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そこはかとなくかきつくれば

日々のとりとめのない気付きを結晶に

大学教育についての愚痴1

2011-08-26 | 教育

私の身の周りには大学の非常勤講師をしている人が多い。

そういう人同士で集まるとしばしば話題になるのが

「大学レベルの数学の授業(線形代数・微分積分学)を理解するために

必要な最低限の数学の素養さえ持ち合わせていない学生が多い」

という現実である。

ここで最低限の素養というのは高校文系で習うI・II・A・Bあたりと

思っておけばよい。

 

当然、高校で学んだからと言って高校数学を全般的に把握できている人は

卒業時点ではごく少数であることは承知している。

また学生に対し、

「高校でやったはずのことは一切

大学でフォローしないから自分で復習しておくこと」

と突き放すのは教育者としてはいかがなものかと思う。

学生の知識には必ず穴があるので、

少しづつでも折に触れて、高校数学の記憶を呼び返すきっかけを

学生に提供するのがよい授業というものだろう。

 

それくらいのフォローをする気持ちは教員側も大抵、持ち合わせている。

ここで問題にしているのは、それを遥かに突き抜けた質の学生である。

…2次関数のグラフを直線で書くといった類の学生である。

これは、高校でそれ以降に習う2次関数の全ての内容を取りこぼしてきた、

ということではないのか。

名前は伏せるが、これは名の通った大学での話である。

 

彼らに対し、「自主的に復習しておくこと」と突き放す手段は通用しない。

彼らは、自主的な学習ということを基本的に今までしてこなかったからである。

 

昨今の高校は生徒を手取り足取り、学習方法も含めてフォローする。

また宿題、課題を大量に出す。

これは、宿題を出さないと生徒は自分で動かないから、という理由もある。

生徒は教員からの指示を守るので精一杯であり、

それ以外の学習に対して動機も気力もないのである。

 

それでも、教員から指示された勉強についてきたならば、

それなりに数学の素養は身についているはずなのである。

ただ、ここで問題にしている学生については、

『教員の指示にすらついてこなかったのではないか?』

という疑念を抱かざるを得ない。

問題は、その姿勢が保たれたまま彼らが大学に入ってきてしまったことである。

 

彼らに対し、正直なところ大学はどう対処すればよいのだろう?

補講などで、2次関数を最初から教えなおすべきなのだろうか?

…しかしそれはそもそも大学の役割か?

大学は本来「自主的に学びたい人が来る」場所ではないのか?

 

またいずれこの話の続きをとり上げる。


日本の近代史教育2

2011-08-20 | 教育

教育がその国のナショナリズムと不可分であることは

以前に「国歌」の記事でも述べた。

 

ここでは歴史教科書について述べる。

取り上げる歴史事項を取捨選択することで、自国の行った戦争

(特に勝利したもの)を肯定して物語として描写するのは

どの国の歴史教科書でも行っていることである。

 

ただ、日本はそうすべきなのかどうか。

日本の現状の課題と照らし合わせてみると疑問である。

 

日本の場合は、第2次大戦の敗戦が国民的記憶として色濃く残っているため、

こうした愛国精神を高揚させる記述を教科書で行うことは難しい。

ただ、そのおかげで自国賛美に偏ったものにならず、

他国と比べ、客観的事実に基づいている部分が多いのも事実のようである。

 

現行の教科書を「自虐史観」と称し、もう少し愛国精神を発揚させられる

内容にしたいという保守派の動きもある。

ただ、それは日本を美化することが目的になっていると、目前にある

問題の解決が却って遠のく。

 

問題とは特定アジア諸国からはいまだに反日感情を持たれていることである。

これは彼の国の教育課程において少なからず

反日教育が施されているからである。

ただし教育について注文をつけるのは内政干渉にあたるので

日本からはそれについては如何ともしようがない。

 

一方で、彼らが反日感情を持つ拠り所としている教わってきた「歴史」には

誤りや歪曲が少なくないことを日本側が把握しておかなければならない。

彼らがそうした客観的でない歴史観を持ちだして謝罪や経済的負担を

要請してきたときに反論できるように理論武装をしておかなければならない。

 

そのためには、客観的事実を国民全体で共有することが唯一無二の方法なのである。

愛国主義のために史実を自国よりに解釈するのは、相手国が自国民の教育でやっていることと

区別が曖昧になってしまう。

彼らと一線を画し、自国に都合のいいことも悪いことも含め、

客観的事実を淡々と述べる教科書を作るのがこの場合、最善となろう。(注)

 

国益を守るという目的に則るなら、この件については

愛国主義などの感情は表に出さない方がいいのではないか。

国の誇りとすべきは、むしろそうした客観的事実を直視した

教科書を作ることができることだと思う。

 

ただ、日本における歴史教育における問題は教科書だけではない。

純粋に、教科内で近代史に割り当てられる時間数が少なすぎるのである。

 

(注)当然ながら、自然科学と違って「何が客観的事実か」を判断するのは

歴史においては極めて難しいことは承知している。

しかし、理想論であっても指針として定めておくことは有意義であろう。


日本の近代史教育1

2011-08-19 | 教育

「人の時間的感覚は対数的である」とは故森毅の言葉である。

 

同じ一年間と雖も、10年前の一年間の歴史と

1000年前の一年間の歴史とでは、

現在に及ぼす影響と重要性が全然違う。

従って、歴史教育は近現代の密度を最も濃くするべきなのは自明の理である。

 

現実の日本の歴史教育は、むしろ逆になっている。

少なくとも私の学生時代には、日本史の授業は必ずと言っていいほど

時間切れで中世あたりで終わった。

あとは大急ぎでやったかも知れないが全然記憶にない。

これが教員の無計画性によるものではなく、

意図されたものであることを知ったのはつい最近である。

 

以前、外国人参政権の記事で、

「このように重要な事を、なぜ学校の社会科で教えないのだろうか?」

と問いかけたが、その記事でも、今回の場合でも

この問いに対する答えは実ははっきりしている。

 

文科省と日教組の対立である。

 

双方の近代史観が全く異なるために、結果的に

「近現代はあまり触れないこと」というのが教育現場での

暗黙のルールになっているらしい。

 

結果的に、我々は太平洋戦争の背景についてさえ満足に語れるだけの知識がない。

いくら「戦争反対」を叫ぼうと、戦争について理解していなければ

平和維持すらできないはずなのだが。


日本語と論理的弁論

2011-08-13 | 教育

学生時代によく聞かされてきたことの一つに、

 

「日本語はその文法構造上、

・主語を明示しなくても文章になることが多い。

 それに関連して、受動態が多い。

・文末まで文章が提示されないと肯定・否定が確定しない。

これらのことから論理的叙述には向いていない」

 

という論法があった。

多くの場合、この後「一方で、日本語は情緒的表現を発達させてきた」

などのように論説が続く。

 

私は正直なところ、今では上の論は詭弁ではないかと感じている。

 

英語にも受動態はある。

ただ、欧米が日本と決定的に違うのは、受動態をできるだけ

使わないよう、教育の段階で訓練をするのである。

主張はできる限り平易な、明瞭な文章で表すことを良しとする文化なのである。

そして、それは情緒的表現の発達となんら矛盾しない。

 

明治の頃の教養人は、漢詩の素養があったことと、

実際に欧米人との交渉に関わらなければならなかったことなどから、

極めて硬質な、論理的な日本語を用いていた。

 

日本語でも西洋言語と同じくらい論理的叙述をすることはできる。

それは使う側の心がけの問題である。

 

某首相の国会答弁などは論外である。


スカート丈

2011-08-10 | 教育

中学・高校に勤めていたことがあるので、

その頃は生徒指導のために女子の制服のスカート丈などを

チェックしなければならない時期があった。

 

学校側が「スカートを折って短くするのをやめろ」といっても、

彼女たちはなかなかやめない。

「短い方がかわいい」と思っているからである。

実際、私服のスカートは短いものがよく売られているし、

テレビ等に映るアイドルグループもスカートが短いことが多い。

 

だが、気をつけなければいけないのは、「かわいい」という言葉は

絶対的に肯定的に受け入れられている形容詞にも関わらず、

現在の使用法ではほとんど無定義語と化していることだ。

実際にはアパレル業界と提携している女性誌が売りたいものを

「これはかわいい」と煽って商売戦略に用いているにすぎない。

 

女性の太ももというのは、

男性にとって胸やお尻と同じくらい性的刺激を誘引するものであることを、

女性側はどれだけ自覚しているだろうか。

太ももを露出する服装は外国に行くと、場合によっては娼婦と見られかねない。

勘違いされて男性に何かされても文句は言えない。

「知らなかった」では済まされない話なのだ。

ファッション以前の問題である。

 

このことは分かっている人がきちんと若い女性に教えないといけない。

メディアは決して教えないからだ。

実際、彼女たちの安易な消費志向、及び彼女たちを取り巻く社会構造は

他にもいろいろ危険な要素をはらんでいるのである。