毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その3

2015年11月03日 21時00分41秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


人間誰しも、多かれ少なかれ 未熟なもの。

だからこそ、もっと学びたい、成長したいという意欲も起こるのですが。




前記事にも書いたように、内なる氣づきへの感動から 人にも伝えたくなるのは 自然なことではありますが、それを言葉の力だけで行おうとすると、これほどの苦行もないような氣がします (-_-; )




私たちが生きている この世界は、互いに相反する二要素が 同時に成立するという、矛盾に満ちた世界でもあります。

毎度同じ例えで申し訳ないですが、岩が 動かないものであると同時に、絶えず動き続ける微粒子の集合でもある、というように。

およそ理屈では割り切れない世界です。

伝える側が、自分ではその素晴らしさが感じ取れるので、ものすごく伝えたい、伝えたいんだけれど、いざ言葉にしようとすると 四苦八苦する羽目に陥る。。。。のが この世界。

ついつい私の言うことが正しいんだー!信じてついてくればいいんだー! とやってしまう氣持ちも、ことの始まりがが真摯で純粋な思いから出ているだけに わからなくはないのですが、これをやってしまうと まずいことになります。

そもそも 人の数だけ 答えはあるのだし、個別に分け出される前の “ひとつであるもの” にたどりつけば、そこはもう 言葉での説明など及ばない世界なのだから。




そこへもってきて、これまた前記事に書いたように、魂の学びにゴールはないので、伝える側も 絶えず学び続けることにもなり、以前口にしたことの 不完全さや矛盾を認めざるを得ないときが、必ずやってきます。

ここで 面倒が起こるのが、伝える側が 「教える自分」 「人より知っている自分」 に 存在価値の拠りどころを置いているとき。

いったん自分を権威づけてしまうと、まずいとわかっていても 引くに引けなくなったりするのですね。

そこに 金銭が絡んだりすると、なおのこと。

とても人間くさい、見ようによっては可愛くさえある弱点なのですが、信頼してついてきた側からすれば これは反感を覚えるのも 無理はありません。




以前の記事に書いた、「心に満たされないものがあると、せっかくの智恵や力を 人からエネルギーを奪う手段として使ってしまう」 という警告は、こういうことだったんだと、今ならよくわかります。

あのころの私は まさに中途半端な知識と 満ち足りない心の持ち主、ひとつ間違えば、私自身が そういう指導者の立場になっていても 不思議はなかったのです。

最初はたしかに善意からなのだけれど、満たされない心を通すと 微妙に変わってしまう・・・・大切なことを伝える側には、つねにそういうリスクがつきまとうものなのかもしれません。




おそらく 一番初めは、単純に幸せになりたいという思いから始まったであろう スピリチュアルな道のりが、心休まらない戦いの場と化してしまうとしたら、残念なこと。

でも、それさえも 学びの道のうちなのですね。




ひとつの記事のつもりで書き始めたもので、連投ごめんなさい m(__)m

あと1回で終わると思います。

























スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その2

2015年11月03日 12時50分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


内なる答えに目覚める瞬間は、語りつくせないほどの喜びを伴います。

つかえがとれて、ふわっと浮き立つように軽くなり、世界が大きく開けて 怖いものなど何もないと感じる、あのぞくぞくするようなうれしさ。

そして、その喜びを 誰かに伝えずにはおれなくなります。

美味しいケーキ屋さんを見つけたって、素晴らしい映画と出会ったって、誰かに伝えて 共感してほしくなるのは、自然なこと。

ましてや、そんな五感の喜びをはるかにしのぐ歓喜を、どうして伝えずにおれましょう。

・・・・・と ここまではいいのですが。




内なる成長は、留まるところを知りません。

「今」 という最先端では もっとも鋭い氣づきも、次の 「今」 がやってくれば、その不完全さを いやでもつきつけられます。

氣づきは、新しいものが次々やってくる、というよりも、同じものが繰り返されることで 深まっていくので、同じことに覚える感動も 回を重ねるごとに深まる分、振り返ると あれほど輝かしく思えた以前の氣づきが、妙に幼いというか 色あせて見えてしまいます。

ちなみに、私貴秋が 過去ログを読み返す氣があまり起こらず、「たしか前にも書いたような氣がしますが」 なんてことばっかり言ってるのは、まさにこのせい (^_^;)

「あれっぽっちのことがわかっただけで、あんなに大はしゃぎしてたの? わかった~! って有頂天になりながら、あの程度にしかつかめてなかったの?」 っていうことの連続で、氣落ちしたり 恥ずかしくなったりするのがしんどくて ( ̄∇ ̄*)ゞ




さらに。

観念として目覚めた氣づきは、それだけで深い感動や臨場感があるので、つい すっかり自分のものとなったように思い込みやすいのですが、実際には それが自分の言葉や行動に落とし込まれて ごく自然に現れるようになって初めて、自分のものになったといえます。

恥ずかしながら かくいう貴秋も、これだけさんざん氣づき体験について書いておきながら、このことがはっきりわかったのは、ごく最近のこと (〃∇〃)

観念の目覚めだけでも 深く感動し おおいにうなずけるので、すっかりわかった氣になってしまうのですが、それを身をもって表せるようになるまでには、いささかの距離があったのです。




これを知ることができたのは、去年から3ヶ月ずつ 三回にわたって行くことになった 仕事のおかげ。

きっかけは 金銭的必要に迫られてのことでしたが、それを “氣づきの実地研修” と位置づけたのは、今から思うと大正解でした。

楽しいばかりではない仕事現場で、あれほどわかっていたはずの学びが およそ機能しないことに氣づいて、落胆し 焦ったものです。

仕事から戻るなり その日の自分を省みて 日記にしたため、持参した 「神との対話」 や 「津留晃一メッセージ集」 などを読み返しながらの内省や内観が 日課となりました。

そこで得たものが、私の人生最大の宝物。

それは、人に示すものでも 誇るものでもなく、自分を安心させ 力づけて、地に足つけて どっしり立たせてくれるものだったのです。




というわけで、今だからこそ見える ・ 言えることなのですが、上の二つがぴんとこないまま 人に伝えることを始めてしまうと、後から矛盾が生じたり わけがわからなくなったりして、信頼を失う事態が起きても 不思議ないように思うのです。





















スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その1

2015年11月03日 08時47分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


少し前 たまたま目にしたブログで、スピリチュアル系? (こういうくくり方好きじゃないんだけど、やむなく。。。ごめんなさい) の指導者さんと 元お弟子さんらしき方々との諍いについて 読む機会がありました。

なんとなく関心が湧いて、双方の関係者さん方のブログに目を通させてもらいましたが、そこからいろいろと思うところがありまして。

どちらの側にも、「う~んわかるなぁ」 というところと 「あ~でもちょっとそれは・・・」 となるところがあって、おおいに考えさせられました。




またまた続き記事になりそうな氣配、ご容赦を m(__)m




このブログでもさんざん書かせてもらっていますが、そもそも 「言葉」 って とても扱いにくくて 不完全な伝達ツールです。

五感を超える世界を 言葉で伝え切るのは、まず不可能な話。

また 五感の世界の物事であっても、言葉というのは それこそ人の数だけとりようがあるので、同じ言葉を使ったからといって、きちんと伝わっているとは限らない。。。というか、多少なりともズレが生じて当然なんですね。




そんなあやふやな道具を駆使して、魂とか心とかについて教える。。。。軽くめまいがしそうです (T_T)




言葉には、「分け出す」 という働きがあります。

リンゴと言った時点で、リンゴのイメージが リンゴ以外のあらゆるものから分け出されて 示される。

つまり、リンゴとそれ以外のものが くっきり線引きされるんですね。




しかし、いのちの世界というのは、境界線がことごとくあいまいです。

昼と夜、生と死、暑さと寒さ、子どもと大人、ここと定められる境界はなく、グラデーションのように じわじわと変化する世界です。

そんなものを、言葉という制限された道具で、どうやって伝えればよいのでしょう。




人間が作ったものなら、最初にそれを分け出した人の思考の枠組みを そっくり伝えることで、教えたり学んだりすることが 可能です。

が、五感を超える世界 ・ いのちの世界は、私たちを超えるものであって、とうてい 私たちが分け出したり つかんだりできるものではありません。




いのちの世界における “答え” は、最初から私たちの中にあります。

それは、つかむのではなく 感じるもの。

もし 教える、伝えるということができるなら、それは、内にある答えを目覚めさせる という形で、初めて実現するのだと思います。

情報は 外から与えられるけれど、内なる答えは 呼び覚ますしかないのです。

そして、呼び覚ますのは あくまで本人の仕事、それ以外の人にできるのは 手助けだけです。




ここら辺を押さえておかないと、「これだけ言ってるのに なんでわからないんだ~」 「なんでわかるように教えてくれないんだ~」 ということが起こるのは避けられない氣がします。
























童話や昔話に見る 「インセプション」 ~ その3

2015年11月03日 02時35分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


童話や昔話が 容易に 「インセプション」 としての役割を果たしうるのは、まずなんといっても 脳の回路が未完成の 幼い子どもに与えられるものであること。

そして、ひとつのパターンが 複数の物語に散見されるため、さまざまなお話に親しむ中で 特定の観念を繰り返し刷り込まれて、いつの間にか根づくこと。

その1で挙げた、「貧しいが心は清らかな主人公と 悪辣な金持ちの隣人の組み合わせ」 そして 「シンデレラのような 継子イジメもの」 というパターンも、どなたでもぱっと思いつくお話が いくつかあるのではないでしょうか。




私たちの世界には、いのちの流れにそぐわないものは自ら壊れてゆくという作用があります。

傷ついたり役目を終えたりした細胞は アポトーシスで消えてゆくし、私たちを幸せにしない社会のシステムは 自己崩壊を起こす。。。そういう仕組みになっているんですね。

その働きに則って、今 お金のシステムも 家族のあり方も 大きく変わろうとしています。




富の偏在から抜け出して お金の介在しない生き方を模索する動きは、すでにあちこちで始まっているようです。

ご参考までに、こんな話こんな話も。

家族のあり方についても、大家族から核家族への移行の中で見えてきた、家族に恵まれない人の不幸や、閉鎖空間となった家庭で起こる 虐待などの悲劇を踏まえて、誰もが幸せになれる 新しい形を探る動きが出てきています。

「神との対話」 では、先住民族に見られるような 若い世代が生んだ子どもを 智恵のある年長者が育てるコミュニティについての話があります。

性的に成熟する年齢と 人として成熟する年齢に 大きな開きがあるのに、「子どもをつくったら、育てる責任もひとりで負わねばならない」 という考え方のために起こる さまざまなひずみをなくすために、大人たちが それぞれの得意な役割を発揮して、コミュニティ全体で助け合いながら子どもを育ててゆくというスタイルの提示。

また、前に何度か書いた 映画 「美しき緑の星」 では、氣候が穏やかなのか 家すら持たない戸外での生活、家族はあるけどそれにこだわらない、という感じのゆるやかな暮らしぶりが描かれていますし、他にも このような文章での提言もあります。




たとえば、「いい学校を出ていい会社に入ることが 幸せな人生を約束する」 などと信じている人は もはやそうそうないだろうに、学歴重視で 少しでも条件のいい会社への就職に熱を上げる動きが いまだに続いているのは、それに変わる形を見つけられないからやむを得ず という人が大半でしょう。

もっといい道が見つかれば、古い形など ためらいなく手放す人が増えるはず。

一見混乱状態に見える 今の社会でも、新しい答えに通じる道は、目立たないながらも 少しずつ開かれ始めています。




こういう世の中に、今よりさらに古い社会の通念を持ち込んでも、苦しい目を見るだけのような氣がする。。。。というのが、童話や昔話の “インセプション効果” に 私が懸念を覚える理由です。




童話や昔話を読んだからといって 必ず特定の思い込みが生まれるとは限らないし、私自身 長年慣れ親しんできた なつかしいお話の数々を否定するつもりはないのです。

ただ、与えようによっては そういう作用があるかもしれないとわかった上で、新しい時代を創ってゆく子どもたちに それにふさわしいものの見方 ・ 考え方が育ってゆくよう、力を貸しながら 見守ってあげられたら、と思うのです。





















童話や昔話に見る 「インセプション」 ~ その2

2015年11月02日 09時07分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


まずそもそも 「悪」 ってなんなのよ、という話になりますが、これもまた 細かく見れば 人の数だけ解釈がありそうなテーマで、多くの場合、自分の側が善で 対極にあるのが悪、となりそうな氣がします。

ただ、そんな個人個人の分け方を越えて 最大公約数的に 誰が見ても許されないでしょう、という 「悪」 が存在する、という見方もありますね。

殺したら悪、奪ったら悪、だましたら悪、というような。

古くからある童話や物語には、こういう誰もが悪と認める敵役が 善良な主人公に害をなし、犯した罪の報いを受ける、というパターンが数多く見られます。

悪を倒して、めでたしめでたし。




このブログで すでに繰り返し書かせていただいていますが、私は、もうこの勧善懲悪の視点のみでは、今の そしてこれからの安らかな暮らしは 成り立たないと思っています。

勧善懲悪が悪いとかいうことではありません。

ただ、この視点一辺倒では、問題を解決することも 問題を生まないことも不可能だと思うのです。

善 ・ 悪と分けた時点で 対立は避けられず、悪から目を背けようと 善を強化しようと、悪もまた強くなるのは 自然の成り行きなのですから。




今 そしてこれからの世界は、二極の対比をうまく活かしつつ、それを越えた答えを見出すときに来ています。

特に、これから成人して 私たちの後を引き継いでくれる子どもたちには、せひとも確かな智恵や力を身につけさせたいもの。

そんな子どもたちを、頭も心もやわらかいうちから、鬼は退治されたよ、悪いオオカミはやっつけたよ、キミたちは こんな悪者になっちゃダメよ、悪い者をやっつける 正しい大人になりなさい、というメッセージ満載のお話に親しませて 大丈夫なのでしょうか。




子どもだって 腹が立つこともあるし、それを抑えつけられれば 怒りを溜め込みもします。

反動で、悪いとわかっていても、乱暴をはたらくこともあります。

そこで 頭ごなしに叱りつけられでもしようものなら、ますます怒りが膨らむ一方で、そんな自分を悪いやつ、ダメなやつと責める思いも起こり、怒りと自責に引き裂かれ、深く傷つくことになります。




溜め込んだ怒りや 傷の痛みをどうにかしようとする衝動は、思いのほか強いもの。

バランスをとろうとしての暴力的言動は、抑え込もうとすれば 隠れてでもやろうとします。

最近のいじめや 青少年の犯罪が どんどん激しさと陰湿さを増しているのは、それこそ悪を排除しようとするばかりで、一番根っこのところに目を向ける ・ 向けさせるケアが まだまだ少ないからではないでしょうか。




童話や昔話を、短絡的にいじめや犯罪に結びつけるつもりはありません。

でも、もはや勧善懲悪の精神のみでは 今の子どもたちの悩みや混乱を押し留めようがないという事実を見逃して、童話だからおとぎ話だからと そういう精神の植えつけにつながる物語を 安易に与え続ける大人のありかたは、そのまま 悩める子どもたちを救い切れない現状につながっているような氣がしてならないのも、また事実。




もう少し続きます。



















童話や昔話に見る 「インセプション」 ~ その1

2015年11月01日 16時32分41秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「インセプション」 などと、お氣に入り映画固有の用語を ブログ内で公然と使わせてもらっていますが、要は 後付けで情報を植えつけること、いわゆる 「刷り込み」 のことです。

特に、脳の回路が未完成の幼いころに刷り込まれたものは、後付けと氣づかないまま がっちり根づいて 自身の観念として育つので、後年ややこしいことになるんですね。




で、最近にわかに氣になりだしたのが、童話や昔話。

「二極世界と それを越える視点」 がテーマとなったこの秋、なにを見ても なにを聞いても、金太郎飴のごとく このテーマが切り口として覆いかぶさってくるのですが、小さいころより慣れ親しんだ おなじみのお話の世界が、意外と この二極世界思考のもととなる インセプションの一端を担っている氣がしだしたのです。




童話や昔話には、洋の東西を越えて ある程度の定型パターンがありますが、そのひとつが、勧善懲悪もの。

鬼ややまんば、悪い王様に魔女、なぜか悪者扱いが多いオオカミなど、正義の鉄槌を受けて懲らしめられる悪役も いろいろですが、悪がそのまま見逃されることはない、というメッセージは たしかに大切でしょう。

一方で いささか氣になるのが、貧しいが心は清らかな主人公と 悪辣な金持ちの隣人の組み合わせ、シンデレラのような 継子イジメもの、そして この二つを含め おしまいに悪役が死ぬか、悲惨な末路をたどるお話。

とりようによっては、こういう物語の中に、今の世の中の生きにくさ ・ 生きづらさを助長するようなメッセージが、子ども向けというオブラートに包まれて さりげなく内在しているのではないかという氣がするのです。




つい先日のこと、「どんな自分であっても、欠点だらけでも できないことだらけでも、愛されていいんだ」 とわかって、思わず泣いてしまったことがありました。

「アナ雪」 のところで書いたように、自分の至らなさに氣づくたび 「今はそういう自分でいい」 と ひとつひとつ受け入れてきましたが、そこから大きく発展して、どんなダメダメな自分でも 宇宙は受け入れ 愛してくれるんだ、だから ダメなところを不安がったり隠そうとしたり、罰を恐れたりすることなく、そのまんまで堂々と生きていいんだ、と 突然腑に落ちたのです。

しばらくその温もりと安堵感に浸っていましたが、その後不意にぱっと脳裏に浮かんだのが、なぜか 子どものころよく読んだ 「舌切り雀」 の絵本。




幼いころからずっと、いい子の優等生でいることを 存在の拠りどころとしてきた私。

その思い込みに、何氣なく読んでいた こういう昔話や童話の教訓が 一役買っていたと、そのとき氣づいたのでした。

悪とは 憎まれ 罰され、ときには命を奪われても 文句を言えない存在。

悪い者であってはならない、いい子でなければ愛されない、受け入れてもらえない。




まさか こんなところに 「条件つきの愛」 という観念の刷り込み元があったとは。

そういう目でたどっていくと、善と悪が対立し、善が勝利を収めるという構図を持つお話って、ちょっと注意する必要があるんじゃないかという氣がしてきました。




続きは 次に。