8月18日は私の引揚げ記念日である
昭和20年(1945年)8月18日
敗戦から4日目
豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族
父(45歳)を除いた
母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳)
私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月)
7人が 北海道の伯父宅へ引揚げることになった
大人たちと違って
危機感 不安感はなく 戦争が終わったという開放感でいっぱい
半袖のよそいきのワンピースにズボン
小さなリックに着替えと 食料だけ入れ
伯父の家に遊びに行くような呑気な気持ちでいた
午後3時頃駅に着くと
大きな荷物を背負った人でごった返し
奥地から着いた貨物列車の
無蓋車に積まれた荷物の上にも
大勢の人が乗っていた
見送りの父に促され
家族7人
無蓋車によじ登って乗った
父は豆粒のようになっても ホームにずっと立ったままだった
屋根のない貨物車のシートはごつごつしており
積んであるのは大砲らしい
奥地からきた人たちが口々に
ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き
恐ろしさと緊張感を感じた
汽車はノロノロ進み停車が多かった
“新場”という駅では長い停車だった
いつ発車するかわからない
列車から降り 草むらで用をたそうとした時である
ポ~~ツと汽笛を鳴らしてゆっくり動きはじめた
慌てて駆け寄り 乗ろうとしたが 一人では無理
妹の泣き叫ぶ声がきこえる
その時誰かが 貨車の上から手を差し伸べてくれた
つかまってよじ登り やっと貨車に乗った
後で豊原医專の学生さんだったのを知る
置き去りになる恐怖感不安感は全く覚えていない
大きな夕日が綺麗だったことだけが 鮮明に覚えている
暗くなって大泊に着いた
駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている
姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だが
誘導され映画館で待つことになった
館内も溢れんばかりの人人人である
乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごす
再び夜になりやっと順番がきた
港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた
母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち
4才の弟は長姉に手を引かれ
3人も後に続いた
母は荷物が重くて途中捨てようとした時
兵隊さんが現れ持ってくれた
やっと港にたどり着き 乗せられた船は
小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった
船は真夜中に出航した
稚内港がいつぱいで 小樽まで行くという
20時間かかるそうでがっかりした
甲板に張られたテントに数家族が入った
トイレはなく甲板の端でする
海は時化て嵐のよう テントにも雨水が入る
すぐに酔って動けなくなる
夜が明け左側遠くに北海道の陸地が見えるが
20時間すぎても小樽に着かない
船倉の方へは行かないようにと言われていたが
チラリ覗くと 地鳴りのようにわめき声が聞えてきた
大勢の朝鮮の人がお酒を飲んで騒いでいる
今まで虐げられていた鬱憤を晴らそうとしていたのだろう
暴動がおこるのではないか恐ろしかった
再び夜が来た
緊迫した声で目が覚める
船はすべて灯りを消しエンジンの音も聞こえない
暗闇の中で目を凝らすと 船長らしき人の指図する声
乗組員が慌ただしく動き回っている姿が異様に見えた
緊張が走る
誰かが「潜水艦がいるらしい」という
戦争が終わったのに・・・・まさかと思うが不安で恐ろしかった
船はエンジンを止めて漂ったまま
どのくらいの時間だったか覚えていないが
危険が去ったらしい
夜が明け船は動きだした
小樽の港が見えた時は
疲労と船酔いで歩くのもやっとだった
嬉しいと言うよりホッとした
国籍不明の潜水艦に沈められたのを知ったのは
ずっと後の事である
我たち一家は幸運だった
父は三年後痩せ衰えて帰国した
国民がすべて悲惨な目に遭った戦争
加害者でもあった
白龍丸の船倉に乗せられていた多くの朝鮮の人は
無事祖国に帰ることができたろうか
戦争犠牲者の冥福を祈り 平和を願う
生きている限りこれからも伝えていきたい
北緯50度 ソビエトとの国境の標識
2012年サハリン州立博物館で撮影
(豊原)ユジノサハリンスクの レーニン2012年7月
18日は孫の誕生日でもある
「おばあちゃんが海に沈んでいたら 僕は生まれてなかったんだね」
幼い頃の言葉が忘れられない