毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

受身

2015年02月05日 22時55分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


心友 月うさぎちゃんのブログ記事 「観るということ」。

忘れていたことを思い出させてくれた、ありがたい文章です。

受身でいることの心地よさ、柔らかな強さ。

からだの感覚に集中するときなど、「感じてやるぞ!」 とばかりに掴みに行っていた力みに 氣づかせてもらいました。




数年前に大評判となった、J・K・ローリング作 「ハリー・ポッター」 シリーズ。

あの中に ディメンター (吸魂鬼) というのが出てきます。

魔法使いの監獄・アズカバンの看守で、人間の喜びや幸福感を糧とし、時には魂を直接吸い取って 廃人同様にしてしまう、恐ろしい存在。

彼らが近づいてくると、寒氣とともに この世からすべての喜びが消えてしまったような感じを覚えて、力を失います。

このディメンターを追い払うのが 守護霊の呪文なのですが、これは 魔力も心も強い魔法使いにしか使えない 難易度の高い呪文で、これを唱えるときのコツは、ディメンターがもたらすのと対極の 深い幸福感を思い浮かべること。

もちろんこれは物語上の設定ですが、このコツ、私たちの日常にも おおいに意味があるように思うのです。




「ワンピース」 などの冒険物やアクションマンガを見ていると、負けるものかと互いに全力で戦うシーンが目白押しですが、こういう対立様式は これまでは 物語の中でも 現実世界でも主流だったけれど、これからの世界にはそぐわないんじゃないかっていう氣がします。

同じリングに上がり 力で退けようとした時点で、「敵という存在がいる」 ことを認めている。

その 「認める」 という行為自体が、「敵」 を生み出し、力を与えているんですね。

このからくりを解かない限り、たとえ桁違いのパワーで 一時的に圧倒しても、いずれは報復を誓い 再び力をつけた相手にまた押し返されるだけ、争いの根はどこまでも残り続けて 果てがない。

その一部分を切り取って ハッピーエンドの物語に仕立ててみたところで、ほんものの幸せと結びつくものではないことを、心の底では 誰もがわかっているんじゃないかな。

まあ マンガやドラマ、格闘スポーツなどは、わざとこういう形式を作り出して楽しむものだからいいのですが、これが 無自覚のうちに 私たちの心のあり方や人間関係に及ぶと、日常の平穏がかき乱されることになります。






受身でいるとは、力を抜いて、この対立という形から 抜け出すこと。

力んで自らコントロールしようとするとき、その底には 必ず恐れが潜んでいます。

不安だから 恐いから、どうにかしようと必死になるのですね。

受身でいるとは、恐れも含めたすべての感覚 (「感情」 ではないところがポイント) を やってくるがままに ただ受け取り、なるがままに任せること。

戦いの場に上がらず、一歩退いたところから 全体を 観るともなく観ていること。

脳を使わず、言葉も使わず、判断解釈せず、自分からは一切仕掛けないで、ただ映るものを映るがままにおき、 感じていること。

ひとつだけ努力が要るのは、長年のクセで ともすれば 感覚が呼び覚ます “感情が紡ぐ物語” に向かいそうになる意識を、感覚そのものに 根氣強く引き戻すところです。

「ハリー・ポッター」 の守護霊の呪文を放つのに、ディメンターが作り出す 寒々しい世界に取り込まれることなく 幸福感に焦点を移す、それと同じように。






私たちは、「あり方」 という 見えない面を忘れて、目に見える 行動や その結果にフォーカスしがちです。

長いこと そのように仕向けられてきたので、それ以外にできることがあるなんて 思いもつかない。

見える世界でなんとかしようとするときは、どうしても 「どうするか」 「何をするか」 ばかり考えてしまって、敵やら戦いの場やらを創り出しているのが自分だということに 容易には氣づけません。

そして これまでの世界は、ずっと この 目に見える形に重点をおいて 推移してきました。

その結果が、今 私たちが 目の当たりにしている世界。




もし このまま進んでいきたくないと思うのなら、そろそろ 「あり方」 や 「見えない世界」 に光を当てる時期なのかもしれません。



















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