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百日維新:俺の屍を乗り越えてゆけ:光緒帝の涙 祖の三

2012-07-30 21:19:21 | 日記











翁同ワ

そして同じ満州白旗人である栄禄を直隷総督に任命するように光緒帝に圧力をかける。

栄禄は西太后の幼馴染で親戚でもあり非常に仲が良かった。

そういうわけで西太后は彼を利用したのであった。



栄禄

9月

そんな中 奏上文を相変わらず 途中で揉み消していた二人の清人官僚が

光緒帝により解任されてしまった。

彼ら解任された清人官僚は同じ清人である西太后に泣きついて

「光緒帝は同じ満州人を捨てて漢人ばかりを贔屓し 漢人の国を作ろうとしているのです。」と

泣きながら西太后に訴えた。

西太后は直隷総督に任命していた栄禄を動かした。

彼は北京と天津に軍を展開させて動向を見守らせた。

9月14日

光緒帝はこれらの動きを見て不安になり 軍機四卿の一人の楊鋭に対策を講じるように

命令を下した。

9月17日

軍機四卿の一人である林旭に密書を持たせて康有為に事態の収拾を図るように

銘じた。

翌日 軍機四卿と康有為らは光緒帝の密書を読んで泣いた。

彼らはまだ就任して数ヶ月しかたっておらず、また維新に忙しく軍を掌握できていなかった。

しかも北洋軍は栄禄の手の内にあった。

そこで軍機四卿の譚嗣同は仲間と思っていた袁世凱に援軍を頼みに出かけた。

二日前に袁世凱は光緒帝から侍朗の位を授かったばかりであった。

故に袁世凱は譚嗣同を快く出迎えた。

譚嗣同はまず袁世凱に光緒帝をどう思うか?尋ねた。

袁世凱は地位も授けられていたので「光緒帝は立派なお方であり 類まれな聖君主だと。」

と答えた。

そこで譚嗣同は栄録が軍を北京に連れて君主を脅かそうとしている事を説明して援軍を頼み込んだ。

譚嗣同は袁世凱が裏切らないか?心配だったので尋ねると 袁世凱は笑った。

これまで君主のために命を賭けて戦ってきた。どうして裏切る事があろうか?それに君と僕との仲では

ないか?」と言い 天に手を挙げてその意を表明した。

譚嗣同はそれを見て援軍を頼み込むと 袁世凱は「考えておく。」と言った。

譚嗣同は袁世凱を利用して逆に西太后以下を拉致する計画でいたのでそれを袁世凱に話し 袁世凱を取り込んだことに満足し帰路についた。

しかしこれを影で見ていたものが居た。

満州八旗軍の軍人である。彼らは日清戦争で漢人と共に命を賭けて戦っていた。

しかし 戦争が終わると軍功を得るどころか その特権さえも奪われてしまっていた。

康有為の大きなミスであった。

若しこれらの事が日清戦争以前のことであるならば何も問題は生じていはいなかった。

しかし 彼らは日清戦争で日本軍と血みどろの戦いを展開していたのであった。

だが 功績を焦る康有為は彼らの特権を取り上げてしまっていたのだった。

故にこの処置に激怒していた。

話し合いで解決する物も急激な維新の中で実施されないでいた。

ここに大きな誤解と軋轢が生まれていたのであった。

日頃からこの維新派を恨んでいた軍機四卿の譚嗣同の後を彼らは尾行していたのだった。

彼らは袁世凱の家に入ると彼を問い詰めた。

彼らは自らの不満をぶちまけると共に袁世凱に譚嗣同とのやり取りを暴露させた。

袁世凱も満州八旗が日本軍に敗れたとは言え 勇敢に戦う場面は何回も目にしていた。

故に彼らの問を無視する事は出来ずについに譚嗣同とのやり取りを暴露した。

彼らは栄禄の元に袁世凱を連れて行き 事の成り行きを説明させた。

栄禄はすぐに北京の西太后の下へと行き事の成り行きを説明した。

彼らは光緒帝が清を裏切り 漢人の国を再興させていると西太后に泣きついた。

そして譚嗣同の企みも暴露した。それを聞くと西太后は怒った。 西太后は彼らに同意し光緒帝を捕まえる算段をした。

9月21日

西太后は共の者を連れて 光緒帝の元へと訪れた。

光緒帝は膝をついて 礼儀正しく西太后を向かえた。

しかし 西太后は彼を「裏切り者め。」と言うと清人の官僚の解雇や満州八旗の特権の停止

漢人の採用に関して光緒帝を責め立てて 彼を罵倒した。

そして連れてきた共の者や満州八旗の軍人に西太后暗殺計画の

首謀者及び容疑者として光緒帝を捕らえさせた。

 

9月21日 清の西太后、政権を奪取。

9月23日 西太后は光緒帝を軟禁した。いわゆる戊戌の変である。

彼は中南海の孤島のえい台に軟禁されてしまった。

///////俺の屍を乗り越えてゆけ。//////////////////////////////////

さてこれらの出来事は瞬く間に日本と康有為の耳には入ってしまった。

日本の人間は李氏朝鮮での金玉均や朴泳孝のことを思い出し康有為ら

改革派の保護に乗り出した。

閔妃でさえあのような蛮行に及んだのだ。康有為は西太后に殺されるのはわかりきった事であった。

故に日本の動きは非常に素早かった。

粱啓超もすぐさま日本大使館に身を寄せた。

ちなみに康有為を日本に亡命させたのは宮崎滔天であった。粱啓超も平山周や山田良政によって北京から助け出されていた。

東亜同文会

http://kazankai.searchina.ne.jp/info/info01-1.html

康有為はまず香港へと逃げ そこから日本へと亡命した。

その時の外相である大隈重信は清の戊戌の変で追われた康有為を保護するよう日本の香港領事に命令をした。

彼の首には多額の懸賞金がかかっていたが 何とか逃げ出せた。

粱啓超は天津から直接 日本へ亡命した。

途中で清の水兵に囚われるが、偶然居合わせた日本の軍艦 大島の海兵隊が彼らを救った。

また伊藤博文は 清を訪れて黄遵憲を救うように日本の代理公使の林に命令し 変法派をすくった。

伊藤博文は光緒帝に面会し 彼の維新を支援しただけに政府機関を挙げて彼らを支援した。

またこの動きにイギリスも親日家のタイムズ記者のモリスンをはじめ同調してくれた。

この維新では数多くの日本人が彼らをサポートしていた。

イギリスもこの維新を日本の明治維新と重ね合わせてサポートしてくれていた。

さて譚嗣同は光緒帝を救おうと尽力した。

しかし光緒帝が軟禁された今 彼らの命令を聞くものはいなかった。

既に西太后は新政を廃止させて 旧体制を復活させていた。

近衛軍はさっそく 西太后の命令で康有為の北京の住居の南海会館を包囲させたが

既にもぬけの殻で逃げ遅れた弟が逮捕された。

大刀会も光緒帝を救おうとしたが 警護が堅くそれを実行できなかった。

また 日清戦争で共に戦った人々は満州八旗軍の怒りもわかっていたので

李燕や黄空悟等と同様、動く気にはなれなかった。

譚嗣同は光緒帝を見捨てる気にはなれなかった。

なんとか救出を試みたが 全て失敗してしまい、どうする事も出来ずにいた。

そして遂に彼は事が全て失敗に終わった事を悟った。

彼は日本大使館に行くと粱啓超に遺書と家族への手紙 そして自分の書いた詩を手渡した。

粱啓超が再三にわたり 共に日本へと亡命しようと言ったのだが それを断った。


譚嗣同は未来のために生き延びるべき人間が必要な事を認めつつ 光緒帝のために

殉死する人間が必要な事を彼らに伝えた。



粱啓超

そして自分の自宅へと帰っていった。 そこに大刀会で彼の親友である王五が尋ねてきた。

彼は武術の達人である彼は危険も省みずに譚嗣同の住まいに来て彼と共に日本へと逃亡するように勧めた。



(大刀会の王五とは?伝説の達人 王五。)

伝説の達人 王五。

しかし 譚嗣同はその申し出を断った。

そして彼にこれは記念の贈り物だと言って彼が身につけていた宝剣を手渡した。

王五らは彼が光緒帝と共に死ぬ気であり決意が固いのを知った。

彼らは救出を諦め、そして彼らは涙ながらに別れた。

その後 日本大使館がいよいよ 彼に命の危険が迫っていると知り

日本大使館に逃げ込むように通知した。

しかし>譚嗣同は「変法に流血は必要だ。我が屍を踏み越えて 改革精神はいよいよ固まり 燃え上がる。

我が屍を乗り越えよ、我は変法の捨石になろう。」

と言うと日本大使館の最後の誘いを断った。

それを聞いていた回りの人々は彼の忠義心に感動して思わず泣いた。

彼らは初めから光緒帝のために殉死するつもりでいたのであった。

「俺の屍を越えてゆけ、」これは譚嗣同と粱啓超らに向けた遺言であり

彼の死を糧に中国を救ってくれというメッセージでもあった。

孫文らもこの出来事を聞くと泣いて 再度 革命に命を賭ける事を天に誓うのであった。

そして遂に西太后の命令により譚嗣同、楊鋭、劉光第、林旭の軍機四卿と康広仁(康有為の弟)と楊深秀は捉えられた。

「戊戌六君子」


康広仁(康有為の弟)



楊深秀

軍機四卿


劉光第





譚嗣同

処刑場では人々が見守る中 処刑が行われようとしていた。

人々はすすり泣いた。その中には彼の愛する恋人もいた。

彼らは清の国を光緒帝と共に救おうとし 最期は潔く 光緒帝と死のうとしていた。

最後に譚嗣同は天を仰ぎ「逆賊を殺す気持ちはあるが 力なく潰えて天に帰る。死に場所を得て痛快である。」と

叫ぶと処刑されて死んでしまった。

譚嗣同は琴を愛していたが、琴の名人文天祥が処刑された菜市口で同じように死んでいった。

人々は琴の名人文天祥と譚嗣同の悲劇を重ね合わせ その悲劇を見る悲しみに心を奪われ涙した。

人々のすすり泣く声が処刑場でこだました。

満州八旗も元々は彼らから特権を奪った康有為を殺したいだけなのに 無関係な光緒帝に事が及び

更に譚嗣同を処刑するのは成り行きとは言え 冷静になってみるとあまり気が進まないでいたのだが 西太后の命令なので仕方なかった。

武術の達人王五らも助けようとしたがあまりにも警護が堅すぎた。

それに当の譚嗣同は元から死を覚悟していた故に助けても無駄だとはわかっていた。

後に彼ら6人はそのすさまじい忠義心故に人々に「戊戌の六君子」といい伝えられるようになるのであった。

それを見聞きしたた白蓮教の仲間達は怒り 決起を誓い 西太后を叩く事を決意していくのであった。





当時の処刑の風景。

そして康有為らは日本へと涙ながらに亡命するのであった。

その後 西太后は国力を復活させるためにこの改革案のいい所だけを取り 言葉だけを入れ替えて 実行することになるのである。

/////////////////////光緒帝の涙////////////////////////////////////////

光緒帝は皇帝でありながら 改革をまっとうできない事に涙した。

そして自分のために死んだ六君子を思い 孤島で涙した。

これから先 彼は紫禁城へと帰るが もうそこでは監視つきの生活で

以前のような権限は奪われてしまうのだった。

そして心の底で西太后の醜さを呪った。

孤島ではわずか3月の維新だったが、清国 中国を思って死んでいった六君子の熱い国を思う情熱を

思い出しながら 闇夜に光る月を一人哀しく見るのであった。

百日維新:俺の屍を乗り越えてゆけ:光緒帝の涙 祖の二

2012-07-30 21:16:58 | 日記







/////////百日維新////////////////////////////////////////////////

1898年6月11日 光緒帝は軍務会議を開いた。

その中で清の光緒帝は「変法自強」を宣言する。

そして 正式に西洋文明を学び取り 新政を行う事を宣言した。

これを日本の諜報機関は聞き及んだので 長谷等を通じて

康有為に言い伝えた。

日本としては西太后だけを排除したかった。

日清戦争で戦友を惨殺された事が恨みとして存在していたからである。

日本側は戦闘以外では捕虜などは皇后など日本赤十字社が手厚く保護していたので

西太后のように手足を切り達磨にしていたぶるような非道な事はなかった。

長谷「君抜きで維新が進もうとしているぞ。」

康有為「、、、。」

宮崎滔天「君ら 漢人なしでの維新はありえない。 もう光緒帝は君とは面識があるのだから 直接訴えてみてはどうあろうか?」

李燕「その通りだ。俺は武術だけに力を注いでいたが やはり君のような学のある人間が この国を変えていくことが必要だ。俺は君等に協力する。」

これを聞いた康有為は居ても立っても居られずに 16日 早朝に イ和園の勤政殿にやってきて 光緒帝に面会を求めた。

屋根づたいに李燕などが康有為の後をつけて 彼を見守った。

本来なら4品(官位)以下とは面会してはいけないのだが 時期が時期だけに面会した。

康有為は叩頭すると膝をついて 「中国は今危機に陥っています。 清人 漢人を超えて中国を守っていくべきです。」

光緒帝「確かに 君の言うとおりだ。あの忌々しい保守派の人間を排除せねばならない。 例え 同じ清人だとしてもだ。国が滅ぶよりも漢人を採用する道を取るべきだ。」

康有為はここでも維新の必要性を説いた。

そして維新をすぐに実行するように懇願した。

光緒帝はそれに同意した。

そして光緒帝は康有為をいきなり総理衙門章京上行走に任命した。

粱啓超を大学堂の事務に当たらせ
譚嗣同、楊鋭、劉光第、林旭を軍機四卿に任命した。

譚嗣同


ここに百日維新と呼ばれる維新が動き出す。

そして北京で日本人と李燕と黄空悟などは康有為の出世を祝った。

だが 当人の康有為らはそれを祝う暇もなく 次から次へと改革を実行した。

まず 不要な機構の廃止を実施した。

次に制度局の設立を実施し 奏上分を直接皇帝へ送ることを提唱し 満州八旗の特権を廃止した。

また工商局を設置して実業を推進させた


1898年上海の小麦粉工場


1900年の上海の紡績工場

そして鉄路鉱務総山局や郵政局なども設立した。


1909年完成の京張鉄道


1910年完成の広州~九竜鉄道

また財政の改革に着手し 収支報告を公表させた。

予算 決算書の編成にも手をかけた。


軍 方面にかけてはヨーロッパ方式の陸海軍の訓練を実施させて 軍需工場を設立させた。

教育部門においては西洋文明を積極的に取り入れさせて 書院から学校への改革に着手した。

また北京に京師大学堂を設置し 各地に小中高を設置させ 留学生を派遣させ 訳書院を設立し 新聞を奨励し 各分野における学会設立を許可するようにした。

また科学技術発明を奨励した。


京師大学堂

だが これを快く思わない人間がいた。

それらは保守派官僚の栄禄や清人であった。

彼らは改革の詔が出されると 西太后などに嘆願してこれらの 改革を潰すように頼み込んだ。

これに呼応して 改革の詔の4日後に 光緒帝の師匠的な存在でもあった翁同ワ が西太后により解任され 彼の地元へと帰郷してしまった。

百日維新:俺の屍を乗り越えてゆけ:光緒帝の涙 祖の一

2012-07-30 21:10:10 | 日記








百日維新:俺の屍を乗り越えてゆけ:光緒帝の涙
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さて ドイツは三国干渉で フランスとロシアと共に日本へ圧力をかけて
遼東半島の分割を放棄させた。

そんな三国は実は東アジアにおける拠点を探していた。

1895年の三国干渉は清朝に恩を着せて フランス ドイツ ロシアが中国に利権を求める事が 出来る口実となった。

まずフランスが
1895年 インドシナ鉄道敷設権を得た。
1897年 海南島不割譲宣言
1998年 広東・広西・雲南三省不割譲宣言。

ロシアは
1896年東清鉄道敷設権・露清銀行・東清鉄道会社設立権を獲得する。

ドイツでは
1897年 山東省曹州府で大刀会の人間にドイツ人宣教師二名が殺される。
これらの殺害事件はドイツに格好の口実を与え ドイツはさっそく ドイツの艦隊を膠州湾に派遣し そこで租借条約が調印される。
そして青島等が占領される。

これを見たロシアは旅順・大連を租借した。これには日本国民はかなり激怒した。
この暴挙にさすがの親露派の李鴻章も日本とイギリスに支援を要請するが イギリスが南阿戦争を控えていたので これを拒否し 日本もこれに習った。
そして日本はイギリスに威海衛を譲り・九竜半島を租借した。
フランスの広州湾と続いて調印される。

このドイツの青島占領は清に大きな衝撃を与えた。
ドイツは「99」年まで租借の契約をしていた。
しかしそれは「久久」と引っ掛けた物であり 永遠を意味するものでもあった。


光緒帝


康有為

この事件に衝撃を受けた康有為はまたもや 上京して上奏をした。

しかし保守は官僚によりまた上書は捨てられていた。

光緒帝はこの清国の列強による分割の危機を立て直そうとしていた。

しかし既にこの時に給事中の高燮曽は康有為の上奏を読んでいて感心していたので

彼を重く用いて清の改革を薦めることを提案する。

光緒帝は日清戦争の敗北 そして列強による分割に不満を抱いていたので

この提案にのる。

だが 実績もなく 地位が低い康有為を召し出すことが出来なかった。

そこで光緒帝は李鴻章、翁同ワ 栄禄 廖寿恒などの大臣を集めて 康有為と彼自身の目の前で討論させてみた。

まず 永禄「祖先の法は変える事が出来ない。」と切り出した。

康有為「祖先の法は死ぬまでしがみつく事は出来ないでしょう。

またこの総理衙門も祖先の法で定められている物ではない。」と言った。

栄禄は言い返すことが出来なくなった。

そこで廖寿恒が「改革はどこから着手すべきか?」と聞いてきた。

康有為「まずは法律と官制からです。」と答えた。

そこで李鴻章が「あなたの話を聞くと 内閣 六部はすべて廃止で 典章制度も必要ないと言う事なのですね?」
と切り返してきた。

康有為「今は列強が争う時代であり かつてのような統一繁栄の時代ではありません。 古い法律と官制は我が国を貧弱に陥れるだけで すべて排除しなければなりません。
もちろん 一度に排除する事は出来ませんが 状況を見て 改革していく必要があります。」

李鴻章は之を聞くと心の中で微笑んだ。彼はこれらの新しい若い中国人が新しい中国をつくり 希望に輝く中国を建設してくれる事を望んでいたのだった。

康有為は彼ら大臣の主張を悉く論破してしまった。

光緒帝は大臣を論破していく康有為に諸葛孔明の姿を見たのであろう。

彼はこれらの光景を見て喜んだ。

李鴻章などは既に洋務派だったが 更に強い改革を光緒帝は望んでいた。

国が衰弱していては 高い地位も惨めな物に過ぎないからである。

そもそもそれらの法律は皇帝の威厳を保持するためのものであり 彼らそれらを捨てて 国を強くする事を望んだ。

だが この論戦で敗れた栄禄らは康有為を苦々しく思っていた。

康有為は4月に北京で保国会を設立した。

彼は居並ぶ群集の前で 現在 中国が歴代数千年の歴史の中で未曾有の危機にある事を 説いて 中国が各国にいいように侵略され 人民が皆苦しんでいる現実を説いた。

このままでは国が滅びてしまう。

一人一人が手を取り立ち上がろうと説いた。

居並ぶ人々はその話を聞いて 現実を見つめなおし涙した。

李燕や黄空悟もそれを聞いて感動し涙した。

光緒帝はこれまでの経緯を考えて康有為を重く用いる事にした。

しかし 実はそれほど清王朝はせっぱつまっていたのだった。

もし この改革をしなければ 今後 中国に大きな災いが来るだろう事を予測していた。

この光緒帝の考えは正しかったが ここにはフランスのマリーアントワネットのような お腹がすいたらケーキを食べれば良いわ!の考えの御気楽な持ち主ではなくを 漢人を人とも思わないる西太后がいたののが大きな誤算であった。

一方で保身を考える栄禄はなんとかして康有為を落し入れようとしていた。

彼らと西太后はこの後 彼ら維新派を殺す事になる。しかも彼ら維新を殺した数年後 維新派の政策を文字を入れ替えてそのまま盗み実行するというあくどい事をする。

これらは丁度 金玉均と閔妃や高宗と同じである。

まあ これは一旦置いて多く。

さて他の洋務派の大臣等もこの康有為に警戒心を満ち始めた。

張之洞でさえも中国の思想が主であり西洋の科学を道具として使う事を主張し 勧学編を書いて康有為を牽制した。

だが 栄禄のように彼を殺そうとまでは考えてはいなかった。

日本は元々 西太后を苦々しく思っていたので 康有為を影で支援していた。

そもそも日本兵は西太后に達磨にされ いたぶり殺されたとの情報が 入っていたので 民主的な政治を中国に求めていた故に康有為を バックアップしていた。

しかしながら この中国の民主化運動、近代化運動に腹を立てた栄禄ら 保守派は 康有為を「地方のごろつき」「田舎者」「民主教皇」などと呼び悪口を言った。

彼らは 討論会で負けたのと自分の地位が奪われる事を恐れていた。

彼らは未だに財力と地位を確保していたので 清が危機的な上京にあることを そして康有為が言うように今こそ 中国国民が力を合わせるべきであることを 余り理解していなかったのだ。

だが 他の数多くの中国人は力をあわせなければならない事を理解していた。

故に保国会は次から次へと派生の会を生み拡大していった。

その元は西洋文明である。

しかしながら その一方で 現代の文明を否定する物も多かった。

それが義和団である。義和団は電柱や線路や駅などを破壊し 西洋文明を全否定していた。

ためにせっかく作った汽車や電信がうまく活用できずに 人々は多大なる迷惑を被っていた。

これらのしこりはこの後も継続される事になるのである。

そんな中で日本も今は亡き川上らが養成した諜報隊員らを含めた日本陸海軍の将校が暗躍をしていた。

その中にはまじめにアジアの解放を考えている者が多く存在したのであった。

1987年 孫文は反乱をおこして 香港を通して日本へと亡命していた。

宮崎滔天らは 孫文を保護すると共に彼らに日本の武器商人を通して 彼らに武器を提供していた。

またその後彼らはフィリピンなどの独立派などとも連携していく。

つまり結局孫文と宮崎滔天らはアジア各地で独立運動を展開していたのであった。

呂雉 - http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89

2012-07-30 21:07:52 | 日記





呂雉 - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89



呂雉

呂 雉(りょ ち、? - 紀元前180年)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥(女偏+句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。

生涯

皇后となるまで

単父(現山東省単県)の有力者・呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何に「進物一万銭」とはったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけた。この時は劉太公の農業を助け、懸命に子供たちを育てていた。ちなみに妹の呂須は樊に嫁いだ。この時、人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、また秦の始皇帝が「東南のほうに天子の気がある」と言い、始皇帝が巡幸した際に身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。これらが噂となり、劉邦に仕える者が多かったという。

秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県で舅の劉太公や子供達とともに夫の留守を守っていたようである。

しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ人質になってしまう(恵帝と魯元公主は劉邦と合流、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が子を捨てる騒動が起こっている)。

これ以降の楚漢戦争は、劉邦の配下である韓信らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、そして太公と呂雉の身柄の解放が焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。しかし紀元前203年に入ると、韓信等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許された。

翌紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かり、韓信が反乱を企てたことを知り蕭何と計り処刑する一方、自分の実家の呂氏一族、及び張良らの重臣の助けを借りて、皇太子となった劉盈の地位の安定に力を尽くした。

呂太后の専横

劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主の娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害した。この時、呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後便所に置いて人(人豚)と呼ばせた、と史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる)。

これに強いショックを受けた恵帝が政務を放棄し、酒に溺れ間もなく死去する。死去後の葬儀で激しく嘆くも涙が出ていないことを張良の息子張辟彊から聞きつけた陳平は、呂后に実家の呂氏一族を重役に立てることを進言、呂后はその遺児・少帝恭を立て、呂氏一族や陳平、周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図る。しかしこの頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝恭を殺害して少帝弘を立てる等の行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買うようになる。また、元勲たちも自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。呂后自身このことには気が付いていたようで、日食が起きた時には周囲の者に「私のせいだ」と言っていたといい、死ぬ数ヶ月前には青い犬に脇の下を引っ張られる幻を見たため占い師に占わせ少帝恭の祟りだと告げられた。更には脇の病気にかかり、甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるようにさんざん言い聞かせ、更に呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去した。

死後

しかし間もなく、陳平や周勃らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした上で、恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。これが文帝である。文帝擁立の前後には少帝弘も、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、恵帝の子とされていた常山王劉朝(侯)、淮陽王劉武(壷関侯)らと共に暗殺された。また、呂后の妹の呂須は鞭打ちの刑で殺害され、呂須の息子の樊伉も殺害された。呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、魯元公主が生んだ張敖の子供である張皇后と張偃兄弟のみであった(公主は母の呂后に先だって死去)。

評価

呂后の時代は、皇族や元勲たちが殺害されるなど、宮廷では何かと血腥い事件の続いた時代であり、呂氏一族も呂后の死後誅殺されることになる。ただし、宮中の生臭さとは裏腹に、呂后の治世に関しては「天下は安泰で、刑罰を用いる事は稀で罪人も少なく、民は農事に精励し、衣食は益々豊かになった」と司馬遷に絶賛されている。また、司馬遷は史記において時の支配者として始皇帝・項羽・劉邦らと同じく呂太后本紀として立てられて、『漢書』でも同じく高后紀として本紀としている。

なお、新末後漢初の動乱の際、赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚したという[1]。光武帝は呂雉から皇后の地位と高皇后の諡号を剥奪し、文帝の生母である薄氏を劉邦の正妻として高皇后の諡号を贈った。

郭沫若や佐竹靖彦など中国や日本の歴史家の見解によると、呂雉は秦で繁栄した呂不韋の一族である可能性があるという見解が一部であるが、史記や漢書には記述が無いため真相は不明。

脚注



^ 『後漢書』劉盆子伝。

ゲジ - http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B8

2012-07-30 10:19:38 | 日記




ゲジ - Wikipedia
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ゲジ

ゲジ科

分類

界 : 動物界 Animalia
門 : 節足動物門 Arthropoda
亜門 : 多足亜門 Myriapoda
上綱 : ムカデ上綱 Opisthogoneata
綱 : ムカデ綱 Chilopoda
亜綱 : ゲジ亜綱(背気門類)
Notostigmophora
目 : ゲジ目 Scutigeromorpha
科 : ゲジ科 Scutigeridae


英名
House centipede


本文参照



ゲジ(蚰蜒)は、節足動物唇脚綱(ムカデ類のこと)のゲジ目に属する動物である。伝統的にはゲジゲジと呼ばれるが、「ゲジ」が現在の標準和名である。天狗星にちなむ下食時がゲジゲジと訛ったとか、動きが素早いことから「験者(げんじゃ)」が訛って「ゲジ」となったという語源説がある。

特徴

構造的にはムカデと共通する部分が多いが、足や触角が長く、体は比較的短いので、見かけは随分異なっている。移動する際もムカデのように体をくねらせず、滑るように移動する。胴体は外見上は8節に見えるが、解剖学的には16節あり、歩肢の数は15対である。触角も歩脚も細長く、体長を優に超える。特に歩脚の先端の節が笞のように伸びる。この長い歩肢と複眼や背面の大きな気門などにより徘徊生活に特化している。オオムカデよりは、イシムカデの類に近い。

幼体は節や足の数が少なく、脱皮によって節や足を増やしながら成長し、2年で成熟する。寿命は5~6年である。

日本各地で見られ、夜行性で、落ち葉・石の下・土中など虫の多い屋外の物陰に生息する。屋内でも侵入生物の多い倉庫内などに住み着くことがある。

食性は肉食で、昆虫などを捕食する。ゴキブリなどの天敵である。走るのが速く、樹上での待ち伏せや、低空飛行してきた飛行中の蛾をジャンプして捕らえるほどの高い運動性を持つ。また他のムカデと異なり、昆虫と同じような1対の複眼に似た偽複眼を有し、高い視覚性を持つ。

鳥等の天敵に襲われると足を自切する。切れた足は暫く動くので、天敵が気を取られている間に本体は逃げる。切れた足は次の脱皮で再生する。

人との関わり

ムカデと違って攻撃性は低く、積極的に人に噛み付くことはない。噛まれたとしても毒は弱く人体に影響するほどではないが、傷口から雑菌に感染する可能性があるので消毒するなどの注意は必要である。これはゲジに限った話ではない。

人間にとって基本的には無害な生物であり、ゴキブリなどの衛生害虫をはじめ様々な小昆虫を捕食する点では「益虫」である。その異様な外見や、意外なほど速く走り回る姿に嫌悪感を持つ人は多く、餌となる虫を求めて家屋に侵入してくることもあることから不快害虫の扱いを受けることもある。特に山間部などにある温泉宿や旅館等では、宿泊客が就寝中に姿を現し、苦情や駆除の要請を受けるケースもあるため、宿によっては部屋の常備品として不快害虫用の殺虫剤スプレーを置くところもある。

対処法

屋内への侵入を防ぎたければまず掃除を行い、屋内を清潔にするとともに、ゲジの捕食対象となる他の害虫を駆除する。次にコーキング剤などで収納スペースの密閉性を上げること。

床下などの湿った場所を好むが、駆除目的で燻煙剤など使うと、燻されて屋内へ逃げ込んでくるので逆効果となる場合もある。ムカデと同じく乾燥に弱いので、部屋を乾燥させておくこと。

下位分類

日本

日本には、ゲジとオオゲジの2種の生息が確認されている。


ゲジ Thereuonema tuberculata

成虫の体長がせいぜい3cmの小型の種で、日本に広く分布する。河原の石の下から人家の床下まで広く見られる。体は比較的柔らかく、灰色のまだらがある。

オオゲジ Thereuopoda clunifera

体長7cmにも達する大型の種である。足を広げていると大人の掌には収まり切らない。本州南岸部以南に生息する。体は丈夫で、褐色でつやがあり、不気味に感じなければなかなか美しいと言ってよい。夜の森の中を探索すると、樹皮上をわさわさと歩く姿が見られる。噛まれると痛いとも言われる。昼間は物陰に隠れており、沖縄では石灰岩地帯に多数の小さな洞窟や窪みがあるが、そのような所に固まっていることがある。





Allothereua

Ballonema

Brasilophora

Diplacrophor

Lassophora

Madagassophora

Microthereua

Orthothereua

Parascutigera

Pilbarascutigera

Podothereua

Prionopodella

Prothereua

Pselliodes

Pselliophora

Pselloides

Scutigera

Scutigerides

Scutigerina

Selista

Sphendononema

Tachythereua

Teleotelson

Thereuella

Thereuonema

ゲジ Thereuonema tuberculata (Wood, 1863)

オオゲジ Thereuopoda clunifera



Thereuopoda

Thereuopodina

Thereuopriona


その他


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端子がたくさん付いたICなどの部品はゲジゲジと言われる事がある。

眉毛の濃い人はゲジゲジマユゲとも呼ばれたりする。

「ゲジゲジに舐められると禿げる」という俗説がある。


外部リンク

ウィキスピーシーズにゲジ科に関する情報があります。


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