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そこはかとなくかきつくれば

日々のとりとめのない気付きを結晶に

証明問題

2011-11-08 | 教育

大学生を見ていてつくづく思うのだが、彼らは本当に証明問題が解けない。

というより、解いたことが今まで無いかのような素振りなのだ。

 

演習問題には、証明問題を入れるが、

それで何も手を動かせない学生がいると良くないので

とにかく手が動かせる計算問題を挿入する。

すると、少ならぬ学生は計算問題には食いつくが

証明問題には全く手をださない。

こちらが本当に解いてほしいのは証明問題なのだが。

 

こういうことが、中学高校でも延々と繰り返されてきたのだろうとも思う。

それぞれの過程において、教員はまがりなりにも論述を必要とする

問題を解かせようとしたのだ、と信じたい。

しかし、学生(生徒)たちがそれに手を付けなければどうしようもない。

テストでもそうなると0点が続出するので、しょうがないので教員は計算問題を入れる。

すると学生は「計算問題だけ解いて人並みの点数さえ取れればよい」

と思うのか、計算問題の解き方だけ頭に入れてテストに臨む。

こうなると教員側はお手上げである。

 

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無理して証明問題を解かせなくてもいいではないか、

という意見を持つ方もおられるかもしれない。

しかし、これは学生の思考力の養成を先送りしているだけなのである。

そして、思考力は齢をとればとるほど向上しにくくなる。

 

学生が原理をとばして結論だけ頭に入れようとしても、

大学では計算問題を解くのでさえ困難になってくる。

教員も学生も、大学の時点ではかなりの危機意識は持っているはずなのだが、

この段階になると如何せん、大学だけではもうどうにも対応がきかないのだ。

 

学生側がもっと若いうちに、

論述問題に慣れさせておかないといけないのだろうと思う。

 

目的意識を共有して、大学教育と高校以下の中等教育が

もっと連携することはできないのだろうか?


日本語と漢字

2011-11-04 | 教育

昨日の記事に関連して。

日本は漢字を使用する数少ない国の一つである。

 

お隣の国である韓国は、漢字よりももっぱら表音文字である

ハングル文字を用いることを奨励してきた。

しかし、韓国語と日本語は言語学的に類似点が多く、

韓国語も日本語と同じように同音異義語が多い。

昔ならそれを漢字で書類上識別できたものが、今は全て

ハングル語で記述するようになっているため色々大変らしい。

 

それのみならず、今の韓国人は漢字が読めない人が増えているらしく、

これは過去の自国の文献が読めなくなることを意味する。

知識や知恵の相続ができなくなるという点で、これは実は深刻である。

 

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日本は開国期、明治時代に必死に英語を取り入れようとしたが、

日本語を捨てることはしなかった。

これはおそらく、江戸時代からの寺子屋教育の成果で識字率が既に高く

(一説によると当時、世界一の識字率だったという)、

日本語を英語に切り替える損の方が大きかったのだろう。

その代り、英語の用語に対応する日本語訳語を創出することによって

欧米列強の社会・学問・技術を吸収していった。

この頃に日本で作られた訳語が後に中国などに逆に輸出されている。

 

日本語が公用語として維持されたとはいえ、

高等教育機関では授業を英語で教える「正則教育」が

行われ、英語で欧米人と渡り合えるエリート層を輩出していた。

(ちなみに、現在の学校教育のように翻訳に重点を置く英語教育は

「変則教育」というらしい)

 

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第二次大戦後、日本を占領していたGHQは

「漢字のように効率の悪い文字は廃止して英語を公用語にしよう」

ということをもくろんでいたらしい。

 

しかし、いざ実験校を設けローマ字教育を進めてみたところ、

従来のように日本語で教育を受けている生徒よりも明らかに

学力が劣る結果が出たという。

また、この時点でも占領していたアメリカより日本は日本語の

識字率が優れているという結果が出たため、

ローマ字教育の推進は断念された。

 

なぜこのような結果が出たのかは、言語学的にも教育学的にも

素人である私の手に負えない問題である。

 

ただ、今でも漢字を日常的に使っていることで

我々が様々な恩恵を被っていることは間違いない。


体罰2

2011-10-31 | 教育

教員の体罰が教育目的でもし仮に許されるのならば、

その行使には少なくとも以下が絶対条件となる:

 

(1)行使された生徒側が怒られたことがわかること

(2)行使された生徒側が「なぜ」怒られたかがわかること

(3)行使された生徒側が、その体罰に対し「再び受けたくない」と思うこと

(4)行使された生徒側が、行使した教員側に対し持続的な憎悪を抱かないこと

(5)行使された生徒側に肉体的・精神的損傷を与えないこと

 

これらを満たすように体罰を行うのは、実に困難である。

 

生徒の心理の中には、親密になりたいがゆえに、

教員とのスキンシップを求める無意識が存在することも頭に入れておかねばならない。

すなわち、「怒られる」ことで「教員との距離が近づいた」と思うこともあるので、

この懲戒が緩いと「怒られたい」が故に一層反抗やいたずらが

悪化する場合があるのである。

 

従って、(3)を満たすように、懲戒はある程度生徒側に強い不快感を与えるものでなければならない。

しかし、度を越すと今度は(4)(5)に抵触してくる。

その行使の仕方は細心の注意が要求されるので、

教員側は「怒ったふり」はしなければならないものの決して感情的になってはいけない。

ましてやストレスのはけ口に行うことは論外である。

 

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体罰以外にも、同等の効果を与える方法はある。

大声による威嚇である。

ただし、これを効果的に用いることができる人は、

教員の中でもごく少数であることは知っておくべきである。

相手を突き刺すような声など、現代人は早々持っていないのだ。

 

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もう一度、戸塚ヨットスクールの話に戻る。

かのプログラムでは「体罰」(?)の行使の際に、

上述の(1)~(5)が考慮に入っていたのかどうか。

人が死んでいる以上、間違いなく(5)は満たされていないのである。

行使を受けた生徒側がその体罰に対し「理不尽」としか受け止められなかったのなら

(2)も満たされていないであろう。

 

これらの条件が外れていると、それは体罰ではなくただの暴力である。

 

ここを慎重に吟味せずに全てを「体罰=暴力」で括ってしまうと、

現場教員は生徒を制御する手段に窮することになる。

戸塚ヨットスクールは、明らかに異常なのである。

 

以上、教員寄りの意見になってしまっているが、ご容赦願いたい。


体罰1

2011-10-30 | 教育

10/29日から、戸塚ヨットスクールを題材にした映画

「スパルタの海」が完成してから28年を経て上映されることになった。

 

なぜ上映が遅れたかというと、この映画の封切直前に

ヨットスクールの校長であった戸塚氏が生徒の傷害致死容疑で

逮捕されたからであった(2002年、有罪確定)。

戸塚氏自身は釈放後、再びヨットスクールを続けているが、

2009年にも生徒の一人が自殺している。

 

彼の信条は、「体罰は教育だ」だそうである。

 

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ちなみに、学校教育法11条において

校長及び教員が懲戒を目的とした体罰を行うことは禁止されている。

刑事罰は規定されていないものの、体罰は触法行為ということになっている。

 

とは言え、学校教育の現場では

「最低限の体罰は必要だ」と考えている教員は、おそらく多い。

 

教員の主な仕事は教育であり、そのためには

集団となっている生徒に良い教育環境を提供することが必要である。

従って、何がしかの形で「生徒を動かせる」権威づけが不可欠なのである。

 

生徒が教員の指示に背いた場合に、言うことを聞かせるための

手段(しかも迅速に適用できるもの)がなければ、

教室をコントロールすることはできない。

このときコントロールに失敗すると、人格未形成の段階の児童に

「反教育」が行われてしまう:すなわち、

「大人のいうことは聞かなくてもいいんだ」

と子供が思い込んで、その後ますますコントロールが難しくなるのである。

 

体罰が言うことを聞かせるための唯一の手段では勿論ない。

体罰によって信頼関係が損なわれたり、逆効果になる危険性も大いにある。

しかし、ごく少数であるが理詰めの説明が通用しない児童がいるのも確かで、

クラスに生徒が数十人いる以上は、教員は常にこうした児童と

向き合わなければならないのである。

 

現場の教員が法と現実の板挟みに苦しんでいるのも事実であり、

良心的な教員であれば体罰は触法行為と知りつつも

全責任を負った上でやむを得ず行うのである。

生徒並びに保護者から告発された場合は教員側は失職の危険にさらされるが、

そこは生徒との信頼関係で教員はなんとか保たれているのである。

 

続きます。


大学教育についての愚痴2

2011-09-01 | 教育

大学教育についての愚痴1」では、

大学数学の授業の内容を吸収できる段階にない

学生のことを採り上げた。

 

現実には、既に多くの大学では

授業で高校数学の復習に少なからぬ時間を割く状態になっていて、

本来大学のカリキュラムにあるはずの線形代数や微分積分はあまり教えられず、

形ばかり履修したということになっている。

 

結果としてどうなるかというと。

教員は2回生以上の授業内容のレベルをますます落とさざるを得なくなる。

そして、学生が4回生あるいはそれ以上で

実験やデータの統計処理などをして

卒論を書かなければならなくなったとき、

そうした作業を行うのに必要な数学などの力が全く足りず、

指導教官たちにおそろしく負担がかかるのである。

場合によっては、本人以外の助教などが卒論(修論)のほとんどを

書く破目になるらしい。

 

本人の履修内容の理解が伴わないまま進学させるのは、

後になればなるほど弊害が顕著に表れてきてしまうのだ。

それは授業レベルの低下にもつながるという意味で、

他の良くできる学生たちにも悪影響を及ぼす。

 

こうした現状を打破するする方法は一応、ある。

学力の伴わない学生を留年させることだ。

留年制度は義務教育時点から存在する。

それを活用しないと、底辺の学力層の生徒が緊張感を感じることなく、

更生のタイミングを逸してしまうのである。

 

ただ、教員の立場になってみるとよく分かるのだが、

教員はあまり留年させたくないと思うものである。

教え子たちに情が移っているということもある。

何より、留年する生徒を作るということは、

自らの教育能力の限界を表しているものであり、

教員自らの評価を下げることにもなるからである。

 

ただ、この学生・教員の甘えの構造をこのままにしていていいのだろうか。

自戒も込めて、ここに記しておく。