。ここでのヘーゲルの論述は、注釈にまとめた微分論の哲学的骨子であり、微分数理が語らない微分方法論の基礎づけを成している。以下では哲学的系譜から見た量から質への再転化の要請を述べたヘーゲル量理論を概観する。

[第一巻存在論 第二篇「大きさ(量)」第二章C「量的無限定性」の本行部分の概要]

量の極限に現れる量的無限定および無限定量・また無限定量に対したドイツ観念論の系譜・およびその極限に現れる比例についての論述部位
・量的無限定 ・・・限定量が自己を超出して対自する実践的な量的限定。
・質的無限定 ・・・他者の対自的擁立を必要としない単純な自己否定
・無限大(小)・・・限定量と連続的に結合した無限定量
・物自体への対応の系譜
       ・・・(1)法則及び法の樹立
          (2)自我の無限な実践
          (3)自体の直観的把握
          (4)本質抽出を通じた概念把握
・世界の無限性・・・無限定なのは自己であり、世界は有限である
・量的比例  ・・・限定量の悪無限の否定において回復した限定存在の質


1)量的無限定

 限定量の脱自は、自己離脱して他者となる超出として現れる。この限定量が成るところの他者は、単に他の限定量であるよりは、限定量そのものの他者である。すなわちそれは量的無限定であり、その現れは量的限定を否定する実践そのものである。したがってその限定量の規定は対自的である。かくして限定量の限定性は限定されていながら、その限定を超出する。ただしその無限定性も無限定でいながら、限定量に復帰する。それゆえに限定量の対自存在は、実際には限界に無関心である。その限定性と無限定性は、悟性的に分離し、相互に入れ替わるだけの悪無限な対立にいる。このような量的無限定に対して質的無限定は、直接的に質的限定と連携し、他者の対自的擁立を必要としない。そしてこのような量的無限定において、限定量の他者への連続、すなわち彼岸としての無限定量への連続は、限定量と無限定量を結合する。この結合が一方に無限大、他方に無限小を生む。


2)カント・フィヒテ・シェリングにおける悪無限

 量的無限定における悪無限は、実践に対する無力感を意識にもたらす。大同小異の新奇な対象は、世界に無数に存在するからである。このような自然や道徳探究の悪無限に対し、理性は法則および法を樹立し、それをもってそれら悪無限を廃棄すべきである。一方で悪無限における根拠の無限遡及は、意識から真理の足場を奪う。この悪無限に対して悟性は、自然と別の無限者を真理の足場に割り当てようとする。その別の無限者とは、純粋自我である。しかし無内容な純粋自我の彼岸には、やはり到達不可能な自然と道徳が現れる。ただし無力感の代わりにここでの悪無限は、意識に彼岸への憧憬をもたらす。そこでその意識の目的には、到達不可能な彼岸の代わりに、再び実践が努力として現れる。実践的意識は自我としての道徳を重視し、非我としての自然を軽視する。しかしその両者は対立しつつ相互規定し合っている。しかも自我による軽視に関わらず、非我の現れは常に意識にとって衝撃である。それゆえに次に自我と非我、すなわち思惟と存在の区別を量的差異にみなす思想が現れる。しかし対立する二者の区別を量的差異に押し留めるのは、二者の質の単純否定である。それは、無と一体化した直観的存在への退行である。質を否定した量は、再び否定されて新たな質に、すなわち本質とならねばいけない。


3)カントにおける世界の有限性と無限定性

 カントが「純粋理性批判」の二律背反命題の一つに示した定立命題に、世界が時空の限界を持つとしたものがある。しかし世界はもともと限界に区切られる形に限定されて現に存在する。それゆえにカントによる定立命題の証明も、無限定な世界の不合理を示すだけである。これは証明ではない。証明は、世界は実在し、実在は今現在の限界を持ち、ゆえに世界は今現在の限界において過去と未来に対して区切られるとせねばならない。過去と未来または彼岸は、この現に存在する世界と無関係である。一方でこの反定立命題は、世界を時空について無限定だとするものである。カントによる反定立命題の証明は、現在の時空は非存在の彼岸の時空へと連続し、したがって世界も時空について無限定だとするものである。ここでのカントにおける証明は、自らの時空論を前提にしている。すなわち時空が無限定だから、世界が無限定だと言っている。しかしそれは誤りである。世界の時空的限界は、時空の連続性に対して外面的で無関係である。この空虚な時空とそれを充填する世界の関係は、時空における現存在の悪無限が持つ矛盾を表現している。したがってここでの定立命題と反定立命題は、限界の擁立と廃棄の悪無限の叙述である。カントは世界が持つ矛盾を意識の中に持ち込み、それを世界の同一性に対する意識の矛盾に扱う。しかし矛盾により崩壊するのは世界であり、むしろ意識は矛盾の中で自己同一を維持するとヘーゲルは捉えている。


4)量的比例

 限定量の規定性は、限定量の外に限定量の無として現れる。しかも限定量はこの無へと連続している。それゆえに限定量の規定性の最初の現れは、限定量一般の抽象的な無、すなわち悪無限性である。しかし限定量の無が悪無限性として限定されることは、限定量の無をやはり限定量にする。そこで限定量の外の無として現れた限定量の規定性は、その規定の外面性だけを限定量の規定性として残し、それを限定量の概念とする。悪無限の中では限定量は否定されて無限定になるが、この無限定はまた否定されて限定量に復帰する。そしてその否定およびその否定の否定は、無限に反復する。結果的に限定量は、比率的な目盛りを想定される一つの無限定な度量空間の中に鎮座する。一方で限定量はもともと限定存在の質の止揚された否定である。しかしこの限定量の否定が止揚されるなら、そこには限定量の限定量が現れなければいけない。それは限定量相互の量的比例関係である。それは限定存在の質が限定量の否定を通じて限定量において回復したものである。それゆえに限定量の否定の止揚は、復帰した限定量から限定量の外面性を廃棄する。


(2019/06/04) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第二章Ca) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第一章・二章A/B)

ヘーゲル大論理学 存在論 解題
  1.抜け殻となった存在
  2.弁証法と商品価値論
    (1)直観主義の商品価値論
    (2)使用価値の大きさとしての効用
    (3)効用理論の一般的講評
    (4)需給曲線と限界効用曲線
    (5)価格主導の市場価格決定
    (6)需給量主導の市場価格決定
    (7)限界効用逓減法則
    (8)限界効用の眩惑

ヘーゲル大論理学 存在論 要約  ・・・ 存在論の論理展開全体

  緒論            ・・・ 始元存在
  1編 質  1章      ・・・ 存在
        2章      ・・・ 限定存在
        3章      ・・・ 無限定存在
  2編 量  1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
         2章C     ・・・ 量的無限定性
         2章Ca    ・・・ 注釈:微分法の成立1
        2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
        2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
         2章Cc    ・・・ 注釈:微分法の成立3
         3章      ・・・ 量的比例
  3編 度量 1章      ・・・ 比率的量
        2章      ・・・ 現実的度量
        3章      ・・・ 本質の生成


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