毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

地球をおんぶ (^o^)

2015年02月06日 11時35分09秒 | 日々の楽しみ


ときたま遊びに行く、「診断メーカー・ネーコンのねこ」



きょうの○○ (貴秋の本名) さん : だいのじねこさんがでました。なにもしてないわけじゃないんですちきゅうをおんぶしてるんです 




あはははははははは (≧▽≦)




外っかわは、およそ非生産的・非効率的、うらうらのどか、だいのじでひなたぼっこも またよし♪

内っかわは、思いっきり生きてるよ~ \(^o^)/




ちきゅうをおんぶ。。。。。




言ったでしょ、心は世界よりも大きいって☆






素朴でかわいいねこさんのイラストもお氣に入りです(*^ー^*)






















新しい選択

2015年02月06日 10時05分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうの記事にちらっと出てきた、「ハリーポッター」 。

このお話では、悪役が 徹底的に “悪” として描かれます。

ラスボス・ヴォルデモート卿と その取り巻きメンバーはもとより、育ての親のダーズリー一家も シンデレラの継母や義姉妹のような お約束の扱い。

悪役要素がそっくりそのまま 人の形をとった、というところでしょうか。

その末路も 悪が滅び 善が勝つ、王道の筋書き。

いや、ダーズリー一家は滅びはしませんが、幸せとも言いがたい退場となっています。




これほどの人氣作品に こういうことを言うのもなんなんですが、お氣に障った方がおられたらごめんなさい。

私、ラストでかなり氣落ちしてしまったんです。

多彩な登場人物、生き生きした学校生活の描写、スリリングな展開、ドキドキワクワク 長いことかけて楽しませてもらったお話だけに、最後の最後でしゅ~っとしぼんでしまったみたいで。。。。

勧善懲悪は 一種の様式美ですが、ここに導かれると、お約束なだけに どうしても薄っぺらい感をまぬがれない氣がします。

あれだけ大きく魅力的に膨らませたお話なのに、つまるところは 水戸黄門や遠山の金さん (古い!) と似たような締めですか、みたいな。。。。




対立図式がそっくりそのまま残されている以上、あのラストシーンも 平和な光景とはとうてい思えない。

ロンなんか、自分の子どもとマルフォイの子どもの対抗意識をあおるようなこと言ってるし(- -;)

ハリーの額の傷が 今疼かないからといって 先の保証にはならないよ、何世代先かはわからないけど、そのままだったら また争いが再燃するのは目に見えてるよ~、と注意を促したいぐらいです。




途中で もしかしたら、という期待はあったんですよ。

ハリーと敵であるヴォルデモートとの不思議な相関現象や、組み分け帽子が 寮ごとの対抗意識を捨てなさい、と戒めるあたりや、スネイプ先生の どっちつかずで謎な行動などから。

善悪にくっきり色分けされたものが 深みを増すように塗り替えられるのかな? と 身を乗り出したのですけれど。。。。。(T_T)

悪が倒れてハッピーエンド、という結末が、ぜんぜんハッピーに思えない人に、私がなってしまったんですね。




前にも書いたと思うけれど、私が小さかった頃は、子供向けのアクション・冒険アニメや特撮物は だいたいが この “正義は勝つ” のシンプルパターンでした。

また、成人前後に流行った刑事物や時代劇なども そのほとんどが 善が悪を懲らしめるおなじみの筋書きで、遠山の金さんの桜吹雪や 水戸黄門のご印籠などは 毎週お決まりのカタルシスの象徴だったんですね。

ああいうお話で 多くの人が満足できたあの時代は、貴秋言うところの 「行き」、つまり 私たちのあり方が 本来のものからどんどん離れていく時代だったのだと思います。




そして、今。

テレビを見ないから 詳しいことはわかりませんが、ああいうシンプルな筋立てのドラマやアニメって、すっかり鳴りを潜めたようですね。

時代劇自体 ほとんど見かけないし、アニメが夕方の時間帯からあらかた姿を消し 深夜枠に移行しているのにもびっくり。

内容が複雑になったために、小さな子供向けに放映できなくなった、ということなのかしら。

おとなについても、現実世界の様相と照らし合わせて、毎週毎週 1時間の枠内で おなじみのカタルシス劇に溜飲を下げて 先に希望を見出せるような時代ではなくなってきた、というところでしょうか。

話題作だったらしい 「半沢直樹」 も、たまたま実家で最終回を見た、というか、音だけなんとなく聞いていましたが、もう善が悪を懲らしめよかったね~、では 満足できないほど、人の心がざらつきやすくなっているのかもしれませんね。




悪を倒せば 幸せになれる、と 無邪氣に信じていられた時代から、より複雑になった混迷から どうやって抜け出せばいいのか見えなくなっている時代へ。

一見悪くなったようですが、私はそうは思いません。

だって、そもそも 「勧善懲悪」 なんて、幻想だったんだもの。

自分の中の “悪”を認められなくて 外に投影して切り離し、それをやっつければ平和になるという夢物語を、薄々嘘と氣づきながらも 強引に信じ込んでいただけ。

まさに モノノ怪の源慧さんの姿ですよ。

そんなごまかしが効かなくなってきたっていうのは、幻に逃げ込むのをやめて、ほんとうの自分を受け入れ ほんものの平和を実現するビッグチャンスがやってきた、ということでもあります。




流れが変わったことに氣づかず 前と同じ反応で切り抜けようとすればするほど 苦しい時代でもあると思います。

古いものが壊れるさまは 一見破壊的ですが、それは よりよい新しいものを創るための土台作りでもあります。

「悪がある」 と思い込むことで悪を生み出した 自分の心をよぉく見つめ、幻を幻と認めることで、自分も世界も変わる。

自身を見直し、以前と違う新しい選択をする人が 増えれば増えるほど、世の中全体がソフトランディングできる、と おおいに希望を抱いている貴秋です(^^)























受身

2015年02月05日 22時55分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


心友 月うさぎちゃんのブログ記事 「観るということ」。

忘れていたことを思い出させてくれた、ありがたい文章です。

受身でいることの心地よさ、柔らかな強さ。

からだの感覚に集中するときなど、「感じてやるぞ!」 とばかりに掴みに行っていた力みに 氣づかせてもらいました。




数年前に大評判となった、J・K・ローリング作 「ハリー・ポッター」 シリーズ。

あの中に ディメンター (吸魂鬼) というのが出てきます。

魔法使いの監獄・アズカバンの看守で、人間の喜びや幸福感を糧とし、時には魂を直接吸い取って 廃人同様にしてしまう、恐ろしい存在。

彼らが近づいてくると、寒氣とともに この世からすべての喜びが消えてしまったような感じを覚えて、力を失います。

このディメンターを追い払うのが 守護霊の呪文なのですが、これは 魔力も心も強い魔法使いにしか使えない 難易度の高い呪文で、これを唱えるときのコツは、ディメンターがもたらすのと対極の 深い幸福感を思い浮かべること。

もちろんこれは物語上の設定ですが、このコツ、私たちの日常にも おおいに意味があるように思うのです。




「ワンピース」 などの冒険物やアクションマンガを見ていると、負けるものかと互いに全力で戦うシーンが目白押しですが、こういう対立様式は これまでは 物語の中でも 現実世界でも主流だったけれど、これからの世界にはそぐわないんじゃないかっていう氣がします。

同じリングに上がり 力で退けようとした時点で、「敵という存在がいる」 ことを認めている。

その 「認める」 という行為自体が、「敵」 を生み出し、力を与えているんですね。

このからくりを解かない限り、たとえ桁違いのパワーで 一時的に圧倒しても、いずれは報復を誓い 再び力をつけた相手にまた押し返されるだけ、争いの根はどこまでも残り続けて 果てがない。

その一部分を切り取って ハッピーエンドの物語に仕立ててみたところで、ほんものの幸せと結びつくものではないことを、心の底では 誰もがわかっているんじゃないかな。

まあ マンガやドラマ、格闘スポーツなどは、わざとこういう形式を作り出して楽しむものだからいいのですが、これが 無自覚のうちに 私たちの心のあり方や人間関係に及ぶと、日常の平穏がかき乱されることになります。






受身でいるとは、力を抜いて、この対立という形から 抜け出すこと。

力んで自らコントロールしようとするとき、その底には 必ず恐れが潜んでいます。

不安だから 恐いから、どうにかしようと必死になるのですね。

受身でいるとは、恐れも含めたすべての感覚 (「感情」 ではないところがポイント) を やってくるがままに ただ受け取り、なるがままに任せること。

戦いの場に上がらず、一歩退いたところから 全体を 観るともなく観ていること。

脳を使わず、言葉も使わず、判断解釈せず、自分からは一切仕掛けないで、ただ映るものを映るがままにおき、 感じていること。

ひとつだけ努力が要るのは、長年のクセで ともすれば 感覚が呼び覚ます “感情が紡ぐ物語” に向かいそうになる意識を、感覚そのものに 根氣強く引き戻すところです。

「ハリー・ポッター」 の守護霊の呪文を放つのに、ディメンターが作り出す 寒々しい世界に取り込まれることなく 幸福感に焦点を移す、それと同じように。






私たちは、「あり方」 という 見えない面を忘れて、目に見える 行動や その結果にフォーカスしがちです。

長いこと そのように仕向けられてきたので、それ以外にできることがあるなんて 思いもつかない。

見える世界でなんとかしようとするときは、どうしても 「どうするか」 「何をするか」 ばかり考えてしまって、敵やら戦いの場やらを創り出しているのが自分だということに 容易には氣づけません。

そして これまでの世界は、ずっと この 目に見える形に重点をおいて 推移してきました。

その結果が、今 私たちが 目の当たりにしている世界。




もし このまま進んでいきたくないと思うのなら、そろそろ 「あり方」 や 「見えない世界」 に光を当てる時期なのかもしれません。



















世界よりも大きい心

2015年02月03日 11時55分53秒 | 紡ぐ暮らし


風がびゅうびゅうきついけど、冴え冴えと晴れ渡った青空の氣持ちいいこと。

きょうも部屋の中はぽかぽかです (*^ー^*)




モノノ怪だの あの世だのと 浮世離れしたことばかり書き綴りながら、一方で日々の暮らしもちゃ~んと楽しんでおりましたよ




1月は 読み聞かせが2回、うち1回は 臨時のお声がかりで 町内の保育園へ。

小学生より さらに幼い子どもたちの、なんとまあ 生き生き輝いていること

無垢なまなざしを一身に受けて、幸せなひとときでありました




昨年から買ってあった毛糸で ネックウォーマーも編み始め、あとはゴム編み止めをして、平たい生地をとじて筒状にすれば 出来上がり。

久々に棒針で編み物をしたけれど、これもまた楽しいものですね♪

図書館で、絵本といっしょに 棒針編みの本も借りてきちゃいました (≧∀≦*)

今回のネックウォーマーはプレゼント用だけど、前からしまってある毛糸で 自分にも編もうかしら




そうそう、心友cocoちゃんに教わって、ストーブで焼き芋もしましたよ♪

鍋を使ったストーブクッキングはさんざんやっているのに、なぜか直焼きを思いつかなかった私 (ノ≧ڡ≦)

さっと洗ったサツマイモを 濡らした新聞紙で包み、さらにアルミホイルでしっかり巻いて、焼き網の上に どん☆

ときどきトングで引っくり返しながら焼くこと数十分、やがて部屋の中に なんともいい匂いが ただよい出して。

ホイルの上から トングでそっと押さえると、柔らかくなっているのがわかります。

火から下ろして ホイルと新聞紙を外し、端っこをぱくっとひとかじりすると、甘~~~い

オーブントースターで焼いたのより さらにホクホク甘々、ほんのり焦げた皮も香ばしく

食事前だから少しだけ、のつもりが、やめられない止まらないで 丸ごと1本ぺろり、結局夕飯代わりになりましたとさ(笑)




こんなのどかな暮らしの外で、いろいろと起こっていることもあるようで。。。

テレビも新聞も持たない私にさえ、なにくれとなく伝わってくるものはあります。

以前だったら、こんなことやってていいのかな~、現実逃避じゃないのかな、って 不安にかられたことだろうなぁ。

でも 今はわかる、逃避なんかじゃないってこと。




貴秋的には、不安から目を逸らし 見ないようにするのが、逃避。

不安をもとっくり見つめた上で それ以上選択しないと決めるなら、 それは前向きな意思。

何度も引用させてもらっていますが、

          「逃げようとすれば 相手は大きくなる。見つめれば、消える」  (ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 より)





自分の世界は 自分で創るもの。

目に映るものすべて、自分の中にある。

心は 世界より大きいのです \(^o^)/






















おまけ

2015年02月02日 19時43分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の話。

夜中に文章考えていたことがあって、かなり集中していたときのこと。




となりの台所から、なにやら紙袋かなにかが ガサガサいう音が。

虫? 。。。にしては、重量感ありすぎる。

だいたい、この寒い季節に ゴキブリだってムカデだって 見かけやしない。




前にも 不安定に積んであったものが、ガサガサ、ズズーっ、どさっ、と崩れたことはあるけれど、それにしては ガサガサ音が長すぎる。




ガサガサ、ガサガサ。。。。。




もしかして・・・・・・




きた?




あちらから。。。。。。




( ̄∇ ̄;)






まあ、この家でも 前の家でも 説明のつかない妙な音がするぐらいのことは 以前からあったのです。

先月は、集落内で 10日ほどの間に 立て続けに3軒もお葬式あったしな (^_^;)




いや、わかりませんが。




でも、書いてる内容が内容だし、もしかすると、と思って。

「ちょっと~、静かにしてよ」 って言ったら、ぴたりと止みました。




(^◇^;)






でもね、え!? って感じではあったけど、格別怖くもなかった。

だって、からだがあろうがなかろうが、人ってたいして変わらないんだな、って思うようになったところだし。

だとすれば、存在を知らせようとしただけなのか、ちょっと脅かしてやれと思ったのか、その程度ならかわいいものではあるけれど、いずれにせよ そんなのはノーサンキュー。

だから、こう言ったんです。




「私はもう この世だろうと あの世だろうと、そんなちょっかいにはいちいち反応しないことにしてるから。

 氣を引こうとしても無駄だよ。

 揉めるとかいがみ合うとか そういうの通り越して、もっと大きな世界に向かうって決めてるんだから。

 そっちこそ そんなことしてる場合じゃないでしょ。

 その氣になりさえすれば、いったんきちんと来たところに帰って、終わったばかりの人生で 当初の計画通りにやれたかどうか 振り返って、

 今度はもっとうまくやろうって 次の機会に備えるとか、することはいくらでもあるんだよ。

 人は、何回でもやり直せるの、限りなくチャンスをもらえるの。

 それを つまらないイタズラしてる場合ですか!」






いや・・・・・これ 思い過ごしだったら、いちばんアブナく見えるのは 真夜中にひとりでこんなことブツブツしゃべってる この私だよね。




(^◇^;) (^◇^;) (^◇^;)






まあいいや。。。。

とにもかくにも、そういう氣持ちなのです。




もう 低い次元で つまらないことごちゃごちゃやってる時ではありません。

ひとりひとりが 調和の取れた 明朗な心でいるだけで、世界は変わるのだから。


背筋びしっと伸ばして、顔上げて、しっかり前向いていこー!

















この世界ならでは

2015年02月02日 09時34分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に登場していただいた “この世ならざるものが見える方” は、ご自身のブログにはっきりと、「霊は自分の想いで世界を作る事ができる」 と書いておられます。

やっぱりそうなんだ~。

あ、私は 肉体を持ってこちらで生きているときからできると思っているけど。

ただ、時間概念が作用するこちらの世界では、思ってから実現するまでに かなりのタイムラグが生じるので、因果関係がなかなか見えないんですよね。

そこへいくと、霊さんたちの世界は 即決即断・・・じゃない、即思即現?(なにそれ)




しかし、いったん囚われたおのれの心が なかなか思うようにならないのは、あちらもこちらも同じようです。




この方のブログを過去に遡ってず~っと読ませていただいて思ったのは、この方が書かれるように 霊になってからでも 地獄に落ちるのが怖さに 生きている人間にしがみついたり、腹いせにとり憑いて怖がらせるなどの意地悪をしたりするものならば、人って 生前も死後も 意識や感情においてはさして変わらないんだなっていうこと。




魂の世界に戻ろうとしない霊さんにも 救いの手は差し伸べられるようです。

呼びかけて連れ戻そうとする存在 (ご先祖さまや 魂のグループなど) のことが、この方のブログにも、「第十の予言」 にも書かれています。

ただ、思い込みの強すぎる霊は、呼びかけに応えなかったり逃げてしまったりするようで、やはり自分の意識が変わらないと、選択や行動を変えることもできないのですね。




問題は、この 「意識を変える」 というところ。

自分の世界観が具現化した状況を 身をもって味わうことで、「このままでいいのかな?」 とか 「こんな人生じゃいやだ!」 とかいう思いが湧き、それが意識の転換点になるのが、私たちこちら側の人間の氣づきと成長。

つまり、「身」 がなければ できないことなんだよね。

私は 「からだの感覚にフォーカスする」 っていうのを とても効果的な手立てだと思っているけれど、生身のからだのない世界では どうすればいいんだろう?




私たちは、この三次元世界に生まれることで 本来無限の身に さまざまな制約を負ったわけだけれど、肉体を持ち 自他に分かれることで、自分というものを 体験的に知ることができるようにもなったんですものね。

にっこり笑いかければ、仲良くなれる。

意地悪すれば、嫌われる。

他者を通じて返ってくる反応、他者という鏡にありありと映る 自分の姿。

自分を知り、変え、成長するのにうってつけの この三次元という場に立ちたいがために、不自由な思いをしてでも この世に生まれることを望んだのであって。




そんな五感で受け止められるからだを手放した後でも コントロールドラマに悩まされなければならないとしたら、ブレイクスルー、大変だろうなぁ。。。




「この世ならざるもの」 が見えるブログ主さんは、霊に限ったことではなく 動物やら 他の星の方々やら さまざまな存在の中に 時空を超えて入り込み、その視点から物事を見る力をお持ちだそう。

こちらの人間に向けての伝達手段を持たない霊さん動物さんたちに、伝言を頼まれることもしばしばだとか。

そして この力を使い、この世の尺度や手段だけでは解決できないような問題についての相談にものっておられるようです。

霊視というのをされて、できることなら引き受けるし、ご自分の手に負えないケースは断られるとのこと。

ここで私の関心が向いたのが、浄霊と除霊の違いについて。




この方がなさるのは、浄霊、いわば 説得されれば 渋々ながらであっても応じてくれる場合の対応。

こちらは、最終的には 納得の上成仏してくれるから、ハッピーエンド。

対して 除霊はというと、負の念があまりにも強過ぎて 聞く耳持たないようなケースに対してとられる強行手段。

放っておくと 害が大き過ぎるので、強制退去ということですね。

モノノ怪の薬売りさんがやってるのは、こっちのほうなわけだ。

なるほどこれは、祓うほうも よほど力が強くないと 危ないよね。




こちらの世界でも 聞く耳持たず 違法行為に及べば、強制的に拘束・隔離されるところは同じ。

でも、こっちでもあっちでも、とりあえずまわりに害が及ばないよう 「応急処置」 は施せても、それですぐ その人が心から こんなことはもうやめよう! と思えるようになるわけではありません。

人の心を変えられるのは、どこまでいっても 本人の意思のみ。

そして、そういう建設的な変化が起こせるのは、自他に分かれて 二元対立概念のもと、さまざまな触れ合い・ぶつかり合いの中で 心を揺さぶり動かすチャンスに満ち満ちている、この三次元世界にあってこそ。

霊になってしまってからでも 不可能とは言わないけれど、あまりにもハンデあり過ぎなんですね。




こんなふうに理解して以来、しみじみ思うのです。

無垢だった赤ん坊の身に わざわざ植え付けられた思い込みを 重荷に感じることもあるけれど、悩んで苦しんで なんとかしようとジタバタできるのも、手ごたえを感じてやった! と思えるのも、この世界に生まれてこられたからこそ。

だったらもう 不平不満は置いといて、この制約の多い世界だからこそできることを 目一杯やろうじゃないか、って。

そして、そんな人が増えて こちらの世が変われば、その影響は きっとあちらの世にもとどくはずだから、ってね。