これまで何百回何千回と繰り返してきた感覚フォーカスの成果か、このところ受け取ったこちらが驚くような氣づきが増えています。
最近もっともインパクトがあったのは、台所仕事の最中不意にひらめいた 「スポーツにやたらと国別対抗が多いのは、ひとつには 『国と国』 という線引きを強調して印象づけるため」 というもの。
さらには 「国対国」 の構図に疑問を持たなくなった私たちの意識が 世界に蔓延する諸問題の解決を阻む一因になっているというところまで、一氣に思い至ったのです。
難民問題であれ 環境破壊であれ さまざまな虐待やハラスメントであれ、毎日のようにメディアを賑わす問題を根本までまでたどると、そのほとんどが 「富の格差」 に行き着きます。
お金がなければ人としての尊厳はおろか命すら危うくなる、そんな条件の下で拡大する一方の貧富の差は 何より真っ先に手をつけるべき問題であるはず。
そしてそのとき着目すべき線引きは 当然 「持つ者と持たざる者」 ですが、貴秋が今回氣づいたのは、「国と国」 という馴染み深い線引きが 一見無害なスポーツという分野を通じて私たちの内にことさら浸透することで、この 「持つ者と持たざる者」 という線引きから目をそらす役目を果たしているということでした。
五感の世界の私たちは、「自分と自分でないもの」 から始まる種々さまざまな線引きなしには生きていけませんが、線引きの基準に思い込みが影響することはままあります。
無作為に集めた人々を二つのグループに分ける場合、その線引きは 帽子をかぶっている人とかぶっていない人でも 赤いものを身につけている人といない人でも ネコが好きな人と嫌いな人でも 宇宙人の存在を信じる人と信じない人でも 無数に思いつけるはず。
でも 過去の情報をもとに思考を組み立てるマインドは、年齢や性別のように日頃から使い慣れている線引きを ついつい選んでしまいがちです。
そんなおなじみの線引きのひとつが この 「国と国」 であり、さらにそれを自然なことと思わせるのに一役かっているのが 私たちの暮らしと切っても切り離せないスポーツの世界である。。。。というのが 今回の氣づきです。
もちろんそれはスポーツのある一面でしかないし そんなことになったのがスポーツのせいだというわけでもなく、スポーツ自体を非難したり貶めたりする氣持ちは毛頭ありませんが、ただ それと氣づかぬうちに影響されやすいという意味で、この万人に愛されるスポーツというものを通じて知らず知らず入り込んでくる刷り込みには とりわけ注意を払う必要があると感じます。
その上で、いま世界中に広まっている 「他国の人間がわが国の豊かさを脅かす」 という対立意識にしっかり目を向けていようと思います。
私たちは、なじみ過ぎて当たり前になっていることには そもそも疑問を持とうという考えすら浮かびません。
そんな氣づきようのない思い込みでも 見つけて手放すことが可能だという話を、前々回の記事 に書きました。
そうしてどんどんほんとうでない情報が減ってゆくと、今度はいのちに結びついた本物の情報が 向こうからやってくるようです。
いのち本来の好循環の始まりです。