春の街には人があふれている。休みも終盤に近づくと、人間、遊びたくなるものらしい。
「烈兄貴ーっ、こっちこっち!」
その中を、初めて外に出してもらった仔犬のように豪がカッ飛んでいく。
「わかったから!走るな、人にぶつかるぞ!」
無駄とは知りつつ、大声で注意する。と、くらり、とめまいがした。
少し、風邪気味かもしれない。
今朝はすっきり起きられなかったし、頭痛もしてきた。
烈はぼんやりと空を仰いだ。
でも、今日はあいつに付き合うって決めたし。これくらいなら大丈夫だよな。
「烈兄貴ーっ!」
「…今行くよ!」
体調の悪さを隠すように、烈は笑顔で走り出した。
今春、豪は中学生になる。
そのせいか、時々見せるようになった大人っぽい表情にどきっとさせられることも烈にはあったけれど。
どうせ大きくなるだろうから、と指の先しかでないようなぶかぶかの学ランを着せられてた豪は、まだまだ可愛い弟だ。
あー、宿題がないっていいなー。来年もこうだったらいいのになー。
まったくだ。そしたら俺も楽が出来るのにな。
あははは…。
笑ってごまかすんじゃないっ。お前の尻を叩いて宿題をやらせるのも結構大変なんだぞ?
そんな会話をした日の夜、豪がそのハガキを持って来たのだ。
差出人はナンジャタウンで『-グランドフェスタリアンの皆様へ-特別ご招待のご案内』と書いてあった。
そこは券の代わりに手帳を購入するシステムになっており、施設内のどこかに隠されているすべてのスタンプを押すと、入場料がただ
になったり関連施設の入場料が割引になったりするという。
お前、いつこんなトコ行ってたんだ?
ま、いーじゃん!なー烈兄貴、春休み中にここに遊びに行こうぜ。これなら金かかんねーし!
うーん、春休みのイベントが花見だけってのもさみしいしな…行くか。
おっしゃーっ!
万年金欠の豪の起死回生の誘いに、烈は素直にうなづいた。
いつもなら藤吉にたかる豪が、自分の力でチケットを手にいれてきたのだ。
こいつもやっと中学生になる自覚が出てきたか、とその成長が嬉しくもあり、あっさり了承してしまった。
その時点で豪の術中にはまっているとも知らないで…。
意気揚揚と入場した豪は烈の手を取り、まっすぐにあるところに向かっていた。
今日一日は豪の好きにさせてやろう、と思っていた烈だが、それが見えてくると途端に身を翻した。
しかしがしっと手を掴まれて、列に引きずり込まれてしまう。
熱があがっているのか、ふわふわして体に力が入らない。簡単に振りほどけないのは、きっとそのせいだ。
そんな烈の状態を知ってか知らずか、豪がにっと不敵な笑みを浮かべた。
「逃げちゃだめだって、烈兄貴~♪」
「お前、知っててココ選んだなっ?」
アトラクションの看板を涙目で見上げる烈。
『サウンドホラー・RING…あなたを恐怖に誘います…』
サウンドホラー。
それはお化け屋敷など、自分で歩き回るものではなく、ただヘッドフォンをして座っているだけのもの。
ただ、出口から出て来る人々はみな揃って顔面蒼白で、その恐怖は並々ならぬものと思われた。
「ちっくしょ…ハメられた…」
烈がギリ、と歯軋りする。
これが遊園地とかいうのなら、警戒したかもしれないが、まさかこんなところに自分が苦手としているものがあろうとは…。
しかし、隣の豪はそんなことどこ吹く風で手を差し伸べた。
「さ、行こうぜ?」
こいつ、後で覚えてろよーっ!
こんなに人が密集しているところで暴れるわけにもいかず、烈はしぶしぶその後に従ったのだった。
やっとのことで通された室内は薄暗かった。
指示通り、ヘッドホンをつけ、木の椅子に座る。それが合図なのか、ろうそくの光がぽうっと灯った。
わずかとはいえ光を得て安心したのか、烈がほっと体の力を抜く。
ちらりと横をみれば、豪が浮かない顔をしていて。
(豪…?)
けれど、いきなり聞こえてきたザーッという耳障りな雨音がその思考を散らしてしまった。
「皆様、ようこそいらっしゃいました…こんなに濡れて…さぞお困りでしょう。さぁ、どうぞ館にお入り下さい…」
嵐の中迷った客人を執事が迎えた、という場面なのだろう。
これから恐怖が始まるのだ、と思うと烈の体は自然と震えてくる。
しかし、ろうそくがともって相対している客の顔が見える状態で、そんな情けない表情が出来るはずもない。
烈は少なくとも表面上は平静を装い、ただじっと事が終わるのを待った。
「この館にお客様をお迎えするのは何年振りですかな…ここもあの事件が起こるまではずいぶん賑わっていたのですが…」
もったいぶった言い方すんな、あの事件って何さ!と怖さを紛らわすためツッコミをいれるが、効果はないらしい。
そんな烈の手を不意にあたたかい手が握った。
「…?」
驚いて横を見ると、豪がしっと指を口に当てている。
安心させるように微笑む豪の笑顔に、一瞬、烈の顔にも笑顔が戻る。
「おや…?お客さん、あの時の方に似てますね…?」
コツコツコツ、と周りを歩いている靴音が響く。
その靴音が、ピタリと自分の背後でとまった。
耳元で囁かれる、不気味な言葉。
烈は思わず豪の手をきゅうっと握り返した。
まるでそれだけがこの世でたったひとつ、自分をまもってくれるというように。
(うわ、烈兄貴、すっげ、可愛い…)
普段頼ってくれない分、その手のあたたかさは豪をなによりしあわせな気分にさせてくれる。
「思い出しますねえ、あの日もこんな嵐でした…」
ガシャン!
窓の割れる音。
同時に風がすごい勢いで横面をひっぱたき、ろうそくの灯りは音もなくかき消える。
「きゃああああああっ」
あがった悲鳴をイベントのひとつと見たか、他の客は動じない。
しかし、豪は声をあげた人物の真横にいるのだ。いや、例え離れていたとしても、烈の声を聞き間違うはずはない。
いまきっと烈はかつてない恐怖にとらわれているはずだ。
「そうだ、ワインをお出ししましょう…さて…」
ぐしゃっ。
まるで一撃で頭をつぶされたような、嫌な音が耳元で響く。
ぴちゃ…ぴちゃ…。
「やはりワインは赤ですね…ふふ…いい色だ」
愉しげな声がすぐ耳元で聞こえる。まるで、自分の喉元にナイフを当てられているような気になる。
灯りがないので、烈の表情はよく見えないが、一向におさまらない震えがつないだ手から伝わってくる。
音しか聞こえない、というのはある意味見えてるよりタチが悪い。
ひとつの感覚が封じられると、人間はそれを補うために他の感覚を鋭敏にする。
それがよけいに恐怖をあおり、風邪の頭痛もあいまって烈の意識はもう限界寸前だった。
「…さようなら」
ガタン!と座っている椅子が沈む。
まるでそれは地獄への誘いのようで。
「っ!」
声にならない叫びをあげ、烈の意識は暗闇に飲み込まれていった。
「はーい、お疲れ様でした。お帰りはあちらですー」
誘導員の明るい声が響き、明かりがつく。
「あーあ、終わった終わった」
度胸のある人間が集まったのか、はたまたこういったイベントに慣れているのか、大して怖がってもいなかった客がぞろぞろと出口に
向かう。
「あー、怖かったな。な?烈兄貴?」
「…」
「烈兄貴?」
返事がない。と、握っている手からふっと力が抜けたかと思うと、烈は豪の方にズルリ…ともたれかかってきた。
「え?」
慌てて豪がその体を支える。
蒼ざめた顔。かたく閉ざされた瞼。荒い呼吸。
「烈兄貴?」
ふと気がついたように額に手を当てれば、わずかに熱い。
こんな抱きしめれば、いつもなら脊椎反射のごとく肘鉄を喰らわされるのに、今の烈はピクリとも動かなかった。
「もしかして気、失ってる…?それにこの熱…やっぱり…」
その時入り口の方から話し声が。次の客が入ってくるのだろう。
ここに留まっていたら、いい注目の的だ。
「烈兄貴!」
揺さぶっても、ペチペチと頬を叩いても、反応はない。
迷ったのは一瞬で、豪は覚悟を決めた。
烈の背中に手を回し、もう一方の手を膝の後ろに滑り込ませる。いわゆる「お姫様抱っこ」というやつだ。
身長は今、烈の方がほんの少しだけ高いが、体重は同じくらいだろう。だったらやってやれないことはない。
「ていっ。って、結構キツいな、こりゃ…」
気合一発。持ち上がりはしたものの、歩けるかどうかは危ういものだった。
それでも豪は額に汗を滲ませながら、出口に向かう。
「どうしましたか?」
そのただならぬ様子に係員が飛んで来る。
(あーっもう、今話しかけんなよ!)
いつもの豪なら、癇癪を起こして突っぱねるところだ。
しかしここで騒がれたら今までの苦労は水の泡。
豪はまるで烈が乗り移ったかのように、あくまで笑顔で、礼儀正しく応じた。
「大丈夫です。何だかこいつ寝不足だったらしくて…」
苦しい言い訳ながら、何とか相手は納得してくれたらしい。
「初デートかい?女の子の体調には気を配ってあげなきゃダメだよ?」
「たはは…」
(なんつーヤバいことを言うんだこの兄ちゃんは… 烈兄貴が気ィ失ってて良かったー)
「ほら、こっちから外に出るといい。すぐそこが公園だから」
人のいい青年は仕事中にもかかわらず裏口のドアに誘導してくれ、おかげで豪はほとんど人の目に触れることなく、烈を連れ出すことが出来たのだった。
風に抱かれている。
そこはこのまま、自分の存在すべてをゆだねてしまいたいほどに気持ち良くて。
「ん…」
ゆっくりと烈の瞳が開く。
「あ、気がついた?」
豪…?
頭がぼんやりとしていて、うまく反応が返せない。
枕にしては何だか変な感触に視線を動かせば、自分が豪に膝枕をされてることに気づく。
「うわぁ!」
気恥ずかしさにがばっと起き上がった烈の体が、ぐらりと傾ぐ。
「烈兄貴!」
豪の胸に抱きとめられて、一瞬息がとまってしまった。
「…」
心臓がばくばくいっている。
(な…何今さら緊張してんだよ。こんなの小さい頃はいつものことだったじゃないか)
「ごめん、烈兄貴。熱あったのに無理させちまって…」
それを見て豪は、しょんぼりと肩を落とす。
「気にするな、黙ってたのはこっちなんだから。それに気絶したのは怖かったから…って」
そこまで口にして烈の顔が真っ赤になる。
そういえば豪はここまでどうやって自分を運んだのだろう?
「ご…豪っ!」
「痛ッ」
肩をガシッと掴まれた豪が、わずかに顔をしかめた。驚いて手を離せば、心配ない、というように笑って見せる。
「お前…怪我してるのか?」
「んー、ちょっと違う。腰にきてるだけ」
烈はすばやく頭の中でシュミレーションを行う。椅子が落ちた時点で自分の意識は途切れている。
なら、おぶうのは無理だったろうから…。
「まさか…」
「あ、大丈夫大丈夫、あんな抱き方しちゃったけど、烈兄貴、男と思われていなかったから」
にっといたずらっぽく笑う豪に、烈は自分の予想が当たったことを知る。
お姫様抱っこかぁ…それなら確かに弟にされたと思われるより彼女に間違えられた方がマシだったかもしれない。
「とりあえず…ごめん、重かったろ?」
「それなんだけどさー」
するり、と腰に手を回されて、烈は危うく声をあげそうになった。
「烈兄貴、ちょっと軽すぎだぜ?ちゃんと飯食ってんのか?」
「よく言うよ、腰にきたって言ってたくせに…そっちこそちゃんと鍛えてんのか?」
照れからか怒りからか、ぼそっと憎まれ口を叩く烈。
豪はあはははーと笑ってごまかした。
「さって、どうする?もう帰るか?」
立ち上がろうとする豪の服の袖を烈がきゅ、と握る。
「あのさ…まだ熱があるから、寒いんだ。だから…」
真っ赤になった烈は、その後の言葉が言えないようで、口ごもってしまった。
「…だから?」
やさしく促せば、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で。
「…もう少しだけ、このままでいたい」
「了解♪」
一瞬だけ浮かべた幼い表情を隠すようにぱふっ、と烈が胸に顔をうずめる。
あたたかさに安心したのか、烈はすぐに眠りに落ちた。
「ねえ、烈兄貴、もう少しだけ…?」
寝息を立てる烈の髪を愛しげになでれば、甘えるように身を擦りつけて来る。
その頬に触れるか触れないかのやさしいキスを落とすと、豪は嬉しそうにつぶやいた。
「俺は、ずっと、このままでいたいな」
◇カッコ良い豪を目指して書いた話…だったはず。
「烈兄貴ーっ、こっちこっち!」
その中を、初めて外に出してもらった仔犬のように豪がカッ飛んでいく。
「わかったから!走るな、人にぶつかるぞ!」
無駄とは知りつつ、大声で注意する。と、くらり、とめまいがした。
少し、風邪気味かもしれない。
今朝はすっきり起きられなかったし、頭痛もしてきた。
烈はぼんやりと空を仰いだ。
でも、今日はあいつに付き合うって決めたし。これくらいなら大丈夫だよな。
「烈兄貴ーっ!」
「…今行くよ!」
体調の悪さを隠すように、烈は笑顔で走り出した。
今春、豪は中学生になる。
そのせいか、時々見せるようになった大人っぽい表情にどきっとさせられることも烈にはあったけれど。
どうせ大きくなるだろうから、と指の先しかでないようなぶかぶかの学ランを着せられてた豪は、まだまだ可愛い弟だ。
あー、宿題がないっていいなー。来年もこうだったらいいのになー。
まったくだ。そしたら俺も楽が出来るのにな。
あははは…。
笑ってごまかすんじゃないっ。お前の尻を叩いて宿題をやらせるのも結構大変なんだぞ?
そんな会話をした日の夜、豪がそのハガキを持って来たのだ。
差出人はナンジャタウンで『-グランドフェスタリアンの皆様へ-特別ご招待のご案内』と書いてあった。
そこは券の代わりに手帳を購入するシステムになっており、施設内のどこかに隠されているすべてのスタンプを押すと、入場料がただ
になったり関連施設の入場料が割引になったりするという。
お前、いつこんなトコ行ってたんだ?
ま、いーじゃん!なー烈兄貴、春休み中にここに遊びに行こうぜ。これなら金かかんねーし!
うーん、春休みのイベントが花見だけってのもさみしいしな…行くか。
おっしゃーっ!
万年金欠の豪の起死回生の誘いに、烈は素直にうなづいた。
いつもなら藤吉にたかる豪が、自分の力でチケットを手にいれてきたのだ。
こいつもやっと中学生になる自覚が出てきたか、とその成長が嬉しくもあり、あっさり了承してしまった。
その時点で豪の術中にはまっているとも知らないで…。
意気揚揚と入場した豪は烈の手を取り、まっすぐにあるところに向かっていた。
今日一日は豪の好きにさせてやろう、と思っていた烈だが、それが見えてくると途端に身を翻した。
しかしがしっと手を掴まれて、列に引きずり込まれてしまう。
熱があがっているのか、ふわふわして体に力が入らない。簡単に振りほどけないのは、きっとそのせいだ。
そんな烈の状態を知ってか知らずか、豪がにっと不敵な笑みを浮かべた。
「逃げちゃだめだって、烈兄貴~♪」
「お前、知っててココ選んだなっ?」
アトラクションの看板を涙目で見上げる烈。
『サウンドホラー・RING…あなたを恐怖に誘います…』
サウンドホラー。
それはお化け屋敷など、自分で歩き回るものではなく、ただヘッドフォンをして座っているだけのもの。
ただ、出口から出て来る人々はみな揃って顔面蒼白で、その恐怖は並々ならぬものと思われた。
「ちっくしょ…ハメられた…」
烈がギリ、と歯軋りする。
これが遊園地とかいうのなら、警戒したかもしれないが、まさかこんなところに自分が苦手としているものがあろうとは…。
しかし、隣の豪はそんなことどこ吹く風で手を差し伸べた。
「さ、行こうぜ?」
こいつ、後で覚えてろよーっ!
こんなに人が密集しているところで暴れるわけにもいかず、烈はしぶしぶその後に従ったのだった。
やっとのことで通された室内は薄暗かった。
指示通り、ヘッドホンをつけ、木の椅子に座る。それが合図なのか、ろうそくの光がぽうっと灯った。
わずかとはいえ光を得て安心したのか、烈がほっと体の力を抜く。
ちらりと横をみれば、豪が浮かない顔をしていて。
(豪…?)
けれど、いきなり聞こえてきたザーッという耳障りな雨音がその思考を散らしてしまった。
「皆様、ようこそいらっしゃいました…こんなに濡れて…さぞお困りでしょう。さぁ、どうぞ館にお入り下さい…」
嵐の中迷った客人を執事が迎えた、という場面なのだろう。
これから恐怖が始まるのだ、と思うと烈の体は自然と震えてくる。
しかし、ろうそくがともって相対している客の顔が見える状態で、そんな情けない表情が出来るはずもない。
烈は少なくとも表面上は平静を装い、ただじっと事が終わるのを待った。
「この館にお客様をお迎えするのは何年振りですかな…ここもあの事件が起こるまではずいぶん賑わっていたのですが…」
もったいぶった言い方すんな、あの事件って何さ!と怖さを紛らわすためツッコミをいれるが、効果はないらしい。
そんな烈の手を不意にあたたかい手が握った。
「…?」
驚いて横を見ると、豪がしっと指を口に当てている。
安心させるように微笑む豪の笑顔に、一瞬、烈の顔にも笑顔が戻る。
「おや…?お客さん、あの時の方に似てますね…?」
コツコツコツ、と周りを歩いている靴音が響く。
その靴音が、ピタリと自分の背後でとまった。
耳元で囁かれる、不気味な言葉。
烈は思わず豪の手をきゅうっと握り返した。
まるでそれだけがこの世でたったひとつ、自分をまもってくれるというように。
(うわ、烈兄貴、すっげ、可愛い…)
普段頼ってくれない分、その手のあたたかさは豪をなによりしあわせな気分にさせてくれる。
「思い出しますねえ、あの日もこんな嵐でした…」
ガシャン!
窓の割れる音。
同時に風がすごい勢いで横面をひっぱたき、ろうそくの灯りは音もなくかき消える。
「きゃああああああっ」
あがった悲鳴をイベントのひとつと見たか、他の客は動じない。
しかし、豪は声をあげた人物の真横にいるのだ。いや、例え離れていたとしても、烈の声を聞き間違うはずはない。
いまきっと烈はかつてない恐怖にとらわれているはずだ。
「そうだ、ワインをお出ししましょう…さて…」
ぐしゃっ。
まるで一撃で頭をつぶされたような、嫌な音が耳元で響く。
ぴちゃ…ぴちゃ…。
「やはりワインは赤ですね…ふふ…いい色だ」
愉しげな声がすぐ耳元で聞こえる。まるで、自分の喉元にナイフを当てられているような気になる。
灯りがないので、烈の表情はよく見えないが、一向におさまらない震えがつないだ手から伝わってくる。
音しか聞こえない、というのはある意味見えてるよりタチが悪い。
ひとつの感覚が封じられると、人間はそれを補うために他の感覚を鋭敏にする。
それがよけいに恐怖をあおり、風邪の頭痛もあいまって烈の意識はもう限界寸前だった。
「…さようなら」
ガタン!と座っている椅子が沈む。
まるでそれは地獄への誘いのようで。
「っ!」
声にならない叫びをあげ、烈の意識は暗闇に飲み込まれていった。
「はーい、お疲れ様でした。お帰りはあちらですー」
誘導員の明るい声が響き、明かりがつく。
「あーあ、終わった終わった」
度胸のある人間が集まったのか、はたまたこういったイベントに慣れているのか、大して怖がってもいなかった客がぞろぞろと出口に
向かう。
「あー、怖かったな。な?烈兄貴?」
「…」
「烈兄貴?」
返事がない。と、握っている手からふっと力が抜けたかと思うと、烈は豪の方にズルリ…ともたれかかってきた。
「え?」
慌てて豪がその体を支える。
蒼ざめた顔。かたく閉ざされた瞼。荒い呼吸。
「烈兄貴?」
ふと気がついたように額に手を当てれば、わずかに熱い。
こんな抱きしめれば、いつもなら脊椎反射のごとく肘鉄を喰らわされるのに、今の烈はピクリとも動かなかった。
「もしかして気、失ってる…?それにこの熱…やっぱり…」
その時入り口の方から話し声が。次の客が入ってくるのだろう。
ここに留まっていたら、いい注目の的だ。
「烈兄貴!」
揺さぶっても、ペチペチと頬を叩いても、反応はない。
迷ったのは一瞬で、豪は覚悟を決めた。
烈の背中に手を回し、もう一方の手を膝の後ろに滑り込ませる。いわゆる「お姫様抱っこ」というやつだ。
身長は今、烈の方がほんの少しだけ高いが、体重は同じくらいだろう。だったらやってやれないことはない。
「ていっ。って、結構キツいな、こりゃ…」
気合一発。持ち上がりはしたものの、歩けるかどうかは危ういものだった。
それでも豪は額に汗を滲ませながら、出口に向かう。
「どうしましたか?」
そのただならぬ様子に係員が飛んで来る。
(あーっもう、今話しかけんなよ!)
いつもの豪なら、癇癪を起こして突っぱねるところだ。
しかしここで騒がれたら今までの苦労は水の泡。
豪はまるで烈が乗り移ったかのように、あくまで笑顔で、礼儀正しく応じた。
「大丈夫です。何だかこいつ寝不足だったらしくて…」
苦しい言い訳ながら、何とか相手は納得してくれたらしい。
「初デートかい?女の子の体調には気を配ってあげなきゃダメだよ?」
「たはは…」
(なんつーヤバいことを言うんだこの兄ちゃんは… 烈兄貴が気ィ失ってて良かったー)
「ほら、こっちから外に出るといい。すぐそこが公園だから」
人のいい青年は仕事中にもかかわらず裏口のドアに誘導してくれ、おかげで豪はほとんど人の目に触れることなく、烈を連れ出すことが出来たのだった。
風に抱かれている。
そこはこのまま、自分の存在すべてをゆだねてしまいたいほどに気持ち良くて。
「ん…」
ゆっくりと烈の瞳が開く。
「あ、気がついた?」
豪…?
頭がぼんやりとしていて、うまく反応が返せない。
枕にしては何だか変な感触に視線を動かせば、自分が豪に膝枕をされてることに気づく。
「うわぁ!」
気恥ずかしさにがばっと起き上がった烈の体が、ぐらりと傾ぐ。
「烈兄貴!」
豪の胸に抱きとめられて、一瞬息がとまってしまった。
「…」
心臓がばくばくいっている。
(な…何今さら緊張してんだよ。こんなの小さい頃はいつものことだったじゃないか)
「ごめん、烈兄貴。熱あったのに無理させちまって…」
それを見て豪は、しょんぼりと肩を落とす。
「気にするな、黙ってたのはこっちなんだから。それに気絶したのは怖かったから…って」
そこまで口にして烈の顔が真っ赤になる。
そういえば豪はここまでどうやって自分を運んだのだろう?
「ご…豪っ!」
「痛ッ」
肩をガシッと掴まれた豪が、わずかに顔をしかめた。驚いて手を離せば、心配ない、というように笑って見せる。
「お前…怪我してるのか?」
「んー、ちょっと違う。腰にきてるだけ」
烈はすばやく頭の中でシュミレーションを行う。椅子が落ちた時点で自分の意識は途切れている。
なら、おぶうのは無理だったろうから…。
「まさか…」
「あ、大丈夫大丈夫、あんな抱き方しちゃったけど、烈兄貴、男と思われていなかったから」
にっといたずらっぽく笑う豪に、烈は自分の予想が当たったことを知る。
お姫様抱っこかぁ…それなら確かに弟にされたと思われるより彼女に間違えられた方がマシだったかもしれない。
「とりあえず…ごめん、重かったろ?」
「それなんだけどさー」
するり、と腰に手を回されて、烈は危うく声をあげそうになった。
「烈兄貴、ちょっと軽すぎだぜ?ちゃんと飯食ってんのか?」
「よく言うよ、腰にきたって言ってたくせに…そっちこそちゃんと鍛えてんのか?」
照れからか怒りからか、ぼそっと憎まれ口を叩く烈。
豪はあはははーと笑ってごまかした。
「さって、どうする?もう帰るか?」
立ち上がろうとする豪の服の袖を烈がきゅ、と握る。
「あのさ…まだ熱があるから、寒いんだ。だから…」
真っ赤になった烈は、その後の言葉が言えないようで、口ごもってしまった。
「…だから?」
やさしく促せば、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で。
「…もう少しだけ、このままでいたい」
「了解♪」
一瞬だけ浮かべた幼い表情を隠すようにぱふっ、と烈が胸に顔をうずめる。
あたたかさに安心したのか、烈はすぐに眠りに落ちた。
「ねえ、烈兄貴、もう少しだけ…?」
寝息を立てる烈の髪を愛しげになでれば、甘えるように身を擦りつけて来る。
その頬に触れるか触れないかのやさしいキスを落とすと、豪は嬉しそうにつぶやいた。
「俺は、ずっと、このままでいたいな」
◇カッコ良い豪を目指して書いた話…だったはず。