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死刑執行の歴史
ギロチンの原型とされる処刑具(16世紀)
王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑(1793年10月16日)
無政府主義者のオーギュスト・バランの処刑(1894年)
ギロチン刑の公布(1791年10月6日)
オーストリア・ゾンメレグ城の実物
ギロチンの説明書(ドイツ)
[編集]フランス
ギロチンが登場するまで、フランスには160人の死刑執行人と、3,400人の助手が存在していた。これが、ギロチンの導入後は減少の一途を辿り、1870年11月には、1人の執行人と5人の助手が、フランス全土の処刑を一手に担うようになった。
フランスでは総裁政府期から平時の死刑制度を廃止していたが、復古王政で再開された。
歴史的に処刑は公開される見せ物の要素があったが、第二次世界大戦直前の1939年まで、フランスでもギロチンによる公開処刑が行なわれていた。しかし人道意識の高まりから、その後は積極的に目立った場所を避けて刑務所の門前で早朝に実施するようになり、広場などで白昼堂々と行う事はなくなっていた。
1939年6月17日にジュール=アンリ・デフルノーによってパーセイルズで行われたドイツ出身の殺人犯オイゲン・ヴァイトマン[4]の死刑執行が最後の公開処刑となった。この処刑は盗撮され、映画館で公開された。これに問題を感じた法務省は、以降の死刑執行を非公開に切り替える事になる。そのため、これがフランスにおいて唯一映像に記録されたギロチンによる処刑映像となった。
ヴィシー政権下では、レジスタンスのビラを配っただけで、ギロチン処刑された者がいた。また、堕胎罪で逮捕裁判され、死刑判決を受けて1943年に処刑されたマリー=ルイーズ・ジロー[5]もいた。
ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯、および絞首刑との比較から、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビ[6]というチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。
アルジェリアやベトナムなどフランスの植民地でも使用されていた。
[編集]ドイツ
ドイツ帝国(1871年 - 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ワイマール共和国(1919年 - 1933年)やナチス・ドイツを経て西ドイツで死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。特にナチス・ドイツ時代の1933年 - 1945年にかけては16,500人がギロチンにかけられ、史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら政治犯も多人数含まれている。
ナチス占領下のフランス・ポーランド・オーストリアでは、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。西ドイツになってから1949年に死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。
東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。
[編集]ベルギー
フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。
現在ではヘントにあるフランドル伯の城にギロチンが展示されている。
[編集]スウェーデン
1900年以降になってギロチンを導入した。それ以前は斧による斬首刑が行なわれていた。しかし、1910年11月23日に行われたヨハン・アルフレッド・アンデの死刑が最後の死刑となったため、スウェーデンではたった1度しか使われなかった。
[編集]ベトナム
ベトナムでも、フランスの植民地とされた時代から1975年まで、ベトナム共和国(南ベトナム)で、ギロチンが使用されていた。
[編集]ギロチン処刑の手順
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フランスでのギロチン廃止前1970年代のギロチン処刑の手順である。だいたい、20分以内に終わるとされる。
死刑執行の日の午前4時ぐらいに、処刑する者の独房に、立会い者が向かい、検察官が恩赦が却下されたことを告げる。
立ち会うのは、検察官、弁護士、教戒師、刑務官、死刑執行人、死刑執行人の助手である。
遺書を書く時間が少し与えられる。そして、手を後ろ手に縛り、足を拘束具で固定し、抵抗できないようにする。襟と髪をはさみで切る。その間、ラム酒を飲ませ、タバコを吸わせる。
カーテンが開かれ、助手によって死刑囚はギロチンの前の台に押し倒され、首を固定させられる。死刑執行人のボタンで、ギロチンが落とされる。
[編集]斬首後に意識はあるか
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アンリ・ランギルの公開ギロチン処刑(1905年6月28日) この受刑者の斬首後、ボーリュー博士は意識確認のテストを行った。
ギロチンは痛みを感じさせる暇もないほどの高速で斬首を行い、即死させることを目的にした処刑道具である。しかし、心停止が行われても十数秒前後は意識が保たれているように、斬首後のごくわずかな時間、頭部だけの状態で意識が保たれているのではないかという説がある。斬首後の意識については幾つか報告が残されているものの、その多くは出典が怪しい。
例えば化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエは、自身がフランス革命で処刑されることになった時、処刑後の人に意識があるのかを確かめるため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言し、実際に瞬きを行なったと言われている。しかしながら当時、流れ作業で行われたラヴォアジエの処刑に立ち会った目撃者の記述にそのような逸話は書かれておらず、1990年以降、ボーリュー博士の報告を元に創られた都市伝説と考えられる。
同様に斬首後のシャルロット・コルデーの頬を死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンの助手が殴った時、彼女の顔が紅潮し怒り眼差しを向けたという逸話がある。しかし、処刑時すでに夕方だったことから夕日が照り返したため、あるいは血が付いたためそのように見えたに過ぎないとも言われ、伝説の域を出ない。
具体的に斬首後の意識を確認した実験としては、1905年にボーリュー博士が論文として報告したものが挙げられる。
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1905年6月28日午前5時半に、アンリ・ランギーユ死刑囚がロアレで処刑される際、事前に呼びかけに対して瞬くよう依頼したところ、斬首後数秒たって医師が呼びかけると、数秒目を開けて医師を直視し閉じた。二度目の呼びかけには応じたが、三度目以降は目が開かれなかったという。
しかし、こういった報告は筋肉の痙攣によるものとされており、斬首の瞬間に血圧が変化し意識を失うので、意図的に瞬きをするのは不可能というのが通説である。
フランスでは1956年に議会の依頼によってセギュレ博士が実験を行なっている。この実験では瞳孔反応と条件反射を確認したが、斬首後15分は反応があったとする報告を行なっている。意識の有無については確認手段が無いため不明のままであった。
[編集]導入国
フランス - 死刑制度廃止まで使用
ドイツ - 死刑制度廃止まで使用
スウェーデン - 1回だけ使用
ベルギー - 死刑制度廃止まで使用
スイス - 死刑制度廃止まで使用
ベトナム - 1975年まで、南ベトナムで使用
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