世界を怪物が歩き回っている
資本主義という怪物が
カウンターで隣の親父が「岸田コノヤロー」と言って、コップでゴキブリを潰している。
バーでは政治と野球の話はご法度らしいが、今年は、とりあえずWBCの話でもしとけばよかったのではなかろうか。
しかし、その人々が常日頃「国家」を意識しているかと思えば、そうでもない。
これからすること、食べることを考え、今ならスマートフォンで時間を潰しているという感じか。
それが本来の姿なのだ。
人間はせいぜい150人の集団しか具体的に接することができないのだから。
それがどうして、1億や数十億の「国家」や「世界」を想定できるようになったのだろう。
それは、人間が「国家」という「虚構」を信じる力を持っているから。
「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ氏は言う。
人間は「虚構」を信じる力で、地球上にはびこったのだと。
「サピエンス全史」自体はつまらない本だが、この部分はその通りだろう。
歴史、物語、神話、宗教、・・・といった「虚構」を用いて、人々に「国家」という幻想を信じさせ、と同時に強大な権力を持った「支配者」までも作り出した。
とまあ説明しても、納得できているわけではない。自分も「虚構」に騙されている。「政治」の「虚構」はすぐ信じるのに、「経済」の「虚構」を見抜けないのが不思議だ。
18世紀末のフランス革命は、人々が「自由・平等」を勝ち取ったと思われているが、それは表向きのこと。
実際は、「資本」=ブルジョアジー(超大金持ち)が、「国王」からの「自由」を勝ち取ったのである。
と同時に「国家」が作られる。
いわゆる「国民国家」である。
これによって「国民」という意識が作られ、国同士が経済的に競争させられ、政治的に戦争させられるようになる。
線を引くことによって、領土問題や民族紛争が起こる。
だから、我々が「国家」を意識する時は、常に対立している時なのだ。
オリンピック然り、戦争然り、経済然り・・・。
今、我々が当たり前だと思っている「国家」はこのように作られ、現在も対立させられ、煽られるばかりだ。
会ったこともないアイドルを好きになったり、スポーツの勝敗に一喜一憂する。
これも「虚構」を信じる力の作用であり、結果的に人々の不満を紛らす。
一方で、「資本」の存在はひた隠しにされる。
というよりも、姿を見せているのに人々は気づきもしない。
元々「国家」と相容れない「資本」が「国家」を利用して人々を支配する。
おかしな話だが、これが実態である。
「国家」の政治は遠いが故に、あれこれ言いやすい。
身近な金銭に対してはうるさいのに、巨大な「資本」に関しては無関心。
支配するのは簡単。
経済を悪化させ、格差を作ればいい。
そして、対外的な危機を煽る。
で、いっちょ上がり。
これらに対抗するには、昔からの村落共同体の復活。
あるいは、高度経済成長期の「一億総中流」。(高度経済成長はもうないけど)
キーは、村落共同体と一億総中流を知っている我々の世代。
さて、どうしますかの。
当ブログでは、「脳のクセ」とごまかしてきたが、いざ正面からぶつかってみると、なかなか手強い。表現するのが難しい。
資本主義とは、効率化と独り占めというエゴの最たるものを追求する。つまり脳の欲することである。
この競争原理に対抗するのは「共有=3P」だと思うのだが。