さぽーと・けあぺん(就労継続支援B型事業所 兵庫県丹波篠山市)

地域の方々と関わりながら、障がい者の方々と一緒に働き事業所を楽しみながら育てて行く日々のお話しブログです。

かぞく  おとうと④

2019-03-11 09:19:10 | 介護、福祉
おとうと④

弟は、高校入試失敗しました。
この時に右耳が聞こえない事が先生にも伝わっていたら、
ろうあ学校に進み手話や同じような悩みを持つ友達に出会えたかもしれません。
彼は、今も手話が出来ません。
筆談と相手の言いたい事を雰囲気で読み取っています。
なので、詳しい事を伝えたい時には、文章をメモに書くのでかなりの時間を要します。

中学の先生の薦めで高校には、行かず調理師専門学校の入学手続きを慌てて母がしました。
本人の希望の進路でなかった事も重なり、専門学校の先生と喧嘩になり本人が勝手に2日ほどで自主退学してきました。

父は、そんな彼を自分が勤める会社にお願いして勤務させてもらうのですが、
給料から健康保険、年金が天引きされていることが説明を受けても理解出来ずそこでも喧嘩になり退職します。
彼は、両親や私から責められます。
両親は、彼を叱る反面、右耳が聞こえなくなった事は、親である自分たちの責任だと金銭面や生活を支え続けました。
特に父は、金銭面を心配して65歳の定年退職後から80歳近くまでは、マンション管理の仕事を続けました。
私は、彼がまだ小学3年生の時に、夏休みの宿題をしないことで喧嘩になり
「あんたは、うちの子じゃないんだからね、橋の下から拾って着たの見たんだから!!」
と言って彼を泣かした位、無茶苦茶意地悪な姉でした。
彼の仕事が続かないのは、いい加減で甘えたで楽観的で根気がない性格のせいだと思っていました。
彼をかばい、面倒を見続ける両親に対しては、「この先何かあっても弟の面倒は、見ないからね!」と言い切ってました。
ほんまに今振り替えると意地悪な姉です。(^_^;))

彼は、大阪や乗り物が好きだったようで、空港バスの乗客荷物の搬入のバイトなどをします。
でも、やはり喧嘩になり辞めてしまい、どれもあまり長く続きませんでした。
仕事もせずに毎日大阪に行き1日を過ごし夕方決まった時間に帰っていたようです。

18歳の頃に彼は、インフルエンザにかかり、この時に左耳が全く聞こえなくなったそうです。
仕事もせずに毎日遊んでいたので、うしろめたい気持ちから健康保険に入っていなかったので、
病院に行かず両親にも話していなかったそうです。
私自身、彼の両耳が聞こえない事を知ったのは、今から13年前、母が脳梗塞で倒れた時になります。
両親は、いつも彼が話しの途中にわかった振りをしていい加減な解釈で返事をする様子が日常化していたので、
彼の両耳が聞こえないのは、徐々に聴力がダメになるものと思い混んでいたようです。