唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 存在論 解題(第一篇 第三章 無限定存在)

2019-12-08 21:29:03 | ヘーゲル大論理学存在論

 意識の実在性は物の実在性に対する観念性に始まり、理念性において物に対する実在性の優位を逆転する。一方で意識の自己は一者であり、なおかつ脱自において自己に対峙する自己自身でもある。ここでヘーゲルが目指すのは、この対自存在に現れる脱自によって唯一者を量として説明し、量における諸規定の派生に連携することである。もちろんその最終像は、物理においては物理法則の全体としての自然であり、倫理においては法の全体としての国家であり、論理においては思想の全体としてのロゴスである。以下では存在論において無限者の質としての量を展開するヘーゲルの説明を概観する。

[第一巻存在論 第一篇「質」第三章「無限定存在」の概要]

無限者から派生する悪無限・対自存在・意識・一者・対一者存在・拡散・凝集・脱自・量などについての論述部位
・悪無限         ・・・無限者を有限者の彼岸に措くだけの悟性的な無限擁立
・真無限         ・・・無限定性を自らの即自存在とする有限者の無限者への移行
・悪無限の超越      ・・・無限な彼岸への直線的な有限者の実現不能な超出
・真無限の超越      ・・・円環的自己限定として現れる有限者の自己制限の超出
・無限者実在性      ・・・限定を否定する意識の実在性
・対自存在        ・・・限定を否定する無限者として自己を限定する有限者。
                他在を廃棄し、物を表象として保持する意識の自己。
・理念性         ・・・Idealitat。真無限において現れる観念の実在性。
・観念性         ・・・物の実在性Realitatに対して現れる物体表象の虚偽性
・意識          ・・・対自存在でありながら他在を廃棄し得ない二元的存在
・一者          ・・・虚無を質とする自我の形式としての自己。純粋自我。
・対一者存在       ・・・一者としての自己に対峙する自己自身。
                廃棄された自己の即自存在。自己の自己に対する対他存在。
・無限者と有限者に関する各種思想についての評価
 スピノザ        ・・・観念としての無限者の欠落した唯物論
 マルブランシュ     ・・・物としての有限者の欠落した観念論
 ライブニッツ      ・・・相互に無関係な単子を窓にして現れる観念論。
                物の多数性を単子の先験的多数性で代用。
 カント/フィヒテ    ・・・無限者と有限者を悟性的に分離した二元論
                純粋自我を始元にした恣意が説明を排除する直観主義。
 原子論         ・・・無限者と有限者を物に閉じ込めた唯物論
・拡散          ・・・一者における自己の無と自己自身の実在の分離
・凝集          ・・・乱立した一者たちにおける唯一者への再融合
・声望と地位       ・・・唯一者の観念性を否定する乱立者の融合した実在性
・脱自          ・・・das Ausser-sichkommen。拡散し凝集する対自存在における自己否定とその否定の過程
                (注.実存主義の脱自extaseと独語自体は違う)
・量           ・・・唯一者へと脱自した対自存在における質を持たない形式
・カントにおける拡散と凝集・・・対象を先験的に擁立した拡散と凝集の悟性的な分離。


1)悟性の悪無限

 無限者は有限者の否定において規定性を持つ。言い換えると、無限者は自らの有限性における否定を否定する。無限者を有限者と分離するのは、この有限性の否定である。それゆえに以前では無限定に現れた存在および成も、今ではその限定可能性において無限者と区別される。ただしこのことは、同時に無限者を有限者へと後退させる。無限者は有限者によって限定されるからである。同様に有限者も無限者によって限定される。この悟性的な両者の分離は、両者を交互規定の悪無限に引き込む。悪無限において有限者は此岸にあり、無限者はその彼岸にある。この両者の間の無限の懸隔は、有限者の無限者への超越を阻む。一方で両者は自らの他者の中に自らの即自存在の直接的生起を見出す。このことから両者の間に現れる限界は、止揚されるたびに無際限に新たな限界と入れ替わり、両者の懸隔は埋まらない。それゆえに矛盾は永久に解消されない。


2)理性の真無限

 悪無限の解消のために有限者と無限者を単純に統一した場合、両者を統一した新たな無限者が現れる。しかし単純統一の無限者では、両者における限定も消失してしまう。そこでの無限者の姿は、規定性や自己制限を立てられない不可知な即自存在に退行する。また単純統一における有限者と無限者の間の懸隔の消失は、逆に有限者を無限者化する。やはり有限者と無限者の分離は、その両者の排他的統一において維持されなければならない。そこで両者の移行を確認すると、次のようになっている。まず有限者は、自らの即自存在において自己制限を超越する無限定性を持つ。すなわち、有限者は本来的に無限者に成るものである。またそもそも有限者において自らの即自存在は無限者である。有限者は無限者の内に消失し、無限者だけが存在する。他方で無限者はその無限定において実在性を持たない。そうなると有限者における即自存在の無限定性も、同様に空虚なものに成る。両者は過程において一体化する。この一体の過程では、両者は区別されかつ排他的に統一される。そこでの両者の間の限界は止揚され、両者は相互移行する。ただしこの有限者と無限者の統一過程では、無限者は真の無限者として現れる。すなわちその無限者は、有限者の単なる彼岸ではない。そして有限者もまた無限者の単なる彼岸ではない。


3)真無限における対自存在

 真無限における超越は、悪無限における無限な彼方への直線的な超出ではない。それは限界を超出する有限者の円環的な自己限定として現れる。それゆえに有限者と無限者も、ともに真無限における単なる契機へと変わる。その無限者は規定性を持つ限定存在であり、有限者の彼岸にある無規定の実在しない抽象ではない。その実在性は、有限者における実在性の限定を否定する。すなわちそれは否定の否定として現れた実在性である。したがってその実在性は、限定存在における無の実在性と違い、自律的に肯定する実在性である。したがってここにおいて実在性は、二様に現れる。一つは先に現れた有限の個物としての実在性である。もう一つは新しく現れた無限の意識としての実在性である。意識としての実在性は、有限者の円環的な自己限定の実在性である。この有限者の円環的な自己限定は、限定存在する対自存在として現れる。対自存在は、有限者に対しては無限者として現れ、無限者に対しては有限者として現れる。


4)実在する理念と虚偽的な表象

 もともと観念とは、媒介を通じて存在の表面に現れた無である。したがって無の否定的力が物として実在を主張したのに対し、観念は物に対立する無として自らの実在を主張する。そこで観念の実在性は、物の実在性Realitatと区別されて理念性Idealitatと呼ばれる。しかし実在する物と違い、観念は無にすぎない。それゆえに観念的Ideellとの対象判定は、表象の実在性に対する虚実判定に使われる。ところが真無限において物の実在性に対する対自存在の理念性が実在的優位を得ると、状況は逆転する。観念的なのは観念ではなく、物の方が観念的だとみなされる。すなわち虚実なのは観念ではなく、物の表象が虚実だとみなされる。そして観念論とは、そのように有限者を観念的とみなす思想を言う。ただし有限者を観念的とみなすのは、実在論であっても同じである。むしろ実在性が物と観念で二義的に現れたように、観念的との表現も物と観念で二義的に現れる。当然ながらそれは、物の表象の虚実を現す観念的との表現に対し、観念の真を現す理念的との表現の差異として現れる。したがってそれは、物の表象の虚実を現す偽に対し、観念の充実を現す真として現れる。


5)自己自身と自己

 対自存在は他在を廃棄し、物を表象として保持する。これに対して意識は、直観において物に捉われている。したがって意識は、物を現すと共に意識自らを現す現象の場である。すなわち意識は、対自存在でありながら他在を廃棄し得ない二元的存在である。対自存在では、現れる自己自身と現す自己が一つのものとしてある。一方の自己は、対自存在における一者である。他方の自己自身は、一者に対する存在(対一者存在)として自己の内で自己に対峙する。自己自身は自己の廃棄された即自存在であり、なおかつ自己の自己に対する対他存在であり、さらに言えば自己の他在である。反対に自己は一者として不変であり、自己以外の他者となり得ない。自己の規定は、自己に捉われている自己との関わりである。それゆえにその自己は、捉われた自己を脱し、捉える他者になろうとする。しかしこの自己の規定のゆえに、自己は他者になり得ない。この一者としての自己は、自我の形式としての純粋自我である。自己には内容が無く、その虚無を自己の質にする。


6)無限者と有限者に関する各種思想についての評価

 スピノザ     ・・・観念としての無限者の欠落した唯物論
 マルブランシュ  ・・・物としての有限者の欠落した観念論
 ライブニッツ   ・・・相互に無関係な単子を窓にして現れる観念論。
             物の多数性を単子の先験的多数性で代用。
 カント/フィヒテ ・・・無限者と有限者を悟性的に分離した二元論
             純粋自我を始元にして恣意が説明を排除する直観主義。
 原子論      ・・・無限者と有限者を物に閉じ込めた唯物論


7)自己における拡散と凝集

 虚無を質とする一者は、自らの無において実在する。それゆえに一者は自己の無と自己自身の実在を分離する。分離した一者の自己と自己自身は、それぞれまた一者であり、それぞれがまた自らと分離し、その自己と自己自身は同じ一者として乱立する。ここでの一者から多者への成は、存在と無の間の転変ではなく、単なる自らとの関わりである。それゆえにこの成は、一者における自己と自己自身、または異なる自己自身同士の拡散にすぎない。自立した一者たちは、それぞれ自分だけを一者の即自存在にみなすので、それぞれ自らと別の一者を一者の対他存在に扱う。しかしいずれの一者たちにおいてもその自己は同じ一つの一者である。それゆえに分離した一者の自己と自己自身、そして拡散し乱立した一者たちは、再び一つの一者へと融合する。ここでの多者から一者への成も、存在と無の間の転変ではない。それは一者における自己と自己自身、または異なる自己自身同士の凝集である。


8)対自存在における脱自(超出)

 拡散において多者それぞれは、相互に差異の無い同じ実在性である。一方で凝集において多者が融合する先の唯一者は、観念性として現れる。ところが凝集それ自身は、融合する実在性の唯一者である。すなわち凝集それ自身において、凝集が持つ唯一者の観念性は否定されている。その唯一者の実在性は、声望と地位として現れる。逆に融合される多者は、むしろその実在性を否定されて観念性に成る。ただし多者と唯一者はいずれも一者であり、すなわち自己である。ここでの一者が拡散して多者に成る過程は、自己が他者としての自己自身に分裂する過程である。そして他者としての自己自身が凝集して唯一者に成る過程は、他者としての自己自身が再び自己に統合する過程である。二つの過程は分離した別の過程でありながら、一つの過程を成す。なぜなら凝集は拡散を前提にするが、拡散は多者として現れた自己自身の相互の関わりであり、それゆえに拡散も自己への凝集を前提にするからである。また拡散は自己自身による自己の否定であり、自己解体である。逆に凝集は自己による拡散した自己自身の否定であり、自己再生である。このような対自存在の自己離脱と再生の過程は、対自存在における自己の否定の否定の過程であり、脱自das Ausser-sichkommenと呼ばれる。(注.実存主義の脱自extaseと独語自体は違う)


9)量

 脱自において対自存在は、全過程を通じて一者としての自己を廃棄する。対自存在が廃棄するのは、自己自身の限定存在である。廃棄を通じて対自存在には限定存在との関わりだけが残留する。それは、唯一者へと脱自した対自存在における質を持たない形式への純化、すなわち量への純化である。ただし量は限界と規定性を排他的に統一した個物であり、限界と規定性を廃棄してそれから自由になっている。限定存在ではなくなり無限者となった個物は、無限に脱自する自己同一性を新たに自らの規定性として得る。それは理念の直接態であり、具体的には空間や時間、対象および自我にその端的な姿を現すことになる。


10)カントにおける拡散と凝集

 拡散と凝集を物質に外的な力として扱う見方にカントは反発する。そこでカントは拡散と凝集から物質を構成する。ところがカントにおける拡散と凝集は混乱している。カントの説明では、既に物質は拡散力を持つ。ただし拡散するだけだと物質は維持され得ない。それゆえにカントは物質における凝集力を推論する。しかし凝集があるからこそ、その拡散に対してより大きな力が必要とされる。したがってカントに反し、推論せずとも拡散が知覚されるように、物体の固着において凝集も既に知覚されている。一方でカントにおいて、拡散は隣接する原子間の表面的関係であり、凝集は隣接を飛び越える原子間の相互関係である。しかし凝集を隣接する原子間の表面的関係にしても何も困らない。そもそも隣接する原子間に空虚が無ければ、その二原子は一体であり拡散も凝集も起きない。そこでカントは、原子の引力圏と原子自体を区別する。しかし引力圏と原子自体を乖離させるのは拡散である。そこでカントは、原子自体の拡散によって引力圏を消滅させる。しかし引力圏の消滅は、拡散の消滅であり凝集である。いずれにせよカントは、拡散と凝集から物質を構成せずに、既に原子自体を擁立している。この難点を回避する場合、原子自体を擁立せず、遠心と求心の二力を想定する説明も考えられる。ただしその説明も、カントにおける拡散と凝集の矛盾を排除できない。


(2019/05/18) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第一章・二章A/B) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第一篇 第二章)


ヘーゲル大論理学 存在論 解題
  1.抜け殻となった存在
  2.弁証法と商品価値論
    (1)直観主義の商品価値論
    (2)使用価値の大きさとしての効用
    (3)効用理論の一般的講評
    (4)需給曲線と限界効用曲線
    (5)価格主導の市場価格決定
    (6)需給量主導の市場価格決定
    (7)限界効用逓減法則
    (8)限界効用の眩惑

ヘーゲル大論理学 存在論 要約  ・・・ 存在論の論理展開全体

  緒論            ・・・ 始元存在
  1編 質  1章      ・・・ 存在
        2章      ・・・ 限定存在
        3章      ・・・ 無限定存在
  2編 量  1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
        2章C     ・・・ 量的無限定性
        2章Ca    ・・・ 注釈:微分法の成立1
        2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
        2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
        2章Cc    ・・・ 注釈:微分法の成立3
        3章      ・・・ 量的比例
  3編 度量 1章      ・・・ 比率的量
        2章      ・・・ 現実的度量
        3章      ・・・ 本質の生成


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