朝からいい天気。この日はチェックアウトして荷物をクロスタに委ね、再び地下鉄・バス一日券をゲットしてから、バスに乗って主人が学生時代に勉強部屋として使っていた(迷惑な学生である)百万遍の進々堂まで行き朝食。開店時間ぴったりに到着したあたしたちとほぼ同時に、タクシーで乗りつける客もいたりして驚かされた。あたしも大学時代の京都旅で来たことがある。お店は当時のままなのだろうけど、狭くなったような気がするのと、その当時には多分なかった「テーブルなど什器の採寸お断り、撮影お断り」という張り紙があり、「なんだか時代を感じるね」と言いながら朝ごはんをいただいた。
二日間で行ければいいなの場所は一応考えてあった。そのうち今日にしようと思っていた京セラ美術館も平安神宮も昨日行っちゃったので、今日は進々堂で朝食を取る以外の予定は未定(苦笑)。なので「百万遍まで来たら白沙村荘に行きたいなぁ、去年中に入らなかったし」と呟いてみた。
「じゃあそうしよう、哲学の道の桜も満開で人出はすごいだろうけど、白沙村荘がごった返すとは考えにくいし」と、今出川通を東に向けて歩き始めた。この辺は右を見ても左を見ても京大で、1学部3学科しかなかった女子大出身のあたしにとっては信じられない規模。さすが西の雄だなぁと眺めつつ歩く。と、吉田神社前に差し掛かった。
「そういえば、吉田神社に行ったこともない」と主人
ここには素敵なカフェがあるって知ってたので、「いいよ、行ってみようよ」と登り始めた。標高は100mしかないらしいけど途中で息が切れてきた。見るからに近所に住んでるので毎日登ってますって感じの高齢の男性が下りてらしたので、主人が「あとどのくらいですか?」と声をかけたら「この階段が終わったらすぐですよ」とにこやかに返ってきた。「ありがとうございます」と上を目指す。途中京都市内が一望できる場所などや桜が一本だけ満開の場所などがあり、朝の空気の残る新緑の木立の中もなかなかいいものだと思った。
「茂庵」、人気のカフェ。お昼から営業なのでこの日は残念
往時の趣のままであろう軸組や小屋組は丸太、斜面に面した側に回ると一面懸崖造り(一階壁面が後退している)のような意匠、素敵の一言。ここの2階からはさぞかし美しい見晴らしだろう。
「茂庵」とはこの吉田山北東部開発を構想した谷川茂次郎の雅号から。茂次郎は、新聞用紙を扱う運輸業を起こし財を成した。のちに裏千家に入門し流儀の発展に貢献したとされる幕末生まれ。ここから山を下る木立には茶室が配され、それを降りていくと京大の教官のために造られた住宅群が現れる。当時はすべて銅板葺きだった、大正モダン建築群。
すべての住宅から東山の大文字が望める設計
さすがは近代京都きっての数奇者と言われる、谷川茂次郎じゃないか、かっけ〜、などと言いながら白沙村荘を目指す。哲学の道に近づいているせいか、徐々に観光客が増えてきた。
東今出川通に沿って流れる疏水の桜も満開
ようやく到着、白沙村荘。日本画家の橋本関雪が1914年から1945年まで造営を続け完成した邸宅。あたしは勝手に日本版サグラダファミリアだと思っている(苦笑)。
東今出川通に面する北門内側の枝垂れ桜
去年の夏もここに入ろうかと思った。ただ特別展示が今ひとつピンとくるものじゃなかったので、受付でその話を聞いた後で遠慮した。橋本関雪を見にきたであろう客に対して、チケット購入前に「今は関雪以外の作家の展示しかない」と伝えるなど、とても誠実な対応だったのだと今になって思う。今回はとにかくお庭が見たい、美術館から東山連峰を見たい、と迷わずチケットを購入。
Suicaで払おうとしたら残額が足りず、後ろを振り向いたら誰も並んでいなかったので、「すみませんチャージしてやり直させてください」「どうぞどうぞ」。「今度は大丈夫だった〜」「よかったです〜」みたいな、受付の女性とのやりとりがなんとも京都らしくなく(=イケズ感なし;苦笑)それだけで来た甲斐があったと思ってしまった。
芙蓉池の向こうに存古楼
1917年から1945年の大作屏風のほとんどが、この画室で制作された。東側にある池からの反射光を光源とするよう設計されている。(この写真ではわからないけど)窓枠のサイズを変えてあって、掛け軸から屏風絵まで、風景を切り取ることができるようになっていた。画家が自分の庭にあるものにインスピレーションを得て制作活動に励んだ、そのため30年の間、造営・拡張・造営を繰り返した、ってことだろうなと思った。
渉月池と茶室如舫亭(左)憩寂庵(右)
お手入れをしていらした女性に「ここは外の喧騒とは別世界ですね」と話しかけたら、「そうなんです、別世界です、穴場ですよ」とよく日焼けした顔がにっこり。「今は池があんなふうに緑に濁ってますけどここ数日だけのことです、渉月池は夏には蓮池となり見事ですのでぜひいらしてください」ともおっしゃった。
その女性が設えていらしたお花、すべてお庭から
ここから靴を脱いで存古楼に上がって、座って何も考えずにお庭を眺めて過ごす。鳥の囀りや鯉がジャンプする音が聞こえてきて、改めてここは別世界だと実感させられる。関雪は当時水田だったここの土地に盛土して、自ら設計して1万平米もの庭を30年かけて作った。その過程で全国のお寺や神社が石造美術を寄贈し、それらが配された庭は散策が楽しい。日陰や木漏れ日、葉っぱが落ちた枝の間から差し込む光が、石や灯篭の明るさや影によって強調されて、季節の移り変わりや太陽の高さが庭に違った表情を与える。画家の関雪にとっては、この邸宅や庭が「季節や時間の要素も盛り込まれた立体日本画」だったんだろうなぁと思った。
であるなら、四季ごとに訪れねば(笑)。
池の色は緑だけどあまり気にならなかった
橋本関雪記念館MUSEUM
一階には橋本関雪の作品が展示され、2階には展望テラスがあった。テラスからは東山連峰のうち、北白川山、月待山、如意ヶ嶽(大文字)、紫雲山、善気山が見られる。あまりの景色の良さに、スマホで撮るのを忘れた。
入り口で受付の女性がチケットや案内図を渡しながら「美術館の奥の出口からお出になってもいいですし、またぐるりとこちらに戻っていらしてもいいですよ」と言ってくださったので、逆からの景色を見るのもいいかな、と順路を逆流。
名残惜しい
再び北門の枝垂れ桜
入った時とは違う女性が、受付に座っておられた。その方に「別世界でした〜」と伝えたら、笑顔で「そうなんです、別世界なんです。夏は蓮が綺麗ですよ」とおっしゃった。先ほど庭のお手入れをしておられた女性にも感じたけど、ここにはここが大好きな人たちが働いているんだなぁと清々しい気持ちになった。楽しそうに働いている人でありたいというのは、あたしが職業人として理想としてること。それをすっごく爽やかに体現しておられる方がここにはいらっしゃるんだと思ったら、本当に嬉しかった。その一方で、時々それ忘れちゃってるなぁ〜と反省した。「夏にまたきます」とお別れしたら「ぜひ」と送り出された。6月から8月だそうなので、その頃蓮を見に行くじょ〜
で、東今出川通。
青空に映える満開の桜
白川通までの道はずっと桜
「次はどこにいく?」「二条城の南の神泉苑が桜の名所だとテレビでやっていたから行ってみよっか〜」と東山三条までバスに乗りぶらぶら歩く。歩きながら、主人が、前日無鄰菴で「第二無鄰菴が高瀬川二条にあり、今はがんこ寿司がレストランとして庭を公開しているっていってたから、行ってみよう」という。これまた無鄰菴に背中を押された感じ。「ちょうどお昼時間だから、そこで食べてもいいよね、じゃあそうしよう」と歩き出した。
がんこ高瀬川二条苑というお店。がんこフードサービスは、多くの歴史的和風建築をレストランや料亭として活用しているらしい。この第二無鄰菴は、1611年に京都の豪商の角倉了以が高瀬川を開削、その際源流付近に自分の別邸をちゃっかり造営。当時の庭は小堀遠州の庭だと言われている。その後1891年に山縣有朋がここを買って「第二無鄰菴」と名付けた。でも気に入らなかったのか翌年には手放して、今の無鄰菴(第三無鄰菴)を造営した。この第二無鄰菴にも小川治兵衛の手が入っているのは、山縣有朋が手放した後の所有者である川田小一郎元日銀総裁や実業家の阿部市太郎などの時代ではないかと言われている。森鴎外の小説「高瀬舟」の舞台としても登場する。
アプローチに碑が立っている
受付でお昼を食べたいと伝えたところ、予約でいっぱいなので無理だと断られた。仕方なく出ようとして、その場にいらした男性スタッフに主人が「予約がないとダメなんですね〜」と話しかけたところ「さきほど15名様の予約がキャンセルされたはずですので、お通しできると思います、少々お待ちください」と奥へ消えていった。「3時には次の予約が入っているので、それまでなら(その時1時ごろだったので問題なし)」と言われて庭がよく見える席に通された。
「昨日第三無鄰菴を見学してここに第二無鄰菴があると知って突然来ちゃったものだから予約がなくて」と伝えたら、「そんなことだったら、ますます、キャンセルがあってお通しできてよかったです」などという会話をして、庭もぜひゆっくり見ていってくださいと言われた。
食後庭を見せていただいた。
ゆっくり歩いていたら、制服を着た男性が話しかけてこられて、色々と説明をしてくださった。あたし実はブラタモリで紹介されたのはここじゃなかったっけ?という疑問を抱いていて、その話をその男性に伝えた。「そうなんですっ!」と「裏舞台だから本当はお通ししないんですけどね」とおっしゃりながら裏に入れてくださって、鴨川から高瀬川への取水口の真上に入れさせていただき「そこにね、タモリさんが立たれたんですよ」。主人が同じ場所で写真撮りたいと無茶振りしたら、近くにあったホースを片付けてくださったり、まさに至れり尽くせりだった。
格子の向こうは鴨川の支流、そこから水を引いている
主人は「さっきkebaが庭を歩きながらこの写真を撮ってたのを見てて、裏舞台を見せてくれたんじゃないかな?」。そうかもね〜、何事も勉強していくと楽しみは多い、見所もありすぎて忙しい(笑)。
小堀遠州作とされる茶庭
伽藍石の上に立って撮った写真
ガイドの男性と、あたしたちが昨日仕入れたばかりの「伽藍石」の話でも盛り上がった。主人が「色々勉強になります」と伝えたところ、週2日5時間ずつガイドとして仕事をなさっているとのこと。主人が「どおりで、板前さんにしては詳しいなぁと思いましたよ(笑)」と応じたら、自分だけじゃなくて、こういうお店に配属されるスタッフはみんな庭のことや歴史のことを勉強しますので詳しいですよ、とにこやかにおっしゃった。がんこ寿司、名前がおちゃらけてるからなんやの?と思ってたけど、実はすごい会社かもしれない。
ここからは徒歩で京都市役所前駅へ。そこから東西線で二条城前まで。神泉苑が桜の名所だって情報をテレビで仕入れたので行ってみたけど・・・
香港とか台湾にありそうなお寺だった・・・
お参りしている人も、鳩に餌をやったりなんだかちょっと賑やかしい。主人と二人で顔を見合わせて「東寺行こう、東寺!」(笑)。京都駅まで地下鉄で行き、そこから徒歩。徒歩はお勧めしません。主人が八条口から徒歩7分と言ったので信じちゃったけど、15分はかかったぞ(苦笑)。東京に戻ってからその話をしたら、17分って書いてあったのを7分だと勘違いした、とのたまう。希望的観測のなせる技か〜
九条通に面した南大門
今は東寺しか残ってないけど、左京と東国を守るための東寺と、右京都西国を守るための西寺という二つの官営の寺院が作られたらしい。東寺から西へ1キロほど行ったところに、西寺の跡が公園として残されている(のをブラタモリでみた)。朱雀大路を挟んで対象の位置に配置され、平安京の都造りと同時並行で進められた。先に建設工事が進んだ西寺は国の行事の会場になったり、僧侶を取りまとめる役所が置かれたりしたらしいけど、何度かの火災を経て1233年に残っていた塔が焼け落ちてしまったあとは復旧も復興もされていない。
一方東寺は、西寺よりも建設工事が進まなかったため、823年に嵯峨天皇が空海に与え真言宗のお寺になった。衰退して荒れ果てた時代を経て、源頼朝が鎌倉時代にパトロンとなったことで大規模な修理を行い、皇族や時の権力者や一般庶民が破壊の後の復興を支えて今に至る。なんとも対照的な運命を辿った双子のお寺、である。
美しい五重塔は徳川家光の寄進(1644年)
束になって咲いている桜は満開
重要文化財の講堂(室町時代)では国宝の梵天、帝釈天、不動明王を拝見し、国宝の金堂(桃山時代)では十分の薬師如来、日光・月光菩薩などを拝見。それにしても、昨日の平安神宮は神苑しか見てないので、今回の旅で唯一拝観したお寺じゃない?などと言いながら境内を散策。
ちょっと盛りは過ぎちゃったけど不二桜、と五重塔
東寺を後に、バスで四条河原町まで乗り換えなしで移動。寺町通に見つけた良さそうな和食のお店に予約をしてあったので、ここで早めの夕食をしてから新幹線で帰京する旅程。今回も楽しかった〜、とにかく幸運な偶然にいっぱい恵まれて、旅行はいいなと改めて実感した。
さて、次はどこに行こっかな〜
私も京都に行く時は参考にさせていただきます。
クロスタも初めて知りました。
京都や大阪など大きな駅にあるサービスなのかな。
白沙村荘についても、名前は知ってましたが詳しいことは知らず、今回初めて知りました。
kebaさん、事前にしっかりお調べになって行かれたのですね。
それだけの成果のある旅になっています。
春の京都、良いわ~!!
夏は、真夏は避けて6月が良いかも。
真夏の京都は地獄です。
子供の頃は母が毎夏テーマを決めて旅程を組んでいて
事前と移動中に訪問先について色々と教えてくれていたので、
今のあたしは門前の小僧です。
旅程を組むときに、毎回コンセプトを決めて、訪問先を選びます。
そして、行けたら行きたいなと思っている場所の情報や移動手段は、結構細かく調べています。
そうすると計画を立てるの段階から楽しいし、知ってて行くと楽しさ倍増です。
このスタイルは、今までも今後も変わらないかな。
去年の夏の京都は対策してても大変でした。
蓮の花の盛りに行きたいと思いますし、
紅葉も雪の京都も、と妄想中〜