毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

のびのび 生き生き

2015年11月13日 00時09分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


お隣小学校は、8日の日曜参観に始まって 今週一杯 学校開放週間。

日曜参観は、1時間の授業のあと、毎年恒例の餅つき大会、午後から 凧作り班と染め物班に分かれての ものづくり授業。

そして、きょうの公開授業3~4時間目は、1 ・ 2年生の 自分たちで育てたサツマイモを使っての おやつ作り

いもようかんとスイートポテトの調理に 私もいそいそと参加させていただきました (*^^*)




先生が洗って皮をむいておいてくれたサツマイモを、切って 茹でて、すりこぎでつぶし、そこから二つに分けて、一方にはゼラチンと砂糖、もう一方には砂糖とバターと牛乳を混ぜ、いもようかんはラップを敷いたバットに流し入れ、スイートポテトはアルミカップに詰めて 形を整える。

思い思いの柄のエプロンと三角巾を身につけ マスクをした約20名の子どもたち、包丁使うの初めて~ の子も多く、ドキドキワクワクの90分、みんなにぎやかに トントンまぜまぜ♪

2時間の授業があっという間、おしまいの洗いものまできちんとこなして、いもようかんバットは 無事冷蔵庫に収まり、ずらりと並んだスイートポテトは 5時間目の体育のあいだに 先生がオーブントースターで こんがり焼き上げてくださいました♪

試食のお誘いをいただいた貴秋、5~6時間目の参観のあいまに抜け出して ランチルームにはせ参じ、みんなのあいだに座らせてもらって、みごとに出来上がったおやつのお相伴、しあわせ~

さらに まだたくさん残っている中から おみやげまでいただいて、浮き浮き氣分で授業に戻り、そろそろ終わりというころに、1年生の女の子が お盆に並べた人数分のスイートポテトを捧げ持って 6年生教室に現れました。

どの学年も こういうときにはたっぷり作って、他の学年にもおすそ分けするのが 恒例なのだそう。

ほんと素敵な学校だわ




ほかの見学は、2時間目途中から 4年生の国語、5時間目が 6年生の人権作文、6時間目が 同じく6年生の 熊野古道語り部学習。

どの学年も10名前後と少人数のこの学校、家族的雰囲氣の中、のびのび自由に発言しながらも そのまま私語に流れることなく ごく自然に抑制の効いた空氣、作文つづり中の6年生は、辞書や資料が必要になると すっと教室の外に取りにいき、再びすっと戻ってくる。

秩序ある自由とでもいうのかな、各自がのびのびしていながら わきまえて場を乱さない、先生方の行き届いた指導の下生まれる 少人数校ならではのこの学校の空氣が、毎年のことながら 大好きです




個々の学校の枠を超えて、すべてを頭でつかみ、理論の枠組みに押し込めて、計り 比較し 競い合う この国の学び方は、もう限界にきているような氣がします。

これからは、陰でいのちを支える 見えない要素を もっと感じて、それぞれが個性を伸ばし 発揮する時代。

そんな中、画一化で個人の思いをつぶされることなく、全身で体験する授業の多い この学校を見ていると、まだまだ子どもたちは大丈夫、とほっとし、うれしくなるのです。




公開授業は 明日の午前まで、明日は朝からみっちり 全学年見学させてもらうぞ~





















クレッシェンドな人生♪

2015年11月11日 10時13分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「若いころはよかった」 という言葉が、まるでぴんときません。

子どもがおらず、いまだに氣まま好き勝手をさせてもらっているおかげで、年齢相応? の実感に乏しいせいもあるでしょう (^^ゞ

もうひとつ、「若いころ」 が 「よかった」 という実感が、およそないのです。




私の母は、子どもの目から見ると 肝が据わって 氣が強くて いかにも頼もしげだったのですが、実は かなりの怖れや怒りが内在していて、それゆえの強固な鎧を 頼もしさと取り違えていたことに、大人になってから氣づきました。

4歳になる少し前 弟が生まれるまでは、そんな母と ほとんど二人きりの密室状態。

同じ年頃の子どもと遊ばせられなかったことを、母は 当時患ったC型肝炎のせいと説明していて、たしかにそれもあるでしょうが、なにより母自身が人付き合いが苦手で、わが子の友だちづくりのために 新たな人脈開拓をするのが氣重だった というのが主な理由だろうと、今では思っています。

精一杯よき母であろうとするのだけれど、幼少期から溜め込んだ怒りのせいで ときに理不尽なキレ方をする母との暮らしは、不安定で 大きく偏った性格を作り上げ、さらに彼女の人間不信が 「頼りになるのは家族だけ」 という世界観を植えつけました。

自身の もてあますほどの怒りと人嫌いは、まるっきり母のコピーだなって よく思ったものです (^_^;)




昔の写真を見ると、さすがにうんと小さいころは それなりの輝きを放っていますが、少し大きくなると 表情が乏しくなり 目に光がなくなってきます。

のびのび楽しいはずのティーンエイジャーのころも、希望で胸ふくらむはずの20代も、もの硬く 生氣のない顔つきが並び、笑顔すら 作り物の仮面をかぶっているようで、喜びが伝わってこない。

ありのままの自分を忘れ、つねにそこはかとない不安につきまとわれっ放しの日々だったのですから、ムリもないのですけれど。

歳を重ねるにつれて、そのころの記憶はどんどん希薄になっていきますが、それでいいのだ、むしろそれぐらいがいいのだ と思っています。




そんな私が、さまざまな人や情報に助けられて 内側の曇りを大きく減らし、ほんとうの自分を取り戻した、かつてないこの輝かしさ、充実の手応え。

晩秋の日ざし、舞い散る枯葉、世界はなんて美しいのだろうと感嘆の毎日、しとしと降る雨さえいとおしく思えます。

そんな今と比べれば、過去の世界が よほど色あせて見えるのは いたしかたないこと。

時系列に並べてみたとき、昔のほうがよかったなんて まちがっても思うはずがないのです




青春時代に 輝くような記憶がないのは 少し悲しいけれど、それを差し引いても 後へ行くほど胸湧き踊る人生の素晴らしさは 例えようもありません♪

しかも、これからますます曇りが減って 輝きが増すのは確実

人生の手綱を この手に取り戻せたのだもの d(≧∀≦*)




過去の出来事は変えられないけれど、今の自分を変えることは いくらでも可能。

後へ行くほどよくなる生き方は、誰でも実現できるのです。

クレッシェンドとは 音楽用語で だんだん強く ・ 大きく の意味。

そんなクレッシェンドな人生、万歳 \(^o^)/
























思い出というふるさと

2015年11月10日 12時14分41秒 | ふと思うこと


夕べあんな記事をアップしたら、きょうはこんなお話と出会いました (^^)




何かにつけて 萎縮することの多かった子ども時代でも、知らず知らずのうちに 自分の好きな世界を見つけ出しては 心の糧にしていたんだなぁ、と氣づいて、なにやらほっこりとしたのですが、その氣になれば、誰でもどんな状況下でも、心を癒し 力づけてくれるものを見つけ出せるんですね。

心の宝物は、お金を積まなくても 特別な能力がなくても、ちょっとした氣の持ちようで 誰でも手に入れることができますものね。

現実の世界だけでなく、大好きな本やドラマ、映画などの中に 見つけることだってできる




大好きなものでいっぱいにした 自分だけの心の世界は、いつか力をつけて 自分の手で すべての問題を解き明かせるようになるまでの 保護カプセルのようなものなのかもしれません。

そして、やがては なつかしいふるさとのような思い出に変わってゆくのでしょう。

つらいことがあっても、そこに戻れば 慰められ 勇氣づけられる、心のふるさと




2011年の大雨で 集落が浸水したとき、みなさん 汚水に浸かった服や食器、布団、家具などはいさぎよく処分しても、写真だけは けんめいに拭いて乾かして 大切に手元に残しておられました。

なにより大切なのは 心の宝であることを、ことさら意識せずとも 誰もがわかっているのかもしれません。
























心の宝

2015年11月10日 01時16分22秒 | ふと思うこと


幼稚園のころ住んでいた 大阪の鉄筋4階建ての白いアパートには、たぶん風を通すためでしょう、床すれすれの低い位置に 格子のはまった小窓がありました。

大阪といっても 当時の泉南は まだまだ田舎で、まわりは田んぼに囲まれていて、その田んぼを 耕運機ではなく 牛が耕しているのです。

木製の鋤をつけた牛に お百姓さんが付き添い、田んぼを端から端まで行ったり来たり。。。。「牛の歩み」 という言葉があるぐらい、その往復は ゆっくりゆっくりなのですが、幼稚園生だった私は、チビだから そんな低い窓から覗けたのでしょう、格子窓にくっつくように 横向きに座って、その光景を 飽きずにひたすら眺め続けていた記憶があります。

今でも その光景を思い出すと、じんわり心が和みます (^^)




そのぐらいの歳から すでに他人が苦手だったようで、近所に同い年の子がほとんどいなかったこともあり、友だちと遊んだ記憶があまりなく、ひとりで景色を眺めていた思い出ばかり残っているのですが、そのひとつひとつが 今思い出しても たまらなく美しくて なつかしくて。

背丈ほどもある草が生えた空き地に 午後の日が差し込む中を ジュズ玉採りに行ったり、田んぼの向こうの線路に落ちかかる 丸くて真っ赤な夕日を眺めたり、ブランコに乗ったまま 背を逸らして 背後の木の葉のすきまから漏れる光を見上げたり、自転車にまたがって 目の前に広がる田んぼの 青々と伸びた稲が 風に吹かれて 波のようにうねるさまを見つめたり。

そういうときは、きっと心も安らいでいたのでしょう、ふと脳裏に浮かぶ そんな光景には、いつも えも言われず温かく穏やかな心持ちが ついて回ります。




その後、同じ市内の少し離れた場所に引っ越して、新しい学校で 5~6年生のとき クラスから孤立することになるのですが、今思えば あれも刷り込まれた観念が引き寄せたこと。

あの経験で ますます人嫌いになりましたが、私の心は 当時は氣がつかなかったけれど、いつもまわりのちょっとした自然や景色から 養分をもらっていたようです。

登下校時 道路脇の溝を流れる水に 光が反射するさまや、昼休みに上がった屋上から眺めた 遠くまで広がる街並みなど、なつかしい光景が 心のアルバムに 今もしっかりしまわれています。

そして それらを思い出すたびに、そのとき感じた ほのぼのとした幸福感も いっしょによみがえります。




他者は怖い という思い込みのおかげで、それと意識しない不安にまとわりつかれ続けた子ども時代ですが、そんなときでも 自分のなにより好きなものをちゃんと見つけて 幸せややすらぎを見出していたんだなぁ、と思うと、なんだかほっとします。

そして その思い出は、今でもかけがえのない宝物です (*^^*)























反省

2015年11月09日 13時01分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あぁぁぁ。。。。またやってしまった。。。。

リンゴ2個と 使いかけのニンジン。。。傷んでたのに氣づかず放置。。。帰還不能点通過で 畑の養分へと直行 (T_T)

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい




食べる量がぐんと少なくなって、それに合わせて 買い物の量も調節してはいるのだけれど、なにかに夢中になると 丸一日食べなくても平氣なたち、うっかりすると 食材をずーっとしまいっ放しで忘れてしまって (-_-; )

以前も、氣落ちして ご飯を作る氣力が出ないまま 食材をダメにしてしまったことは たびたびあったのですが、そのころと比べれば 心も暮らしもすっきりした今になって、またもややってしまうとは。。。。。




バイキングレストランで働いていたころ、毎日のように 大量に捨てられる 食べ残しの山に、溜息をついていました。

休みの日 畑仕事をしていても、なんだか氣が落ち着きません。

みんな レストランに入ってくるときは、席に案内するのも待ちきれないほどワクワクしているのに、取ったものを残さずきれいに食べる人は 少数派。

こうやって 誰かが その成長や収穫を楽しみに育てた野菜やなにかが、ゴミになって 捨てられて、やがては また土に還って。。。。

というところで、ふと氣づきました。




大人が子どもに 「粗末なことしたら 食べ物さんに悪いでしょ」 みたいに言うことがあるけれど、食べ物にしてみたら、人間の体内を経由しようがしまいが 巡りの輪の中にいることに違いはなく、やがて土に還ってゆくのは同じこと。

食べ物を粗末にすることで、循環の輪から弾かれ まずいことになるのは、他でもない 私たち人間のほう。

私たちのからだを通すことなく、自然の恵みをいただくことなく、巡りが完結してしまうのだから。

絵に描いたような 自業自得。




私たちは、ややもすると 世の中すべてが 人間中心に回っているような錯覚を起こしてしまうけれど、人間以外の自然から見れば、人間は あくまでも パーツのひとつに過ぎないんですね。

ゴミがどうしようもなく増え、資源が枯渇する危険にさらされる今、「ヒエラルキーの頂点にいる人間」 という これまた無自覚のうちに植え込まれた視点から ちょっと外れて、ただ自然の一部である自分たちを 改めて感じてみるときなのかもしれません。




・・・・・・・・・って えらそうに言える身じゃない。

まずは食材管理、もっと氣をつけます、反省。























世界が動き出すとき

2015年11月07日 23時15分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


まだ、視点を変えることで 同じものでも180度違って見えることがある、なんて知らなかったころ。

よく迷ったのが、「このままの自分でいい」 という言葉。

そんなふうに受け入れられたら どんなにかほっとするだろうな、と思うと同時に、でも このままでいいわけないから どうにかしようと努力してるんだしな・・・・とも。

今は このふたつが両立するの、よくわかります(^^)




「このままの自分でいい」 と認めるのは、今この瞬間 この場でのこと。

いろいろなことがあって、とにもかくにも 今ここに こういう自分がいる。

それについて、なにもしないこと、なんの言葉も添えないこと。

判断解釈抜きで ただ感じること。

余計なこと考えないで、ただぽや~んといい氣分でいる、っていう、ね☆




そのあとで、この先どうなりたいか、どんなふうに進みたいかに思いをめぐらせて、もっといい未来が描けるな、と思ったら、それに即した変化を起こしていけばいい。

無理やり変えるんじゃなくて、希望にそぐわない要素を見つけて、それを観察することで。

「このままじゃない自分」 とは、今の自分へのダメ出しではなく、カスタマイズなんですね♪

こうすれば もっと可愛くて着心地いい服になる、こうすれば もっとオシャレで便利で住みやすい家になる、って思ってリフォームするのと同じこと。

先に夢をかけて、変えてゆくプロセスから楽しむこと。




自己否定も 人生のプロセスの内だけれど、否定しているあいだは 身動きがとれません。

否定するほど 否定したものの存在感や力が増す、というジレンマに挟まれるから。

否定したくなる氣持ちを ひとつずつ手放していって、すべてを受け入れた瞬間、それまでの縛りがふわっと解けて、再び 歩みが始まります。

「このままの自分でいい」 と ふと思えたときから、世界が大きく動き出します




















受け持ち

2015年11月06日 23時32分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前にもちらっと書いた (私たちをコントロールし 搾取する存在がいるという) 「陰謀説」、前世のこと、地球に手を貸してくれる宇宙人の言動、あと 歴史はほんとうはこうだったんだよ、今知られているものは 時の権力者に都合よく改ざんされてきたんだよ、みたいな話。

いずれもありだと思います。

むしろ 一歩進んで きっとほんとうなんだろうな、ぐらいに思います。

なのに、意識がまるでいかない。




たびたびお話している 木内鶴彦さんの講演会でも、木内さんが 心臓停止しているあいだに見てきたという 宇宙や歴史のお話など、大きくうなずきながら 熱心に聴いている・・・・はずなのですが、なぜか ほとんど記憶に残らない (^_^;)




どうもこれは、「受け持ちじゃない」 ということのようです。

こういった分野と 今生で私がすることとは、少なくとも今のところは 大きな接点がない。

だから、興味にまかせて あちこちに首を突っ込んで、“本業” がおろそかになるのを防ぐために、関心がいかないように あらかじめ制御されているのかな、と。

宇宙&魂の采配、完璧なようです




じゃあ、貴秋の受け持ちはなにか、というと、今はまだ 特殊な世界のイメージが強い、「心」 とか 「魂」 とか 「五感を超えた世界」 とかにまつわる情報を、もっと下世話な日常に持ってくること。

誰だって、見えない世界に支えられて、見える世界を生きているんだよ、という 「当たり前」 な感覚が広まるのに 尽力すること。




20~30年ほど前、五感を超えた世界に関する情報は少なかったそうです。

宗教的なものか 自己啓発的なものから探すしかなかったと。

それが今は、スピリチュアルというジャンルが確立され、書店にもしっかり専用コーナーが設けられ、なかなかの盛況ぶり。

こうなったのも、先人たちの活躍のおかげ。




私がぱっと思いつくのは、やはりご著書経由でさんざんお世話になった 本田健さんとか ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュさんとかだけれど、他にもいろいろな方がおられることでしょう。

とにかく、こういう方々は 身も魂も とても強かったのだと思います。

まだスピリチュアルがメジャーとはいえなかったころに、ご自身の波乱万丈の体験を糧に 身につけた智恵を、ひとつ間違えば トンデモ扱いになりかねないところを 皆のためによいこと ・ 必要なことだからと 誤解を恐れず 果敢に公表されて。

本を読んで感銘を受けた人たちからの尊敬や憧れを集めたのも当然のこと。

で、こういった方々を先達とし、彼らの後に続けと 裾野が広がりだしたことで、スピリチュアルという名称が確立し、五感を超えた世界が 徐々に存在感を増し始めたのは 素晴らしいことなのですが。




ただ、その内容上 すっと入れる人と入れない人に分かれるのも 無理なからぬことで、スピリチュアルと名づけられた新世界は、外から見ると ちょっと特殊な人たちの集まりとして、その位置を占めているように思えます。

でも、スピリチュアルは 決して特殊でも特別でもない。

植物にみな根っこがあるように、知らなくても 信じられなくても、私たちが 見えないなにかに その生を支えられているのは 事実。

誰だって、自分の意思の及ばない もっと大きな力によって 日夜心臓を動かされて 生きているのだから。

その当たり前の事実を 当たり前のこととして 誰もが感じながら生きていけるようになるには、今度は “スピリチュアルという特殊な世界” の看板を 地道にこつこつと解体することになります。




自分の役目は どうもその辺りにあるらしいと思いつつ、きょうもこんなブログをちまちま書き続けております (^^ゞ

漬物のコツと 五感を超えた世界の話題が 同列に語られる日が、相変わらず楽しみな貴秋なのです♪






















伝える ・ 伝わる

2015年11月06日 01時05分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“スピリチュアル”   “心”   “神”   “おおいなるひとつ”   “本質”   “真実”

さんざん使わせてもらっておきながらなんなんですが、自分の中で ひどく据わりの悪い言葉。

黒板キーっと引っかく音を聞いたときみたいに 歯が浮くというか (笑)

なにより伝えたい 表したいことなのに、どうにも落ち着きどころが見つからないというか。




言葉は、「現地と地図」 の 「地図」 に例えることができます。

現地を指し示す記号みたいなもので、現地そのものではない。

現地の情報の一部を表すに過ぎない。




現地を持たない言葉というのもあります。

ただ決まり言葉を 反射的に投げるだけ、形を取り繕うだけの、いのちのこもらない 空回りする言葉。

表面だけのお世辞、紋切り型のせりふ、テンション高く 上滑りするはしゃぎよう、ほんとうの喜びを呼び起こさない言葉の数々。




それでも、現地が五感で確かめられるもののときには まだいいのですね。

言葉で伝わらないなら、いざとなれば 直接触れてもらうという手があるから。

しかし、これが 五感の及ばない世界のこととなると、正直お手上げ ( ̄  ̄;)

言葉で伝え切れるものじゃない。




そうわかっていても、なお伝えたい。

とても大切なことだという氣がするから、感じるものがあまりにも大きいから。

だから、ムリを承知で あえて言葉で語る。




言葉そのものを受け渡ししても始まらない。

でも、言葉を介して 伝わる “なにか” は あるのかもしれません。

現地を感じながら表現するときは、言葉に乗る “なにか” がある。

それが 相手の中のスイッチを押す。

言語としての言葉だけじゃなく、絵 ・ 映像 ・ 音 ・ 香り ・ 味 ・ 感触 など いろいろと。




まだまだテレパシーは普及していないけれど、私たちには 言語以外にも やり取りしているものが いっぱいあります。

感じる力を 少しずつでも取り戻してゆく中で、あらゆるものとの関わりが、つながりが、そして 世界が、大きく変わっていきます (^^)























一生の宝物

2015年11月05日 23時08分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


       《 従容 (しょうよう) の祈り 》


         神さま         

         変えられないことを受け入れる心のゆとりと

         変えられることを変える勇氣と

         その違いを見分ける智恵を与えてください




自分を変えようとする試みで、自力で変えられるものと そうでないものを見分けるのは、困難なことでした。

ある時期以降、私の導き手は そのほとんどが 本やメルマガなどに書かれた文章で、どれほど助けられ 重要な情報を授かったかわからないのですが、ただ それを消化して 自分の身につけるのは、あくまでも私自身の仕事。

外側ではなく 自分の内から変えてゆくことだ というのは 納得できたのですが、では 自分の何をどう変えればいいのか、というのが よくわからない。

こういう性格や ものの考え方では 幸せになれませんよ、と言われると、確かにそうだなとは思うのですが、じゃあ考え方を変えましょう、で ほいっと変われるものでもなく、ここが大きな壁だった氣がします。




いくら前向きに 肯定的にと心がけても、はっと氣がつくと ネガティブな自分に戻っている。

やり方がまずいのか、意志の力や集中力が足りないのか、それとももしかすると 本音の部分では 変わりたいとは思っていないのか。

結果が出ないまま 時間ばかりが過ぎていき、自信がなくなって ますます否定的な考えに拍車がかかります。

さんざん悩みながら、とにかく思いつく限りのことに挑戦しました。

その結果、あるとき 「感情より先に からだの反応がある」 という情報を得て、ぴんときて 試し始め、それが功を奏して ここまで来ることができました。




思いや感情の いちばん根っこのところは、たびたびお話しているように、脳が未発達で、やってくる情報を みな無条件に受け入れてしまう年ごろに植えつけられます。

これは 言葉の及ばない領域に入ってしまうので、後年 言葉での書き換えを図っても、なかなか思いどおりになりません。

自分のものでありながら、思いを変えるというのは 一筋縄ではいかないのです。

変えるのではなく 見つめること、見つめれば ほんとうでないものは消えてゆく。。。。これを実践するようになって 初めて、自分が変わってゆく手応えを感じることができました。




時間はそれなりにかかりますが、自分の心の動きを 体感を通して観察し続けると、否定的な考え方や怒り、恨みがましさなどは 少しずつ力を失っていきます。

そのあとに、あれほど起こそうと思っても起きなかった 前向きで肯定的な思いが、向こうからおのずと起こってきます。

「従容の祈り」 でいう 「違いを見分ける智恵」 を、私はこうやって授かることができました。




情報や手がかりはもらうことができるけれど、智恵は 自分で身につけるほかない。

ひとりひとり 過去の体験も 発想や思考回路も違うのだから、私が引っかかったところも、人によっては まず意図的に行動パターンを変える (考えず 直感のみで動く) ことで、思いが後から変わってゆく、という形のほうが うまくいく場合もあるのかもしれません。

これは、私はうまくいかなかったけれど、「神との対話」 にも 「思考 ー 言葉 ー 行動 というパラダイムを逆転させる」 という話で出てきます。




心や魂の成長に関する学びは、学校の勉強などとは違い、人からそっくり答えをもらうというわけにはいきません。

受身で教わることに慣れてしまっている私たちには、自分で見つけるというのが難しく思えることもあるでしょう。

でも、たとえ失敗の連続でも あきらめなければ 必ず道は開けるし、努力から結果を出せた喜びや自信は 一生の宝物になります。
























スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その4

2015年11月04日 08時28分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ここにも書いたように、私も 優れた人につき従うことで 高みに連れていってもらおうとして 挫折した時期がありました。

当初はそれはもう怒り心頭で、無私の愛とかなんとか言って、人からエネルギー盗ってたんじゃない、だまされた! くやしい! と怒り続け、あまりの殺伐とした空氣に いっしょにいた友人が 辟易して帰ってしまったほど

それが ずっとあとになって、そんな体験にも 大きな意味があった、決して失う一方なんかじゃなかったんだ、と 心底納得することになりました。




これも 以前からの繰り返しになりますが、無駄 ・ 無意味に起こることなど、なにひとつありません。

一時は だまされたと立腹しても、時間が経つと、もっと大きなものが見えてきます。

そこで思い出すんですね、どんなことにも プラスマイナス 相反する二面が同時に存在し、どちらでも好きに選べることを。




ただ、怒りを外に投影して 被害者の立場にあるあいだは、プラスの面に目を向けることができないのです。

どれほど腹の立つ相手でも、最初についていくと決めたのは 他ならない自分であることを 認められるようになるまでは。

基本 学びの道は 個人の道なのです。

学び手が受け入れると決めない限り、どんな教えも 導き手も 力にはなれないし、与えられた言葉や情報を 内に落とし込むのは、どうしたって 独力で行うほかないのですから。





「自分の選択だと認める」 という言葉に 強い抵抗や反発を感じるでしょうか?

感じるなら、たとえばそこで すかさず感覚フォーカス、なんていうのもありです

お氣の向く方は トライしてみてもいいかもしれません。

そんな氣になれないなら、今はまだ時期じゃないのかも、と 置いといて、怒り続けるのも もちろんあり。

ただ、いつかは 受け入れるときがやってきます。

そのときは、それまで 被害に遭った、奪われた、と思っていたものが、実は大きな糧になりうる (相手の意図とは関係なく) もので、失った以上の利を受け取れることを知っていただければ 幸いです。




繰り返しますが、起こることに無駄はなく、プラスマイナス表裏一体、どちらを選ぶかは その人次第。

そして、すべてが自分の選択であったことを 無理なく受け入れたときには、その体験から 余すところなく養分を取り込んで、足踏み状態から 再び動き出せるようになります。




スピリチュアルな道のりは、決して特別な人のものではなく、ある意味 ごく自然で当たり前なこと。

特別な才能や技術や環境がいるわけでもなく、望めば誰でも歩むことができます。

教え手であれ 学び手であれ、どんな間違いをしようと、いやな思いをしようと、マイナスをプラスにひっくり返して すべてはこのためにあったんだ、という喜びを味わうことが可能です。

痛い思いをしたからといって、すっかり背を向けたままにならず、時が来たら また歩みを進めていただければ 何よりかと思います (*^^*)




長文をお読みくださって ありがとうございました。