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そこはかとなくかきつくれば

日々のとりとめのない気付きを結晶に

高校で教えない高校数学6:合同式

2011-10-14 | 数学

「人の力はチームの協調性によって大きく変わる。

1+1=3になることもあれば1+1=0になることもある」

 

協調性(横並び主義)が尊ばれる日本社会においては

耳にタコができるほどよく聞く言葉である。

突っ込みどころはいろいろあるのだが、ここでは

「1+1=0」となる数学の世界が普通にある、という話をする。

 

簡単な話で、1を「奇数」、0を「偶数」と解釈するのである。

すると、

1+1=0 (奇数+奇数=偶数)

1×1=1 (奇数×奇数=奇数)

1×0=0 (奇数×偶数=偶数)

などとなり、我々の知っている

足し算、引き算(この世界では1=-1である)、掛け算の諸性質が成り立つ。

割り算も成り立つ:

0でない数aに対してその逆数1/aが定義されていればよいが、

この世界では0でない数は1だけで、その逆数は1である。

 

要するに、この解釈でも

我々が普段使う「実数」と同じ加減乗除という四則演算ができる。

これは高校の頃なら「合同式の計算」と呼ばれているものである。

 

0と1しかない世界(注)なんて、とバカにするなかれ。

今我々がお世話になっているコンピュータはこうした世界で

計算を行っているのだから。

 

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ここでポイントとなるのは、「0」や「1」を実数ととらえずに、

他のものとして解釈することにあった。

「0」や「1」、およびその演算+、×はただの記号で、

その内包的な「存在」が何か、は問わずに

その間に与えられている法則のみに着目するのである。

ヒルベルト以降、数学の世界はこうした考え方が良くも悪くも主流になっている。

なぜかというと、その方が汎用性が高く、便利だからである。

 

これは文系分野では「構造主義」と呼ばれているもので、

社会人類学者のレヴィ・ストロースが創始したものとされているが、

もともと彼は数学界から影響を受けていたという。

 

(注:四則演算およびその標準的な性質が成り立つ「世界」のことを数学の用語では「体」という。

高校では「有理数体」「実数体」「複素数体」しか習わない。

この記事で扱った、0と1だけからなる体のことを2元体という。)


数学とジェンダー

2011-10-10 | 数学

常々不思議なのが、日本では数学科をほとんど男性が占めていることである。

 

「理数系科目は男性の方が得意だから」

というのは正しい分析でもなんでもない。実際、

 

ヨーロッパでは数学研究者のうち4割が女性だからだ。

 

要するに、これは日本特有の現象である。

なぜこんなことが起こるのか、私も考えてみるのだがよく分からない。

「数学は男性がするもの」という先入観が集団認識として

働いていると、それが女性の数学志望者を減少させ、

男女の偏りをますます強めてしまうのか?

 

ただ、これは言っておくが数学の世界は一般社会と比べても

本来性差の影響は少ないはずなのである。

力仕事もなければ、過酷な労働環境でもない。

教授陣の中でも男女差別主義者は少ない。

数学の前では人間は平等というのが大抵の先生の思考回路である。

男性しかいないと、色々弊害も生じうるので、

女性が増えてほしいと少なからぬ人が思っている。

 

しかし、元々男性が圧倒的多数だったはずの他の業界と比べても

数学界は出遅れている。

大学に入ってくる時点で数学志望の女性が少ないのである。

こうしたことから、上の推測もはなはだ疑問である。

 

高校以前の数学のカリキュラムが、女性に不利にできているのか?

しかし、そんな研究はまだ聞いたことがないのだが。


高校で教えない高校数学5:指数

2011-10-03 | 数学

正の実数xに対して、xの0乗は何か。

これは、高校では次のように説明する:

例えばx=2の場合、

2^1=2, (^1で肩の上の指数を表す。2^1は2の一乗)

2^2=4,

2^3=8, …

と指数が1増えるごとに2倍になるので、

逆に考えると指数を1減らすごとに1/2になるはず。

よって、2^0=(2^1)/2=1。

 

この考え方はxがどんな正の実数でも成り立つので、

xの0乗は1になる。

さて、では0の0乗は何になるだろう。

上の考え方では1になってほしい。

 

しかし一方で、

0^1=0,

0^2=0,

0^3=0,…

なのでこの法則に従えば0^0=0であってほしいわけである。

これはどちらが正しいのだろう?

 

結論から言うと、0の0乗は「定義されない」。

考えてはいけない概念なのである。

専門的にいうと、2変数多価関数

f(x,y)=x^y=exp(y log x)

は原点(0,0)で超越的極を持つので、値を持ちえない。

また(x,y)を(0,0)へ近づけていくことである値に収束したとしても、

その近づけ方によってその値が全く変わってくる。

 

高校では類推によってx^0などの定義を導入したりするが、

類推は場合によっては危険なことも多いのだ。

しかし、高校教員は、このことを知っておいた上で、

生徒には黙っておかなくてはいけない。


数学と物理

2011-10-02 | 数学

数学をやっている手前どうしても、

ある程度、物理の知識は得ておかないと損をする場面が多くなる。

 

数学用語になじんでいる分、

他分野の人よりは物理に近づきやすいはずなのだが、

それでもよくわからない。

 

運動量などの物理量は「作用素」である、などと言われても

「はあ?」としか思えないのである。

(作用素、というのは数学では一応はっきりとした概念であるが、

直感的に運動量などの概念と隔たりが大きすぎる)

 

物理屋が「ここはこうなっているはずだ」と言っていても、

数学屋は「なぜ?」と納得できないことが多い。

 

物理屋なりの独特の感覚がその予見で働いているのだろうが、

数学屋はそれがないので、お互いの話が通じないのである。

(とはいえ、一級の物理学者のそうした感覚は後に

数学的に正しいことであることが証明されることが多いことを

歴史は伝えている。)

 

他にも、純粋に用語の定義があやふやなものも多いのである。

はっきり言っておくと、「量子力学」は確立しているように

ものの本には書かれているが、

数学の方では「量子化」とは何か、

実際には言葉の定義そのものがいまだはっきりしていないのである。

 

「お互い言っていることが伝わらないまま、

みんながやんややんや言っている状態ですよ」

とある数理物理の方が自分の分野について自嘲気味に話していたのを思い出す。

 

ともあれ、物理は現時点においては、

専門家でさえ「わかった」と自信をもって言い切れる代物ではないのである。

それは数学サイドの発展が需要に追い付いていないことも要因の一つである。

 

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そんな現状なもので、

文系の論文などで安易に比喩で物理用語(しかも量子力学の)

を持ち出されると、私は読者として非常に居心地が悪くなる。

そういうときは大抵、主張のこじつけのために用語を捻じ曲げて

意図的に誤用しているからだ。

 

とある人文系の本を読んだ時の感想。


高校で教えない高校数学4:作図問題

2011-09-18 | 数学

今日はベタな話。ご存じの方も多いと思う。

 

高校1年の数学では平面幾何学を習う。

その中でいくつかの作図法を学ぶわけであるが、

そもそも作図とは何か、きちんと把握しておかなければならない。

 

作図に用いるのは、(目盛りのない)定規とコンパスであり、

その使用法もある程度限定されている:

(a)定規は平面上の定められた2点を通る直線を引く。

(b)コンパスは平面上のある点を中心とする、与えられた半径の円を描く。

(c)点は、直線同士または円同士または円と直線の交点により新しく定まる。

 

これらの手順を有限回繰り返すことを作図という。

実際には次のことが作図で可能である:

(d)与えられた角の二等分線を引く。

(e)与えられた長さの平方根の長さの線分を引く。

(ただし、平方根を定めるためには「単位長」を定める必要がある。

例えば、1mの平方根は1mが単位長なら1m、1cmが単位長なら10cmになる)

 

(知らない、あるいは忘れてしまった人は自分で考えるか

http://contest.thinkquest.jp/tqj2002/50027/page144.html

http://izumi-math.jp/sanae/MathTopic/root_make/root_make.htm

などを参照してください)

 

さて、次に自然に考えられる問題としては、

(1)与えられた角の3等分線を引く。

(2)与えられた長さの立方根の長さの線分を引く。

ということになるが、「これが作図可能なのかどうか」というのが

有名なギリシャの作図問題である。これらと併せて

(3)与えられた円と同じ面積をもつ正方形を作図する(円積問題)

をギリシャの三大作図問題という。

 

(2)は「デロス島の問題」とも呼ばれる。なんでも、

疫病が流行したとき、人々がデロス島の神殿に伺ったところ

「神殿の(立方体)の祭壇を、体積が2倍の立方体の祭壇に作りなおせ。

(そうすれば疫病は収まる)」との神託があったのだという。

これは要するに2の立方根を求めることと同値である。

 

実際には、上述の「ギリシャの三大作図問題」は作図不可能であることが

問題提起から2000年以上後の19世紀になって初めて証明された。

要するに「疫病はどうしようもありませんよ」というお告げだったということか。

神様もなかなか意地悪である。

 

(注)三大作図問題はいずれもGalois理論に関係がある。

数学科の大学生3回生なら(1)(2)の作図不可能性は理解している(?)。

(3)は別格で難しい。

もう一つ言っておくと、(1)(2)(3)は冒頭で述べたルールの下では不可能なだけであって、

ちょっとひねった定規とコンパスの使用法を許せば可能になる。

古代ギリシャの人々もそのことは知っていた。

角の三等分は折り紙でもできるらしい。