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翁同ワ
そして同じ満州白旗人である栄禄を直隷総督に任命するように光緒帝に圧力をかける。
栄禄は西太后の幼馴染で親戚でもあり非常に仲が良かった。
そういうわけで西太后は彼を利用したのであった。
栄禄
9月
そんな中 奏上文を相変わらず 途中で揉み消していた二人の清人官僚が
光緒帝により解任されてしまった。
彼ら解任された清人官僚は同じ清人である西太后に泣きついて
「光緒帝は同じ満州人を捨てて漢人ばかりを贔屓し 漢人の国を作ろうとしているのです。」と
泣きながら西太后に訴えた。
西太后は直隷総督に任命していた栄禄を動かした。
彼は北京と天津に軍を展開させて動向を見守らせた。
9月14日
光緒帝はこれらの動きを見て不安になり 軍機四卿の一人の楊鋭に対策を講じるように
命令を下した。
9月17日
軍機四卿の一人である林旭に密書を持たせて康有為に事態の収拾を図るように
銘じた。
翌日 軍機四卿と康有為らは光緒帝の密書を読んで泣いた。
彼らはまだ就任して数ヶ月しかたっておらず、また維新に忙しく軍を掌握できていなかった。
しかも北洋軍は栄禄の手の内にあった。
そこで軍機四卿の譚嗣同は仲間と思っていた袁世凱に援軍を頼みに出かけた。
二日前に袁世凱は光緒帝から侍朗の位を授かったばかりであった。
故に袁世凱は譚嗣同を快く出迎えた。
譚嗣同はまず袁世凱に光緒帝をどう思うか?尋ねた。
袁世凱は地位も授けられていたので「光緒帝は立派なお方であり 類まれな聖君主だと。」
と答えた。
そこで譚嗣同は栄録が軍を北京に連れて君主を脅かそうとしている事を説明して援軍を頼み込んだ。
譚嗣同は袁世凱が裏切らないか?心配だったので尋ねると 袁世凱は笑った。
これまで君主のために命を賭けて戦ってきた。どうして裏切る事があろうか?それに君と僕との仲では
ないか?」と言い 天に手を挙げてその意を表明した。
譚嗣同はそれを見て援軍を頼み込むと 袁世凱は「考えておく。」と言った。
譚嗣同は袁世凱を利用して逆に西太后以下を拉致する計画でいたのでそれを袁世凱に話し 袁世凱を取り込んだことに満足し帰路についた。
しかしこれを影で見ていたものが居た。
満州八旗軍の軍人である。彼らは日清戦争で漢人と共に命を賭けて戦っていた。
しかし 戦争が終わると軍功を得るどころか その特権さえも奪われてしまっていた。
康有為の大きなミスであった。
若しこれらの事が日清戦争以前のことであるならば何も問題は生じていはいなかった。
しかし 彼らは日清戦争で日本軍と血みどろの戦いを展開していたのであった。
だが 功績を焦る康有為は彼らの特権を取り上げてしまっていたのだった。
故にこの処置に激怒していた。
話し合いで解決する物も急激な維新の中で実施されないでいた。
ここに大きな誤解と軋轢が生まれていたのであった。
日頃からこの維新派を恨んでいた軍機四卿の譚嗣同の後を彼らは尾行していたのだった。
彼らは袁世凱の家に入ると彼を問い詰めた。
彼らは自らの不満をぶちまけると共に袁世凱に譚嗣同とのやり取りを暴露させた。
袁世凱も満州八旗が日本軍に敗れたとは言え 勇敢に戦う場面は何回も目にしていた。
故に彼らの問を無視する事は出来ずについに譚嗣同とのやり取りを暴露した。
彼らは栄禄の元に袁世凱を連れて行き 事の成り行きを説明させた。
栄禄はすぐに北京の西太后の下へと行き事の成り行きを説明した。
彼らは光緒帝が清を裏切り 漢人の国を再興させていると西太后に泣きついた。
そして譚嗣同の企みも暴露した。それを聞くと西太后は怒った。 西太后は彼らに同意し光緒帝を捕まえる算段をした。
9月21日
西太后は共の者を連れて 光緒帝の元へと訪れた。
光緒帝は膝をついて 礼儀正しく西太后を向かえた。
しかし 西太后は彼を「裏切り者め。」と言うと清人の官僚の解雇や満州八旗の特権の停止
漢人の採用に関して光緒帝を責め立てて 彼を罵倒した。
そして連れてきた共の者や満州八旗の軍人に西太后暗殺計画の
首謀者及び容疑者として光緒帝を捕らえさせた。
9月21日 清の西太后、政権を奪取。
9月23日 西太后は光緒帝を軟禁した。いわゆる戊戌の変である。
彼は中南海の孤島のえい台に軟禁されてしまった。
///////俺の屍を乗り越えてゆけ。//////////////////////////////////
さてこれらの出来事は瞬く間に日本と康有為の耳には入ってしまった。
日本の人間は李氏朝鮮での金玉均や朴泳孝のことを思い出し康有為ら
改革派の保護に乗り出した。
閔妃でさえあのような蛮行に及んだのだ。康有為は西太后に殺されるのはわかりきった事であった。
故に日本の動きは非常に素早かった。
粱啓超もすぐさま日本大使館に身を寄せた。
ちなみに康有為を日本に亡命させたのは宮崎滔天であった。粱啓超も平山周や山田良政によって北京から助け出されていた。
東亜同文会
http://kazankai.searchina.ne.jp/info/info01-1.html
康有為はまず香港へと逃げ そこから日本へと亡命した。
その時の外相である大隈重信は清の戊戌の変で追われた康有為を保護するよう日本の香港領事に命令をした。
彼の首には多額の懸賞金がかかっていたが 何とか逃げ出せた。
粱啓超は天津から直接 日本へ亡命した。
途中で清の水兵に囚われるが、偶然居合わせた日本の軍艦 大島の海兵隊が彼らを救った。
また伊藤博文は 清を訪れて黄遵憲を救うように日本の代理公使の林に命令し 変法派をすくった。
伊藤博文は光緒帝に面会し 彼の維新を支援しただけに政府機関を挙げて彼らを支援した。
またこの動きにイギリスも親日家のタイムズ記者のモリスンをはじめ同調してくれた。
この維新では数多くの日本人が彼らをサポートしていた。
イギリスもこの維新を日本の明治維新と重ね合わせてサポートしてくれていた。
さて譚嗣同は光緒帝を救おうと尽力した。
しかし光緒帝が軟禁された今 彼らの命令を聞くものはいなかった。
既に西太后は新政を廃止させて 旧体制を復活させていた。
近衛軍はさっそく 西太后の命令で康有為の北京の住居の南海会館を包囲させたが
既にもぬけの殻で逃げ遅れた弟が逮捕された。
大刀会も光緒帝を救おうとしたが 警護が堅くそれを実行できなかった。
また 日清戦争で共に戦った人々は満州八旗軍の怒りもわかっていたので
李燕や黄空悟等と同様、動く気にはなれなかった。
譚嗣同は光緒帝を見捨てる気にはなれなかった。
なんとか救出を試みたが 全て失敗してしまい、どうする事も出来ずにいた。
そして遂に彼は事が全て失敗に終わった事を悟った。
彼は日本大使館に行くと粱啓超に遺書と家族への手紙 そして自分の書いた詩を手渡した。
粱啓超が再三にわたり 共に日本へと亡命しようと言ったのだが それを断った。
譚嗣同は未来のために生き延びるべき人間が必要な事を認めつつ 光緒帝のために
殉死する人間が必要な事を彼らに伝えた。
粱啓超
そして自分の自宅へと帰っていった。 そこに大刀会で彼の親友である王五が尋ねてきた。
彼は武術の達人である彼は危険も省みずに譚嗣同の住まいに来て彼と共に日本へと逃亡するように勧めた。
(大刀会の王五とは?伝説の達人 王五。)
伝説の達人 王五。
しかし 譚嗣同はその申し出を断った。
そして彼にこれは記念の贈り物だと言って彼が身につけていた宝剣を手渡した。
王五らは彼が光緒帝と共に死ぬ気であり決意が固いのを知った。
彼らは救出を諦め、そして彼らは涙ながらに別れた。
その後 日本大使館がいよいよ 彼に命の危険が迫っていると知り
日本大使館に逃げ込むように通知した。
しかし>譚嗣同は「変法に流血は必要だ。我が屍を踏み越えて 改革精神はいよいよ固まり 燃え上がる。
我が屍を乗り越えよ、我は変法の捨石になろう。」
と言うと日本大使館の最後の誘いを断った。
それを聞いていた回りの人々は彼の忠義心に感動して思わず泣いた。
彼らは初めから光緒帝のために殉死するつもりでいたのであった。
「俺の屍を越えてゆけ、」これは譚嗣同と粱啓超らに向けた遺言であり
彼の死を糧に中国を救ってくれというメッセージでもあった。
孫文らもこの出来事を聞くと泣いて 再度 革命に命を賭ける事を天に誓うのであった。
そして遂に西太后の命令により譚嗣同、楊鋭、劉光第、林旭の軍機四卿と康広仁(康有為の弟)と楊深秀は捉えられた。
「戊戌六君子」
康広仁(康有為の弟)
楊深秀
軍機四卿
劉光第
譚嗣同
処刑場では人々が見守る中 処刑が行われようとしていた。
人々はすすり泣いた。その中には彼の愛する恋人もいた。
彼らは清の国を光緒帝と共に救おうとし 最期は潔く 光緒帝と死のうとしていた。
最後に譚嗣同は天を仰ぎ「逆賊を殺す気持ちはあるが 力なく潰えて天に帰る。死に場所を得て痛快である。」と
叫ぶと処刑されて死んでしまった。
譚嗣同は琴を愛していたが、琴の名人文天祥が処刑された菜市口で同じように死んでいった。
人々は琴の名人文天祥と譚嗣同の悲劇を重ね合わせ その悲劇を見る悲しみに心を奪われ涙した。
人々のすすり泣く声が処刑場でこだました。
満州八旗も元々は彼らから特権を奪った康有為を殺したいだけなのに 無関係な光緒帝に事が及び
更に譚嗣同を処刑するのは成り行きとは言え 冷静になってみるとあまり気が進まないでいたのだが 西太后の命令なので仕方なかった。
武術の達人王五らも助けようとしたがあまりにも警護が堅すぎた。
それに当の譚嗣同は元から死を覚悟していた故に助けても無駄だとはわかっていた。
後に彼ら6人はそのすさまじい忠義心故に人々に「戊戌の六君子」といい伝えられるようになるのであった。
それを見聞きしたた白蓮教の仲間達は怒り 決起を誓い 西太后を叩く事を決意していくのであった。
当時の処刑の風景。
そして康有為らは日本へと涙ながらに亡命するのであった。
その後 西太后は国力を復活させるためにこの改革案のいい所だけを取り 言葉だけを入れ替えて 実行することになるのである。
/////////////////////光緒帝の涙////////////////////////////////////////
光緒帝は皇帝でありながら 改革をまっとうできない事に涙した。
そして自分のために死んだ六君子を思い 孤島で涙した。
これから先 彼は紫禁城へと帰るが もうそこでは監視つきの生活で
以前のような権限は奪われてしまうのだった。
そして心の底で西太后の醜さを呪った。
孤島ではわずか3月の維新だったが、清国 中国を思って死んでいった六君子の熱い国を思う情熱を
思い出しながら 闇夜に光る月を一人哀しく見るのであった。