帯は「本屋大賞ノミネート」で、私が買ったときはそうだったのですが、この本が本屋大賞受賞作です。
発売前から評判は耳に入っていました。
ジュンク堂池袋店の「変貌する文芸誌」という特集でも、編集者がすすめており、買うことにしました。
まさかロシアがウクライナに侵攻するとは。著者も考えてはいなかったでしょう。
この小説は、1942年、当時のソ連の片田舎から始まる。平穏な日常が、ドイツ軍たちの虐殺によって一変してしまう。村の娘、セラフィマも、犯され、殺される寸前、ソ連の赤軍によって助けられる。そのとき助けた女軍人、イリーナによって、セラフィマは生きることを選択する。家族も友人も仲間も失ったセラフィマは、復讐を唯一の希望として命をつないでいく。
イリーナが教官を務める狙撃兵の訓練を経て、実践へ。
何度、頭が弾け飛んだでしょう。赤い血を飛ばして。足も手も、内臓も、肉塊となってばらばら。戦場は地獄。
描写がうまくて、もう読みたくないと感じるほど凄惨だけど、セラフィマの今後はどうしても気になる。生きて帰る保証はどこにもなく。
狙撃兵の訓練校の同期たちも、次々に死んでいく。戦地で共に戦った戦友たちも。
大河ドラマのようでもありました。ナレーションとして、当時の状況や銃を説明する文も入って。説明文が長すぎるきらいはありましが、読む者に物語への飢えを生じさせて、結果的に満足度を高めたのかもしれない。
読み終えて、参考文献の多さにも驚いた。小説に参考文献っているの?っていう感じ。史実が半分、想像が半分というところでしょうか。
ただ、明らかに、文章力によって、当時戦い抜いた女性の狙撃兵たちが、私の中には生まれた。「同志少女よ敵を撃て」の「敵」とは、ドイツ兵だけではなかったことも最後にわかります。そこに、現代に通じる普遍性を感じました。そしてそれがこの本の素晴らしさだろうとも。
戦後の彼女たちの歩みが描かれていたのもよかった。そこでも、今に通じる道はありました。「戦争は女の顔をしていない」というノーベル文学賞作品につながっていきます。
それにしても、男ってなんだろう? 生きる意味ってなんだろう?
襲った村々で、戦利品として、あるいは娯楽として、はたまた団結力を高めるために、女性に乱暴する男たち。そんなことするくらいなら死んだほうがマシだと、高らかに宣言していても、実際、どうなるかわからない。
「性欲は大したことではないんだ」というセリフが耳に残っています。もっと強い動機は、軍隊の中にある空気。みんな犯すのに自分だけ犯さないことができるのか。集団心理の問題だと指摘していたことが新しい視点として印象的でした。
本作はアガサクリスティー賞受賞作でもあります。
私は、中学生くらいだったか、アガサクリスティーにハマった時期がありました。それでも、この賞のことを知りませんでした。
「文学」と一口に言えど、切り口はさまざまにあると気づかせてもくれました。
小説で、こんなに感情を揺さぶられたのも久々かもしれない。
今のロシアの大統領が、ナチスドイツに勝利した「大祖国戦争」の記憶にすがるのも、この本を読むと見えてくる。世界一大きな国土に住む、本当は様々な人たちを熱狂させるわかりやすい物語が「大祖国戦争」での勝利なのでした。ウクライナを「ナチズムに侵された国」と決めつけ、悪であるナチズムからの解放のためと言って侵攻した。ウクライナ、またロシア兵の犠牲には目を向けず、ただ偉大な国の頭であることを味わいたいためなのではないか。「解放のための勝利」を重ねるごとに、ロシア国民の支持も高まると踏んで。昔、侵攻はしなかったけど、やっぱり偉大なアメリカを取り戻すと豪語していた大統領もいた。ああ、議事堂には侵攻したのか。やっぱり、自分の手足は使わないで。彼らは男。
「物語」は、だから怖い面も持っている。現実から目を背けさせ、状況が悪化しているにも関わらず、自らを正当化する目的として使われる場合。
優れた物語は、ある人にとっては痛いもので見たくないものでもある。
本作にとって、その人はもちろんあの人なのですが、それは読んでのお楽しみということで。
ああ、痛い。
逢坂冬馬 著/早川書房/2021
発売前から評判は耳に入っていました。
ジュンク堂池袋店の「変貌する文芸誌」という特集でも、編集者がすすめており、買うことにしました。
まさかロシアがウクライナに侵攻するとは。著者も考えてはいなかったでしょう。
この小説は、1942年、当時のソ連の片田舎から始まる。平穏な日常が、ドイツ軍たちの虐殺によって一変してしまう。村の娘、セラフィマも、犯され、殺される寸前、ソ連の赤軍によって助けられる。そのとき助けた女軍人、イリーナによって、セラフィマは生きることを選択する。家族も友人も仲間も失ったセラフィマは、復讐を唯一の希望として命をつないでいく。
イリーナが教官を務める狙撃兵の訓練を経て、実践へ。
何度、頭が弾け飛んだでしょう。赤い血を飛ばして。足も手も、内臓も、肉塊となってばらばら。戦場は地獄。
描写がうまくて、もう読みたくないと感じるほど凄惨だけど、セラフィマの今後はどうしても気になる。生きて帰る保証はどこにもなく。
狙撃兵の訓練校の同期たちも、次々に死んでいく。戦地で共に戦った戦友たちも。
大河ドラマのようでもありました。ナレーションとして、当時の状況や銃を説明する文も入って。説明文が長すぎるきらいはありましが、読む者に物語への飢えを生じさせて、結果的に満足度を高めたのかもしれない。
読み終えて、参考文献の多さにも驚いた。小説に参考文献っているの?っていう感じ。史実が半分、想像が半分というところでしょうか。
ただ、明らかに、文章力によって、当時戦い抜いた女性の狙撃兵たちが、私の中には生まれた。「同志少女よ敵を撃て」の「敵」とは、ドイツ兵だけではなかったことも最後にわかります。そこに、現代に通じる普遍性を感じました。そしてそれがこの本の素晴らしさだろうとも。
戦後の彼女たちの歩みが描かれていたのもよかった。そこでも、今に通じる道はありました。「戦争は女の顔をしていない」というノーベル文学賞作品につながっていきます。
それにしても、男ってなんだろう? 生きる意味ってなんだろう?
襲った村々で、戦利品として、あるいは娯楽として、はたまた団結力を高めるために、女性に乱暴する男たち。そんなことするくらいなら死んだほうがマシだと、高らかに宣言していても、実際、どうなるかわからない。
「性欲は大したことではないんだ」というセリフが耳に残っています。もっと強い動機は、軍隊の中にある空気。みんな犯すのに自分だけ犯さないことができるのか。集団心理の問題だと指摘していたことが新しい視点として印象的でした。
本作はアガサクリスティー賞受賞作でもあります。
私は、中学生くらいだったか、アガサクリスティーにハマった時期がありました。それでも、この賞のことを知りませんでした。
「文学」と一口に言えど、切り口はさまざまにあると気づかせてもくれました。
小説で、こんなに感情を揺さぶられたのも久々かもしれない。
今のロシアの大統領が、ナチスドイツに勝利した「大祖国戦争」の記憶にすがるのも、この本を読むと見えてくる。世界一大きな国土に住む、本当は様々な人たちを熱狂させるわかりやすい物語が「大祖国戦争」での勝利なのでした。ウクライナを「ナチズムに侵された国」と決めつけ、悪であるナチズムからの解放のためと言って侵攻した。ウクライナ、またロシア兵の犠牲には目を向けず、ただ偉大な国の頭であることを味わいたいためなのではないか。「解放のための勝利」を重ねるごとに、ロシア国民の支持も高まると踏んで。昔、侵攻はしなかったけど、やっぱり偉大なアメリカを取り戻すと豪語していた大統領もいた。ああ、議事堂には侵攻したのか。やっぱり、自分の手足は使わないで。彼らは男。
「物語」は、だから怖い面も持っている。現実から目を背けさせ、状況が悪化しているにも関わらず、自らを正当化する目的として使われる場合。
優れた物語は、ある人にとっては痛いもので見たくないものでもある。
本作にとって、その人はもちろんあの人なのですが、それは読んでのお楽しみということで。
ああ、痛い。
逢坂冬馬 著/早川書房/2021
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